2017/04/30

気楽に考える

1日1回はブログの投稿をしようと思っている。しかし、ネタがないときがある。

何でもいいので書こうとしているが、どこかに書いてあるようなことを書くのは気が引ける。何かで読んだ話、どこかで聞いた話は、ここに書かれていなくても読めるし聞ける。少なくとも何か新しいこと、特に自分の意見などを付けくわえた上で何かを書いていきたい。

ならば、今日の自分の経験したことを書けばいいのではないか。自分の体験、経験は他の人に書けないことである。

そう考えると、自分の生活がありふれたように感じてしまう。他の人が経験していないことを今日自分は経験したのか、何か新しいことをやってみたのかと。

こんなことを書いていると、こんなこともどこかで書かれているかもしれないと思う。しかし、同じようなことが書かれているかどうか確認することはしていない。全く同じ文章で書かれていることはないだろうと高をくくっている感じがする。

まあ、気楽に考えよう。

2017/04/29

証明するには余白が狭すぎる

生没年など詳細は不明だが、エジプトのアレクサンドリアのディオファントスという人が『算術』という書物を編纂した。西暦250年ごろではないかといわれている。

『算術』は、時代を越え、国を越える。全13巻あったという『算術』は、暗黒時代を生き延び、15世紀にヨーロッパへ渡る。全13巻のうち7巻は失われてしまい、6巻しか残っていない。

さらに時代を越え17世紀。1621年、フランスのバシェが『算術』のラテン語版を出版する。そして、アマチュア数学者フェルマーの愛読書となった。

『算術』には、今でいう「ピタゴラスの定理」についても掲載されていた。フェルマーは、その余白に書き込みをする。
ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である。
有名な「フェルマーの最終定理」についての記述である。

さらに書き加える。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

さらに時代を越え、国を越える。そして1994年、「フェルマーの最終定理」はワイルズによって証明された。

ピタゴラスの定理から別の定理を考えたフェルマーや、その定理を証明したワイルズはすごいと思う。また、ピタゴラスやディオファントスもすごい。生き延びた『算術』もすごい。フェルマーが提出してワイルズが証明するまで、約360年。そしてその間にも数々の人々が挑戦しているし、楕円曲線などの数学の別方面での研究も発達している。数々の積み重ねによってなされた物語である。

この物語において、私が思うファインプレイ賞は、フェルマーの長男クレマン・サミュエル・フェルマーである。父の死後、『算術』の書き込みや走り書きをまとめ、『P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』を出版した。いくつもの証明されていない定理(定義上、証明されていないものは「定理」とはいえない)が残っていた。それらは後に、次々と証明されていったが、最後まで証明できず残っていたのが「フェルマーの最終定理」である。最後まで証明できていなかったので「最終」とつけられている(ちなみに証明される前は「定理」ではなく、「フェルマーの最終予想」である)。

もし、父フェルマーの書き込みがある『算術』を捨ててしまったら、捨てないまでも思い出の品として飾ってあるだけだったなら、「フェルマーの最終定理」という名前はなかっただろうし、その定理の発見も遅くなっていたかもしれない。数学者でなくとも、数学に貢献できるという格好の例である。

歴史の表舞台に出ていなくとも、いい仕事をしている人はたくさんいる。証明するには余白が狭すぎる。

2017/04/28

読書の方法から聞き方を考える(2)

読むことと聞くことの相違点についても確認しておく。思いついたままに書いているので脈略がない。

まず媒体が異なる。読むときは文字を読み、聞くときは音声を聞く。音声と文字は1対1に対応しているわけではない。同じ発音でも違う言葉はあるし、同じ語を違った言い方で声に出すこともできる。

慣れのためかもしれないが、読むよりも聞く方が時間がかかる。読むときには、次の語が目に入ることが多いので、速く読もうと思えば速く読める。速読という技術もある。聞く方にも速聴があるではないかという人もいるかもしれないが、速聴は、機械で音声を速くする、あるいは、速くした音声が記録されたものを聞くことであり、自分のペースで聞くことではない。読むことは自分のペースで読むことができるが、聞くことは自分のペースでは聞くことができない。

「話す」「聞く」「読む」「書く」の4つについて、時間のかかる順に並べると、「書く>話す>聞く>読む」ではないかと思う。もっとも、書いているときにリアルタイムで読むでいると順序は異なってくる。

文字を読むのと音声を聞くのとでもっとも大きな違いは、再現性であるともいえる。音声を聞くときは一期一会である。まったく同じ音調、音圧で同じ音声を聞くことはできない。文字ならばもう一度同じものが読める。音声でも録音されていれば聞き返すことはできる。

文字や文章は、いわば完成されたものを読むことが多い。リアルタイムで書いているところを読んでいくことは少ない。音声は逆にリアルタイムで聞くことが多く、完成されたものを聞くことは少ない。

話を聞くときは、表情その他、非言語的な要素が役に立つ。電話では表情や姿は見えないが、音調や音圧も非言語要素である。話を聞くときには耳以外の感覚が役に立つ。しかし、文字の場合には書いている人の表情などを見ることは少ない。

文字や文章で非言語的な要素は何かを考えると、フォントや文体を思いつく。また、本であれば、著者の略歴やタイトル、目次なども、非言語的な要素ではないかもしれないが、内容を推測するのに役に立つ。

2017/04/27

読書の方法から聞き方を考える(1)

本を読むことと、話を聞くことには共通点がある。

ひとつは、どちらも情報のインプットとしての行為であることである。本を読むことも、話を聞くことも、何らかの知識や情報を得るための行為である。話すこと書くことがアウトプットとしての行為とすると、聞くこと読むことはインプットの行為であるといえる。

本を読む目的として、何らかの知識や情報を得ることが挙げられる。それは話を聞く目的にもなる。必要な情報や知識を得るためにだれかの話を聞くことがある。また、物語を楽しむために本を読むことがあり、話を聞くことがある。

理解を深めるための読書技術を述べた本に、M. J. アドラーとC. V. ドーレンが書いた『本を読む本』という本がある。そこには読書の段階として「初級読書」「点検読書」「分析読書」「シントピカル読書」という4つのレベルが紹介されている。

初級読書は、読み書きのできない子供が初歩の読み書きの技術を習得するための読書であり、ここでの問いは「その文は何を述べているか」である。点検読書とは系統立てて拾い読みをする技術で、「この本は何について書いたものであるか」を知る。分析読書は、いわゆる精読で、本をよくかんで消化すること、理解を深めることである。シントピカル読書は一つの主題について何冊もの本を相互に関連づけて読むことである。

これらの読書のレベルを「聞く」に応用できないだろうか。そのためには、読むことと聞くことの相違点についても確認しておかなければならない。

2017/04/26

なぜ読書をしなければいけないのか?

先日ツイッターで、言 寺(@310_64)さんの漫画を読んだ。4月19日付けの「【なぜ読書をしなければいけないのか?】という記事を読んだので読書家の母に聞いてみた話」である。

リツイートやいいねの数を見ると、多くの人が共感、納得しているのではないかと思う。
「何故読書をしなければいけないのか…それは本を読んだ人にしかわからない」
「人類の多くが『本を読め』と言うのか、その答えが知りたいなら本を読みなさい」
非常にわかりやすくまとめてあり、私も納得している。

この漫画では読書を題材に取りあげているが、これは読書だけでなく他のことについてもいえる。

たとえば、なぜ勉強をしなければいけないのか。また、たとえば、なぜ仕事をしなければいけないのか。

誰かがその答えを持っているわけではない。答えは自分の中にある。

2017/04/24

格物知致

前回、「遊び」について書いたところで、松岡正剛さんの『知の編集術』のことを思い出した。遊びから編集が生まれたということを書いていたからである。

『知の編集術』では、遊びの本質は編集にあり、逆に編集の本質も遊びにあるという。

前回書いた「遊び」は、自動車のハンドルやブレーキについての「遊び」であった。この「遊び」が、どのような経緯で生み出されたのかは知らず、何かの遊びからヒントを得て作られたものなのかは知らない。ただ作ってみて試してみて、乗りやすいように使いやすいように工夫した試行錯誤の上で作られたものではあるだろう。

そして逆に、自動車のハンドルやブレーキの「遊び」から学べることもある。安全性と利便性を両立させるにはどうすればいいかを考えるには格好の材料であると思う。

自動車は人間が作ったもので、人間が考え出したものである。動物も遊ぶことはあるかもしれないが、人間がする遊びは人間が作ったものともいえる。大きくいえば、法律や社会も人間が作ったものである。

昨今、人工知能が話題となっている。学習するとはいえ人工知能も人間が作るものである。

人工知能の開発は、どこまで遊びを取り入れられるかにあると思う。人工知能ではないかもしれないが、今までも機械に「ファジー機能」などの「遊び」を組み込んできたが、まだ遊び足りない。

現在はディープラーニングの手法から「学習」の観点を取り込み人工知能が開発されつつある。安全性と利便性の両立を目指して試行錯誤されている。ここから何が学べるかということが、私にとっての人工知能の関心事である。

2017/04/23

意識と無意識の遊び

最近、『意識と無意識のあいだ』という本を読んで、マインドワンダリングという言葉を知った。カタカナでワンダリングと書かれると、驚きや不思議を表すwonderを思い浮かべる人がいるかもしれないが、マインドワンダリングのワンダリングはwander、「さまよう」とか「ふらふらと歩き回る」という意味である。つまり、マインドワンダリングは「さまよう心」「ぼんやりした心」を指す。

マインドフルネスという言葉が流行っている。書店に行くと、書名にマインドフルネスが使われている本をいくつか見かける。グーグル社員が実践しているということでメジャーになった感があるマインドフルネスは、「瞑想」と関連付けられて語られることが多い。

そのため、マインドワンダリングが「迷走」として語られることがある。「さまよう」「ふらふらと歩き回る」という意味から「迷走」と訳されてもおかしくはない。ただ、迷走という訳にしてしまうと、どこか否定的なニュアンスが込められてしまう。

マインドワンダリングは、「遊び」「ゆらぎ」のイメージである。

車のハンドルには「遊び」がある。ハンドルを少し切っただけではタイヤは曲がらないようになっている。たとえば、くしゃみなどをした拍子にハンドルに力が入り、それがタイヤまで伝わってしまうと事故を起こしてしまう可能性がある。また、遊びが少ないと、タイヤの方が何か衝撃を受けてちょっと方向がズレてしまうと、それがハンドルまで伝わってしまうため、ずっとハンドルに力を入れて固定させて置かなければならない。遊びは一種の柔軟性をもつ安全装置といえる。

しかし、遊びを大きくしてしまうと、今度は逆に曲がりたいときになかなか曲がれないということがおきてしまう。

車の例をさらに挙げるならば、ブレーキにも遊びがある。ちょっと足が当たったくらいで急ブレーキとなってしまっては危ない。逆に遊びが大きすぎてブレーキを踏んでもなかなか止まらないとなれば、さらに危ない。

マインドワンダリングには、このような側面がある。

一方では、安全装置として働く。脳、あるいは意識におけるマインドワンダリングが少なければ、「石頭」「頑固者」である。逆にマインドワンダリングが大きければ、「夢遊病」になる。

創造はマインドワンダリングから生まれるともいう。遊びからさまざまなことが生まれる。

2017/04/21

マイ古典となってしまっている本

英文学の古典として、14世紀イギリスの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)の『カンタベリー物語』というものがある。大学生のとき英文学の授業で、この『カンタベリー物語』を扱う講義があったので受講した。講師は外国人講師で、英語での講義である。

『カンタベリー物語』という名前は知っていた。しかし読んだことはなく、こんな機会でしか読まない可能性があると思い受講した。英文学講義の単位が必要であったためでもある。

英文学に興味がなかったにもかかわらず、なぜ『カンタベリ物語』のことを知っていたかというと、歌手スティング(Sting)のファンであったためである。

『カンタベリー物語』は、カンタベリーに巡礼にいく途中、ある旅館で居合わせた30人くらいの人が、退屈しのぎに集まって話をしていくという体裁の物語である。日本でいうと百物語のようなイメージであるが、『カンタベリー物語』は怪談ではない。『千一夜物語』といった方がわかりやすいかもしれない。

その話をしたうちのひとりが召喚人で、その召喚人の話が「Summoner's Tale」である。

スティングの本名がゴードン・マシュー・サムナーということで、本名のサムナーと召喚人の話(Summoner's Tale)をかけて、『Ten Summoner's Tales』というタイトルのアルバムを作った。映画『レオン』のエンディングテーマ「Shape of My Heart」が収録されているアルバムである。『Ten Summoner's Tales』(10の召喚人の話)というタイトルであるにもかかわらず、12曲が収録されている。1曲目と12曲目にそれぞれプロローグ、エピローグと付いているので、その2曲を除いて10曲という意味かもしれない。

そのようなわけで『カンタベリー物語』の名前だけは知っていたので、講義を受けてみようという気になった。

しかし、講義を受けてみても、わからない。テキストは古英語、講師はイギリス人講師で英語での講義。しかたなく(ズルして?)翻訳書を買ったものの、講義でどこの話をしているのかを探すのにも苦労した。

翻訳書がまだ手元に残っているので、いまパラパラとめくっていると、どうやら「バースの女房の話」の講義だったらしい。らしいというのは、覚えていないからである。ちなみに「召喚人の話」の内容も覚えていない。

それでもなぜか手元に残している。大学を卒業してから引越を何度かして、そのたびにある程度の本を処分したりしているのだが、まだ残している。

『カンタベリー物語』は、本の内容は語れないけれど、自分のなかで古典になっている。

2017/04/20

遷ろうメタファー

村上春樹さんの本は、勧められたことは何度もあるが、未だに読んだことがない。

しかし、日経ビジネスオンラインで連載されている「イノベーション殺し[村上春樹を経営学者が読む]」を読んでいると、村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んでみたいと思うようになった。

日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、最初に読んだのは第3回目からであった。タイトルは「驚くほど鋭く、洞察のようなメタファー」である。

メタファーとは隠喩のことで、比喩表現のひとつである。

コラムのなかで、メタファーについて以下の説明がある。
 メタファーには2つの種類がある。1つは、馴染みのある喩えを用いて、馴染みのないことを説明するというメタファーである。未知のことを、既知のことで説明することによって、その本質を瞬時に理解させる。理解を促すためのメタファーなのである。
 もう1つのメタファーは、逆に、馴染みのない喩えで、馴染みのあることを説明するというメタファーである。既知のことでも、そぐわない喩えによって説明されることで、頭が刺激されて新しいアイデアが生まれる。一見すると違うものだと思っていた2つを結びつけることによって、いろいろなアイデアを次から次へと生み出すことができる。発見や学習を促すためのメタファーである。これを「認知的メタファー」という。
このメタファーの能力こそ、私が伸ばしたい能力であり、使っていきたい能力である。

言葉に興味を持つのも、この能力を知り、伸ばしたいためである。

私たちはしらずしらずのうちに、言葉をメタファーとして使っている。たとえば、「走る」という動詞は、最初は人間が右足左足を交互に蹴って走る動作を指していたかと思うが、列車や自動車が開発されると、それらも「走る」と使いはじめた。「道路が南北に走る」など、動かないものにまで「走る」という。視線を「走らせる」ためという説明をしたりする。メタファーがなければ、新しいコト・モノが発生するたびに、新しい言葉が必要になってくる。覚えきれず、効率が悪い。

そもそも概念自体もメタファー的である。形の違うコップを見て、両方ともコップと呼ぶ。この世の中に完全に同じというものはない。量産品であっても違うものである。それを同じものとみなす能力が人間にはある(人間だけではないかもしれない)。

