2017/09/19

謎肉祭はじまる

9月18日、今年も全国各地で謎肉祭がはじまった。スーパーやコンビニの陳列棚に「カップヌードル ビッグ 帰ってきた謎肉祭W」がところ狭しと並べられる。


謎肉祭は今年で2回目。昨年発売した「カップヌードルビッグ "謎肉祭" 肉盛りペッパーしょうゆ」は、「カップヌードルビッグ」の10倍の謎肉を入れた商品で、一時的に販売休止せざるを得ないほどの人気を集めた。今年の「カップヌードル ビッグ 帰ってきた謎肉祭W」では、10倍のボリューム感はそのままに、豚肉ベースの「謎肉」と鶏肉ベースの 「白い謎肉」が同時に楽しめる。

さらに今年は「謎肉」の謎が明かされる。謎を明かすことについては謎肉祭を主催する日清食品の社内では賛否両論があったようで、反対派の犯沢さんは「謎は謎のままそっとしてあげたほうがいいのではないか」と語った。

「カップヌードル ビッグ 帰ってきた謎肉祭 (なぞにくまつり) W」(9月18日発売)
【謎肉祭×コナンの“犯人”】謎肉の正体|日清食品

2017/08/27

切り方を変える

近所にコメダ珈琲があるのでときどき利用する。

だいたい注文するのはアイスコーヒー(もしくは、たっぷりアイスコーヒー)。
そして、小腹が空いているときにはコメチキを頼む。

コメチキ(おそらく「コメダのチキンフライ」の略)にはレモンが添えてある。
僕はレモンを絞ってコメチキにかけて食べる。

あるとき、近所のコメダとは別の店舗に行った。
小腹が空いていたのでアイスコーヒーとともにコメチキを頼んだ。

そのコメチキに添えられていたレモンは、輪切りにされていた。

いつも行く店のレモンはくし型に切ってある。
くし型に切られたレモンの両端を押さえてレモンを絞る。

さて輪切りのレモンをどう絞ろうかと少し考えてしまった。
しかたなく輪切りのレモンを四つ折りにして絞った。
少し絞りにくい。

コメチキに限らず、鶏のから揚げにレモンをかけるかどうかは好みによる。
僕の場合はかける派なので、くし型に切ってあった方が絞りやすく好ましい。

逆に、レモンがくし型切りにされていたら「レモンを絞ってかけて食べてください」とオススメされているとも感じる。
輪切りのレモンが添えられたコメチキは、レモンをかけずに食べることをオススメされていたのかもしれない。

コメダでアイスコーヒーを頼むと、「ガムシロップはどうされますか?」と聞いてくる。「レモンの切り方はどうされますか?」と聞いてもらってもいい。(冗談です。)


切り方を変える、切り口を変える。

同じモノゴトでも切り口が異なると印象が変わる。
その後の行動も変えられるかもしれない。


余談だが、くし型のレモンの絞り方について、皮の方を下にして絞ると風味が増すということをツイッターか何かで知った。僕は普段は果肉を下にして絞っている。
さっそくやってみようと思い、近所のコメダでコメチキを注文したときにやってみた。

果汁が飛び散った。
力加減を間違えたようだ。

2017/08/26

動画での本の紹介

動画で本の紹介をしていこうと思い、やってみた。

渡部昇一さんの『知的生活の方法』を読んで本を読む習慣がついたことは何度か書いたことがあると思うし、いろいろなところで話したりもしているので、話しやすいだろうと思い、第1回目はこの本を選んだ。



2017/08/12

帰省の規制

大阪から名古屋に引越して、少し不便に思うことのひとつが帰省である。実家は愛媛なので、大阪からに比べると、名古屋はさらに遠くなったということもあるが、それとは別に、指定席の予約が面倒になったことが大きい。

帰省には鉄道を使う。実家は愛媛の鬼北町で、宇和島市の隣である。名古屋から新幹線で岡山まで行き在来線に乗り換え、岡山から特急で松山まで、そして松山で特急を乗り換えて宇和島まで行く。

名古屋から宇和島まで、うまく乗り継いでいくと6時間強。ドアtoドアだと約7時間である。飛行機を使うと1時間ほど早くはなるが、料金が2倍ほどになり、飛行機の本数や荷物の制約などを考えると倍の値段を払うメリットが少ない。

なので帰省には陸路を使う。だいたい盆と正月に帰省するので、新幹線や特急の指定席を取りたい。盆と正月以外なら自由席でも座ることができるだろうが、盆・正月は帰省ラッシュの時期であるため自由席は座れないだろう。岡山、松山は特急の始発駅であるため早く並べば座れるが、暑い中(あるいは寒い中)並ぶのは避けたい。また6時間も立って移動することも避けたい。

大阪に住んでいたときも同じように新幹線と特急を乗り継いで帰省していた。インターネットから新幹線と特急の指定席を予約し、帰省の当日に往復乗車券の購入と予約した指定席の特急を受け取っていた。予約には、JRおでかけネットの「e5489」サービスを利用していた。

ところが、「e5489」サービスはJR西日本が提供しているインターネット予約サービスであり、JR東海の管轄である名古屋では切符の受け取りができない。

インターネットではなく、みどりの窓口に行けば予約購入はできるだろうが、そのために出かけるのも億劫だし、何かのついでに考えていると忘れてしまう。もし変更があった場合も窓口に行かなければならない。

JR西日本、JR四国の指定席の予約ができて、JR東海圏内の駅で受け取ることができるサイトをざっと探してみたが見つからない。旅行会社のサイトを探してみた方がよかったかと思うが、まだ探していない。

そんな理由で、名古屋に移ってからは次のように指定席を予約している。岡山から宇和島まではこれまでのようにJRおでかけネットで、そして新幹線はEX予約で予約する。

そして、岡山で予約した特急券を受け取る。

2017/08/09

幻想的な風景



保育園か小学校低学年のころ初めて飛行機に乗った。福岡から松山への飛行機だと思っていたが、大人になってから親に聞くと、名古屋から松山ではないかという。曖昧な記憶である。

飛行機にはあまり乗ったことはない。大学を卒業するまでに飛行機に乗ったのは、冒頭のたった1度きりである。子供のころに飛行機に1度だけ乗ったことがあるという記憶と、そのときに見た景色の記憶だけが残っている。

その景色の記憶も曖昧である。曖昧ではあるが、はっきりともしている。

自分の記憶を信じきることができていないだけだ。

記憶に残っている景色というのは、飛行機の窓から見た景色で、空から地上を見下ろした風景である。

そこで見たのは、日本地図だった。地図で見た日本の地形が地上にあった。「日本地図で描かれている日本と同じ形をしているなあ、すごいなあ」としばらく見入っていた。

しかし大人になってから、2度目飛行機に乗ったとき、記憶があやしくなった。2度目に乗ったのは東京・大阪間の飛行機だったのだが、眼下に見下ろす景色は海と陸は見えるものの、日本全体は見えなかった。子供のころに乗ったときは、日本全体が見えたのに。

よくよく思えば、飛行機が空高く飛んでいても、日本全体が見えることはないと思う。国際便だとありえるかもしれないが、乗ったのは福岡・松山間、もしくは名古屋・松山間で、日本全土が見える高さまで高く上がるとは思えない。東京・大阪間でも日本全体は見えなかった。

おそらくは誤って記憶した風景なのだろうとは思う。飛行機に乗って空から地上を見下ろしたという経験と、上空から日本全体を描いた地図が合わさった記憶なのだと思う。

しかし、子供のときの視野は日本全体が見渡せるほど広かったのだ、という考えも捨てきれてはいない。

飛行機に乗るとき、とくに窓際の席になったときは、必ず窓から外を眺める。

もう1度、日本地図が見えないかと確認する。

夕方発の飛行機。厚い雲の向こうに夕日が沈みゆくのが見えた。そして雲の隙間から地上を見ると夜景が広がっていた。日本全体は見えない。

ただ、空の方が、日本より遥かに広いということを実感した。

2017/07/28

「しぐさ」から漂う意味

「ことば」と「しぐさ」を漢字で書くと、「言葉」「仕草」になり、どちらにも植物に関係する漢字が使われている。言葉は「葉」、仕草は「草」。「しぐさ」を「仕種」と書くこともあるようだが、こちらにも「種」という漢字が使われている。

「言葉」の由来は、「言(こと)の端(は)」で、「端」の代わりに「葉」が使われたということは知られている。しかし、「仕草・仕種」についてはよくわからない。ネットで検索してみると、出典は明らかではないが、「由来メモ│「しぐさ(仕種・仕草)」 の由来」に次のようにあった。
「し」は「する」の変化形で「仕」は当て字、「くさ」は種類のことを意味するために「仕種」と書くようです。
「し」は「する」の変化形で「仕」は当て字であることは想像がついていたが、「くさ」は種類のことを意味するというのは初耳であった。「種」を「くさ」と読むことは稀であると思うが、なくはない。たとえば、名古屋には「千種(ちくさ)」というところがある。

WEB上の辞書で「種(くさ)」を引いてみると、次の意味が載っていた(Weblio辞書より)。
くさ 【種▽】
一 [2] ( 名 )
①(「草」とも書く)何かを生ずる原因・材料。たね。多く「ぐさ」と濁り,複合語として用いる。 「質-」 「語り-」 「お笑い-」
②種類。たぐい。 「唐土・高麗と尽したる舞ども-多かり/源氏 紅葉賀」
二 ( 接尾 )
助数詞。物の種類を数えるのに用いる。 「三-ある中に,梅花ははなやかに今めかしう/源氏 梅枝」

「しぐさ」を漢字で「仕種」と書くのは、「くさ」が種類のことを意味するためである。このときの「くさ(種)」の意味は、上記辞書では②にあたる。しかし、①の意味の方が近いかもしれない。「仕種」は「仕草」とも書くし、「ぐさ」と濁り、複合語として用いられているというところは当てはまる。もちろんどちらか一方が正解ということはなく、意味はつながっている。

また、これは勝手な思いつきだが、「くさ」は「くせ(癖)」につながらないだろうかとも考えた。一応、「くせ」もWEB上の辞書で引いてみたが、「くさ」と「くせ」が関係するような記述は見当たらなかった。「しぐさ」と「くせ」は似たような意味ではないかと思ったのだが。

ただ、「由来メモ│「癖(くせ)」 の由来」に、以下の記述があった。
「くせ」はその発音からも想像できるように「臭い」からきているというのだ。
いわゆるクサミのあるクサからきており、母音交替でクサがクセ となった。
「におい」に二つの漢字が存在しているのは皆さんもご存じであろう。

「匂い」と「臭い」である。

その二つの違いについては、人が好感を持てるものが「匂い」、逆に嫌悪感を抱くものが「臭い」である。
「くせ」についてはもちろん「くさい」というくらいだから後者の嫌悪感のほうで間違いない。
つまり他者からみて好ましくない点が「くせ」ということになる。