「走る」の例は、コラムの引用文中にある1つ目のメタファーで、未知のことを既知のことで説明するメタファーである。もうひとつの、馴染みのない喩えで馴染みのあることを説明する「認知的メタファー」については、コラム中のグーグルの例がわかりやすい。「検索エンジン」とかけて「学術論文」と解く。その心は「どちらも引用数が大切だ」というものである。

理解や学習、発想や発見など、私が興味ある分野には「メタファー」が関わっている。数学が好きなのも、代数と幾何がつながっていたり、楕円曲線とフェルマーの最終定理がつながっていたり、違ったように見えるものの中につながりがあることを見るのが好きだからだ。

わもん研究所のロゴはミジンコのイメージであるが、「直感」と「ミジンコ」のつながりを見つけたいという思いがある。

村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んてみたい理由はメタファーにある。

2017/04/19

人生で一番影響を受けた本

渡部昇一さんが亡くなったとのニュースがあった。

直接お会いしたことはないが、私は渡部昇一さんから影響を受けている。

本を通じて、である。


最初は『知的生活の方法』であった。

大学生になり本を少しずつ読みはじめたころ、大学生協の本屋で平積みになっていたのを見かけた。おもしろそうだと思い、著者紹介の欄を見ると、英語学が専門の教授であった。文学部の英米文学科に入学したが、文学には興味がなかったので、英語学を専攻しようかと思っていた矢先のころだったと思う。何かの縁かと思い購入した。

読んでみると、とてもおもしろい。渡部昇一さんの本を数冊読んでいて、ごちゃまぜになっているかもしれないが、本の読み方であるとか、語学の重要性であるとか、わかったふりをしないなどの心構えであるとか、情報の整理のしかたであるとか、読書を中心とした「知的生活」のアレコレが書いてあった。

『論語』を読みはじめたのも、シェイクスピアを読みはじめたのも、発想法や情報整理の本を読みはじめたのも、一番最初は『知的生活の方法』であった。

『知的生活の方法』が出版されたのは1976年で、私は1977年の早生まれであるため、同学年ということになる。私の生まれる前に、すでにこのような本が出版されていたことに驚いた。おそらく良書は他にもたくさんあると思うが、いろいろな本を読んでみたいと思った初めての経験であった。

その後、当然『続 知的生活の方法』に進み、『発想法』や『英語の語源』などに進んだ。2010年には『知的余生の方法』が出版され、まだ余生にはちょっと早いかもしれないが、と思いながら買った記憶がある。

どこまで「知的生活」が身についているのかは疑問のところもあるが、少なくとも読書の習慣だけは身についていると思う。この『知的生活の方法』に出会わなければ、今の自分はないと思っている。

著者の渡部昇一さんは亡くなったが、私の手元には本が残っている。言葉、文字に興味を持っているのも、このためだと思う。

渡部昇一さん、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

2017/04/18

学びて時に之を習う

以前、『論語』の冒頭の文を読んで、「学ぶ」と「習う」の違いは何だろうかと疑問に思ったことがある。
子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。
朋遠方自り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍らず。亦君子ならずや。
このブログでも過去に触れたことがあり(学而第一・1「子曰、学而時習之。~」)、結論としては変わらないが、以前は書いていなかったことがあったので補足しておきたい。

「学ぶ」と「習う」の漢字の意味、成り立ちについてである。漢和辞典を引いていなかった。

「学」と「習」の漢字について、解字としてそれぞれ以下の記載があった。
【学】
乂印は交差するさまを示す。先生が知恵を授け、弟子がそれを受けとって習うところに、伝授の交流が行われる。宀印は屋根のある家を示す。學は「両方の手+宀(やね)+子+音符爻」で、もと伝授の行われる場所、つまり学校のこと。
【習】
「羽+白」で、羽を重ねること、または鳥が何度も羽を動かす動作を繰り返すことを示す。この白は、自の変形で、「しろ」ではなく、替の下部と同じく動詞の記号である。
「学びて時に之を習う」は、先生(師匠)から学び、繰り返し復習するという意味がはっきり感じられる。

「学ぶ」と「習う」を合わせた「学習」の意味もまた、よくわかる。学ぶだけでは学習したことにはならない。

2017/04/17

4月前半に買った本

4月に入ってから少し本を買いすぎた。

4月上旬に買った本をまとめておく。まだ読んでいないものもあるので、読んだ感想ではない。買った動機をまとめておくことで、実際に読むときの指針としたい。


●羽生善治・NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』
 羽生さんの本はいくつか読んだことがある。コンピューター相手の将棋についての言及も多い。脳科学や人工知能への造詣も深いため、羽生さんが人工知能についてどのように考えているのか、感じているのかを知りたいと思った。羽生さんから見た、人工知能に対する期待と課題が書かれていた。

●夏目漱石『私の個人主義』
 夏目漱石について書かれている本や記事を読むと、必ずといっていいほど言及されている本。漱石の悩みや、それを克服するに至った「自己本位」「個人主義」について確認したく購入。表題を含む講演集。

●後藤武士『読むだけですっきりわかる世界史 古代編』
 『論語』や『孟子』をはじめとする、いわゆる諸子百家の本を読むとき、時代背景がわからないときがある。歴史に詳しくないので参考にしたく購入。中国の古代史がほしかったが、手頃なものがなく、どうせならば世界史もついでにという思いで買った。後日、古代編だけでなく全時代合わせた『読むだけですっきりわかる世界史』を本屋で見つけ、そちらの方がよかったかもと思う。

●西来路文朗・清水健一『素数はめぐる』
 素数には不思議な魅力がある。まだ証明されていないことも多い。素数に関する読み物は好きな部類である。本書は素数の逆数を小数表記にして得られる「循環小数」や「ダイヤル数」を中心に、素数の特徴や魅力を紹介している。

●斎藤祐馬『一生を賭ける仕事の見つけ方』
 自分自身のためでもあるが、どちらかというとセミナーやセッションなどで役立つ方法やツールの材料探しとして買った本。ミッションを見つけるというところだけでなく、ビジネスモデルをつくることやチームをつくることなど、個人における内部戦略と外部戦略の両方をバランスよく扱っている。

●佐藤優『この世界を知るための教養』
 政治経済系の本で、この著者をよく見かけていたので試しに読んでみようと思い購入。国際政治の話が中心。この本自体は現在の国際情勢中心だが、これまでの歴史や文化、宗教や科学技術の大まかな流れをつかんでおくことが重要であると感じた。

●倉島保美『論理が伝わる世界標準の「議論の技術」』
 未読。議論というよりは、文章表現の技術として学びたいと思い購入。

●西来路文朗・清水健一『素数が奏でる物語』
 先述の『素数はめぐる』の著者の第1作目。素数について、わかっていること、わかっていないことが一望できる。証明など細かく読んでいないが、どのような経緯で素数が研究されてきたのかという流れがわかる。

●ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上・下)』
 タイトルの「ファスト」と「スロー」は、「速い思考」と「遅い思考」を表現している。単純にいうと、「速い思考」は認知や直感など無意識の思考、「遅い思考」は計算や論理など意識的な思考ともいえる。まだ途中までしか読んでいない。認知バイアスなどについて書かれている本や記事によく引用・言及されている本。

●平井孝志『本質思考 MIT式課題設定&問題解決』
 モデルとダイナミズムを把握することが本質を捉えることになる。本質がわからない状態で問題解決をしようとしても場当たり的な対処となる。本質を捉えるためにモデルやダイナミズムを把握する、その考え方やヒントになる本。

●山田英二『ビジネスモデル思考』
 以前この著者の本を読んだことがある。その本は、ビジネスモデルを事例を交えながら紹介し、そこから学べることは何か、その学びをどう活かすかの視点から書かれていた本であった。その著者が書いた本であったため購入。ブックオフ店舗で見つけた。

●久恒啓一『実践! 仕事力を高める図解の技術』
 同じくブックオフ。資料作成やファシリテーショングラフィックの参考にしたい。

2017/04/16

孟子に申し上げる

ときどき『孟子』を読んでいる。『論語』に代表される儒学の書で、四書のひとつに数えられるものである。

『論語』は孔子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的短いものが多いので読みやすい。『孟子』は孟子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的長く、たとえ話や昔話(引用)が多い。そのため、おもしろいと思うときもあれば、そこまで言う必要はないのではないかと思うときもある。

たとえば、滕文公章句下に、公都子(孟子の門人)が問い、孟子が答えるやりとりがある。公都子の質問は以下である。
世間の人たちはみな、先生をたいへん議論好きだと申しています。失礼ですが、なぜなのでしょう。
現在読んでいるのは岩波文庫版で、訳もこれに依る。

孟子の回答は以下のようにはじまる。
自分とて、なにも議論が好きなのではないが、このご時勢では黙ってばかりもおられず、やむをえず議論しているまでだ。
ここで終わっても、会話としては通用する。

しかし、孟子の言葉は終わらない。
いったい、この世に人間があってから、随分久しい年月がたっているが、その間、治まったり乱れたり、くり返してばかりいるのだ。
そして、まずは堯のことを述べ、禹のことを述べ、紂のことを述べ、文王・武王のことを述べ……と世の中が治まったり、乱れたりした事例を挙げていく。周の時代になり、周が衰え、先王の道もだんだん行われなくなる。そして、また楊朱や墨翟の説がまかり通っているから自分は努力しているのである、と。

かなり端折ったが、この章は、岩波文庫版の上巻pp.252-260に掲載されている。原文と書き下し文を除くと、4ページから5ページ分くらいであろう。

公都子の質問は2行である。

それに対する孟子の回答は、4、5ページ。

もっとも4ページから5ページ分の孟子の回答を、公都子が黙って聞いていたかどうかはわからない。もしかすると、ところどころ公都子が相槌やちょっとした質問などをして進んでいった対話なのかもしれない。

ただ、議論好きだととられてもしかたがないようにも思う。

「夫子、敢えて問う。何ぞ弁を好むや?」


2017/04/15

逃げるは恥だが役に立つ

最近、SNS上で以下の動画(を含む記事)をよく見かける。2歳児のトロッコ問題の解答案である。



トロッコ問題とは、倫理上の思考実験である。

以下はGIZMODE「ついに思考実験「トロッコ問題」に決着。2歳児が出した衝撃の答えとは…」にあったトロッコ問題の概要である。
線路を走っているトロッコが制御不能に。このままでは、線路上で作業中の5人がトロッコに轢き殺されてしまう。
そしてあなたは、線路の分岐器の近くにいる。トロッコの進路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員が。
5人を助けるために、1人を犠牲にしていいのか? それとも運命としてそのまま見過ごすべきなのか。

Wikipedia「トロッコ問題」を見ると、派生問題も載っていた。

トロッコ問題とは異なるが、これと似た問題として、漫画『金田一少年の事件簿』に「○○○○○○(カタカナ6文字)の板」というのがあったなと思っていたら、先のWikipedia「トロッコ問題」の関連項目に載っていた。

カルネアデスの板」である。この項に『金田一少年の事件簿』のことも言及されていて、こんなことまで書かれているのかと少し驚いた。

トロッコ問題について、いつだれが最初に考えたのかは調べていないが、最近取り上げられている(ように見える)のは、人工知能(AI)あるいはロボットの技術が進んできたからではないかと思っている。人工知能に倫理観を学習させることができるのか、あるいは、トラブルがあった場合に人工知能がどのような判断をするのか、などということが議論研究されているように思う。

トロッコ問題は、解決すべき問題というわけではなく、議論をするための出発点である。道徳的な観点から人間を知ることにつながっている。人工知能の研究からも様々な知見が得られると思う。

『金田一少年の事件簿』のなかで、主人公の金田一は「カルネアデスの板」の状況に置かれたらどうするかと問われた。手元に漫画がなく間違って記憶しているかもしれないが、「2人とも助かる方法を考える」という回答だったと思う。トロッコ問題でいうと、6人(5人+1人)とも助かる方法を考える、という回答である。思考実験の前提を無視した回答である。

しかし、現実問題としてトロッコ問題が発生した場合、分岐器を動かす(動かさない)以外のこともできるであろう。そして、トロッコ問題が現実に起きないような仕組みも考えることができる。

トロッコ問題の回避策を考えるほうが容易い。

2017/04/14

本の読み方

1本、2本、3本、……と、棒状のものを数えるときに助数詞「本」を使う。通常「ほん」と発音するが、ときどき「ぽん」「ぼん」と発音する。

1~10までの発音を列挙すると、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん、ごほん、ろっぽん、ななほん、はっぽん(はちほん)、きゅうほん、じゅっぽん、となる。

「ぽん」となるときは規則性が見られる。「ぽん」と読むときは、1本、6本、8本、10本のときで、「ぽん」の前に促音便の「っ」がある。促音「っ」の後では「ぽん」と読むといえそうである。

「ぼん」と読むときは、ここでは3本のときだけである。撥音「ん」の後で「ぼん」になるかといえば、そうではない。4本は「よんほん」で、「ん」の後だが「ぼん」にはならない。

アルクのサイトによると、以下の記述があった。
次に3と4の問題です。3と4はどちらも撥音で終わりますが、助数詞の読みはしばしば異なります。「3本」、「4本」のほか「3匹」、「4匹」などがそうです。助数詞以外でも「300」と「400」は/byaku/と/hyaku/になります。これは「さん」が漢語でもともと「さん」であったのに対し、「よん」が和語でもとは「よ」であったため撥音がなかったことに起因すると考えられます。
もともとは「よほん」だったが、「よ」が「よん」に変わっても「ほん」はそのままだったという。可能性はある。

ただ、「本(ほん)」を「ぽん」や「ぼん」と発音するのは、発音のしやすさからではないかと思われる。「よ→よん」に変わったあとに発音のしやすさから「ぼん」に変わってもいいのではないか、とも思う。もともとの言い方を残すならば、3本も「さんほん」と、1本も「いちほん」と発音すればよかったのではないか、とも思う。

また、助数詞ではないが、「文庫本、中古本、新刊本」は「ぼん」と読む。新刊本は「ん」の後なので「ぼん」になるといえるが、文庫本、中古本は「ほん」のままである。もっとも助数詞としての使い方ではないので、助数詞とは異なるルールが働いているのかもしれない。

2017/04/13

ことごとくキリギリス

なんのはずみか知らないが、「ことごとく」という漢字は「キリギリス」の漢字に似ていた、と思った。別に「ことごとく」という漢字はどのような漢字だったかと考えていたわけではない。

理由はわからないが、思ってしまっては気になってしまうので、スマホで「ことごとく」を変換してみた。「尽く」と「悉く」が出てくる。「キリギリス」に似た方は「悉く」の方であると確認した。

一方、「キリギリス」の方はスマホの文字変換では出てこない。スマホのブラウザを立ち上げ、検索ワードに「キリギリス 漢字」と入力した。検索結果に「蟋蟀」と「螽斯」が出てきた。「悉く」に似ているのは「蟋蟀」の方である。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。

ところが、検索結果のいくつかには、この「蟋蟀」という漢字は「コオロギ」とも読むことが書かれていた。そういわれてみれば、「蟋蟀」は「コオロギ」と読むような気がしてきた。

検索の結果で出てきたサイトを少しずつ見ていくと、次の記事に出会った。NIKKEI STYLEの「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」という記事である。
つまり、古くはコオロギのことをキリギリスと呼び、キリギリスのことをハタオリと呼んでいたというのだ。
記事ではこのあと、ハタオリの鳴き声から、ハタオリがキリギリスという名に変わったのではないかと推理し、以下のように結んでいる。
現在のコオロギのことを指していたキリギリスという言葉がハタオリの呼び名に移行したとすると、コオロギのことを指す言葉がなくなってしまうことになる。そこで奈良時代には鳴く虫の総称を意味した「コオロギ」という言葉がコオロギを指す代わりの言葉になり、呼び名が「キリギリス→コオロギ」と変化したという推理が成り立ちそうだ。

「コオロギ」という言葉は、奈良時代には鳴く虫を総称していたという。

「コオロギ」は漢字で「蟋蟀」と書く。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。ことごとくの虫が「蟋」である。

「キリギリス」の漢字には「蟋蟀」と「螽斯」がある。「キリギリス」を漢字で書くことがあれば、用途によって使い分けることが望ましい。

2017/04/12

αにしてω

ジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』を読んだ。

アイデアの出し方や発想法などの本を読むのが好きである。ヤングの『アイデアのつくり方』は、発想法関係の本にしばしば参考文献として載っていたり、本文中に言及されていたりした本である。読みたいと思ってはいたが、なかなか読めずにいた。

文量もそれほどなく、簡潔に書かれているので読みやすい。目新しいことはあまりなかったが、アイデアのつくり方の原理原則が書かれているので、何か行き詰まりを感じたときに読むのがよさそうな気がする。

私にとって一番印象に残ったところは、「二、三の追記」として書かれていた以下の箇所である。
さらにもう一つ私がもう少し詳細に説明すべきだったことは言葉である。私たちは言葉がそれ自身アイデアであるということを忘れがちである。言葉は人事不省に陥っているアイデアだといってもいいと思う。言葉をマスターするとアイデアはよく息を吹きかえしてくるものである。
言葉に興味を持っている私としては、とても勇気づけられた。

花村太郎『思考のための文章読本』を読んだあとだったことも印象に残った理由かもしれない。『思考のための文章読本』にはいくつかの思考法が載っていて、その中に「単語の思考」というものがある。そこに書かれていた内容と同じことをヤングも書いていたのだと感じたからである。
単語は思考の出発する点であり、思考の手がかり、素材であるとともに、思考の面的、立体的広がりを要約したり象徴したりするタイトルやキーワードというありかたにおいては、思考の終点でもある。

言葉は、いい意味でも悪い意味でも、枠をつくる。モヤモヤとした考えを形づくる。構造を与える。また逆に包装され、ブラックボックスのように内容が見えなくなる可能性もある。単語においては、一語でいろいろな意味を持つ。あるいは、いろいろな意味を連れてくる。

2017/04/11

有標性と無標性

雑記である。我ながらわかりにくいことを書いている。


リンゴは赤い。しかし、すべてのリンゴが赤いわけではない。青リンゴというリンゴもある。

厳密にいえば、リンゴが赤いといっても、ひとつひとつのリンゴの色が同じというわけではないし、青リンゴも青いわけではない。この辺りは大まかに読んでほしい。


リンゴという概念を集合と考えると、青リンゴの集合はリンゴの集合に含まれる。ここで言いたいことは、青リンゴの集合の方に青リンゴと名前をつけていることである。

なぜ、青リンゴ以外の集合の方に「赤リンゴ」と名付けていないのか。


それは、赤いリンゴの方が一般的であり、青いリンゴの方が特殊だからである。そして、特殊な方に名前をつける。名前がついていることを、印(標)がついているとして「有標」とすると、印がついていない方は「無標」である。ここでは、青リンゴは有標、赤いリンゴは無標である。

赤いリンゴにはリンゴという名前がついているので有標ではないか、という人もいるかもしれない。有標・無標の区別は相対的なものであり、名前がついているから有標というわけではない。リンゴを有標とすると、無標としてはリンゴ以外のもの、たとえば果物、を想定するといいかもしれない。

全体のうち一般的なものや性質が無標、特殊なものが有標とする。概念や言葉はそのような性質をもっている。


たとえば、このブログ記事について、私が書きたいことを書いている。書きたいことを言葉にしている。書きたくないことは書かない。書いたとしても、書きたくないことを書きたかったから書いたといえる。どこまでも相対的である。

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙しなければならない」という。それでも、人間には、印をつける、名前をつけることの欲求なり、本能なりがあると思う。

発見や発明などは、無から有を生み出すともいう。それは、もともとあったけれど気づいていなかったものに印、名前をつけることからはじまったのだと思う。

何もないと思っていたところに何かがある。


こういうことをもっとわかりやすく表現したい。

2017/04/10

目標と習慣

ここ最近、毎日ブログを投稿している。約2ヶ月間続いた。三日坊主となることが多いので我ながら珍しく思う。

続けられている大きな要因は、〆切を設けたことにあると思う。

それまでは書いたらすぐに投稿していた。投稿する時間はバラバラで、1日に数本投稿するときもあれば、全く投稿しない日が続くこともあった。

現在は、朝8時に投稿するようにしている。たとえば、今日は4月9日だが、今書いているのは明日10日の朝8時に投稿する分である。書き終わったときにすぐに公開ではなく、公開の予約として翌日8時に設定する。そして翌朝に投稿されているかどうかを確認する。

ブログを書くのは、だいたい夜の時間帯である。書く時間帯は以前とあまり変わっていない。

以前は、どこかに出かけていたり、お酒を飲んでいたりすると、「今日は書かなくてもいいか」となっていた。しかし、〆切を設け、翌朝までに書けばいいとしたことで、「今日は出かけるから先に書いておこう」とか、「少し書き溜めしておこう」など、先の予定を考えて書くようになった。

ブログの内容も、大して緊急を要するものではなく、季節的なことや時期的なことも書くかもしれないが、数日ズレても何の問題もない。

短い文章でポンポンと出していくならば、ツイッターやフェイスブックを使う。ここに書くものはある程度の文量を必要とする、というか、ダラダラと考えながら書くことが多いので、「翌朝までに書けばいい」と、少し考える余裕もある。

何が何でも1日1本書くぞとなると固くなる。

かといって、目標がなければ書かなくなる。

今のところ、このやり方が自分には合っている。ブログだけでなく、他にも応用したい。

2017/04/09

山崎富治『ほうれんそうが会社を強くする』

山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』が届いた。Amazonで出品されていた中古本である。

まだ通読はしていないが、目次を見るだけでおもしろそうな本だと思う。

4章で構成されていて、章題は以下である。

1章 “ほうれんそう”は、組織活性化の最良の栄養源
2章 “ほうれんそう”は、こうすれば立派に育つ
3章 “ほうれんそう”を育てる8大栄養素
4章 “ほうれんそう”を枯らす8大病原菌

報連相を「する側」からではなく、「育てる」側から書かれていることがわかる。

ここ数日、このブログで「ホウレンソウの育て方」について、いくつか記事を書いてきた。「報告・連絡・相談」のスキルを上げようという自己スキルアップの観点から書かれた本が多いが、「報告・連絡・相談」がしやすい文化を育てようという観点からの本が少ない(見たことがない)という理由からである。

「報告・連絡・相談」を「報連相」とした元祖の本は、育てる側からの観点で書かれたものであったことは驚きである。

私自身の場合は、言葉遊びから「育てる」側から考えてみようというのが最初のきっかけであった。しかし、本書は経営の側から出てきたものであるので、説得力がありそうである。

そして、言葉遊びの観点もしっかり含まれている。

たとえば、「“ほうれんそう”は“賛成”土壌には育たない」という見出しがある。ほうれん草は酸性土壌では育たず、アルカリ性の土壌で育つ。それを踏まえて、“賛成”土壌、つまりイエスマンばかりの会社では、報連相は育たないという。

他にも、「ほうれんそうのゴマあえ」というのもあった。これは、「ほうれんそう運動」が広まっていき、新聞に取り上げられたところに書かれていたこととして紹介されていた。「サラリーマンが出世したかったら、“ほうれんそうのゴマあえ”を欠かさないことだね」とある会社役員が言ったという。報告・連絡・相談に、ちょっぴりゴマすりが必要という意味である。こちらは「する側」からの観点であるが、上手く料理している。

いずれにせよ、しばらくこのブログで書いてきた「ホウレンソウの育て方」は、山崎さんの本を前提として書いていく必要が出てきた。まずは通読してから今後発展させられるかどうかを検討したい。

2017/04/08

深海のミジンコ

「深海のミジンコ」というタイトルで小説を書きたいと思ったことがある。1~2年前になると思うが、まだ書けていない。

最近あまり聞かなくなったが、わもんの学びのなかで、直感のことをミジンコといっていた。なぜミジンコなのかはわからない。

直感のことをミジンコといった提唱者(?)であるやぶちゃんの話では、直感(ミジンコ)は水深数千mのところからものすごいスピードで上がってきて、水面に顔を出した途端にまた潜っていくので、瞬時につかまえなければ逃げられてしまうという。

ともかく、そんな話を聞いているときに思いついたのが、冒頭の「深海のミジンコ」というフレーズである。

その材料にならないだろうかと思い、ミジンコや深海に関する本をいくつか読んだ。そのひとつに『超ディープな深海生物学』という本がある。

読み進めるうち、目が止まった。息をのんで驚き、胸が高鳴った。

深海にミジンコがいた。

日本海溝の水深6,000m付近で奇妙な生物が見つかり、採集された。ツリガネボヤというホヤの一種であるらしい。正確な種名を調べるため、そのツリガネボヤを解剖したところ、体内からケンミジンコが採集されたということである。

この記述を見つけたあとでケンミジンコについて確認したところ、ミジンコという名でイメージする姿(ダフニア)とは違ってはいたが。


また別の日だが、WEBでミジンコを検索しているとおもしろい研究を見つけた。

「ミジンコは空を飛ぶか」というようなタイトルだったと思う。

ミジンコが鳥のように飛ぶのではなく、渡り鳥の水鳥にくっついて飛んでいく。DNA解析でミジンコの分布を調べるというような研究だった。


フレーズが浮かぶ。

「ミジンコは空も飛ぶし、深海にもいる。もしかすると、君の目の前にもいるかもしれない。ただ気づいていないだけなのかもしれない。直感も同じで気づいていないだけかもしれない。」


しかし、小説はまだ書けていない。


2017/04/07

文化と風土

Wikipediaの「報・連・相」の項の脚注に、以下の記事へのリンクがあった。

日系パワハラ│多分、報・連・相の意味は間違って伝えられてるよ

昨日のブログ記事で、山崎富治さんの『ほうれんそうが会社を強くする』という本(未読)について言及した。どうやらこの本は、書店のビジネス書コーナーによくあるような「報連相のコツ」など、報連相を「する側」から書いたものではなさそうである。

「風通しのよい会社の条件」であるとか、「上の人間が聞いて不快になりそうな情報は、なるべく伝えないようにしようという土壌がいつのまにかできているとしたら、この土壌には"ほうれんそう"は育たない。」という文章を読むと、報連相を育てることに主眼をおいているようである。

畑でほうれん草を育てるように、文化で報連相を育てることはできないか。

ここでの文化は「企業文化」としてもいい。

企業文化を耕して、報連相を成長しやすくするにはどうすればいいか。


畑を耕すのは、土をやわらかくして、ほうれん草が成長しやすくするためである。畑を耕す意味として、土と空気を混ぜるという意味もある。

風と土で「風土」である。「企業文化」は「企業風土」ともいえる。企業には「社風」もある。風通しをよくするにはつながらないだろうか。

こんな連想をしている。

2017/04/06

アイデアの種

ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか。思いつきから考えていることは重々承知であるが、まだしつこく考えている。

Wikipediaに「報・連・相」の項があったので読んでみた。現時点(2017年4月6日時点)での記述によると、もともと山崎種二さんが提唱し、その次男である山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』がベストセラーとなり広まったという。

当然のことながら、「報告・連絡・相談」を略して「報連相」としたのは、「ほうれん草」を意識したものであろう。未読であるが、『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルからもそのことが想像できる。その理由は2点ある。

ひとつは、「ほうれんそう」と平仮名表記にしていることである。「報連相」でも「報・連・草」でも、あるいはもっと直接に「報告・連絡・相談」でもよかったはずだが、敢えて平仮名にしている。音として読めば「ほうれん草」と「報連相」をかけているなと思うことはできるが、漢字で「報連相」と書かれているとその表記だけで「ほうれん草」を思い起こすことは難しい。思い起こしたとすれば漢字を読んだわけであり、ひと手間かかる。

もうひとつは、「ほうれんそう」に続いて「会社を強くする」としていることである。ほうれん草は緑黄色野菜として栄養価が高いイメージがある。漫画でポパイがほうれん草の缶詰を食べて、力こぶを出したりすることも思い浮かぶ。鉄分が豊富で、特に貧血気味の人は「ほうれん草を食べなさい」と言われることも多いだろう。ほうれん草には身体を強くするイメージがある。そのイメージで『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルをつけたと思われる。

興味があったので、『ほうれんそうが会社を強くする』をAmazonで検索してみると、新品はなかった。絶版となったようである。中古本はあり、表紙の画像を見たところ、思いっきり「ほうれん草」のイラストが載っていた(この記事の末にリンクあり)。しかも、イラストのほうれん草の葉が、働く人をかたどっている。

Wikipediaに戻り、あらためて「報・連・相」の項を読むと、「報連相の誤解」という箇所があった。
「上司の状況判断に必要な、部下からの自発的な情報伝達」を習慣的に行わせるためのしつけとして捉えられているが、そもそも、提唱者の山崎の著書では、管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、生え抜きでない社員や末端社員であっても容易に報告・連絡・相談が行える風通しの良い職場環境をつくるための手段して報連相を勧めているのであって、部下の努力目標ではない。

考えていたことが載っていたので、嬉しいことではある。しかし、「ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか」と考えていたことが、「報連相」が広まったときから既に述べられていたことは、少し残念な気もする。

もともとアイデアの種は蒔かれていたようである。

2017/04/05

植木の名人の話

孟子の「助長」の話を書いたので、似たような話も書いておこう。

柳宗元の「種樹郭橐駝伝」での話である。原典は読んだことはないが、松本肇『故事成語の知恵』(日経プレミアムシリーズ)と、森三樹三郎『老子・荘子』に概要が載っていた。孫引きのようなものである。

「橐駝(たくだ)」とは「駱駝(らくだ)」のことらしい。植木屋の郭さんは背中が曲がっていて駱駝に似ているところから、駱駝の郭さんと呼ばれていた。郭さんは植木の名人で、その植えた木は枯れず、よく茂り、よく実をつけたので人気があった。

あるとき柳宗元が郭さんに植木の秘訣を尋ねたところ、次のように答えた。

「秘訣というのはありません。ただ樹木の自然の性にしたがっているだけです」と。

植木というものは、木の根が広がり、土が平均にゆきわたり、古土が落ちず、木が倒れないくらいに土を固めておくことが必要とされる。その条件を整えさえすれば、あとは動かしたり揺すったりする必要はない。木の求めるようにするだけで、余計なことをしないだけだという。

木の成長を早めたり、よく実をつけさせたりすることはできず、成長を妨害しないようにするだけである。木は自然に成長する。

しかし、他の植木屋を見ていると、心配しすぎている。爪で引っかいて枯れていないか調べたり、根を揺すって土に隙間がないか確かめたり。木を大事にしているようだが、かえって危害を加えている、と。

『孟子』のたとえでも、この植木の名人の話でも、環境を整えることは大切ではあるが、作物(植木)自体には何もしていない。直接引っぱったり、揺すったりすることはしていない。

植物を育てるのと人を育てるのではやり方は違うかもしれないが、その育てる対象の特徴・性格を知り、それに合わせた環境を整えることは共通していると思う。

2017/04/04

心に忘るることなかれ、助けて長ぜしむることなかれ

『孟子』公孫丑上に以下の話が載っている。「助長」の語源ともいわれている話である。(小林勝人訳『孟子(上)』岩波文庫より)