クサいしぐさより、草の香りの漂うような「仕草」を心がけたい。

2017/07/18

第15回小布施見にマラソン

先日(7/16)、第15回小布施見にマラソンに参加しました。

走るのは、昨年の小布施見にマラソン以来。。。

しばらく練習をしていないこともあり、膝が痛くなりそうになったら歩こうと決めて臨みました。


もともと、この「小布施見にマラソン」は記録を狙うような大会ではなく、大会名が表すように小布施を見ながら走るマラソンです(以下は「小布施見にマラソン」公式サイトからの引用)。
この大会は、速さを競うだけではなく、時には立ち止まり、小布施を見て、楽しみながら走る見に(ミニ)マラソンです。 「土手を行く 野道を駆ける 路地を走る」というコンセプトでコースをめぐりながら、小布施の町の人とランナーのみなさん、 ボランティアのご縁をつなぐ「縁走=えんそう」を楽しみましょう。
年間に町人口の100倍、120万人をお迎えする小布施町のONの道、おもての道ではなく、土手や野道、路地といった、OFFの道、 ふだん着の小布施に浸りながら走る21.0975キロです。

下はスタート前の写真です。



スマホの電池切れのため、途中の写真はありません。。。


半分以上歩いていますが、無事完走しました(^^)



沿道で応援していただいた方々、目を楽しませてくれた仮装ランナーの皆さま、大会をサポートしていただいた小布施の方々、ありがとうございます。

2017/07/12

バニラ・エアの出来事から考える

6月末、朝日新聞が「車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪」という見出しで、ある出来事を報道した。
鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。
その後、その車いすの男性が事前に連絡をしていなかった、などと、いわゆる「炎上」した。今は下火になっている。

ネット上での記事を読んだだけであるため、実際のところ、どのようなやり取り、経緯があったのかはわからない。ただ、様々なことを考えた。大きくは2つある。1つは表現方法と視点について、もう1つはコミュニケーションについて、である。

表現方法と視点については冒頭の見出しがわかりやすい例であると思う。見出しには「車いす客に自力でタラップ上がらせる」とある。主語は明示されていないが、あとに「バニラ・エア謝罪」と続いているので、「(バニラ・エアが)車いす客に自力でタラップ上がらせる」と読むことができる。しかし新聞記事の内容や他のサイトでの記事などからもわかるように、バニラ・エア側が「自力で上れ」と命令したわけではなさそうである。仕方なく自力でタラップを上ったというところであろう。

「(さ)せる」という助動詞は「使役」を表す。使役する人、される人という構図をイメージする。「車いす客に自力でタラップ上がらせる」という表現は、一見、車いすの男性側に立った表現に思えるが、記事内容等から見ると、バニラ・エアを悪者にしようという表現に見えてしまう。たとえば、「車いす客、自力でタラップ上がる バニラ・エア謝罪」という見出しだったらどうだろうか。

もう1つのコミュニケーションについては、憶測も混じっている。車いすの男性もバニラ・エア側も、もう少し歩み寄ることができたのではないかと思ったことである。車いすの男性(木島さん)が書いた記事(歩けない人は乗せれません! 2回目)を読むと、最初のやり取りから壁を感じたのではないかと思う。
階段の搭乗タラップの写真を見せられ、歩けますか?と聞かれ、歩けませんと返答したら「乗れません」の一言。
バニラ・エア側からこの状況を書いたものは見ていないので一概にはいえないかもしれないが、断る前、禁止する前に、バニラ・エア側から手を差し伸べるような一言、たとえば「どのような手助けが必要ですか」というような言葉がけがあれば、良かったのではないかと思う。

また、木島さん側も事前連絡をしていれば良かったのではないかとも思う。もちろん、事前連絡なしでも搭乗拒否などされないような世界が望ましい。しかし、まだそうなっていないからこそ「障害者差別禁止法」があり、木島さんもそのような差別をなくそうと活動している。事前連絡をしたのに搭乗拒否をされるようなことがあれば、それこそ大問題になるであろう。事前連絡をしなかったことが意図的なのか、非意図的なのかはわからないが、早めに手を打つに越したことはないと思う。

だからといって、双方悪いとは思っていない。終わった後で部外者だから何だかんだ言っているだけである。

私にとって大切だと思うことは、もし自分が当事者だったならばどんな態度でどんな行動をとるか、ということである。もし自分が木島さんの立場だったら、もし自分がバニラ・エアの立場だったら、もし第三者の立場でこの出来事に遭遇したら。

バニラ・エアの出来事は、様々なことを考えた出来事である。

2017/07/07

定跡と常識



藤井聡太さんの最多連勝記録(29連勝)や、その連勝をストップさせた佐々木勇気さん、そして先日引退された加藤一二三さんなど、将棋界が注目されている。

それに触発されたということもあり、最近、羽生善治さんの著書を読み返していた。

「直感」と「読み」と「大局観」。棋士はこの3つを駆使して対局に臨んでいる。そして経験を積むにつれ、「直感」と「大局観」を使う比重が高くなると、羽生さんはいう。

これは将棋だけのことではない。仕事でも遊びでも何でも、「直感」と「読み」と「大局観」を使う。そして最初のうちは「読み」の比率が高く、経験を積むにつれ「直感」「大局観」の比率が高くなっていくだろう。

「読み」というのは、論理計算力ともいえる。将棋でいえば、幾通りの手が読めるか、何手先まで読めるか、ということである。

子供のころ、家の近所の地図を作ったことがある。この道を行けばどこにつながっているのか、どこに何があるのか、実際に歩いて確認して作った。歩いて行ける距離なので大した地図ではないが、市販の地図には載っていないような細い道やあぜ道まで描いた記憶がある。こういった試行錯誤が「読み」にあたると思う。

「大局観」は地図のようなものである。俯瞰力ともいう。「鳥の目・虫の目」というとき、「鳥の目」が俯瞰力・大局観にあたり、「虫の目」は「読み」に近い。高く飛べば飛ぶほど地図の範囲は広がる。遠くまで見える。視座を高くすれば視野が広がる。目的地への道筋をつけることができる。

この例でいうと、「直感」は地図と現実のギャップといえるかもしれない。

最近は精度が上がってきているのであまり聞かないが、以前はナビ通りに車で走っていると行き止まりだったというような話を聞くことがあった。途中で何かおかしいなと気づくこともあっただろう。ちょっとした違和感が「直感」の種ではないだろうか。

先の例はあまりよくない方の違和感であるが、良い方の違和感もあるだろう。地図に載っていない道を見つけて、こっちの方にいけば近道できるのではないかというような違和感である。

先人はいる。だから地図は作られていることが多いし、作ることができる。しかし、実際歩いたとき、あるいは走ったとき地図とは違うことが起こるかもしれない。異なる道を見つけるかもしれない。

引退された加藤一二三さんは大山康晴さんに「天才」と呼ばれたという。その加藤さんは羽生さんを天才という。加藤さんも羽生さんも中学生でプロ棋士となった。そして天才と呼ばれる中学生プロ棋士の藤井さん。将棋の戦法や定跡は上書きされる。将棋界の地図も上書きされている。

私の地図はどうだろうか。

地図を持とう。そして、実際に歩いていこう。

2017/06/13

ちくま文庫のシェイクスピア全集

前回のブログでは、シェイクスピアの『ハムレット』を取り上げた。手元にあるのは、松岡和子訳の『ハムレット』(ちくま文庫)である。文庫書き下ろしで、奥付を見ると初版は1996年1月24日であった。

大学は文学部で、一応、英米文学科であった。一応、とつけたのは、英語には興味があったが文学には興味がなかったからである。それでも一応英米文学科であるため、イギリス文学・アメリカ文学の授業の単位はとらなければならない。大学入学まで教科書以外の本をほとんど読んだことがなかったため、大学に入ってから本を読みはじめた。

大学に入学したのは1995年4月である。1年生のときの授業は一般教養が中心であったため、英米文学の授業はほとんどなかった。2年生から専門課程の授業がはじまるので、英米文学の文学作品も少しずつでも読んでいこうと思っていたときに、松岡和子さんの新訳で『ハムレット』が出版されていたのを見つけた。

ちくま文庫の『ハムレット』は「シェイクスピア全集」の1冊目であった。1996年1月に『ハムレット』、それから2ヶ月おきくらいで松岡和子さんの新訳でシェイクスピア作品が刊行されてきた。刊行ペースは遅くなっているが、ちくま文庫「シェイクスピア全集」は現在も刊行されている。シェイクスピアの全作品を一人の訳者が訳すのは、松岡さんが3人目だとどこかで読んだ記憶がある。松岡さんは現在挑戦中である。

だから、というわけでもないが、本屋さんに行ったときに必ずといっていいほど、新刊文庫の棚とちくま文庫の棚をチェックする。シェイクスピア全集が出ていないかどうかの確認である。出版されていたら買うことに決めている。Wikipedeia「松岡和子」の項の「シェイクスピア全集」を見ると、28まで出ていた。筑摩書房のホームページ等で確認したわけではないので間違っているかもしれないが、現時点(2017/06/13)で私の手元にも28まである(以下はWikipediaのコピぺ。2017/04/12更新版)。
  1. ハムレット(1996年)
  2. ロミオとジュリエット(1996年)
  3. マクベス(1996年)
  4. 夏の夜の夢・間違いの喜劇(1997年)
  5. リア王(1997年)
  6. 十二夜(1998年) 
  7. リチャード三世(1999年)
  8. テンペスト(2000年)
  9. ウィンザーの陽気な女房たち(2001年)
  10. ヴェニスの商人(2002年)
  11. ペリクリーズ(2003年)
  12. タイタス・アンドロニカス(2004年)
  13. オセロー(2006年)
  14. コリオレイナス(2007年)
  15. お気に召すまま(2007年)
  16. 恋の骨折り損(2008年)
  17. から騒ぎ(2008年)
  18. 冬物語(2009年)
  19. ヘンリー六世 全三部(2009年)
  20. じゃじゃ馬馴らし(2010年)
  21. アントニーとクレオパトラ(2011年8月)
  22. シンベリン(2012年4月)
  23. トロイラスとクレシダ(2012年8月)
  24. ヘンリー四世 第一部、第二部(2013年4月)
  25. ジュリアス・シーザー(2014年7月)
  26. リチャード二世(2015年3月) 
  27. ヴェローナの二紳士(2015年8月)
  28. 尺には尺を(2016年)
これらのすべてを読んでいるわけではない。ただ全集の途中が抜けてしまうと、どうも気になってしまう。だから読まないかもしれないけれど買っている。

「シェイクスピア全集」を買いはじめたきっかけは、シェイクスピアが有名だったからである。英米文学の文学作品として知っていたのがシェイクスピアだったというような軽い気持ちである。全集の最初の方は、有名どころであるため、ある程度読んでいる。英米文学を本格的に勉強していたわけではないので、途中で買うのをやめるタイミングはあったと思う。しかし、大学を卒業しても、そして今でも、刊行されるごとに買っている。少しずつは読んでいる。

これは単なる私の収集癖もあるだろう。シェイクスピア作品の魅力なのかもしれない。

しかし私は、松岡和子さんの翻訳の魅力、そして全作品の新訳への応援だと思っていたい。

2017/06/12

ホレイショーの人物像

シェイクスピアの有名な悲劇『ハムレット』に、王子ハムレットの親友としてホレイショーという人物が登場する。

このホレイショーの人物像について気になっている。『ハムレット』の話の筋には影響しないことではあるが。

一番気になっている点は、ホレイショーはいくつくらいの年齢なのか、ということである。原文ではなく日本語訳で読んでいるので解釈が異なるかもしれないということはご容赦いただきたい。以下の引用は、ちくま文庫の松岡和子訳から引用している。