むかし宋の国のある百姓が、苗の成長がおくれているのを心配して、なんとか早めたいものと一本一本引っぱってやった。グッタリ疲れきって家にかえるなり、『ああ、今日は疲れたわい。苗をみんな引きのばしてやったものだから』と家のものに話したので、息子が〔変に思って〕いそいで田圃へかけつけて見たら、苗はすっかり枯れていたとのことだ。世間にはこうした馬鹿げたことをするものが少なくない。

この話が、実際にあった話であるのか、それとも作り話であるのかはわからないが、『孟子』の中ではたとえ話として出てくる。もしかすると、『孟子』のたとえ話のために、「助長」に否定的な意味が付されたのかもしれない。

孟子は「浩然の気」を養うことを説明するために、上記のたとえ話を挙げた。先ほどの引用箇所の続きは以下である。

浩然の気を養うなどとは無益なことだとして〔告子のように〕見向きもしないのは、田圃の草取りをしないようなものだし、また浩然の気を養うことは大切だと知っていても〔北宮黝や孟施舎のように〕早く早くとあせって助長しようとするのは、苗を引っぱるようなものだ。こういうことは無益なばかりか、かえって害になるばかりだ。

「浩然の気」とは何かということはさておき、作物の育て方については当たり前のことを言っている。

無益なこととして見向きもせず、草取りもしないようでは作物は育たないし、早く早くとあせって苗を引っぱるようなことをしては作物にとって害になってしまう。目をかけて育てるが無理をしてはいけないということである。

心に忘るることなかれ。
助けて長ぜしむることなかれ。

これは人の育て方でもいえる。

2017/04/03

【メモ】ホウレンソウ関連記事

最近、ほうれん草のことについて考えていたので、ほうれん草や野菜関連の記事が目に止まった。メモとして書いているので、大したことは書いていない。


ひとつはGIZMODEの「ホウレンソウが人間の心臓になっちゃう!?」という記事である。

ほうれん草の葉脈を血管として利用し、心臓組織の修復に役立てようという技術で、実用化にはまだ至っていないが実験は成功したとのこと。

食べるのではないほうれん草の活用法のひとつとしてリンクを残しておく。


もうひとつは、日経ビジネスONLINEの「最強の植物工場は「手づくり」で完成させた」という記事である。こちらはほうれん草ではなく、植物工場の記事である。

畑で栽培ではなく、工場でレタスを栽培する。従来の植物工場はコストがかかり黒字化できないことが多かったが、この記事で紹介されている工場では黒字化できたということである。

 工場が本格稼働したのは2008年はじめ。「光、温度、湿度、空調、溶液など栽培環境の各要素をどう組み合わせるかというノウハウが重要。ハードだけそろえても、うまくいかない」。スプレッドの稲田信二社長に黒字化できたわけを聞くと、真っ先にそう答えた。

安定的に育てるためには、環境を整えることが大切である。その難しさと具体例が載っている。

2017/04/02

文化とあり方

ほうれん草が畑で育つならば、報連相は文化で育つのではないか。これをもう少し掘り下げていきたい。

畑を耕すことで、ほうれん草が成長しやすくなる。土をやわらかくすることで、芽が出やすく根が伸びやすくなる。

ここからいくつかの疑問が出てくる。文化を耕すとはどういうことか。土にあたるもの(あるいは、こと)は何か。報連相における芽や根は何に当たるか。

考えなくてもいいような疑問ではあるが、考えてみたい。

そもそも、文化とは何かということも考えておこう。


手元の国語辞典で「文化」を引くと、以下の意味が載っていた。

①ひらけない状態から、技術が進み生活が便利になり、また程度が高くなる状態。
②進歩・向上をはかる、人間の精神的ないとなみ(によって作り出されたもの)。
③その社会で受けつがれる、生活・行動のあり方。

報連相が大切だと言われているのは、主にビジネスシーンである。そこで、報連相を育てる畑としての文化を「企業文化」としよう。そうすると、文化の③の意味が一番近いように思う。つまり「社会」ではなく、「その会社で受けつがれる、生活・行動のあり方」である。「生活」というのはしっくりこないので「活動」としよう。

文化は一朝一夕でできるものではない。企業文化も同じである。

畑もまた最初から存在していたわけではない。開拓開墾して畑ができる。

畑を作ったらそれで終わりではない。毎年ほうれん草を育てるならば、種を蒔く前には畑を耕す。

企業文化も報連相を定期的に育てていくならば、耕すことは必要であろう。

文化を耕すとはどういうことか。これが次の疑問である。

2017/04/01

畑を耕すこと

ほうれん草を育てるために必要なものには、どのようなものがあるだろうか。ほうれん草を育てようとすると、何を準備するだろうか。

ほうれん草の種は必要だろう。種を蒔くための場所も必要である。他にも、肥料であるとか、鋤や鍬などの道具類も準備した方がいい。

プランターや土、肥料を用意して庭やベランダで栽培することもできるとは思うが、ここでは畑でほうれん草を育てることを考えてみたい。


種を蒔く前には、畑を耕す。鋤や鍬で畑を掘り返す。余談ではあるが、掘り返すという文字を打ったとき、「耕す」は「田(た)・返す」から来ているのではないかと想像した。方言で、ひっくり返すことを「かやす」という。


さて、なぜ畑を耕すのだろうか。


もっとも大きな理由は、土をやわらかくするためであろう。種を蒔くといっても畑の表面にぱらぱらと蒔くわけではなく、土中に種を埋める。土が固いとやりにくい。また、種から芽が出る、根が生えるときに土が固いと成長しにくい。やわらかい土の中に植えることで芽や根が伸びやすくなる。土中に石などの障害物があれば、掘り返すことで見つけやすく取り除きやすくなるだろう。

他の理由として、土と空気と混ぜるということもあるかもしれない。土と空気を混ぜるのでやわらかくなるともいえる。植物の根にも多少の空気は必要であろう。また適度な水分を保つためにも空気が混ざっていた方がよさそうだ。

他にも、雑草の繁殖を防ぐためであるとか、肥料をまいたあとに混ぜるためであるとか、様々な理由があるだろう。


なぜこのようなことに拘っているのかというと、ほうれん草と報連相を関連づけたいためである。

ほうれん草がよく育つように畑を耕す。報連相がよく育つように「畑を耕す」に相当することは何かを探りたい。

きっかけとなるのは言葉である。


「耕す」を英語でいうと、「cultivate」という。cultivateはラテン語のcolereから来ている。このラテン語colereから派生したcultivateとは別の英単語がある。「culture」である。「耕す」ことと「カルチャー(文化)」は同語源の言葉である。ちなみに「農業」を英語でいうと「agriculture」である。

畑を耕すことは、文化といえる。文化という土壌で、報連相が育つと考えてみたい。

2017/03/31

ホウレンソウの育て方(まえがき)その②

「ホウレンソウ」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。

大半の人は、野菜の「ほうれん草」を思い浮かべるであろう。また、会社などでビジネスに関わる人ならば、「報告・連絡・相談」を略した「報連相」を思い浮かべる人もいるであろう。

「報告・連絡・相談」いわゆる「報連相」は、仕事でのコミュニケーションの基本とされている。現在は一人でする仕事はあまりない。会社に勤めたり、チームを組んだり、仲間で集まったりして仕事をしている人がほとんどであり、意思疎通や情報伝達などのコミュニケーションがない状態で仕事をすることは不可能に近い。

書店のビジネス書のコーナーに行けば、報連相を取り扱った本に巡り合うこともしばしばある。「報連相のコツ」や「上手な報連相のしかた」などのタイトルが目立つ。

報連相に関するすべての本の内容を読んでいるわけではないので一概には言えないかもしれないが、それらの本は報告、連絡、相談を「する側」から書かれていることが多いように思う。上手く報告するにはどのようなことを報告すればいいのか、連絡するツールや媒体は何を選べばいいのか、相談する時間をつくるにはどうすればいいのか、など、新社会人向けに報告・連絡・相談のノウハウを紹介する内容である。

報連相を「される側」から書かれたものは少ないように思う。

「報告がない」「連絡をしっかりしてくれ」「事前に相談すべきだろう」など、報連相が少ない、あるいは、もっと詳しい報連相がほしいと思っているのは「される側」の方である。「される側」の方に、報連相についての課題意識、問題意識がある。しかし、書籍などで取り扱われている報連相の大半は「する側」向けの内容であるのは不釣り合いな気がする。「報連相をしたい/もっと上手くなりたい」という人より、「報連相をしてほしい/もっと上手になってほしい」という人の方が多数であると思う。

これから複数に分けて書いていくことは、報連相を「してほしい側」の人向けの内容である。

そして、ひとつの試みでもある。「ほうれん草を育てるように、報連相を育てられないか」ということを考えてみたい。

幸いにも実家は兼業農家で、自家消費用ではあるけれども、ほうれん草を育てている。また、報告・連絡・相談を受ける側にとって共通する「聞く」ということについては、ここ数年仲間とともに修行をしてきている。そのため相談者にも事欠かない。

そして何より、「言葉あそび」が好きで、「ほうれん草の育て方」と「報連相の育て方」をこじつけてみることにワクワクする。

昨日に引き続き「まえがき」のようになってしまったが、そろそろはじめよう。

2017/03/30

ホウレンソウの育て方(まえがき)

以前、思いつきで、『営業畑でホウレンソウを育てるには』というタイトルの本があったら読んでみたいとfacebookに投稿した。



このタイトル自体は思いつきだが、なぜこのようなことを思いついたのかについては経緯がある。


月に1度、とある勉強会に参加している。その勉強会で、各参加者の仕事あるいは得意分野など、1人あたり30分から1時間ほどの発表をすることになった。

参加者それぞれの面識はあり、それぞれの仕事や活動の内容も知ってはいる。しかし、実際に仕事をしている様子などを見たことはない。そのため、プレゼンテーションでもセミナーでも講義でも何でもいいので、それぞれの仕事ぶり活動ぶりを発表してみようという趣旨である。

月に1人か2人、発表をしていく。事前準備が必要であるかもしれないので数ヶ月先までの順番を決めた。私は3月の会で発表することにした。

どんな発表をしようかと考えていたときに出てきたのが冒頭のタイトルである。最初は「ホウレンソウを育てるには」だったが、ビジネスシーンで大切にされるホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)と、野菜としてのほうれん草のイメージを強めるために「営業畑」という言葉を付け加えた。


先日の勉強会が発表の番であった。タイトルは『ホウレンソウの育て方』とした。営業畑の仕事はしたことがない(仕事はすべて営業だ、という考え方もあるけれど)。

内容は、セミナーや研修として開催できるものではなく、一冊の本として出せるものでもないが、小ネタやブログネタにはなりそうではある。発表も終わったことであるし、発表では言いそびれたことも加えつつ、まとめの意味も込めて少しずつ書いていきたいと思う。

2017/03/29

「元」のもと、「本」のもと

「本」という漢字も、「元」という漢字も、どちらも「もと」と読める。

「もと」と読んだときには同じような意味に思えるのに、「本(ホン)」「元(ゲン)」とすると違う意味に思える。

「本気」と「元気」は違う。

手元の国語辞典でのそれぞれの意味は以下であった。

【本気】
〔いいかげんやじょうだんではなく〕まじめな気持ち。

【元気】
Ⅰ①心やからだの活動のもとになると考えられる力。②「元気①」のあらわれた状態
Ⅱ①健康。②「元気Ⅱ①」であるようす。

元気の意味をⅠとⅡに分けているのは、品詞の違いがあるためである。Ⅰは「名詞」として、Ⅱは「形容動詞」として掲載されていた。「元気がある」といえばⅠの意味で、「元気な(人)」といえばⅡの意味で使う。

本気の方は「名詞」と「形容動詞」が併記されていた。

「元気がある」とはいうが、「本気がある」とはあまりいわない。

「元気な人」はおかしくないが、「本気な人」はどうだろうか。「本気の人」という方が多いような気がする。

「本気になる」というと「まじめになる」というような意味で、「元気になる」というと「健康になる」という意味である。「元気」がありのままだとすると、「本気」は集中したような印象を受ける。「元気を出せ」というと励ましとなるが、「本気を出せ」というと叱咤激励のような感じになる。

漢和辞典で調べると、「本」という漢字は指事文字で、「木の根の太い部分に-印や・印をつけて、その部分を示したもので、太い根もとのこと」とあった。一方、「元」という漢字は象形文字で、「兀(人体)の上にまるい・印(あたま)を描いたもので、人間のまるい頭のこと。頭は上部の端にあるので、転じて、先端、はじめの意となる」である。指事文字とは、絵としては描きにくい一般的な事態を、抽象的な約束や印であらわした字で、象形文字は事物の形を描いて簡略化した絵文字であることから、「元」の方は具体的なもので、「本」の方は抽象的なのかもしれない。

2017/03/28

真空

「真空」とは真に空の状態のことで、一般的には空気のない状態のことを意味している。

おそらく古の人々は、何もないという意味で空(そら)に空(くう)の字を当て表現していたのであろうが、空気やその他の、目に見えないものが存在し、それを知ることによって真に空、つまり「真空」という呼び名が生まれたのだと想像する。

人は言葉によってものごとを考え、また他人に伝達し、その世界の把握に役立てているが、その原理とは、ものごとに名を与え、自分自身で制御できる範疇に取り込んでいくということであろう。


しかし、何もない、虚無に名を与えると、それがあたかも存在するように扱ってしまうということがある。

たとえば、「無」という言葉。知らず知らずのうち、「そこには無が存在する」ということがある。「無」というものがあたかも存在しているように錯覚してしまう。

何も存在しないものに名前をつけるなということではない。存在しないものに名前をつけないでいると、世界の大半のものが失われる可能性がある。

ただ、そのことに自覚的でいたいと思う。

真空は何もないために、その状態がポツンとあるわけではない。少なくとも地球上では何らかの物質で場所が占められ、真空は瞬く間になくなってしまう。

2017/03/27

言語観

ものにはなっていないが、学生時代は言語学を勉強していた。特に文法、言語学の分野でいうと統語論に興味をもっていた。

国語の文法の授業では、品詞やら活用やら、嫌いではなくむしろ好きだが、普段何気なく使っている日本語がとても複雑に思える。英語の授業では、第五文型やら仮定法やら、日本語で考えるととてもおかしな、面白い表現などたくさんあった。英語をしゃべりたいとは特に思わなかったが、英語の文法は面白いと思った。そして日本語の文法も。

大学に入ってから、言語学という学問があり、統語論という分野があることを知った。そして、「普遍文法」という考え方があることも知った。

英語も日本語も、人間が話す言語である。同じ人間が話す言語なのに、どうしてこんなにも表現が、文法が異なるのか。この問いに答える考え方のひとつが「普遍文法」である。

人間は「普遍文法」を持っている。しかし、その「普遍文法」にはいくつかのパラメータがあり、そのパラメータが異なることで英語と日本語の違いが生まれる、といった考え方。
ノーム・チョムスキーの『原理とパラメータの理論』である。私が知っている限りでは、チョムスキーの理論はさらに進み、『ミニマリスト・プログラム』という名となっている。今はもっと進んで、さらに変わっているかもしれない。

それはともかく、「普遍文法」あるいは言語の青写真というべきものを人間が持っていて、言語獲得の過程でパラメータが設定されていくという考え方は面白く感じる。

言語能力が先天的な能力なのか後天的な能力なのかはまだ意見がまとまっていない。

ただ人間が言語能力を有していることはいえる。そして言語能力は、認識能力ともつながっていると思っている。

世の中をどのように認識しているかという世界観は、言語観とつながっていると思う。

2017/03/26

時間の言語学

瀬戸賢一さんの『時間の言語学』を読んだ。少し悔しい。というのも、時間の表現について興味深いと思っていたにもかかわらず、深く考察していなかったからである。




『時間の言語学』では、未来から過去へ《動く時間》と、未来に向かって《動く自己》を想定する。そして《動く時間》と《動く自己》は矛盾しない。

時間の〈流れ〉のメタファーを捉えきれていなかったことが悔しい。

本書では、時間のメタファーとして〈流れ〉の他に〈時間はお金〉のメタファーがあるといい、さらに、「持続可能な定常経済を構築すべき時期」として、それにふさわしい新たなメタファーが必要であるとする。

そのメタファーとは、〈時間は命〉というメタファーである。「時間は円環する命」と提案する。

時間は抽象的な概念であり、それを表現するのに空間的な言葉を使う。空間的な言葉で時間を把握する。

メタファーは人間の思考能力の重要な要素であり、私が言葉に興味を持つのもそれが理由である。

2017/03/25

キョロック!

久々にチョコボールを買う。金のエンゼルがいないかと楽しみに開けたがいなかった。

代わりに(ではないが)、エンゼルがいるべきところに、今まで見たことがない切れ込みが入っていた。


「キョロック!」というらしい。くちばしを差し込んでロックできる機能である。


チョコボールは50周年。キョロちゃんは永遠の(?)5歳。箱やくちばしにもまだまだ可能性がある。


森永製菓│チョコボール

2017/03/24

木の成長に印をつける

「木」という漢字は、横棒を書き、縦棒を書き、横棒と縦棒の交点から左下、右下へ斜めにはらった形をしている。象形文字で、立ち木の形を描いたものだという。

木の根の太い部分に印をつけて、その部分を示すと「本」という漢字になる。「根本(ねもと)」の「本(もと)」である。

木の枝の先の方に印をつけるて、その部分を示すと「末」という漢字になる。「梢(こずえ)」とは「木(こ)の末(すえ)」である。

まだ伸び切らない枝を示すと「未」という漢字である。未だ伸び切ってはいない。


儒学の古典である『大学』に次の章句がある。
物に本末あり。事に終始あり。先後する所を知れば則ち道に近し。
木に本末があるように、物に本末がある。

本とは根本(ねもと)であり、根本(こんぽん)である。本質であり、本来である。

末とは梢(木の末)であり、枝葉末節である。花咲くこともあれば、実をつけることもあるだろう。

未とは末まで未だ伸び切っていない。しかし成長すると枝葉となり、花が咲き、実をつける。


本来とは過去を示すことがある。未来は可能性に満ちている。世も末だと終末思想につながる。


未知のことでも既知となる。未から末へと成長する。言葉という葉をつける。

言葉は結果という果実をつける。実は種となり芽を出していく。やがて書物、本となる。

2017/03/23

成功を引き継ぐ

「成功」を英語でいうと、successという。「成功する」はsucceedである。

succeedという動詞からsuccessという名詞が生まれている。

succeedには「成功する」の他に「相続する・継承する」という意味もある。

「相続・継承」は英語でsuccessionである。

つまり、succeedという動詞から、success(成功)とsuccession(継承)という2つの名詞が生まれている。

動詞succeedの語源は、「下に(suc)進む(ceed)」である。「下に進む」という語源から「成功する」と「継承する」という意味が生まれた。


私たちは、過去に生きた人たちから様々なものを継承している。物やお金であったり、土地であったり、無形資産も継承している。社会の仕組みもそうであるし、学問などもソウである。

私たちは、生まれたときから継承しているし、成功している。

2017/03/22

春を探しに出かけよう

3月21日、靖国神社にある標準木の桜が開花したとの発表があった。

3月20日の春分の日を過ぎ、これから昼の時間が少しずつ長くなっていく。

実家では今度の日曜日(つまり3月26日)、稲の種まきを行うと連絡があった。

SNSでは時折、土筆の写真が投稿されている。

朝晩はまだ肌寒い日が続いているが、春が近づいてきている。


三寒四温という言葉が浮かんだ。

3日間寒い日が続き、4日間温かい日が続き、また寒くなり暖かくなる。こうして徐々に春に向かっていく。

冬の季語らしいが、春先に使うことが多くみられる。


WEB上や言葉では春の訪れを感じているが、身の周りではまだ春を見つけられていない。

2017/03/21

コピーと解像度

ITの発達などにより、個人での発信が容易になっている。便利なWEBサイトやアプリも多くなり、コンテンツも多数ある。

そのような中、オリジナルのコンテンツはどのくらいあるだろうか。

コピーが容易にでき、発信も容易であるため、同じ内容の情報が多数ある。情報をまとめ編集したサイトや、キュレーションされた情報も多い。引用もあれば、無断複製もある。

WEBサイトの情報をコピー&ペーストして、レポートなどが作成されるとも聞く。「コピペ文化」というようなことも言われる。


紙媒体での写真のコピーについて、解像度の観点から考えてみたい。

最初のオリジナルの印刷物は、もともとの写真データの解像度とともに、プリンタなどアウトプット機器の解像度によって仕上がりが異なってくる。画像データの解像度がいくら高くても、プリンタの解像度が低ければ、印刷物の解像度は低い。その印刷物のコピーも同じで、印刷物の解像度がいくら高くても、コピー機の解像度が低ければ仕上がりは悪い。

デジタルデータのコピーでは、基本的にそのままコピーできる。

ただし、元データの解像度がいくら高くても、それをコピーする人の解像度が低ければ、仕上がりは悪くなる可能性はあるような気がする。

できるだけオリジナルなものを書いていきたいと思った。

2017/03/19

計画と解像度

解像度とは、画像の密度のことで、単位は「dpi」である。「dpi」は「dots per inch(ドット・パー・インチ)」の略で、一定の長さ(1インチ)あたりどのくらいの点(ドット)があるのかを表している。点があるというよりは、1インチをいくつに分けたか、といったほうがより正確かもしれない。解像度が高いほど点の密度が高く、斜め線や曲線がなめらかな画像であると言える。

解像度を高くすれば高くするほど綺麗な画像となるが、高すぎると人間の目では差がわからなくなる。300dpi以上は見た目にはあまり変わらないらしい。

ただし、拡大した場合は別である。300dpiの画像は1インチに300の点がある画像だが、2倍に拡大すると2インチに300の点がある画像となるので、拡大後の画像は1インチあたり150の点と考えられる。面積を2倍にするのか、正方形の辺の長さを2倍にするのかで数字は変わってくるだろうが、ここでは数字は気にせず、拡大すれば解像度が低くなると考えてもらえればいい。

今までは画像の話だが、「目的」や「ビジョン」などについて考えてみると、画像の解像度と同じように考えられる。

たとえば「長期計画」を例にとってみよう。

10年計画として長期計画を立てたとする。おそらくは大まかな計画になるであろう。長期計画として確認する分には申し分ない。その長期計画で今年の計画を取り出す。今年の部分を取り出したら、月ごとの計画など詳細がわかるようになるのが理想的である。10年計画では大まかな10年計画にふさわしい解像度で、1年計画に拡大したら1年計画にふさわしい解像度で、1ヶ月計画に拡大したら1ヶ月計画にふさわしい解像度で表示されるのが望ましい。解像度は高ければ高いほど、拡大に耐えられる。

しかし10年計画のすべてを高解像度にすると、作成に時間がかかってしまうという難点もある。高解像度にしたとしても、拡大したときには威力を発揮するかもしれないが、高すぎると見た目には変わらないので大まかな計画でもいいと思う。近い将来など拡大する可能性が高い部分から解像度を高くするのが望ましい。

2017/03/18

2045年問題とは問題ではないのでは?

昨日の投稿で、問題とは現状とあるべき姿のギャップであると書いた。

では、最近ときどき見かける「2045年問題」も、現状とあるべき姿のギャップとして定義できるだろうか。

まずはお決まりの口上から。私は専門家ではないので、2045年問題について詳しいことは知らない。

「2045年問題」でWEB検索し、ざっと見たところ、以下のようなことが2045年問題と認識されているようである(以下の引用は日本経済新聞の記事)。
本記事におけるシンギュラリティとは、コンピュータ・テクノロジーが指数関数的に進化を遂げ続けた結果、2045年頃にその未来を人間が予測できなくなるとする仮説のことである。
 人工知能が自らを規定しているプログラムを自身で改良するようになると、永続的に指数関数的な進化を遂げる。この結果、ある時点で人間の知能を超えて、それ以降の発明などはすべて人間ではなく人工知能が担うようになる。つまり、人工知能が人間の最後の発明になるという、仮説である。

結論から書く。

もし現状とあるべき姿のギャップを問題と定義するならば、2045年問題とは問題ではない。

現在、コンピュータ・テクノロジーが発展していることは間違いないだろう。一昔前までは、コンピュータの発達が著しいことを表現して「ドッグ・イヤー」といっていた。先の日経新聞の引用では「指数関数的」という表現がなされている。パソコンなどの性能は年々向上し、最近はAIやIoTなどがメディアを賑わせている。

「現状」はある程度わかるが、「あるべき姿」がどのようなものなのかまだわかっていない。

このままいくと『2001年宇宙の旅』のHALのようなコンピュータが現われ、それを危惧しているということならば「問題」といえる。人類に危害を加えないようなコンピュータが作られているという(明確ではないにしろ)「あるべき姿」があり、人工知能を持ったコンピュータが暴走する可能性があるという「現状」があるので、「問題」と捉えることができる。ただし、その問題のネーミングが「2045年問題」とは思えない。

Wikipediaでの情報だが、技術的特異点(シンギュラリティ)という用語を提唱したレイ・カールワイツは、「100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越する」瞬間のことをシンギュラリティと呼んでおり、それが2045年ごろではないかと予想している。「問題」というよりは「仮説」である。

「2000年問題」は問題であったと思う。コンピュータに内蔵されている時計が2000年を認識できない可能性があり、多くの人々が課題として捉え、解決した。しかし「2045年問題」として言われていることを聞いたり読んだりしても、何が問題なのかがわからない。もしくは別のネーミングをつけた方がよさそうな問題である。

コンピュータ・テクノロジーの「あるべき姿」、あるいは人類の「あるべき姿」を求める方が問題であり課題ではないかとも思う。

2017/03/17

課題を明確にするには

課題解決で大切なことは、課題を明確にすることである。課題が明確でないと、解決はできない。では、課題を明確にするにはどうすればいいのか。その前に「課題」と「問題」の違いを見てみよう。

ビジネスの現場では、問題と課題は違うとよく言われる。では、問題と課題は何が違うのか。

手元の国語辞典では、それぞれ次のように載っていた。

【問題】
①答えさせるために出す、題。
②解決すべきことがら。
③議論の材料(となることがら)。
④世間の注目を集めていることがら。
⑤事情。ことがら。
⑥めんどうな事件。もめごと。
【課題】
①やるようにと相手にあたえる問題。
②解決すべき問題。
③〔スケートで〕コンパルソリー。

注目するのは、課題の「②解決すべき問題」というところである。

問題は個々人によって異なる。問題意識の違いなどとよく言われる。個人のなかでも問題は複数あるかもしれない。その複数ある問題のうち、「解決すべき問題」が「課題」である。課題には解決の意思がある。たくさんの問題があるなかで、「この問題を解決しよう」という問題が課題である。これを「問題の課題化」という。式で表すとすれば「課題=問題+意思」である。

では、問題とは何か。ビジネス書では「現状とあるべき姿のギャップである」と定義することが多い。「あるべき姿」とは、目標であったり、理想であったりする。その目標や理想、あるべき姿と、現状、現在の状況の差が「問題」である。式で表すとすれば、「問題=あるべき姿-現状」となる。

すると、問題を発見するには、「現状」と「あるべき姿」がしっかりとしていなければならない。「現状」と「あるべき姿」があやふやであれば、「問題」もあやふやとなる。

そのため、問題解決あるいは課題解決の方法で一番大切なことは、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」である。「あるべき姿の具体化」は「目標設定」にもつながっている。問題が「現状とあるべき姿のギャップ」であるならば、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」をすることで、問題も明確になる。

問題は複数あることがほとんどである。それは、現状やあるべき姿を明確にするには複数の言葉が必要だからである。一言で表した現状、あるいはあるべき姿はわかりやすいものではあるが、抽象的でもある。現状もあるべき姿もできるだけ具体化、さらに数値化するのが望ましい。そうなれば、さまざまな観点から現状、あるべき姿を描く必要がある。

つまり、「現状把握」→「あるべき姿の具体化」→「問題発見」→「課題抽出」というのが通常の流れであると考える。もちろん「問題発見」が最初でもいい。ただし、問題を発見したときに「現状」と「あるべき姿」もしっかりと認識することが大切である。

「課題=問題+意思」「問題=あるべき姿-現状」であるならば、「課題=(あるべき姿-現状)+意思」である。

課題を明確にするとは、「現状」「あるべき姿」「意思」を明確にすることに他ならない。

そして、「現状」のよりも「解決の意思」が大きければ大きいほど、課題は小さくなることもわかる。

2017/03/16

可能と存在

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を読んでいると、興味深い表現があった。
「つまりね、《○○が可能である》と式で表現するために、∃を使って《○○を満たす数が存在する》と言い換えているんだね」
「何かが《可能》だというのを、数の《存在》に置き換えて表す……」

記号「∃」は、論理記号のひとつで「存在記号(existential quantifier)」と呼ばれている。

ここでは記号のことは置いといて、「可能」と「存在」について、思いつくことを書いていきたい。

特に言葉と意味について。

日本語で「可能」を表現するとき、冒頭の引用のように「○○が可能である」とも言うが、「○○することができる」とか「○○できる」という表現をすることがある。「できる」を漢字で書くと「出来る」、「出て来る」である。何もなかったところから「出で来る」。

可能表現ではないが、「作品ができた」というような表現もある。これは「(もともとはなかったが)作品が出て来た」という意味合いにも受け取れる。

では、例えば「逆上がりができる」なんかはどうだろうか。「(今、実際には逆上がりをしていないが、)逆上がりをする能力を持っている」という意味合いに取れる。目には見えないかもしれないが、その萌芽があることを「可能性」と呼んだりする。「逆上がりをすることができる」というのも、ほとんど同じ意味を有している。


面白いのは、日本語での可能表現では「が」がでてくることである。「私は逆上がりする」という表現を可能表現にすると「私は逆上がりできる」という表現になる。「私が逆上がりをする」とは言えるが、「私が逆上がりができる」とは言えない。

「話す」という動詞の派生語で、「話せる」という可能動詞がある。「英語を話す」など、「話す」は目的語に「を」を使う。これが「話せる」ならば、「英語を話せる」とも言えるし、「英語が話せる」とも言える。実際には今現在、英語を話してはいないが、「英語を話す能力がある」「英語を話す可能性がある」ということである。

何かが可能であることを、可能性があると存在に置き換えて表すことは、数学や論理学に限ったことではない。言葉の上でもそのようなことが言えそうである。

英語でも、助動詞canを使った言い方と、イディオムとしてbe able toを使った言い方がある。be動詞を使っている分、be able toは存在に近い気がする。

日本語での助動詞「れる、られる」は可能の機能も持っている。確証はないが、動詞「ある」から助動詞「れる、られる」が発達したと考えることもできると思う。

だから、どうした?と問われると、思いつきで書いているだけであり、何の役に立つのか、ここからどのような結論が得られるかはまだ考えることができていない。

ただ、可能性は存在していると思う。

2017/03/15

立体的に世界を見る

最近、日本語と英語の違いについてのブログ記事を2つ見つけた。

ひとつは、シゴタノ!「英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること」という記事である。日本語は「ドライバーズビュー」、英語は「バードビュー」であると紹介している。
本書(引用注:遠藤雅義『英会話イメージトレース体得法』)では、日本語は「ドライバーズビュー」であり、英語は「バードビュー」であると主張されており、イラストで分かりやすく提示されているのですが、この説明(およびイラスト)を目にしたとき、「うわ、そういうことか!」と激しく腑に落ちました。
もうひとつのブログ記事は、STUDY HACKER「英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」」である。
結論から言うと、日本語は「自分をカメラにして世界を眺める」言語です。(中略)
一方、まるで幽体離脱のように「自分を外から眺めながら話す」言語、それが英語なのです。