まずはハムレットの年齢についてだが、第5幕第1場のいわゆる「墓掘りの場」において、ハムレットと墓掘りの以下のやり取りがある。
ハムレット (中略)――墓掘りになって何年になる?
墓掘り ほかでもねえ、この稼業を始めたのは先代の王ハムレット様がフォーティンブラス王をやっつけなすったその日からで。
ハムレット とすると何年になる?
墓掘り ご存じねえんで? どんな馬鹿でも知ってまさあ。王子のハムレット様がお生まれになった日だ――ほれ、気が狂ってイギリスに送られなすった。
しばらく後、墓掘りは、30年墓掘りをやってきたことを言う。
墓掘り (中略)あっしはここでガキの時分から三十年墓掘りやってんだ。
おそらくは「約30年」ということだろうが、このやり取りから、ハムレットは30歳前後であると思われる。ハムレットが生まれた日は、先王ハムレットがノルウェイ王フォーティンブラスを破った日であり、そこから30年墓掘りをやってきたからである。

上記のやり取りの後、墓掘りは「こいつは二十三年前に埋めたやつの頭だ」と言い、道化ヨリックの頭蓋骨を取り出す。ハムレットはヨリックに「しょっちゅうおぶってもらった」ことを覚えていた。ハムレットが30歳前後であれば、ヨリックが墓に入ったのはハムレットが7歳前後ということになる。ハムレットの物心がついたのがいつごろなのかはわからないが、4、5歳のときにヨリックにおぶってもらっていたとすれば、現在30歳前後であるとしても辻褄があう。

ホレイショーはハムレットの親友であるので同年代、つまり30歳前後としてもいいのだが、同年代とするには気になる点がある。それは、ホレイショーが先王ハムレットの亡霊を見たときのセリフである。

第1幕第1場。先王の亡霊が出ると言うマーセラスに頼まれ、ホレイショーはマーセラスたちとともに夜の見張りをしていたところ、本当に亡霊が出てくる。ホレイショーはその先王ハムレットの亡霊に話しかける。
ホレイショー 何ものだ、こんな真夜中我がもの顔で、
しかも、その見事な甲冑は
亡き国王が出陣のときお召しになったものではないか?
天に賭けて命じる、答えろ。
亡霊が消えた後、マーセラスに「国王そっくりだろう?」と問われ、ホレイショーは答える。
ホレイショー 生き写しだ。
あの甲冑は
野望に駆られたノルウェイ王と闘われたときのもの。
あの険しい顔つきは、怒号飛び交う談判で
橇に乗ったポーランド兵を打ちのめされたときそのままだ。
不思議だ。
ホレイショーが先王ハムレットとノルウェイ王フォーティンブラスの闘いを見ていたとすれば、その闘いの日にハムレットが生まれているので、ホレイショーはハムレットよりも年上ということになる。しかも戦場で見たということであれば、ホレイショーの幼少期ということはないであろう。仮にホレイショーが15歳のときに闘いを見たとすると、ホレイショーはハムレットより15歳年上、つまり45歳前後ということになる。20歳のときに見たとすれば、50歳前後。ハムレットと同年代とするには、年が離れている。

年齢の他にも、ホレイショーの人物像については気になる点がある。

ホレイショーは先王の亡霊を見たことをハムレットに報告に行く。そこで以下の会話がある。
ハムレット (中略)父上は――父上の姿が見えるようだ――
ホレイショー 殿下、どこに?
ハムレット 心の目にだ、ホレイショー。
ホレイショー 一度お目にかかったことがあります。立派な国王でした。
文字通りに読むと、ホレイショーは「一度」国王を見たことがある。もしそれが、フォーティンブラスとの闘いのときであれば、30年前に一度見ただけである。

また、第1幕第4場で、夜中、ハムレットとともに見張りに立っているとき、ファンファーレや大砲の音が聞こえる。その場面の会話。
ホレイショー (中略)殿下、あれは一体?
ハムレット 国王が徹夜で祝宴を張り
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。
王が葡萄酒を飲み干すごとに
ああやって太鼓やラッパではやし立て、
見事な飲みっぷりを讃えるわけだ。
ホレイショー そういうしきたりですか?
ハムレット ああ、そうだ。
だが、この国に生まれ
ここの習慣が染み込んでいる俺でさえ、あんなしきたりは
守るより破るほうが名誉だと思う。
ホレイショーはまるで、この国(デンマーク)のしきたりを知らないような口ぶりである。

ハムレットはドイツのウィッテンバーグの大学に留学(遊学)しており、父親である先王の死のためデンマークに戻ってきた設定である。ホレイショーもウィッテンバーグを離れデンマークのエルノシアに来ている。亡霊の報告にハムレットに会った場面でそれがわかる。
ハムレット (中略)それにしても、ホレイショー、なんでウィッテンバーグからここへ?
ハムレットは、ホレイショーがデンマークにいることを知らなかったようだ。

ホレイショーのセリフの中には「わが国」や「わが王」などの言葉があり、それぞれ「デンマーク」「先王ハムレット」を指しているので、ホレイショーはデンマーク人ではあろう。

以上のことを踏まえると、ホレイショーについて次のようなことが想像できる。年齢はハムレットより年上で、45~50歳くらいの初老。若い頃に先王ハムレットとフォーティンブラスの闘いを見たことがある。その後ウィッテンバーグの大学へ行き、学問を長年学んでいた学者である。学んでいたのは自然哲学か神学であろう。そのウィッテンバーグに王子ハムレットが留学してきて、そこで知り合い、親友となった。そんなときにハムレットの父親である先王が亡くなり、ハムレットは急ぎデンマークに帰る。ハムレットを追うためか、新しい国王を見たいためかはわからないが、ホレイショーはデンマークに戻ってきた。

だからどうしたと言われればそれまでだが、こんな想像を楽しんでいる。

ホレイショー(Horatio)には、「語り部」とか「祈る人」とかいう意味があるとも言われている。『ハムレット』では主要な人物はほとんど死んでしまうのだが、ホレイショーは物語の間近にいながら、生きている人物である。亡くなる直前、ハムレットはホレイショーに「生きてくれ。俺のこと、そして、俺の立場を正しく伝えてくれ。/事情を知らない者も納得するように。」と、ハムレットの物語を語り伝えてほしい旨依頼される。語り部の役割としてシェイクスピアが創造した人物であると言われている。

だからこそ、もっとしっくりとした解釈があってもよさそうなのだが、まだ見出だせていない。

2017/05/26

ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』【未読】

最近購入したがまだ読んでいない本について書こうと思った。今までも何度か書いたことがある。まだ読んでいない本について書こうと思ったのは、読みたい(あるいは、買いたい)と思った理由を記しておくことで、自分自身がどんなことに興味を持っているのか(持っていたのか)を思い出せるようにしたいためである。

読みたいと思った衝動(といえば大げさかもしれないが)は、本を買うときが最大であることが多い。買った後から実際に読みはじめる前まで、少しずつ衝動が減っていくように思う。また、読みはじめると当初の目的を忘れて読んでしまうことがある。買ったときの理由や考えを書くことで、読みはじめる前の自分の問題意識・課題意識を明確にしておくことができるかもしれないという試みである。読後に期待値とのズレを確認することができるかもしれないという思いもある。買ってしまったあとで、ときどき読まないまま積読となってしまうものもあるので、その牽制でもある。

ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』(ちくま学芸文庫)

絵画や芸術は詳しくない。知識も感性も乏しいと思っている。しかし、カンディンスキーの名前は知っていて、コンポジション・シリーズを描いたロシアの抽象画家であることは知っている。コンポジションⅥかⅦかタイトルを覚えていないが、どこかで見かけた(もちろん本物ではなく写真)ときにいいなと思って、携帯電話の待受画面にしていたときがある。

カンディンスキーは、直線や曲線、三角形や円などの幾何学的な図を組み合わせて抽象画を描いている。知っていて何となくイメージが浮かぶのはコンポジション・シリーズだけである。その他にどのような絵を描いているのかは知らないが、コンポジション(composition)は「構成、構図」という意味なので、点と線を使った構成美を目指していたのではないかと思っている。

本のタイトルは『点と線から面へ』である。数学的には、点は大きさのない点、線は太さのない線である。現実には存在しない。数学関係の本(講談社ブルーバックスの何かの本だったと思う)で、線のイメージとして、紙をカッターナイフで切った切り口を線と思えばイメージしやすいのではないかと書いていたことを思い出した。

カンディンスキーは抽象画のはしりの画家だったと思う。数学も抽象的なことを扱っている。カンディンスキーがどのような考えで抽象画を書いていたのか、抽象的な思考はどのようなものか。抽象的な思考について、芸術面からはどのように見えるのか。理解できるかどうかはわからないが、抽象思考についての切り口となるようなものを求めて読んでみたいと思った。本のカバーデザインもシンプルでいい。

気になってWEBで調べてみると、携帯の待受にしていたのは「コンポジションⅧ」(1923年)であった。

2017/05/25

ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』【未読】

ウンベルト・エーコ『バウドリーノ(上・下)』(岩波文庫)

まだ読んでいない。

ウンベルト・エーコは好きな作家のひとりである。単行本を買うまではいかないが、文庫本が出るとつい買ってしまう。単行本も文庫本もこれからどのような本が出るのかということは積極的にチェックはしておらず、本屋で見かけた場合という条件がつく。

名古屋駅に用事があったので出かけた。用事が終わり、帰るには少し時間があったので4月にオープンしたタカシマヤゲートタワーモールの三省堂書店名古屋本店に行ってきた。

大きな本屋であるかどうかの判断基準として、売り場面積や書籍数という基準もあるが、岩波文庫・岩波新書の冊数がどれだけあるのかというのも参考になると思う。岩波書店は買取制で本屋に卸しているため、岩波書店の本を多く取り扱っている本屋は買い取り資金があるということであるし、そのために売り場を設けるということは広さも十分あるということになる。文庫や新書は出版社別に並べられることが多い。

そのため、本屋では岩波文庫・岩波新書の棚をチェックする。小さな本屋では岩波文庫を置いていないところも多い。三省堂書店でも同様に岩波文庫の棚に向かった。

『パウドリーノ』は岩波文庫の棚で目立っていた。岩波文庫にしては珍しいカバーデザインだったからである。もともとエーコの小説は好きであるし、岩波文庫の本は次に出会う確率も少ないので「買い」である。


家に帰って本を取り出すと、カバーが少しズレていた。直そうとしたところ、カバーが二重になっていたことに気づき、一枚めくってみるといつもの岩波文庫のカバーが出てきた。



目立っていたカバーは、文庫本大の帯なのかもしれない。しかし、どちらのカバーにもカバーデザインをされた方の名前が入っていて、図版は異っていたので、少なくとも岩波書店としてはカバー扱いであろう。

内容は読んではいないが、『バウドリーノ』は、カバーの文言から『中世騎士物語』を題材にしているようである。『中世騎士物語』はブルフィンチが書いたものを読んだことがあり、アーサー王物語や聖杯伝説などが思い起こされる。エーコの『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』などは他に参照する本が手元になかった。しかし、今回の『バウドリーノ』は、手元にブルフィンチの『中世騎士物語』があるため読み比べていくことになるかもしれない。