どちらの記事でも同じことを言っている。日本語は「ドライバーズビュー」で「自分をカメラにして世界を眺める」言語、英語は「バードビュー」で「自分を外から眺めながら話す」言語であると。もちろん、どちらが優れている言語か、ということではない。日本語と英語は視点・モノの見方が違うと言っている。その違いを認識すると英語がわかりやすく、使いやすくなるという内容である。

わたしが文法を好きな理由は、文法からモノの見方・視点を学びたいためである。STUDY HACKERの記事内で、それを言い表した文章があった。
実は文法というのは人間の感覚が世界を感じた結果が言葉の中に反映される「現象」なのです。
文法は人間の「感覚」そのものでできているのです。文法というのはルールではなく、一種の心理学のようなものだと考えましょう。
つまり、この世界で自分の周りに起きることを、「感覚がどのように捉えているのか」。文法が表しているのはそれです。

ここでは日本語と英語の比較だが、同じ日本語話者でも「文法」が違うと思っている。もちろん言語には伝達するという機能があるので、大部分は似たようなものだろう。しかし個人差はあると思っているし、個人によって世界の捉え方にも差があると思う。

また逆に人間である以上、英語話者でも日本語話者でも共通部分はある。外界を捉える感覚、五感は共通したものだからである。

人間は目が2つあるから立体的に見えるという。2つの視点から世界を見たとき、人間の捉えている世界がさらに立体的に見えると思う。

【参考記事】
シゴタノ!│英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること
STUDY HACKER│英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」

2017/03/14

うれしい勘違い

一応、といってはなんだが、個人事業主であるため、確定申告をした。平成28年(2016年)分の所得税および復興特別所得税の確定申告は2017年3月15日までである。郵送してもいいのだが、まだ慣れていないため、所轄の税務署に行く。

昨年4月に大阪から名古屋に引越をして、所轄の税務署も変わった。納税地の移動届を提出したときに1度行ったきりで、今回税務署を訪れるのは2回目である。

確定申告の〆切(というのだろうか)が近いため混み合っていたが、無事申告し終わった。


税務署の近くに郵便局があった。

ずぼらなもので、転居届(転送届)は提出しているものの、ゆうちょ銀行の口座の住所変更手続きをしていなかったことを思い出した。いや、思ってはいたのだが、郵便局に行くついでにやろうとしていて、印鑑を持っていなかったり、免許証など本人確認ができるものを持っていなかったりして、延び延びになってしまっていた。今回は確定申告のために印鑑も免許証も持っていたので、住所変更の手続きをしようと郵便局に行った。自宅近くにあるゆうちょ銀行のATMでは通帳の繰越ができず、通帳記入もしばらくしていなかったので、通帳繰越もやってもらった。

名前を呼ばれたので窓口に向かった。

「ご住所の変更と通帳の繰越をいたしました」と窓口の方が言い、新しい通帳と古い通帳を手渡してくれる。「未記帳分も記入しています。普通預金と定期預金と」

思わず「えっ」と声をあげてしまった。「定期預金、あるんですか?」

「ええ、ありましたよ。今年満期ですので、またよろしければお願いします」


会社を辞めたのが2014年の7月末。のんびりと貯金を切り崩しながら生活をしていた。何度か定期預金を解約した。すべて解約したと思っていた。

しかし、まだひとつ残っていたようだ。もともと手元にあったものであるが、臨時収入があったような気分になりうれしくなった。


ふと思う。

自分の強みなども同じなのではないか。もともと持っているものではあるが、ないと思い込んでしまっていて、それが発見されたときには同じようにうれしくなるのではないか、と。

自分の強みの通帳記入をしに行こう。自分を更新しに行こう。

2017/03/13

『(ら)れる』のコーチング論(3)ー行動と感動

感動について考えていると、漢字からの連想で「行動」という言葉が出てきた。「動」という共通の漢字が含まれているので、「行動」と「感動」は対比しやすいのではないかと考えはじめた。

連想は続く。今回も結論はない。


能動態、受動態を英語でいうとそれぞれ active voice、passive voice という。activeはact(行為)からの派生語、passiveはpassion(情熱)と関連する語であるため、行動と能動態、感動と受動態を結びつけることはできないだろうかとも考える。


以前、「『(ら)れる』のコーチング論」というのを考えようとしていたことがある。

1回目では、「受身」「被害」「自発」「可能」「尊敬」は関係があることを、2回目では、クライアントに「動作主」になってもらうことがコーチングの目的ではないか、ということを述べた。3回目をしばらく書いていなかった。

(1回目と2回目はこちらから)
『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬
『(ら)れる』のコーチング論(2)


「行動」は身体的、「感動」は精神的である。行動から感動が生まれ、感動から行動が生まれるとしよう。クライアントが行動する側ならば、コーチは感動する側である。クライアントの行動にコーチは感動し、コーチの感動にクライアントは行動する。このような循環が起こればいいと思う。


今回、『(ら)れる』のコーチング論の3回目だが、わもんな言葉で少し触れたことがある。
わもんな言葉69-人が走り出す
「言語の中の『離我』を捉えようという試み」という言葉があった。

そのものの本来の輝きに触れたときに人は感動する、というのが昨日の記事の一応の結論である。

クライアントの本来の輝きに触れたときにコーチは感動する。

コーチはクライアントの行動や言動を見たり聞いたりする。

「受身」や「被害」を抑え、「自発」「可能」「尊敬」を活かす。

『(ら)れる』のコーチング論が、わもんに近づいている。

それとも、『(ら)れる』のコーチング論を、わもんに近づけているのか。

2017/03/12

感動について

人は何に感動するのだろうか。ふと、こんなことを考えた。

大自然を見て感動する人もいれば、建物を見て感動する人もいる。誰かの話で感動することもあるし、音楽を聞いて感動することもある。新しい命の誕生に感動したり、成長に感動したりする。映画や小説、漫画など、人工的なものでも感動する。

今のところ、ありきたりな言葉かもしれないけれど、そのものの本来の輝きに触れたときではないかと思う。

では、本来の輝きとは何かと問われても、答えようがないので、まだ深掘りする必要はある。


感動とは何だろうか。

手元の辞書には、「ものごとに感じて起こる、精神の興奮。深く感じ入ること。」と書かれている。わかるようなわからないような意味である。

「感動」は、「感」じて「動」くと書く。「感動する」と「感じる」では意味が違う。「感動する」と「動く」でも意味が違う。何かを感じて行動するというのもしっくりこない。

先ほどの辞書の意味に「深く感じ入ること」とあった。「感じ」「深く入る」こととすれば、感動の「動」は「深く入る」ことになる。


言葉のかたちをあれこれと述べていても「感動」はわからない、と言われそうだが、感動は自分にしかわからないように思う。誰かが感動しているかいないかなどはわからない。涙を見せていたり、何かに見入っていたりすると、ひょっとしたら感動しているのかも、と推測することはできる。

感動を見ることはできないし、聞くこともできない。臭うこともできない。

ただ、感動に触れることはできそうな気がするし、感動を味わうことはできる。

2017/03/11

ハチに刺されたとき

今までで2度、蜂に刺されたことがある。

初めて刺されたのは小学生のとき、クマバチ(田舎ではクマンバチと呼んでいた)に刺された。

夕暮れ前だったと思う。縁側に布団があった。布団の近くには洗濯物があった。日が陰ってきたので干していた布団と洗濯物を取り込んで縁側に置いていたようだ。

布団の上に寝転んだ。気持ちがいい。

そのときはジーパンにトレーナーという服装だった。このまま一眠りしようと思ったが、寝返りをしたりするとジーパンの留め具やリベットが当たって気になったので着替えることにした。洗濯物の山のなかにジャージを見つけたのではき替えた。

右足がチクッとした。

最初、マチ針か安全ピンかなにかがジャージに刺さっていて、それに触れたのだと思い、ジャージを脱ぎ、右足の裾のあたりを観察した。それらしきものはついていない。

ジャージを振ってみると、ジャージの腰の部分から、黒く丸々と太ったクマバチが、ブーンという音とともに飛んで出た。細かく速く羽ばたいているのに、飛んでいるクマバチ自体のスピードは遅く、太りすぎじゃないかと感じた。

縁側のガラス戸を開け、クマバチを追い出した。自分の右足を見ると、チクッとところを中心に赤く腫れていた。

笑いながら「ハチに刺された」と母親に言うと、祖母からアロエをもらってきて、皮を剥いで患部に塗った。


2度目は、バカな経験だと思う。多分アシナガバチだろう。

友人の家へ遊びに行き、虫取り網で友人の家の庭にいる虫を捕まえて遊んでいた。調子に乗って、花の上を飛んでいるハチを網で捕らえた。トンボの羽を合わせてつかむように、アシナガバチの左右の羽を合わせつかみ上げると、ハチの体は腰のところで器用にクニャリと曲がり、尻の先端の針で人差し指を刺した。自分のバカさ加減に笑った。

「アロエ、ある?」と友人にきくと、「アンモニア水ならある」と家の中からアンモニア水を持ってきた。そのとき初めて、ハチに刺されたら小便をかけろ、と聞いた意味がわかった気がした。


ハチに刺されたときのアロエや小便は、民間療法のようである。意味がないという話も聞いたことがある。ただ少なくとも患部を冷やすくらいの効果はあるとは思う。無意味ではなく効果が小さいというくらいに思っておいたほうがいい。

こんなことを書いていると、もし今ここでハチに刺されたらどうするだろうかと考えた。アロエは近くに見当たらない。アンモニア水も持っていない。小便もすぐには出ないだろう。ではどうするか。

刺されたところを水で冷やすと思うが、その前に、笑いそうな気がする。

2017/03/10

「気づき」はたくさんあるけれど

こんな例を見てみよう。

朝、家を出て駅まで行った。定期券を出そうとカバンのポケットを探ったが見つからない。そういえば、昨日は違うカバンで出かけていた。おそらくそのカバンの中に入っているだろう。今日は切符を買って電車に乗った。用事をすませて家に帰り、昨日使ったカバンの中を確認すると定期券が見つかった。

ありがちな話である。

この例の中にも「気づき」があると言えばある。

たとえば、
  • カバンに定期券がないと気づいた。
  • 昨日使ったカバンに入っているだろうと気づいた。
  • 切符を買えば家に戻らなくてもいいことに気づいた。
など。

これらは気づきではないと言えば気づきではないと言えるが、気づきと言えば気づきだろう。とりあえず、「ありきたりな気づき」と名付けよう。

では、「気づきを得た」と言うときの「気づき」とはどんなことだろうか。

手元の辞書には「気づき」の項がなく、「気づく」の名刺形として掲載されている。「気づく」には以下の意味が載っていた。
  1. 注意がそちらに向いて、ものがあることや変化したことを知る。気がつく。
  2. 正気に返る
今まで注意を払っていなかったところに注意が向いて、ものがあることや変化したことを知ることのようである。

「こんなところに花が咲いていた」など、多少の驚きや感動が伴うとさらにふさわしく思う。

冒頭の例では、駅に行くまで定期券に注意を向けていなかった。改札ではじめて定期券に注意が向き、定期券がないことを知った。昨日使ったカバンに注意が向き、そこに入っている可能性が高いことを知った。電車に乗るには切符があればいいということに注意が向いて、家に戻らなくてもいいことを知った。

カバンを変えた時点では、定期券のことに気づかなかった。この気づきがあれば、「ありきたりな気づき」はなかったのかもしれない。

気づいてばかりの人は、さらなる気づきを求めていこう。もう気づきはないと思うところまでいくと、大きな気づきが得られると思う。

2017/03/09

山羊座とパニック

山羊座の山羊を描くときは、上半身が山羊、下半身が魚の姿で描かれる。

そこにはギリシア神話での物語がある。

詳しくは覚えていないが、ギリシアの神々が宴会か何かをしていたとき、突然怪物テュポーンが現れた。神々は思い思いに逃げる。鳥に変身して空を飛んだり、足の速い動物に変身して走って逃げたりした。逃げる神々のなかには牧神パンもいた。パンは通常、上半身が人間、下半身が山羊で、山羊の角を生やした姿である。

パンは魚に変身して川に逃げようとした。しかし、慌てていたため、上半身は山羊、下半身は魚になって逃げたという話である。

なぜ逃げ惑う姿で、中途半端な変身の姿で星座となったのかは知らない。


このような話を覚えているのは、私が山羊座であることが大きい。

そしてもうひとつ、この物語が「パニック(panic)」の語源とされているからでもある。パニックは、牧神パンが慌てて逃げ惑う様子である。


山羊座の物語にも、パニックの語源にも諸説あると思うが、細かく調べたりするとパニックを起こしそうなので、今回はこの辺で逃げる。

2017/03/08

地上の星座

星座が好きだった。星空を眺めて星座を見つけることが好きだった。

オリオン座の三ツ星やおおぐま座の北斗七星などは見つけやすく、夜空を見上げると無意識に探すことが多かった。

星座を覚え、一等星の名前を覚えた。

星座への興味は、その星座にまつわる物語へと進む。

中学生・高校生のころはあまり本を読まなかったが、ギリシア・ローマ神話だけは読んだ。

神話のなかで活躍する神々や英雄たちが星座として夜空にいることで、星座を見る楽しみが増えた。

大学入学を機に、愛媛から大阪に出て一人暮らしをはじめた。

夜空の星が少なく感じた。代わりに地上が明るかった。

大学が山の方にあったので街を見下ろすことができた。

夜空の星を見上げることが少なくなり、街の夜景を見下ろすことが多くなった。


空想する。

夜空にいた神々や英雄たちが地上に降りてきたのではないか、と。

夜景のなかに星座を探した。物語を探した。


探せば見つかる。

ギリシア神話の神々や英雄たちのように活躍する人たちが。

活躍を彩る物語が。


ニーチェは「神は死んだ」と言った。

地上に降りてきたのではないだろうか。

全知全能の神が、八百万の神々となり地上で人の姿で生きている。

いろいろな物語を生み出していく。

2017/03/07

ひとはなぜ戦争をするのか

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄について、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」

もし自分がこのような依頼を受けたならば、誰に、どのような事柄について、意見を求めるだろうか。

この問い(と言ってもいいだろう)を目の前にすると、今の文明についてはおろか、もっとも大事だと思われる事柄や、意見を交換したい相手など、何も見当がつかない自分に気づく。自分ならば「少し考えさせてほしい」と、その場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。


アインシュタインは、この依頼を受けた。

国際連盟からの依頼。選んだ相手はフロイト。テーマは「戦争」。

今回のブログのタイトル「ひとはなぜ戦争をするのか」は、アインシュタインとフロイトの往復書簡を収録した本のタイトルである。

アインシュタインがフロイトに手紙を出したのは1932年7月、フロイトからの返信は同年9月。書簡を交わした当時は二人ともドイツにいた。

往復書簡がなされた1932年は、ナチ党が第1党となった年である。翌年にはヒトラーが首相に、さらに1934年には大統領職も得て総統となる。第二次世界大戦のはじまりとされるドイツ軍のポーランド侵攻は1939年9月。往復書簡を交わした後すぐに、アインシュタインはアメリカへ、フロイトはイギリスへ亡命する。二人ともユダヤ人である。

二人とも第一次世界大戦(1914-1918)も経験しているであろう。「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄」が「戦争」であったことは当然かもしれない。