2017/05/15

いまどこにいるのか

引き続き石田英敬さんの『現代思想の教科書』より。

石田さんは、今日における知と世界の関係について、「四つのポスト状況」という認識をしている。四つのポスト状況とは次の四つである。
  1. ポスト・グーテンベルク状況
  2. ポスト・モダン状況
  3. ポスト・ナショナル状況
  4. ポスト・ヒューマン状況
以下、なるべく自分の言葉で記述する。

「ポスト(post)」とは「○○以後、○○以降」という意味で、「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、「グーテンベルク以後の状況」という意味である。

グーテンベルクといえば、活版印刷である。活版印刷はルネサンスにおける三大発明のひとつとされている(残り二つは、羅針盤と火薬)。活版印刷技術の発明発展は、書籍や新聞をはじめとする活字メディアを発展させた。本は知識の代名詞ともなり、知識の伝達流通が文化文明の発達に寄与し、生活も変化させた。「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、活字メディアの文明圏が一区切りついて、次の段階へ入っているということである。大きな流れとしては、通信技術・情報技術の向上。書籍や新聞だけでなく、電話・ラジオ・テレビ・インターネットなど、様々なメディアが増えてきた。生活スタイルも変化し、社会も変化する。

「ポスト・モダン状況」は「近代(モダン)」が一区切りついた状況である。「啓蒙の時代」「理性による世界の進歩」など、近代的な価値観、世界観が少しずつ崩れはじめた状況である。「先進国」と「発展途上国」という言葉が示す価値観文明観、あるいは西洋至上主義など、絶対的な価値観が相対化され、多様化の時代に入ってきた。

「ポスト・ナショナル状況」は、単純に言えばグローバル化である。国民国家の枠組みを基礎としていたシステムは近代を特徴づけていたが、その枠組みの外、地球規模・宇宙規模の問題を解決する必要性も出てきた。国民国家を再考する時代である。

そして「ポスト・ヒューマン状況」は、元来人間が行なってきた活動が機械や情報によって担われている状況を指している。最近では人工知能(AI)がキーワードとして挙げられる。コンピューターの発達により、記憶の外部化が進んでいる。知能の外部化が進むことで私たちにどのような変化が訪れるのか。

以上の四つのポスト状況は四つに分けられるという意味ではなく互いに絡み合った状況であることを示している。『現代思想の教科書』は、主に20世紀の思想を追うことで現在の状況を理解し、これからの時代を見、これからどのように生きていくかを考えることを目的としている。

歴史は、終わった後で区切りをつけられ、名付けられる。近代(モダン)は区切られたが、現代はまだ「ポスト状況」であり、特徴づけられていない。過渡期である。「いま」というのはいつでも過渡期であるかもしれないが、変化の激しい時代であるということは間違いなさそうである。

流されるもよし、逆行するもよし。ただ、自分がどこにいるのかは認識しておきたい。

2017/05/14

現代思想とのきっかけ

石田英敬さんの『現代思想の教科書』を読んだ。現代思想とは何か、いま世の中でどのようなことが考えられているのかを知りたいと思ったからである。

まずどのようなことが現代思想なのかを知らない。思想というのも何となく哲学的なものというイメージしかない。おそらくは聞きかじったことがあることが多いのだろうが、このあたりで現代思想について少し整理したいというのがきっかけである。

『現代思想の教科書』には「世界を考える知の地平15章」という副題がついている。サブタイトルどおり15章で構成されていて、章題は以下である。
  1. 「現代思想とは何か」
  2. 「言語の世紀」の問い
  3. 記号とイメージの時代
  4. 無意識の問い
  5. 文化の意味
  6. 欲望とは何か
  7. 権力と身体
  8. 社会とは何か
  9. 情報とメディアの思想
  10. 文化産業と想像力
  11. 戦争について
  12. 宗教について
  13. ナショナリズムと国家
  14. 差異と同一性の共生原理
  15. 総括と展望
印象に残ったことは、ソシュールからはじまっていたことである。

大学生のとき、言語学という分野があることを知った。別に授業で習ったというわけではなく、大学生協の本屋で言語学に出会った。フランソワーズ・ガデという人の『ソシュール言語学入門』という本である。ソシュールというのが誰なのかも、言語学というのがどのような学問なのかも知らなかったが、紫がかったピンク色の表紙で平積みされ目立っていた。大学1年生のときである。

英語学、国語学という分野があることは知っていた。英語学を専攻しようと思ってはいたが、専門課程の授業は2年生からであったため英語学が何であるのかも知らず、言語学という名前を知ったのは『ソシュール言語学入門』が最初だと思う。「入門」と付いていたので、読んでみようという気になり買った。

『ソシュール言語学入門』は、ソシュールが書いた(正確には、ソシュールの講義を受けた人の講義ノートをまとめた)『一般言語学講義』という本の解説であった。大学の授業で使われる本以外で専門書(?)を買って読んだのは初めてである。通読しても、あまりよくわからなかった。ただ、そこから言語学に関する本を独自に読みはじめるいいきっかけになった。

大学で何を専攻していたかと問われれば「言語学」と答えている。3年生か4年生のときに言語学科ができ、そこでの講義やゼミに参加していたが、所属としては文学部英米文学科の英語学専攻である。偶然ではあるが、言語学の勉強を先取りしていた。

『現代思想の教科書』はソシュールからはじまっていた。私と同じではないかと現代思想に親近感を持った。

2017/05/06

Reverse EVIL to LIVE

数年前、わもん日めくりカレンダーのフレーズを英訳してみようという活動があった。わもんが世界へ広がる事前準備のため、また、異なる言語で表現することで、わもんの言葉のさらなる理解を深めるため、まずは、わもん日めくりカレンダーの短いフレーズの日本語を英語へ翻訳してみようという動きである。

そのなかで、気に入っているフレーズが、タイトルにある「Reverse EVIL to LIVE」である。日めくりカレンダーに採用されているわけではない。自分が作って自分が気に入っているだけである。直訳すると「災いを生にひっくり返せ」という意味である。

「evil」を逆から読むと「live」となることから作った。「evil」と「live」の綴りが逆であるというのは、柳瀬尚紀さんの『日本語は天才である』に書かれていたエピソードで知った。柳瀬さんが、日本語は天才であると考えたきっかけのひとつとして次のようなことが紹介されていた。

『不思議の国のアリス』でおなじみの、ルイス・キャロルが作った妖精物語を翻訳しようとしていたときのことである。姉の妖精シルヴィーは、弟ブルーノに言葉を教えていた。シルヴィーが「evil」と書いて何と読むかブルーノに質問した。ブルーノはわからなかったがしばらく考え、逆から読んで「live」と答えた。

このような物語をどう翻訳するか。簡単なのは、英語の綴りを書いて説明書きを入れることであるが、言葉遊びを説明するのは芸がない。柳瀬さんは考え、漢字を使って「咎―各人」と訳した。そして独創だと思っていたが、漢字の成り立ちを調べると「咎」は「各+人」であったので「日本語は天才である」と思ったらしい。

このエピソードから「evil」と「live」の関係を知ったのだが、タイトルの「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズを作ったのは、日めくりカレンダーの9日のフレーズ「心の砂出し」からである。「不平不満は心の砂。スッキリと砂を出したら、本当の自分が光り出します。」という短い説明文がついている。「心の砂出し」と「Reverse EVIL to LIVE」は、一見結びつかない。ここには、私のなかで、もうひとつ中継地点がある。

それは、「吐けば叶う」というフレーズである。漢字「吐(く)」から「-(マイナス)」を取ると「叶(う)」になる。「-(マイナス)」は「砂出し」である。

「心の砂出し」の英訳を考えているとき、「心の砂出し」の説明文から「吐けば叶う」を連想した。それは漢字の言葉遊びであり、柳瀬さんのエピソードを思い出し、「Reverse EVIL to LIVE」とした次第。

「逆から読む」という英語を知らないが、「ひっくり返す、逆さにする」という意味で「reverse」がいいかと思った。「reverse」は「re-(後ろ)」+「-verse(詩、韻文)」であるため、言葉遊び的な雰囲気が出るだろう。「evil」「live」のv音と、「reverse」のv音がつながっているのもいい。

言葉遊びの要素がたくさん詰まっているので、「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズは気に入っている。そして日本語訳は「吐けば叶う」だと思ってる。

2017/05/04

トゥモロウ・スピーチ

松岡和子さんの『深読みシェイクスピア』で、「トゥモロウ・スピーチ(Tomorrow Speech)」という言葉を知った。シェイクスピア『マクベス』第五幕第五場でのマクベスの独白部分のことである。このトゥモロウ・スピーチについて、松岡さんは「音と意味とイメージのつながりがパーフェクト!」であるという。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生はたかが歩く影、哀れな訳者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない。
――松岡和子訳『マクベス』
音と意味とイメージがどのようにつながっているかということは『深読みシェイクスピア』を読んでいただくこととして、私はこの部分を読んで、ソクラテスの「洞窟の比喩」を思い出した。

洞窟の比喩は、プラトンの『国家』のなかでソクラテスが言ったこととして記述されている。『国家』を読んだことはないが、洞窟の比喩については言及を見ることがある。Wikipediaにも「洞窟の比喩」という項目があった。

私が洞窟の比喩で思い出した本は、小林秀雄さんの『考えるヒント』である。確認のため、『考えるヒント』に収められている「プラトンの「国家」」をあらためて読むと、文脈は異なるが、私の勝手な関連づけがはじまった。

「プラトンの「国家」」のなかで、小林さんは以下のように書いている。
もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。
マクベスは夫人と共謀し、国王ダンカンを暗殺し王位を得る。そしてその地位を守るため罪を重ねていく。冒頭の「トゥモロウ・スピーチ」は、夫人が亡くなったという知らせを受けた直後の独白である。そしてその後、バーナムの森が動き戦いがはじまり、その戦いでマクベスは殺される。

もしかするとマクベスは、束の間の灯火であったかもしれないが、洞窟の比喩での光源を見たのではないか。そして、洞窟の比喩を語り終えると自分の死を予言したのではないか。そんな勝手な想像が生まれた。

『マクベス』はまだ読み返していない。明日にしよう。

2017/05/03

自分史からはじめてみよう

ここ最近、何かを書きたいという思いが強くなっている。しかし、その「何か」がわからない。

思いが強くなったきっかけはわかっている。渡部昇一さんが亡くなったためである。数日前にこのブログでも取り上げた。渡部昇一さんの『知的生活の方法』に影響を受けて本を読みはじめたという内容である。

渡部昇一さんが亡くなったが、不思議と寂しいとか悲しいとかの気持ちにならなかった。本が手元に残っていたからである。全ての著作を読んでいるわけではないし、そもそもの専門分野である英語学に関する著書や論文はほとんど読んでいないので一面的な理解にすぎないが、渡部昇一さんの考え方、あるいは思想が、本というかたちで残っている。実際に会ったことがないことも関係しているだろう。お会いして親しくしていれば悲しんだかもしれない。

本が残っていたことで、自分も本を書いてみたいという思いが強くなった。

残したいことは、自分の考え方、あるいは思想、となるだろうが、ごく平凡に深く考えることもなく生きているので、書き残したいということが思いつかない。

それでも自分の人生を生きてきたのは自分だけであるため、自分以外の人とは異なる人生を送ってきたのは確かであるし、何かしら大切なことも学び、経験しているかとも思っている。

だからまずは、自分史からはじめてみようと思う。このブログに掲載することはないと思う。

2017/04/30

気楽に考える

1日1回はブログの投稿をしようと思っている。しかし、ネタがないときがある。

何でもいいので書こうとしているが、どこかに書いてあるようなことを書くのは気が引ける。何かで読んだ話、どこかで聞いた話は、ここに書かれていなくても読めるし聞ける。少なくとも何か新しいこと、特に自分の意見などを付けくわえた上で何かを書いていきたい。

ならば、今日の自分の経験したことを書けばいいのではないか。自分の体験、経験は他の人に書けないことである。

そう考えると、自分の生活がありふれたように感じてしまう。他の人が経験していないことを今日自分は経験したのか、何か新しいことをやってみたのかと。

こんなことを書いていると、こんなこともどこかで書かれているかもしれないと思う。しかし、同じようなことが書かれているかどうか確認することはしていない。全く同じ文章で書かれていることはないだろうと高をくくっている感じがする。

まあ、気楽に考えよう。

2017/04/29

証明するには余白が狭すぎる

生没年など詳細は不明だが、エジプトのアレクサンドリアのディオファントスという人が『算術』という書物を編纂した。西暦250年ごろではないかといわれている。

『算術』は、時代を越え、国を越える。全13巻あったという『算術』は、暗黒時代を生き延び、15世紀にヨーロッパへ渡る。全13巻のうち7巻は失われてしまい、6巻しか残っていない。

さらに時代を越え17世紀。1621年、フランスのバシェが『算術』のラテン語版を出版する。そして、アマチュア数学者フェルマーの愛読書となった。

『算術』には、今でいう「ピタゴラスの定理」についても掲載されていた。フェルマーは、その余白に書き込みをする。
ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である。
有名な「フェルマーの最終定理」についての記述である。

さらに書き加える。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

さらに時代を越え、国を越える。そして1994年、「フェルマーの最終定理」はワイルズによって証明された。

ピタゴラスの定理から別の定理を考えたフェルマーや、その定理を証明したワイルズはすごいと思う。また、ピタゴラスやディオファントスもすごい。生き延びた『算術』もすごい。フェルマーが提出してワイルズが証明するまで、約360年。そしてその間にも数々の人々が挑戦しているし、楕円曲線などの数学の別方面での研究も発達している。数々の積み重ねによってなされた物語である。

この物語において、私が思うファインプレイ賞は、フェルマーの長男クレマン・サミュエル・フェルマーである。父の死後、『算術』の書き込みや走り書きをまとめ、『P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』を出版した。いくつもの証明されていない定理(定義上、証明されていないものは「定理」とはいえない)が残っていた。それらは後に、次々と証明されていったが、最後まで証明できず残っていたのが「フェルマーの最終定理」である。最後まで証明できていなかったので「最終」とつけられている(ちなみに証明される前は「定理」ではなく、「フェルマーの最終予想」である)。

もし、父フェルマーの書き込みがある『算術』を捨ててしまったら、捨てないまでも思い出の品として飾ってあるだけだったなら、「フェルマーの最終定理」という名前はなかっただろうし、その定理の発見も遅くなっていたかもしれない。数学者でなくとも、数学に貢献できるという格好の例である。

歴史の表舞台に出ていなくとも、いい仕事をしている人はたくさんいる。証明するには余白が狭すぎる。

2017/04/28

読書の方法から聞き方を考える(2)

読むことと聞くことの相違点についても確認しておく。思いついたままに書いているので脈略がない。

まず媒体が異なる。読むときは文字を読み、聞くときは音声を聞く。音声と文字は1対1に対応しているわけではない。同じ発音でも違う言葉はあるし、同じ語を違った言い方で声に出すこともできる。

慣れのためかもしれないが、読むよりも聞く方が時間がかかる。読むときには、次の語が目に入ることが多いので、速く読もうと思えば速く読める。速読という技術もある。聞く方にも速聴があるではないかという人もいるかもしれないが、速聴は、機械で音声を速くする、あるいは、速くした音声が記録されたものを聞くことであり、自分のペースで聞くことではない。読むことは自分のペースで読むことができるが、聞くことは自分のペースでは聞くことができない。

「話す」「聞く」「読む」「書く」の4つについて、時間のかかる順に並べると、「書く>話す>聞く>読む」ではないかと思う。もっとも、書いているときにリアルタイムで読むでいると順序は異なってくる。

文字を読むのと音声を聞くのとでもっとも大きな違いは、再現性であるともいえる。音声を聞くときは一期一会である。まったく同じ音調、音圧で同じ音声を聞くことはできない。文字ならばもう一度同じものが読める。音声でも録音されていれば聞き返すことはできる。

文字や文章は、いわば完成されたものを読むことが多い。リアルタイムで書いているところを読んでいくことは少ない。音声は逆にリアルタイムで聞くことが多く、完成されたものを聞くことは少ない。

話を聞くときは、表情その他、非言語的な要素が役に立つ。電話では表情や姿は見えないが、音調や音圧も非言語要素である。話を聞くときには耳以外の感覚が役に立つ。しかし、文字の場合には書いている人の表情などを見ることは少ない。

文字や文章で非言語的な要素は何かを考えると、フォントや文体を思いつく。また、本であれば、著者の略歴やタイトル、目次なども、非言語的な要素ではないかもしれないが、内容を推測するのに役に立つ。

2017/04/27

読書の方法から聞き方を考える(1)

本を読むことと、話を聞くことには共通点がある。

ひとつは、どちらも情報のインプットとしての行為であることである。本を読むことも、話を聞くことも、何らかの知識や情報を得るための行為である。話すこと書くことがアウトプットとしての行為とすると、聞くこと読むことはインプットの行為であるといえる。

本を読む目的として、何らかの知識や情報を得ることが挙げられる。それは話を聞く目的にもなる。必要な情報や知識を得るためにだれかの話を聞くことがある。また、物語を楽しむために本を読むことがあり、話を聞くことがある。

理解を深めるための読書技術を述べた本に、M. J. アドラーとC. V. ドーレンが書いた『本を読む本』という本がある。そこには読書の段階として「初級読書」「点検読書」「分析読書」「シントピカル読書」という4つのレベルが紹介されている。

初級読書は、読み書きのできない子供が初歩の読み書きの技術を習得するための読書であり、ここでの問いは「その文は何を述べているか」である。点検読書とは系統立てて拾い読みをする技術で、「この本は何について書いたものであるか」を知る。分析読書は、いわゆる精読で、本をよくかんで消化すること、理解を深めることである。シントピカル読書は一つの主題について何冊もの本を相互に関連づけて読むことである。

これらの読書のレベルを「聞く」に応用できないだろうか。そのためには、読むことと聞くことの相違点についても確認しておかなければならない。

2017/04/26

なぜ読書をしなければいけないのか?

先日ツイッターで、言 寺(@310_64)さんの漫画を読んだ。4月19日付けの「【なぜ読書をしなければいけないのか?】という記事を読んだので読書家の母に聞いてみた話」である。

リツイートやいいねの数を見ると、多くの人が共感、納得しているのではないかと思う。
「何故読書をしなければいけないのか…それは本を読んだ人にしかわからない」
「人類の多くが『本を読め』と言うのか、その答えが知りたいなら本を読みなさい」
非常にわかりやすくまとめてあり、私も納得している。

この漫画では読書を題材に取りあげているが、これは読書だけでなく他のことについてもいえる。

たとえば、なぜ勉強をしなければいけないのか。また、たとえば、なぜ仕事をしなければいけないのか。

誰かがその答えを持っているわけではない。答えは自分の中にある。

2017/04/24

格物知致

前回、「遊び」について書いたところで、松岡正剛さんの『知の編集術』のことを思い出した。遊びから編集が生まれたということを書いていたからである。

『知の編集術』では、遊びの本質は編集にあり、逆に編集の本質も遊びにあるという。

前回書いた「遊び」は、自動車のハンドルやブレーキについての「遊び」であった。この「遊び」が、どのような経緯で生み出されたのかは知らず、何かの遊びからヒントを得て作られたものなのかは知らない。ただ作ってみて試してみて、乗りやすいように使いやすいように工夫した試行錯誤の上で作られたものではあるだろう。

そして逆に、自動車のハンドルやブレーキの「遊び」から学べることもある。安全性と利便性を両立させるにはどうすればいいかを考えるには格好の材料であると思う。

自動車は人間が作ったもので、人間が考え出したものである。動物も遊ぶことはあるかもしれないが、人間がする遊びは人間が作ったものともいえる。大きくいえば、法律や社会も人間が作ったものである。

昨今、人工知能が話題となっている。学習するとはいえ人工知能も人間が作るものである。

人工知能の開発は、どこまで遊びを取り入れられるかにあると思う。人工知能ではないかもしれないが、今までも機械に「ファジー機能」などの「遊び」を組み込んできたが、まだ遊び足りない。

現在はディープラーニングの手法から「学習」の観点を取り込み人工知能が開発されつつある。安全性と利便性の両立を目指して試行錯誤されている。ここから何が学べるかということが、私にとっての人工知能の関心事である。

2017/04/23

意識と無意識の遊び

最近、『意識と無意識のあいだ』という本を読んで、マインドワンダリングという言葉を知った。カタカナでワンダリングと書かれると、驚きや不思議を表すwonderを思い浮かべる人がいるかもしれないが、マインドワンダリングのワンダリングはwander、「さまよう」とか「ふらふらと歩き回る」という意味である。つまり、マインドワンダリングは「さまよう心」「ぼんやりした心」を指す。

マインドフルネスという言葉が流行っている。書店に行くと、書名にマインドフルネスが使われている本をいくつか見かける。グーグル社員が実践しているということでメジャーになった感があるマインドフルネスは、「瞑想」と関連付けられて語られることが多い。

そのため、マインドワンダリングが「迷走」として語られることがある。「さまよう」「ふらふらと歩き回る」という意味から「迷走」と訳されてもおかしくはない。ただ、迷走という訳にしてしまうと、どこか否定的なニュアンスが込められてしまう。

マインドワンダリングは、「遊び」「ゆらぎ」のイメージである。

車のハンドルには「遊び」がある。ハンドルを少し切っただけではタイヤは曲がらないようになっている。たとえば、くしゃみなどをした拍子にハンドルに力が入り、それがタイヤまで伝わってしまうと事故を起こしてしまう可能性がある。また、遊びが少ないと、タイヤの方が何か衝撃を受けてちょっと方向がズレてしまうと、それがハンドルまで伝わってしまうため、ずっとハンドルに力を入れて固定させて置かなければならない。遊びは一種の柔軟性をもつ安全装置といえる。

しかし、遊びを大きくしてしまうと、今度は逆に曲がりたいときになかなか曲がれないということがおきてしまう。

車の例をさらに挙げるならば、ブレーキにも遊びがある。ちょっと足が当たったくらいで急ブレーキとなってしまっては危ない。逆に遊びが大きすぎてブレーキを踏んでもなかなか止まらないとなれば、さらに危ない。