アインシュタインにとって戦争についていちばん意見を交換したい相手がフロイトだった、というのがすごいと思う。


だれもが戦争の問題を解決しようとしているができていない。人間には本能として破壊への衝動の欲求があるのではないか。人間の衝動に精通している専門家に聞きたい。戦争を避けるにはどうしたらいいか。

アインシュタインがフロイトに意見を求めた理由は、簡単に書くと、このようになる。

フロイトはこの問いに対して、精神分析の欲動理論を中心に意見を返す。

人間の攻撃性を取り除くことはできない。なので、人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよい。戦争を克服する間接的な方法が求められる、と。

かなり省略するが、結論として「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」とフロイトは言う。
文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安――この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。

アインシュタインとフロイトのやり取りから半世紀以上たった。第二次世界大戦は終わり、大規模な戦争は今のところない。「将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安」は、ある。

もう一つの「文化の発展が生み出した心のあり方」はどうだろうか。

そして、いつになったら「戦争の終焉」といえるだろうか。

「少し考えさせてほしい」と、この場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。

2017/03/06

実験的経験的体験

「森博嗣さんの小説にね、『実験的経験』って本があるんですよ」

「あ、読んだことあります。あれって小説ですかね?」

「ボクが読んだのは文庫本だけどね、そのオビには『小説を飛び越えた新しい小説のカタチ』とか『超小説』とか書かれているから、小説だね」

「超小説? 小説を超えちゃったら小説ではないのでは?」

「いや。たとえば『超スピード』は、とてつもなく速いという意味だろう。程度の差があるだけで、スピードはスピードだよ」

「超小説も程度の差ということですね」

「『サラダうどん』はうどんの一種で、『うどんサラダ』はサラダの一種だからね。『超小説』も小説の一種だよ」

「なんか、本題から外れていっていませんか?」

そもそも本題から外したのはキミだろうとボクは思ったが口には出さなかった。代わりにちょっとした疑問が湧いた。

「キミの名は?」

「いきなり話が飛びますね。映画の話ですか?」

「いやいや、映画の話をするなら二重括弧で括るよ。『君の名は?』って」

「そんなこと、会話ではわかりませんよ。二重括弧とか、カタカナと漢字の違いとか」

(わかっているじゃないか……。)

(また本筋から逸れていますよ……。)

「……キミは心が読めるのかい?」

「心は読めませんが、文字は読めます」

だったら話が早い。普通に書けばいいということだ。

「まあ、そうですけど……。それだと会話をはじめた意味がなくなってしまうのではないですか?」

また話がズレていく。そもそもキミは「本題から外れる」とか「本筋から逸れる」と言うが、ボクが書こうとしている本題や本筋が何なのかわかっているのか? それならば、会話をはじめた意味もわかるのではないか?

「だから、こうしてつきあっているんじゃないですか」

そうだね。読んでくれてありがとう。

2017/03/05

「わかる」と「できる」

「わかる」と「できる」は違う、とよく言われる。わかっていてもできないことはたくさんあるし、できていてもわからないこともたくさんある。

では、「わかる」と「できる」の違いは何か?

「わかる」ということは頭で理解している、「できる」ということは身体で理解している、ということもできる。また、「わかる」ということはINPUT、「できる」ということはOUTPUT、ということもできる。

ここではちょっと視点を変えて、言葉の面から考えてみたい。

「わかる」という言葉は「分ける」という言葉と関係している。「わかる」を「分かる」と漢字で書くこともある。「わかる」と似たような意味を持つ言葉として、「理解(する)」とか「分別(がある)」とか、「判断(する)」など、2つ以上のものに分けるような言葉もある。何か対象を分けて、分析して、理解して…、というようなイメージである。

一方「できる」は、漢字で書くと「出来る」と書く。「出で来る」で「出来る」。また「できる」という語には、「作る」という意味もある。料理ができる、作品ができる、といったように。何かいろいろな材料から新しいものを作るという意味でである。

方向のイメージとして、「わかる」は上から下へ、「できる」は下から上へというイメージもある。あるいは、「わかる」は外側から内側へ、「できる」は内側から外側へ、というイメージもある。

「わかる」という言葉から連想されるのは「知識」、それと呼応させると「できる」という言葉から連想されるのは「スキル(技術)」。知識を形容するとき、「深い知識」「浅い知識」という。一方、スキルを形容するときは、「高いスキル(技術)」「低いスキル(技術)」という。

思考力は深め、行動力は高めたい。

2017/03/04

息づかいが激しい

ふとしたことから、「息」を使った慣用句を検索した。さまざまな慣用句がある。(weblio辞書「息の慣用句」

その中のひとつ「息が合う」。意味は、ともに事をする二人以上の間で気分がぴったりと合うことである。

コーチング・スキルのひとつに「ペーシング(pacing)」というのがある。文字通りペースを合わせるである。「息を合わせる」と言い換えることができる。

呼吸を合わす」という言葉もある。相手と調子を合わせることである。「呼吸を計る」ことも必要だろう。

また「息が切れる」という言葉があれば、「息が続く」という言葉もある。「息が切れる」は、物事を長く続けられなくなること、「息が続く」は、物事を長く続けることができること。

息を呑む」と驚くのに、「呼吸を呑み込む」と、物事をうまく行うための微妙な調子を会得する。上手く呑み込めず「息が詰まる」と緊張する。「息を詰める」と「息を凝らす」も同じく緊張する。「詰まる」は自動詞だが、「詰める」「凝らす」は他動詞である。

息筋張る」は怒ることだが、「息精張る」は全力を出すこと。青筋を立てるよりは、精を出した方がいい。

息が長い」は、活動期間や価値を保っている期間が長いという意味である。 冒頭のリンク先の一覧には載っていないが「息が短い」もあるだろう。

息を殺し」ても死なないが、「息の根を止める」と死んでしまう。「息を吹き返す」ことはあるかもしれない。

消息」は「息を消す」と書くが、手紙や便りのことである。「消息を断ち」、「息を潜め」るのは、「息がかかる」のを避けているのかもしれない。

息もつかせず」書いてみたが、そろそろ「(ひと)息つこ」う。「息が弾ん」できた。「息を入れ」ても「息を抜い」ても「息を継い」でも一休み。

一休み ほっと一息 息白し

さて、この記事には「息が通っ」ているのかどうか。

2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

2017/03/02

スイッチ・バック


所用があり、大分県の中津に向かった。新幹線で西へ行き小倉駅で降り、日豊本線に乗り換える。ホームで特急ソニックを待った。

列車が到着し、車内へ入ると、「あれっ?」と思った。

ホームに向かって右方向から列車が来たので、左方向に向かうと思っていた。しかし、座席はすべて右方向を前にしている。思っていたのと前後が逆である。座席の下には、回転させることができるペダルがついており、座席が固定されているわけではなさそうだ。他の乗客は平然としている。博多行きのソニック号に間違えて乗ってしまったかとも思い、出入り口の電光掲示板を確認したが、間違えてはいない。この電車で大丈夫だと自分に言い聞かせ、席に座った。

列車が動き出した。前を向いて座っていた。

「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「少し違うな」と思い直した。こういう進行方向が変わることを何というのだろうか。

スイッチ・バックという言葉を知ったのは、森博嗣さんの『今はもうない』を読んだときである。森さんの小説には大抵英語のタイトルも併記されている。『今はもうない』の英語のタイトルが『SWITCH BACK』であった。

スイッチ・バックとは「困難な登坂を克服するために、一度、水平に後退してから上り直すやり方」である(『今はもうない』より)。小倉駅で進行方向が変わったが、坂道を上るためではないため、スイッチ・バックとは言えないだろう。

そんなことを考えていると中津に着いた。19時ごろである。

中津での用事を終え、そのまま中津で1泊。翌日は岡山で所用があり、中津から小倉へ向かい、小倉駅で新幹線に乗り換えた。前日とは逆を辿ったことになる。

新幹線のホームに着いてから「しまった!」と思った。

降りたソニック号の発車まで見ていれば、乗客が座席を一斉に回転させているところを見ることができたかもしれない。今回は下り列車でなく、上り列車である。上り列車だからといってスイッチ・バックではないが、ブログのネタになるかもしれなかったのに。

そんなことを考えていると岡山に着いた。午前10時過ぎである。

岡山での用事を終え、名古屋へ向かう新幹線の中で、中津で撮影したマンホールの写真をfacebookに投稿した。大分の友人より「大分?」とのコメントが入る。

大分にいたが、今はもういない。中津へ行って1泊してすぐに帰った。観光はしていない。

また「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「これは違う」と思い直した。

行ってすぐに帰ることは知っている。「トンボ返り」である。

2017/03/01

名前に思いを乗せる


縁あって、岐阜県大垣市にある現代設計事務所さんと親しくさせていただいている。写真は昨年(2016年)できた看板で「芝生マン」と呼ばれている。愛嬌があり親しみやすく、つい触りたくなる。会社自体も、真面目ではあるが、遊び心もしっかりと持っていて、楽しみながら仕事をしている。センスがいい。近年は設計だけではなく、住宅のリフォームや古民家の再生なども手がけている。

先日伺ったとき、社長から社名の由来を聞いた。「現代設計事務所」という名前をつけた理由である。

社長は約30年前、務めていた名古屋市にある会社を辞めて、出身地である大垣市で独立した。現代設計事務所の設立は1988年11月である。名前をつけるにあたり、まず考えたことは「自分の名前をつけたくなかった」ということであった。「○○設計事務所」のように代表者の名字を入れた社名はよく見るが、独立した当時には顧客はおらず、自分の名前で顧客が来るとは思わなかったらしい。そして他の設計事務所の名前を見ると、名字がついているもの以外では、「未来」や「カオス」などがあった。なぜか「現代」がない。そこで「現代設計事務所」と名づけたということであった。

名前をつけるという行為はいたるところにある。産まれた子供に名前をつける、ペットに名前をつける、愛着のあるものに名前をつける。プロジェクトにも名前をつけるし、コンセプトやキャッチフレーズも名前をいえば名前だろう。そしてそこには名づけた人の思いがある。

子供の名前がわかりやすいだろう。産まれる前からどのような名前にしようか考える。どのような子に育ってほしいか、声に出したときの響きはどうか、運勢のいい画数にしたいなど、様々なことを考える。名づけ親の思い、価値観が込められる。そして名前を呼ぶたび、呼ばれるたびに、その思いに触れる。思いを乗せる。

言霊といわれるものはこのようなものだと思っている。

現代設計事務所の社名も同じである。まだ説明しきれていない思いもあると思う。説明できない思いもあると思う。社長だけでなく、社員やこれまでかかわってきた人たちすべての思いも乗っている。「現代」も「設計」も「事務所」も固有名詞ではない。それぞれの言葉の言霊もある。経営理念は「縁を育む」。これらの名前、言葉の思いも乗っている。

私は現代設計事務所という社名に「現代というこの時代を設計していく会社」という思いを勝手に持っている。いま現在だけでなく、これまでもこれからも含めた現代という時代を設計していく会社という意味である。現代設計事務所にその思いを乗せる。

2017/02/28

引用

大学の授業で、サラ・パレツキーの『ガーディアン・エンジェル』を読んだ。原書である。教授も外国人教授で、授業も英語。試験としてのレポート提出も英語であった。

レポート提出後、教授はひとりひとりに対してコメントを言った。私のレポートについては「引用が多い」ということだった。

レポートの課題は、何でもいいので気づいたことを書けといった内容であったと思う。読書感想文ではいけないだろうことはわかったが、何でもいいといわれると、これも書きにくい。ましてや、すべて英語で書かなければならないとなると余計に書きにくい。

結局、『ガーディアン・エンジェル』の章題には、聖書の文句を基につけられているものが多いということに気づき、そんなことを書いた。聖書からの引用をふんだんに利用して。もちろん、文字数を稼ぐためである。

引用とは、自分の論を説明・証明するために他の文章や事例を引くことである。

私の書いたレポートで言いたかったことは「章題は聖書の文句を基につけられているものが多い」というだけで、その事例を延々と書き連ねた。レポート全体の3分の2くらいが引用部分だったと思う。一言でいえば、単なる事例集だ。聖書の抜き書きともいえ、引用部分がメインになっていた。

引用は、自分の意見なり何なりが軸にあり、それを補強説明するためにある。自分の論がメインで、引用はサブである。

WEB上では、引用なのか転載なのかわからないものも多い。無断転載で問題となることもある。引用ばかりだが上手く編集・構成されているものもある。

ガーディアン・エンジェルは、直訳すると守護天使である。いつもそばで見守ってくれる天使だろう。

ブログを書いていると、ときどき耳元で囁かれる。「引用が多い」と。

2017/02/27

継続は力なり

ここ数日、毎日ブログ投稿をしている。と自分自身でも半信半疑だったのだが、ひとまず1週間は続き、三日坊主はクリアできた。

今までは、別に毎日書かなくともいいと思っていた。思いついたときに思いついたよう書いて投稿していた。

それが、毎日書いてみよう、と変わったのは、池上彰さんと竹内政明さんの『書く力』を読んだからだ。

池上彰さんは、テレビのコメンテーターとして活躍されているようで、たくさんの著書を書店でも見かけるので名前は知っていた。ニュースなどの説明、解説がわかりやすいといわれている。一方、竹内政明さんのことは知らなかった。読売新聞のコラム「編集手帳」を2001年から担当している方で、池上さんによれば「読売新聞の一面を下から読ませる男」だという。

このブログは基本的にテーマを決めていない。書きたいように書いている。書きたいときに書いていた。1日に数回投稿したり、何ヶ月も放置していたりしていた。自分が思ったこと考えたことを書いていた。深くは考えていない。政治経済には疎く、社会的に大きな問題は取り扱っていない。かといって日記にはしたくない。

定期的にこのブログを読んでいる人は少ないにしろ、果たしてこのような文章を読みたい人がいるのだろうか、という思いがいつもあり、下書きのまま放置しているものもある。途中で投げ出しているものもある。

『書く力』は池上さんと竹内さんの対談で、「文章がどんどん書きたくなる」という帯がついていた。

読んでいくと、たしかに何か書きたくなった。自分にとって一番有効だと思ったのは、「小さな話から入って大きな話につなげる」ということである。身近な話は魅力的である、ということにも安心した。

池上さんや竹内さんほどの知識や文章力はない。深く考えてもいない。

それでも例示されていた「編集手帳」のような文章を書いてみたい。そう思った。

仕事で毎日コラムを書いていると、「ぜひ、これを書きたい」と思うような日は、一年のうち20日もあれば多いくらいです。「どうしても書きたいこと」なんてものは、そうそうはない。けれども、編集手帳を空欄にして新聞を出すわけにはいかない。締め切りの時刻は迫ってくる。起承転結なんて知ったことか。きのう見た映画でも、今日のお天気でも、とにかく肌で、目で、耳で、自分がわかっていることを書くしかないですよね。
『書く力』のなかで、竹内さんがこのように述べていた。

書きたいように書いていこう。毎日投稿しよう。書きたいことがたくさんあっても1日1回の投稿にして、ネタ切れの際のストックとしておこう。『書く力』を読み進めていくと、自分にとって少し頑張ればできる範囲のルールを作りはじめていた。

いつまで続くことやらまだ半信半疑ではある。信じるためには続けるしかない。

2017/02/26

天上の星を留めたる金の鋲


西田幾多郎『善の研究』を読んでいると以下の一節に出会った。
ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われて居るかも知れない。
注解がついており、ドイツの作家であるハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine, 1797-1856)が、その詩集『北海』に収められた詩「夜の船室にて」の一節を踏まえたものであろう、と書かれていた。
天上の星は固く留められている
金の鋲によって
憧れも、嘆息もむなしい
寝入ることこそ最善なり