マインドワンダリングには、このような側面がある。

一方では、安全装置として働く。脳、あるいは意識におけるマインドワンダリングが少なければ、「石頭」「頑固者」である。逆にマインドワンダリングが大きければ、「夢遊病」になる。

創造はマインドワンダリングから生まれるともいう。遊びからさまざまなことが生まれる。

2017/04/21

マイ古典となってしまっている本

英文学の古典として、14世紀イギリスの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)の『カンタベリー物語』というものがある。大学生のとき英文学の授業で、この『カンタベリー物語』を扱う講義があったので受講した。講師は外国人講師で、英語での講義である。

『カンタベリー物語』という名前は知っていた。しかし読んだことはなく、こんな機会でしか読まない可能性があると思い受講した。英文学講義の単位が必要であったためでもある。

英文学に興味がなかったにもかかわらず、なぜ『カンタベリ物語』のことを知っていたかというと、歌手スティング(Sting)のファンであったためである。

『カンタベリー物語』は、カンタベリーに巡礼にいく途中、ある旅館で居合わせた30人くらいの人が、退屈しのぎに集まって話をしていくという体裁の物語である。日本でいうと百物語のようなイメージであるが、『カンタベリー物語』は怪談ではない。『千一夜物語』といった方がわかりやすいかもしれない。

その話をしたうちのひとりが召喚人で、その召喚人の話が「Summoner's Tale」である。

スティングの本名がゴードン・マシュー・サムナーということで、本名のサムナーと召喚人の話(Summoner's Tale)をかけて、『Ten Summoner's Tales』というタイトルのアルバムを作った。映画『レオン』のエンディングテーマ「Shape of My Heart」が収録されているアルバムである。『Ten Summoner's Tales』(10の召喚人の話)というタイトルであるにもかかわらず、12曲が収録されている。1曲目と12曲目にそれぞれプロローグ、エピローグと付いているので、その2曲を除いて10曲という意味かもしれない。

そのようなわけで『カンタベリー物語』の名前だけは知っていたので、講義を受けてみようという気になった。

しかし、講義を受けてみても、わからない。テキストは古英語、講師はイギリス人講師で英語での講義。しかたなく(ズルして?)翻訳書を買ったものの、講義でどこの話をしているのかを探すのにも苦労した。

翻訳書がまだ手元に残っているので、いまパラパラとめくっていると、どうやら「バースの女房の話」の講義だったらしい。らしいというのは、覚えていないからである。ちなみに「召喚人の話」の内容も覚えていない。

それでもなぜか手元に残している。大学を卒業してから引越を何度かして、そのたびにある程度の本を処分したりしているのだが、まだ残している。

『カンタベリー物語』は、本の内容は語れないけれど、自分のなかで古典になっている。

2017/04/20

遷ろうメタファー

村上春樹さんの本は、勧められたことは何度もあるが、未だに読んだことがない。

しかし、日経ビジネスオンラインで連載されている「イノベーション殺し[村上春樹を経営学者が読む]」を読んでいると、村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んでみたいと思うようになった。

日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、最初に読んだのは第3回目からであった。タイトルは「驚くほど鋭く、洞察のようなメタファー」である。

メタファーとは隠喩のことで、比喩表現のひとつである。

コラムのなかで、メタファーについて以下の説明がある。
 メタファーには2つの種類がある。1つは、馴染みのある喩えを用いて、馴染みのないことを説明するというメタファーである。未知のことを、既知のことで説明することによって、その本質を瞬時に理解させる。理解を促すためのメタファーなのである。
 もう1つのメタファーは、逆に、馴染みのない喩えで、馴染みのあることを説明するというメタファーである。既知のことでも、そぐわない喩えによって説明されることで、頭が刺激されて新しいアイデアが生まれる。一見すると違うものだと思っていた2つを結びつけることによって、いろいろなアイデアを次から次へと生み出すことができる。発見や学習を促すためのメタファーである。これを「認知的メタファー」という。
このメタファーの能力こそ、私が伸ばしたい能力であり、使っていきたい能力である。

言葉に興味を持つのも、この能力を知り、伸ばしたいためである。

私たちはしらずしらずのうちに、言葉をメタファーとして使っている。たとえば、「走る」という動詞は、最初は人間が右足左足を交互に蹴って走る動作を指していたかと思うが、列車や自動車が開発されると、それらも「走る」と使いはじめた。「道路が南北に走る」など、動かないものにまで「走る」という。視線を「走らせる」ためという説明をしたりする。メタファーがなければ、新しいコト・モノが発生するたびに、新しい言葉が必要になってくる。覚えきれず、効率が悪い。

そもそも概念自体もメタファー的である。形の違うコップを見て、両方ともコップと呼ぶ。この世の中に完全に同じというものはない。量産品であっても違うものである。それを同じものとみなす能力が人間にはある(人間だけではないかもしれない)。

「走る」の例は、コラムの引用文中にある1つ目のメタファーで、未知のことを既知のことで説明するメタファーである。もうひとつの、馴染みのない喩えで馴染みのあることを説明する「認知的メタファー」については、コラム中のグーグルの例がわかりやすい。「検索エンジン」とかけて「学術論文」と解く。その心は「どちらも引用数が大切だ」というものである。

理解や学習、発想や発見など、私が興味ある分野には「メタファー」が関わっている。数学が好きなのも、代数と幾何がつながっていたり、楕円曲線とフェルマーの最終定理がつながっていたり、違ったように見えるものの中につながりがあることを見るのが好きだからだ。

わもん研究所のロゴはミジンコのイメージであるが、「直感」と「ミジンコ」のつながりを見つけたいという思いがある。

村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んてみたい理由はメタファーにある。

2017/04/19

人生で一番影響を受けた本

渡部昇一さんが亡くなったとのニュースがあった。

直接お会いしたことはないが、私は渡部昇一さんから影響を受けている。

本を通じて、である。


最初は『知的生活の方法』であった。

大学生になり本を少しずつ読みはじめたころ、大学生協の本屋で平積みになっていたのを見かけた。おもしろそうだと思い、著者紹介の欄を見ると、英語学が専門の教授であった。文学部の英米文学科に入学したが、文学には興味がなかったので、英語学を専攻しようかと思っていた矢先のころだったと思う。何かの縁かと思い購入した。

読んでみると、とてもおもしろい。渡部昇一さんの本を数冊読んでいて、ごちゃまぜになっているかもしれないが、本の読み方であるとか、語学の重要性であるとか、わかったふりをしないなどの心構えであるとか、情報の整理のしかたであるとか、読書を中心とした「知的生活」のアレコレが書いてあった。

『論語』を読みはじめたのも、シェイクスピアを読みはじめたのも、発想法や情報整理の本を読みはじめたのも、一番最初は『知的生活の方法』であった。

『知的生活の方法』が出版されたのは1976年で、私は1977年の早生まれであるため、同学年ということになる。私の生まれる前に、すでにこのような本が出版されていたことに驚いた。おそらく良書は他にもたくさんあると思うが、いろいろな本を読んでみたいと思った初めての経験であった。

その後、当然『続 知的生活の方法』に進み、『発想法』や『英語の語源』などに進んだ。2010年には『知的余生の方法』が出版され、まだ余生にはちょっと早いかもしれないが、と思いながら買った記憶がある。

どこまで「知的生活」が身についているのかは疑問のところもあるが、少なくとも読書の習慣だけは身についていると思う。この『知的生活の方法』に出会わなければ、今の自分はないと思っている。

著者の渡部昇一さんは亡くなったが、私の手元には本が残っている。言葉、文字に興味を持っているのも、このためだと思う。

渡部昇一さん、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

2017/04/18

学びて時に之を習う

以前、『論語』の冒頭の文を読んで、「学ぶ」と「習う」の違いは何だろうかと疑問に思ったことがある。
子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。
朋遠方自り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍らず。亦君子ならずや。
このブログでも過去に触れたことがあり(学而第一・1「子曰、学而時習之。~」)、結論としては変わらないが、以前は書いていなかったことがあったので補足しておきたい。

「学ぶ」と「習う」の漢字の意味、成り立ちについてである。漢和辞典を引いていなかった。

「学」と「習」の漢字について、解字としてそれぞれ以下の記載があった。
【学】
乂印は交差するさまを示す。先生が知恵を授け、弟子がそれを受けとって習うところに、伝授の交流が行われる。宀印は屋根のある家を示す。學は「両方の手+宀(やね)+子+音符爻」で、もと伝授の行われる場所、つまり学校のこと。
【習】
「羽+白」で、羽を重ねること、または鳥が何度も羽を動かす動作を繰り返すことを示す。この白は、自の変形で、「しろ」ではなく、替の下部と同じく動詞の記号である。
「学びて時に之を習う」は、先生(師匠)から学び、繰り返し復習するという意味がはっきり感じられる。

「学ぶ」と「習う」を合わせた「学習」の意味もまた、よくわかる。学ぶだけでは学習したことにはならない。

2017/04/17

4月前半に買った本

4月に入ってから少し本を買いすぎた。

4月上旬に買った本をまとめておく。まだ読んでいないものもあるので、読んだ感想ではない。買った動機をまとめておくことで、実際に読むときの指針としたい。


●羽生善治・NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』
 羽生さんの本はいくつか読んだことがある。コンピューター相手の将棋についての言及も多い。脳科学や人工知能への造詣も深いため、羽生さんが人工知能についてどのように考えているのか、感じているのかを知りたいと思った。羽生さんから見た、人工知能に対する期待と課題が書かれていた。

●夏目漱石『私の個人主義』
 夏目漱石について書かれている本や記事を読むと、必ずといっていいほど言及されている本。漱石の悩みや、それを克服するに至った「自己本位」「個人主義」について確認したく購入。表題を含む講演集。

●後藤武士『読むだけですっきりわかる世界史 古代編』
 『論語』や『孟子』をはじめとする、いわゆる諸子百家の本を読むとき、時代背景がわからないときがある。歴史に詳しくないので参考にしたく購入。中国の古代史がほしかったが、手頃なものがなく、どうせならば世界史もついでにという思いで買った。後日、古代編だけでなく全時代合わせた『読むだけですっきりわかる世界史』を本屋で見つけ、そちらの方がよかったかもと思う。

●西来路文朗・清水健一『素数はめぐる』
 素数には不思議な魅力がある。まだ証明されていないことも多い。素数に関する読み物は好きな部類である。本書は素数の逆数を小数表記にして得られる「循環小数」や「ダイヤル数」を中心に、素数の特徴や魅力を紹介している。

●斎藤祐馬『一生を賭ける仕事の見つけ方』
 自分自身のためでもあるが、どちらかというとセミナーやセッションなどで役立つ方法やツールの材料探しとして買った本。ミッションを見つけるというところだけでなく、ビジネスモデルをつくることやチームをつくることなど、個人における内部戦略と外部戦略の両方をバランスよく扱っている。

●佐藤優『この世界を知るための教養』
 政治経済系の本で、この著者をよく見かけていたので試しに読んでみようと思い購入。国際政治の話が中心。この本自体は現在の国際情勢中心だが、これまでの歴史や文化、宗教や科学技術の大まかな流れをつかんでおくことが重要であると感じた。

●倉島保美『論理が伝わる世界標準の「議論の技術」』
 未読。議論というよりは、文章表現の技術として学びたいと思い購入。

●西来路文朗・清水健一『素数が奏でる物語』
 先述の『素数はめぐる』の著者の第1作目。素数について、わかっていること、わかっていないことが一望できる。証明など細かく読んでいないが、どのような経緯で素数が研究されてきたのかという流れがわかる。

●ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上・下)』
 タイトルの「ファスト」と「スロー」は、「速い思考」と「遅い思考」を表現している。単純にいうと、「速い思考」は認知や直感など無意識の思考、「遅い思考」は計算や論理など意識的な思考ともいえる。まだ途中までしか読んでいない。認知バイアスなどについて書かれている本や記事によく引用・言及されている本。

●平井孝志『本質思考 MIT式課題設定&問題解決』
 モデルとダイナミズムを把握することが本質を捉えることになる。本質がわからない状態で問題解決をしようとしても場当たり的な対処となる。本質を捉えるためにモデルやダイナミズムを把握する、その考え方やヒントになる本。

●山田英二『ビジネスモデル思考』
 以前この著者の本を読んだことがある。その本は、ビジネスモデルを事例を交えながら紹介し、そこから学べることは何か、その学びをどう活かすかの視点から書かれていた本であった。その著者が書いた本であったため購入。ブックオフ店舗で見つけた。

●久恒啓一『実践! 仕事力を高める図解の技術』
 同じくブックオフ。資料作成やファシリテーショングラフィックの参考にしたい。

2017/04/16

孟子に申し上げる

ときどき『孟子』を読んでいる。『論語』に代表される儒学の書で、四書のひとつに数えられるものである。

『論語』は孔子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的短いものが多いので読みやすい。『孟子』は孟子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的長く、たとえ話や昔話(引用)が多い。そのため、おもしろいと思うときもあれば、そこまで言う必要はないのではないかと思うときもある。

たとえば、滕文公章句下に、公都子(孟子の門人)が問い、孟子が答えるやりとりがある。公都子の質問は以下である。
世間の人たちはみな、先生をたいへん議論好きだと申しています。失礼ですが、なぜなのでしょう。
現在読んでいるのは岩波文庫版で、訳もこれに依る。

孟子の回答は以下のようにはじまる。
自分とて、なにも議論が好きなのではないが、このご時勢では黙ってばかりもおられず、やむをえず議論しているまでだ。
ここで終わっても、会話としては通用する。

しかし、孟子の言葉は終わらない。
いったい、この世に人間があってから、随分久しい年月がたっているが、その間、治まったり乱れたり、くり返してばかりいるのだ。
そして、まずは堯のことを述べ、禹のことを述べ、紂のことを述べ、文王・武王のことを述べ……と世の中が治まったり、乱れたりした事例を挙げていく。周の時代になり、周が衰え、先王の道もだんだん行われなくなる。そして、また楊朱や墨翟の説がまかり通っているから自分は努力しているのである、と。

かなり端折ったが、この章は、岩波文庫版の上巻pp.252-260に掲載されている。原文と書き下し文を除くと、4ページから5ページ分くらいであろう。

公都子の質問は2行である。

それに対する孟子の回答は、4、5ページ。

もっとも4ページから5ページ分の孟子の回答を、公都子が黙って聞いていたかどうかはわからない。もしかすると、ところどころ公都子が相槌やちょっとした質問などをして進んでいった対話なのかもしれない。

ただ、議論好きだととられてもしかたがないようにも思う。

「夫子、敢えて問う。何ぞ弁を好むや?」


2017/04/15

逃げるは恥だが役に立つ

最近、SNS上で以下の動画(を含む記事)をよく見かける。2歳児のトロッコ問題の解答案である。



トロッコ問題とは、倫理上の思考実験である。

以下はGIZMODE「ついに思考実験「トロッコ問題」に決着。2歳児が出した衝撃の答えとは…」にあったトロッコ問題の概要である。
線路を走っているトロッコが制御不能に。このままでは、線路上で作業中の5人がトロッコに轢き殺されてしまう。
そしてあなたは、線路の分岐器の近くにいる。トロッコの進路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員が。
5人を助けるために、1人を犠牲にしていいのか? それとも運命としてそのまま見過ごすべきなのか。

Wikipedia「トロッコ問題」を見ると、派生問題も載っていた。

トロッコ問題とは異なるが、これと似た問題として、漫画『金田一少年の事件簿』に「○○○○○○(カタカナ6文字)の板」というのがあったなと思っていたら、先のWikipedia「トロッコ問題」の関連項目に載っていた。

カルネアデスの板」である。この項に『金田一少年の事件簿』のことも言及されていて、こんなことまで書かれているのかと少し驚いた。

トロッコ問題について、いつだれが最初に考えたのかは調べていないが、最近取り上げられている(ように見える)のは、人工知能(AI)あるいはロボットの技術が進んできたからではないかと思っている。人工知能に倫理観を学習させることができるのか、あるいは、トラブルがあった場合に人工知能がどのような判断をするのか、などということが議論研究されているように思う。

トロッコ問題は、解決すべき問題というわけではなく、議論をするための出発点である。道徳的な観点から人間を知ることにつながっている。人工知能の研究からも様々な知見が得られると思う。

『金田一少年の事件簿』のなかで、主人公の金田一は「カルネアデスの板」の状況に置かれたらどうするかと問われた。手元に漫画がなく間違って記憶しているかもしれないが、「2人とも助かる方法を考える」という回答だったと思う。トロッコ問題でいうと、6人(5人+1人)とも助かる方法を考える、という回答である。思考実験の前提を無視した回答である。

しかし、現実問題としてトロッコ問題が発生した場合、分岐器を動かす(動かさない)以外のこともできるであろう。そして、トロッコ問題が現実に起きないような仕組みも考えることができる。

トロッコ問題の回避策を考えるほうが容易い。

2017/04/14

本の読み方

1本、2本、3本、……と、棒状のものを数えるときに助数詞「本」を使う。通常「ほん」と発音するが、ときどき「ぽん」「ぼん」と発音する。

1~10までの発音を列挙すると、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん、ごほん、ろっぽん、ななほん、はっぽん(はちほん)、きゅうほん、じゅっぽん、となる。

「ぽん」となるときは規則性が見られる。「ぽん」と読むときは、1本、6本、8本、10本のときで、「ぽん」の前に促音便の「っ」がある。促音「っ」の後では「ぽん」と読むといえそうである。

「ぼん」と読むときは、ここでは3本のときだけである。撥音「ん」の後で「ぼん」になるかといえば、そうではない。4本は「よんほん」で、「ん」の後だが「ぼん」にはならない。

アルクのサイトによると、以下の記述があった。
次に3と4の問題です。3と4はどちらも撥音で終わりますが、助数詞の読みはしばしば異なります。「3本」、「4本」のほか「3匹」、「4匹」などがそうです。助数詞以外でも「300」と「400」は/byaku/と/hyaku/になります。これは「さん」が漢語でもともと「さん」であったのに対し、「よん」が和語でもとは「よ」であったため撥音がなかったことに起因すると考えられます。
もともとは「よほん」だったが、「よ」が「よん」に変わっても「ほん」はそのままだったという。可能性はある。

ただ、「本(ほん)」を「ぽん」や「ぼん」と発音するのは、発音のしやすさからではないかと思われる。「よ→よん」に変わったあとに発音のしやすさから「ぼん」に変わってもいいのではないか、とも思う。もともとの言い方を残すならば、3本も「さんほん」と、1本も「いちほん」と発音すればよかったのではないか、とも思う。

また、助数詞ではないが、「文庫本、中古本、新刊本」は「ぼん」と読む。新刊本は「ん」の後なので「ぼん」になるといえるが、文庫本、中古本は「ほん」のままである。もっとも助数詞としての使い方ではないので、助数詞とは異なるルールが働いているのかもしれない。

2017/04/13

ことごとくキリギリス

なんのはずみか知らないが、「ことごとく」という漢字は「キリギリス」の漢字に似ていた、と思った。別に「ことごとく」という漢字はどのような漢字だったかと考えていたわけではない。

理由はわからないが、思ってしまっては気になってしまうので、スマホで「ことごとく」を変換してみた。「尽く」と「悉く」が出てくる。「キリギリス」に似た方は「悉く」の方であると確認した。

一方、「キリギリス」の方はスマホの文字変換では出てこない。スマホのブラウザを立ち上げ、検索ワードに「キリギリス 漢字」と入力した。検索結果に「蟋蟀」と「螽斯」が出てきた。「悉く」に似ているのは「蟋蟀」の方である。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。

ところが、検索結果のいくつかには、この「蟋蟀」という漢字は「コオロギ」とも読むことが書かれていた。そういわれてみれば、「蟋蟀」は「コオロギ」と読むような気がしてきた。

検索の結果で出てきたサイトを少しずつ見ていくと、次の記事に出会った。NIKKEI STYLEの「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」という記事である。
つまり、古くはコオロギのことをキリギリスと呼び、キリギリスのことをハタオリと呼んでいたというのだ。
記事ではこのあと、ハタオリの鳴き声から、ハタオリがキリギリスという名に変わったのではないかと推理し、以下のように結んでいる。
現在のコオロギのことを指していたキリギリスという言葉がハタオリの呼び名に移行したとすると、コオロギのことを指す言葉がなくなってしまうことになる。そこで奈良時代には鳴く虫の総称を意味した「コオロギ」という言葉がコオロギを指す代わりの言葉になり、呼び名が「キリギリス→コオロギ」と変化したという推理が成り立ちそうだ。

「コオロギ」という言葉は、奈良時代には鳴く虫を総称していたという。

「コオロギ」は漢字で「蟋蟀」と書く。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。ことごとくの虫が「蟋」である。

「キリギリス」の漢字には「蟋蟀」と「螽斯」がある。「キリギリス」を漢字で書くことがあれば、用途によって使い分けることが望ましい。

2017/04/12

αにしてω

ジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』を読んだ。

アイデアの出し方や発想法などの本を読むのが好きである。ヤングの『アイデアのつくり方』は、発想法関係の本にしばしば参考文献として載っていたり、本文中に言及されていたりした本である。読みたいと思ってはいたが、なかなか読めずにいた。

文量もそれほどなく、簡潔に書かれているので読みやすい。目新しいことはあまりなかったが、アイデアのつくり方の原理原則が書かれているので、何か行き詰まりを感じたときに読むのがよさそうな気がする。

私にとって一番印象に残ったところは、「二、三の追記」として書かれていた以下の箇所である。
さらにもう一つ私がもう少し詳細に説明すべきだったことは言葉である。私たちは言葉がそれ自身アイデアであるということを忘れがちである。言葉は人事不省に陥っているアイデアだといってもいいと思う。言葉をマスターするとアイデアはよく息を吹きかえしてくるものである。
言葉に興味を持っている私としては、とても勇気づけられた。

花村太郎『思考のための文章読本』を読んだあとだったことも印象に残った理由かもしれない。『思考のための文章読本』にはいくつかの思考法が載っていて、その中に「単語の思考」というものがある。そこに書かれていた内容と同じことをヤングも書いていたのだと感じたからである。
単語は思考の出発する点であり、思考の手がかり、素材であるとともに、思考の面的、立体的広がりを要約したり象徴したりするタイトルやキーワードというありかたにおいては、思考の終点でもある。