現在の天文学的知識からいうと、夜空に見える星々は、たとえ隣り合っているように見えても実際には隣り合っておらず、何光年も離れていることになる。たまたま地球という惑星から見ると隣り合って見えるだけである。

宇宙ロケットの開発などは、現在の天文学・物理学などの科学知識を基になされていて、小惑星探査機「はやぶさ」などの活躍を見ると、これらの知見は誤ってはいないだろう。これからどのような発見があるのかということも気になるし、楽しみでもある。このような宇宙開発や研究調査にかかわっていれば現実味も増すだろう。

かかわりがないとは言わないが、薄い。どちらかといえば、金の鋲によって留められている星々の方が実感が湧く。科学的想像力の欠如と言われたらそうなのかもしれないが、天上に金の鋲で留められているという想像力も素敵なことだと思う。

昔に比べて、見える星の数が減ったように思う。数えたことはないので印象だけなのかもしれない。大気汚染のためなのかもしれないし、目が悪くなったからかもしれないし、曇り空の日が多いだけなのかもしれない。

あるいは、金の鋲が取れてしまったのかもしれない。再度、金の鋲で留めるすべを、まだ知らない。

憧れも、嘆息もむなしい。寝入ることこそ最善なり。

天上の星を留めたる金の鋲
ハイネも独り眠りにつける


2017/02/25

経営統合するか、しないか



先日2月24日の日本経済新聞朝刊1面に、森永製菓と森永乳業が2018年4月をメドに経営統合するという記事が出ていた。これを受けて両社は「経営統合に限らず様々な可能性について検討していることは事実だが、現在当社として決定した事実はない」とのコメントを発表しているので、決定なのかどうかは定かではない。


「火のないところに煙は立たない」といわれ、日経新聞も憶測で記事は書かないと思うので、経営統合の方向で進んでいくのかもしれない。

経営統合するという記事を見たとき、真っ先に思ったのは、キョロちゃんはどうなるだろうかということである。記事にはキョロちゃんの動向は載っていなかった。

日経の記事を読む限り、海外事業の拡大や研究開発の強化が理由に挙げられており、キョロちゃんのリストラの心配はなさそうだ。むしろ、キョロちゃんパッケージの乳飲料やキョロちゃんズの海外展開の期待が高まる。

新聞報道の数日前に、ITmediaの記事が掲載されていた。タイトルは「チョコボールが、いまも売れ続けている理由」である。「3つの要因が重なって、いまも売れ続けている」という。「おもちゃのカンヅメ」「味のブラッシュアップ」「キョロちゃん」の3つの要因である。

味に関しては「積年の課題」があるという。キャラメル味のキャラメルが歯にくっついてしまうので改良を重ねているが、まだ解決できていない。

くっつくか、くっつかないか。

2017/02/24

常識

以前から気になっていた、小林秀雄さんの『考えるヒント』を読みはじめた。有名でロングセラーな本であるため、いつでも読めると思い、また今度、また今度、と先延ばしになっていた。先日書店に行ったとき、また目についたので、やっと購入した。

小林秀雄さんのことはほとんど知らない。『考えるヒント』についても、エッセイ集であることくらいしか知らない。その『考えるヒント』の最初のエッセイのタイトルが「常識」である。

常識については持論がある。

常識という言葉は、「常識を知らないのか」とか「そんなことは常識だ」とか、知っていて当然のことを知らないときに使われることが多い。しかし考えてみてほしい。常識というのが、「いついかなるときでも誰もが知っている知識」だとすれば、知らない人がいることは常識ではない。だから「常識を知らないのか」と言われたら、「私が知らないということは、それは常識ではありません」と答えるようにしている。心の中で。

かといって、自分が知っていることが常識であるかどうかはわからない。自分にとっての常識が、相手にとっても常識であるかどうかもわからないし、世界中の誰もが知っていることがあるのかと問われれば確認のしようもないわけで、常識の中身はわかっていない。だから基本的に「常識」という言葉は使わないようにしている。

以上は私の持論である。小林秀雄さんが書いているわけではない。

極端な例(屁理屈ともいう)を挙げてみたが、私も常識というのが「いついかなるときでも誰もが知っている知識」とは思っていない。誰かが「常識」という言葉を使ったとき、そこにはその人の常識の範囲がある。それは私が使ったときも同じである。

小林秀雄さんはエッセイの中で以下のように述べた。

常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。

そんなことは常識だ。

2017/02/23

時間と空間を超える

パソコンに保存されているファイルを整理していると、昔書いたものがみつかった。先日の記事「小田原市は神奈川県にある(前編後編)」は、昔書いたものを再構成したものである。

他にもいくつか見つかった。せっかくなので公開してみる。よくミステリーを読んでいたので、ミステリーに関するものが多い。雑文の感が否めない。

以下に記載するのは、おそらく鮎川哲也さんの短編集『五つの時計』を読んだあとに書いたものと思われる。

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本格推理小説でしばしばみられる「密室」と「アリバイ」は言葉としては2つにわかれているが、考え方としては、同一のものであるといえる。

ミステリー読者にとって非常になじみのあるこれら2つの言葉は説明をしなくともどのようなことかというのはわかっていると思うが、「密室」というのは、ある部屋があり、その中に他殺と思われる死体があるが、その部屋に犯人の出入りした痕跡がない、あるいは出入りできないといった状況を作り出したことであり、一方、「アリバイ」というのは、反抗時刻と思われている時間帯、疑わしい容疑者が他の行動をとっていたという状況を作り出すことである。

時間と空間。この違いが言葉の違いと考えてもよさそうだ。

しかし、時間と空間は切っても切れない関係にある。密室とアリバイのトリックを見ると容易に理解できるだろう。

本物の密室、あるいは完全なアリバイではミステリーとしてあまり成功すると思えない。不可能に見えるが、実は可能である、それを解くのが作者、探偵、読者の楽しみである。

アリバイに「時間の檻」という言葉を使うと、密室には「空間の檻」と付けたくなるが、合わせると「時空の檻」ということになる。

アリバイは時間のことだけで成り立っているわけではない。犯行時刻に他の「場所」にいた、というのも十分条件として挙げられるし、密室の場合も、その「時間」には部屋に入れなかったというのもある。

推理作家はこの「時空の歪み」を上手く創り出そうと日々頭を働かせる。

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ファイルの作成日時を確認すると、2009年2月22日だった。もっと前に書いた記憶があるので、手書きの文章を打ち直したのかもしれない。

時を経たものなので何かひねりを加えたかったが、思いつかなかった。

2017/02/22

ただDADAこねくり回して

RADWINPSに「DADA」という曲がある。ドラムが印象的でテンポがいい。歌詞には言葉遊びが多く、意味を考えると重くなりがちだが、皮肉めいたユーモアが感じられる。MVは言葉が氾濫していて見ていて飽きない。



竹内政明さんの『「編集手帳」の文章術』を読んだ。第1章は「私の『文章十戎』」として、文章を書くとき言い聞かせている10のルールを挙げていた。第1戎は「「ダ」文を用いるなかれ」である。頭のなかで「DADA」が流れた。

「ダ」文というのは、文末を「…だ」とした文のこと。竹内さんは「編集手帳(読売新聞の1面コラム)」では「…だ」を使わず、「…である」と書くという。「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性もある。読者の読む速度をコントロールし、少しでも丁寧に活字を追ってもらう意図もあって「…である」を採用しているようだ。

「DADA」が流れる。テンポがいい。歌詞には「簡単に命を断ち切らないで」というメッセージが込められている。

「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性がある。

「DADA」が流れる。
どうなってんだ どうなってるんだ あんたもう黙っておくんな
どうなろうが なんだって言うんだ そんなこった知ったこっちゃ
ないんだこっちゃ なんだっていいんだ エンヤコラ やんのかこら
ハッケヨイで さぁさぁノコッタ

読書とは格闘技であると誰かが言った。戦う気はない。

ただ駄々をこねて駄文を書いただけだ。

2017/02/21

小田原市は神奈川県にある(後編)


なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。
北村薫さんの「織部の霊」を読んだとき、その理由がわかった。

(前編はこちら

北村薫さんの短編「織部の霊」(『空飛ぶ馬』所収)の話の内容以下のようなものである。

文学部教授の加茂先生は、子どもの頃に、見たことのない人物の夢を何度も見ていた。その人物は、古田織部正重然。焼き物の「織部」の名の由来となっている人物である。その古田織部の切腹のシーンを夢で何度も見ていた。古田織部の肖像画は、加茂先生の叔父の別荘にあったのだが、その肖像画を見る前から夢に出ていた。そして夢を見ていた頃は、古田織部が切腹したという事実も知らない。それなのに古田織部の切腹シーンが夢に出てくる。それがなぜなのか、という話である。

探偵役の落語家、五代目春桜亭円紫がその話を聞いただけで、ひとつの解答を出す。ここから先はネタバレになってしまうので書かないが、ヒントにはなってしまう可能性があるので、未読の方にはご了承いただきたい。

話を戻すと、なぜ小田原市の位置を間違って覚えていたか。

それは地図帳のためである。

小学生のときか中学生のときか忘れてしまったが、社会の授業の副教材として地図帳を持っていた。世界地図と日本地図がさまざまな縮尺で載っていた。当然、小田原も載っていた。

「織部の霊」を読んだとき、地図帳のページが頭に浮かんだ。小田原が、このブログ記事の冒頭の地図ように、ページの右上にあった。下の方に目をやると伊豆半島があり、駿河湾も載っていた。そして気がついた。伊豆半島と房総半島を混同していた、と。

おそらく別のページにも小田原は載っていたのだと思うが、「織部の霊」を読んだときに浮かんだ地図は上記のような地図で、小田原より右の地図はなく、切れていた。伊豆半島を房総半島と、駿河湾を東京湾と勘違いしていたのだろう。きちんと地名を覚えていればこんなことはなかったのだろうが、地図帳で見たイメージだけが残っていたみたいだ。小田原市をはじめ、関東地方や静岡県のことを知らなくとも何の支障もなかったため、確認することもなかった。

自分とあまり関係のないところはしっかりと確認もしていないことを反省しつつも、地図帳のイメージが記憶のどこかに残っていたことに驚いた。

ひょっとすると、覚えようとせずとも、見たこと、聞いたこと、今まで経験してきたことはすべてどこかに記憶されているのかもしれない。ただ思い出せないことが多く、無意識下に留まっているだけなのかもしれない。新幹線でのアルバイトで小田原駅に停まったとき、認識にほころびが生じた。そして「織部の霊」を読んだとき、そのほころびを修正した。そう考えることもできる。

ちなみに「織部の霊」を読んだとき、もうひとつほころびを修正したところがある。

織部は地名でなく人名である、と。

2017/02/20

小田原市は神奈川県にある(前編)


大学生の頃まで、小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいた。アルバイトがきっかけで、あらためて小田原は東京よりも西にあることを知った。

愛媛で生まれ育ち、大学入学をきっかけに大阪で一人暮らしをはじめた。関東に親類縁者はおらず、小田原には行ったことがない。小田原という地名は、鎌倉時代の北条氏の拠点だということで知っていた。しかし場所ははっきりと覚えておらず、小田原は東京の向こう側、太平洋に面したあたりにあるというイメージだった。間違って覚えていても、小田原に縁もゆかりもなかったため、何の支障もなかった。

大学生のときに、新大阪-東京間を往復する間にワゴン販売をするアルバイトをしたことがある。新大阪で新幹線に乗り東京まで行き、東京からまた新幹線で戻ってくる。ひかり号に乗ることが多かった。

小田原駅に停車するひかり号に乗ったとき、「ここが小田原?」と不思議に思った。同じバイト仲間に「小田原はもっと(東京よりも)向こうじゃなかった?」と聞くと、怪訝な顔をされた。

あらためて考え直すと、箱根駅伝で小田原中継所があるくらいは知っていて、小田原が神奈川県にあるという知識はあった。大阪からみれば、神奈川県は東京よりも手前にあることも知っていた。新幹線の路線図を見ても、間違いなく「小田原、新横浜、東京」の順だった(バイトをしていたときはまだ品川には停まっていなかったと思う)。なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。その理由はわからなかった。別に知る必要性もなかった。

しばらくたってから、北村薫さんの『空飛ぶ馬』を読んだ。その中の「織部の霊」を読んだとき、小田原は東京より向こうにあると思い込んでいた理由がわかった。

(続きは後編にて)


2017/02/19

根掘り葉掘りで実を結ぶ

NHK、Eテレで「ねほりんぱほりん」という番組がある。ゲストの話し手はブタの人形、聞き手はモグラの人形で、「根掘り葉掘り」赤裸々な話を聞き出すトーク番組だ。残念ながらTVは見ないので持っておらず見たことはないが、facebookやtwitterで番組の広告や感想の投稿を見かけ、結構人気があるようだ。タイトルの「ねほりんぱほりん」は、「根掘り葉掘り」という慣用句からつけたタイトルだろう。

「根掘り葉掘り(聞く)」とは「徹底的に、事細かに、しつこく(聞く)」という意味で使われる。“「葉掘り」は「根元から枝葉に至る隅々まで」といった意味合いから、「根掘り」に語調を合わせ添加したものである”と「語源由来辞典」に載っていた。「根掘り葉掘り」という言葉に「しつこい」というネガティブな印象があるのは、余計な枝葉の部分まで掘っているからだろう。

一方で「根も葉もない」という慣用句もある。「根も葉もない噂」のように「根拠がない、理由がない」という意味合いで使われている。こちらは「故事ことわざ辞典」を見ると、“根も葉もなければ植物が育つはずないことからや、「根拠」を「根」で表したため語呂合わせで「葉」が加わったともいわれる”とある。語呂合わせの可能性もあるが、植物が育つには「根」と「葉」が必要であることも示している。

以前から「言葉は『葉』である」と思い、そこから連想して「根」は「音」ではないかとも書いたことがあるが、最近「根」は「心根(こころね)」ではないかとも思いはじめた。植物が育つには「根」と「葉」が必要ならば、人間が育つには「心根」と「言葉」が必要ではないかと。根も葉もなしに生きていくのは困難かもしれない。根と葉があれば実を結ぶかもしれない。

「ねほりんぱほりん」の聞き手役がモグラの人形であるのは、掘っていくイメージからだろう。本音、心根を掘っていく。ときには枝葉を掘るかもしれない。そして、人気番組として実を結んだのではないか。

番組を見てもいないので、根も葉もない戯言として。

2017/02/14

義理チョコで本命を仕留める

2月14日、バレンタインデー。

この時期になると思い出すキャッチコピーがある。

「一目で義理とわかるチョコ」

有楽製菓株式会社の看板商品「ブラックサンダー」のキャッチコピーである。


ブラックサンダーは標準小売価格30円(税抜き)。バレンタインデーに買ったり、もらったり、あげたりする類のものではなく、特別感はあまりない。

そこをうまくついたキャッチコピーだと思う。七五調でリズムもいいし、ユーモアもある。


よく知っていてお世話になっているMさんという人がいる。

Mさんのキャッチコピーは「G・N・N」。「義理・人情・浪花節」である。

義理チョコの「義理」という意味ではない。


そのMさんが、先日「仕留める」という言葉をつかった。

相手の話を聞いて、その奥底にある思いを言葉にするという意味で、核心を突くというような意味である。


奥底にある思いや、商品・サービスの本質などは、見えないし聞こえない。触れもしない。

しかし、ある。

それが見えたとき、聞こえたとき、それはひとつの「発見」「創造」だと思う。


「一目で義理とわかるチョコ」というキャッチコピーは、ブラックサンダーの核心を突いている。顧客の心も突いた。

キャッチコピーがしとめた本命の例だ。

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