言葉は、いい意味でも悪い意味でも、枠をつくる。モヤモヤとした考えを形づくる。構造を与える。また逆に包装され、ブラックボックスのように内容が見えなくなる可能性もある。単語においては、一語でいろいろな意味を持つ。あるいは、いろいろな意味を連れてくる。

2017/04/11

有標性と無標性

雑記である。我ながらわかりにくいことを書いている。


リンゴは赤い。しかし、すべてのリンゴが赤いわけではない。青リンゴというリンゴもある。

厳密にいえば、リンゴが赤いといっても、ひとつひとつのリンゴの色が同じというわけではないし、青リンゴも青いわけではない。この辺りは大まかに読んでほしい。


リンゴという概念を集合と考えると、青リンゴの集合はリンゴの集合に含まれる。ここで言いたいことは、青リンゴの集合の方に青リンゴと名前をつけていることである。

なぜ、青リンゴ以外の集合の方に「赤リンゴ」と名付けていないのか。


それは、赤いリンゴの方が一般的であり、青いリンゴの方が特殊だからである。そして、特殊な方に名前をつける。名前がついていることを、印(標)がついているとして「有標」とすると、印がついていない方は「無標」である。ここでは、青リンゴは有標、赤いリンゴは無標である。

赤いリンゴにはリンゴという名前がついているので有標ではないか、という人もいるかもしれない。有標・無標の区別は相対的なものであり、名前がついているから有標というわけではない。リンゴを有標とすると、無標としてはリンゴ以外のもの、たとえば果物、を想定するといいかもしれない。

全体のうち一般的なものや性質が無標、特殊なものが有標とする。概念や言葉はそのような性質をもっている。


たとえば、このブログ記事について、私が書きたいことを書いている。書きたいことを言葉にしている。書きたくないことは書かない。書いたとしても、書きたくないことを書きたかったから書いたといえる。どこまでも相対的である。

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙しなければならない」という。それでも、人間には、印をつける、名前をつけることの欲求なり、本能なりがあると思う。

発見や発明などは、無から有を生み出すともいう。それは、もともとあったけれど気づいていなかったものに印、名前をつけることからはじまったのだと思う。

何もないと思っていたところに何かがある。


こういうことをもっとわかりやすく表現したい。

2017/04/10

目標と習慣

ここ最近、毎日ブログを投稿している。約2ヶ月間続いた。三日坊主となることが多いので我ながら珍しく思う。

続けられている大きな要因は、〆切を設けたことにあると思う。

それまでは書いたらすぐに投稿していた。投稿する時間はバラバラで、1日に数本投稿するときもあれば、全く投稿しない日が続くこともあった。

現在は、朝8時に投稿するようにしている。たとえば、今日は4月9日だが、今書いているのは明日10日の朝8時に投稿する分である。書き終わったときにすぐに公開ではなく、公開の予約として翌日8時に設定する。そして翌朝に投稿されているかどうかを確認する。

ブログを書くのは、だいたい夜の時間帯である。書く時間帯は以前とあまり変わっていない。

以前は、どこかに出かけていたり、お酒を飲んでいたりすると、「今日は書かなくてもいいか」となっていた。しかし、〆切を設け、翌朝までに書けばいいとしたことで、「今日は出かけるから先に書いておこう」とか、「少し書き溜めしておこう」など、先の予定を考えて書くようになった。

ブログの内容も、大して緊急を要するものではなく、季節的なことや時期的なことも書くかもしれないが、数日ズレても何の問題もない。

短い文章でポンポンと出していくならば、ツイッターやフェイスブックを使う。ここに書くものはある程度の文量を必要とする、というか、ダラダラと考えながら書くことが多いので、「翌朝までに書けばいい」と、少し考える余裕もある。

何が何でも1日1本書くぞとなると固くなる。

かといって、目標がなければ書かなくなる。

今のところ、このやり方が自分には合っている。ブログだけでなく、他にも応用したい。

2017/04/09

山崎富治『ほうれんそうが会社を強くする』

山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』が届いた。Amazonで出品されていた中古本である。

まだ通読はしていないが、目次を見るだけでおもしろそうな本だと思う。

4章で構成されていて、章題は以下である。

1章 “ほうれんそう”は、組織活性化の最良の栄養源
2章 “ほうれんそう”は、こうすれば立派に育つ
3章 “ほうれんそう”を育てる8大栄養素
4章 “ほうれんそう”を枯らす8大病原菌

報連相を「する側」からではなく、「育てる」側から書かれていることがわかる。

ここ数日、このブログで「ホウレンソウの育て方」について、いくつか記事を書いてきた。「報告・連絡・相談」のスキルを上げようという自己スキルアップの観点から書かれた本が多いが、「報告・連絡・相談」がしやすい文化を育てようという観点からの本が少ない(見たことがない)という理由からである。

「報告・連絡・相談」を「報連相」とした元祖の本は、育てる側からの観点で書かれたものであったことは驚きである。

私自身の場合は、言葉遊びから「育てる」側から考えてみようというのが最初のきっかけであった。しかし、本書は経営の側から出てきたものであるので、説得力がありそうである。

そして、言葉遊びの観点もしっかり含まれている。

たとえば、「“ほうれんそう”は“賛成”土壌には育たない」という見出しがある。ほうれん草は酸性土壌では育たず、アルカリ性の土壌で育つ。それを踏まえて、“賛成”土壌、つまりイエスマンばかりの会社では、報連相は育たないという。

他にも、「ほうれんそうのゴマあえ」というのもあった。これは、「ほうれんそう運動」が広まっていき、新聞に取り上げられたところに書かれていたこととして紹介されていた。「サラリーマンが出世したかったら、“ほうれんそうのゴマあえ”を欠かさないことだね」とある会社役員が言ったという。報告・連絡・相談に、ちょっぴりゴマすりが必要という意味である。こちらは「する側」からの観点であるが、上手く料理している。

いずれにせよ、しばらくこのブログで書いてきた「ホウレンソウの育て方」は、山崎さんの本を前提として書いていく必要が出てきた。まずは通読してから今後発展させられるかどうかを検討したい。

2017/04/08

深海のミジンコ

「深海のミジンコ」というタイトルで小説を書きたいと思ったことがある。1~2年前になると思うが、まだ書けていない。

最近あまり聞かなくなったが、わもんの学びのなかで、直感のことをミジンコといっていた。なぜミジンコなのかはわからない。

直感のことをミジンコといった提唱者(?)であるやぶちゃんの話では、直感(ミジンコ)は水深数千mのところからものすごいスピードで上がってきて、水面に顔を出した途端にまた潜っていくので、瞬時につかまえなければ逃げられてしまうという。

ともかく、そんな話を聞いているときに思いついたのが、冒頭の「深海のミジンコ」というフレーズである。

その材料にならないだろうかと思い、ミジンコや深海に関する本をいくつか読んだ。そのひとつに『超ディープな深海生物学』という本がある。

読み進めるうち、目が止まった。息をのんで驚き、胸が高鳴った。

深海にミジンコがいた。

日本海溝の水深6,000m付近で奇妙な生物が見つかり、採集された。ツリガネボヤというホヤの一種であるらしい。正確な種名を調べるため、そのツリガネボヤを解剖したところ、体内からケンミジンコが採集されたということである。

この記述を見つけたあとでケンミジンコについて確認したところ、ミジンコという名でイメージする姿(ダフニア)とは違ってはいたが。


また別の日だが、WEBでミジンコを検索しているとおもしろい研究を見つけた。

「ミジンコは空を飛ぶか」というようなタイトルだったと思う。

ミジンコが鳥のように飛ぶのではなく、渡り鳥の水鳥にくっついて飛んでいく。DNA解析でミジンコの分布を調べるというような研究だった。


フレーズが浮かぶ。

「ミジンコは空も飛ぶし、深海にもいる。もしかすると、君の目の前にもいるかもしれない。ただ気づいていないだけなのかもしれない。直感も同じで気づいていないだけかもしれない。」


しかし、小説はまだ書けていない。


2017/04/07

文化と風土

Wikipediaの「報・連・相」の項の脚注に、以下の記事へのリンクがあった。

日系パワハラ│多分、報・連・相の意味は間違って伝えられてるよ

昨日のブログ記事で、山崎富治さんの『ほうれんそうが会社を強くする』という本(未読)について言及した。どうやらこの本は、書店のビジネス書コーナーによくあるような「報連相のコツ」など、報連相を「する側」から書いたものではなさそうである。

「風通しのよい会社の条件」であるとか、「上の人間が聞いて不快になりそうな情報は、なるべく伝えないようにしようという土壌がいつのまにかできているとしたら、この土壌には"ほうれんそう"は育たない。」という文章を読むと、報連相を育てることに主眼をおいているようである。

畑でほうれん草を育てるように、文化で報連相を育てることはできないか。

ここでの文化は「企業文化」としてもいい。

企業文化を耕して、報連相を成長しやすくするにはどうすればいいか。


畑を耕すのは、土をやわらかくして、ほうれん草が成長しやすくするためである。畑を耕す意味として、土と空気を混ぜるという意味もある。

風と土で「風土」である。「企業文化」は「企業風土」ともいえる。企業には「社風」もある。風通しをよくするにはつながらないだろうか。

こんな連想をしている。

2017/04/06

アイデアの種

ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか。思いつきから考えていることは重々承知であるが、まだしつこく考えている。

Wikipediaに「報・連・相」の項があったので読んでみた。現時点(2017年4月6日時点)での記述によると、もともと山崎種二さんが提唱し、その次男である山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』がベストセラーとなり広まったという。

当然のことながら、「報告・連絡・相談」を略して「報連相」としたのは、「ほうれん草」を意識したものであろう。未読であるが、『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルからもそのことが想像できる。その理由は2点ある。

ひとつは、「ほうれんそう」と平仮名表記にしていることである。「報連相」でも「報・連・草」でも、あるいはもっと直接に「報告・連絡・相談」でもよかったはずだが、敢えて平仮名にしている。音として読めば「ほうれん草」と「報連相」をかけているなと思うことはできるが、漢字で「報連相」と書かれているとその表記だけで「ほうれん草」を思い起こすことは難しい。思い起こしたとすれば漢字を読んだわけであり、ひと手間かかる。

もうひとつは、「ほうれんそう」に続いて「会社を強くする」としていることである。ほうれん草は緑黄色野菜として栄養価が高いイメージがある。漫画でポパイがほうれん草の缶詰を食べて、力こぶを出したりすることも思い浮かぶ。鉄分が豊富で、特に貧血気味の人は「ほうれん草を食べなさい」と言われることも多いだろう。ほうれん草には身体を強くするイメージがある。そのイメージで『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルをつけたと思われる。

興味があったので、『ほうれんそうが会社を強くする』をAmazonで検索してみると、新品はなかった。絶版となったようである。中古本はあり、表紙の画像を見たところ、思いっきり「ほうれん草」のイラストが載っていた(この記事の末にリンクあり)。しかも、イラストのほうれん草の葉が、働く人をかたどっている。

Wikipediaに戻り、あらためて「報・連・相」の項を読むと、「報連相の誤解」という箇所があった。
「上司の状況判断に必要な、部下からの自発的な情報伝達」を習慣的に行わせるためのしつけとして捉えられているが、そもそも、提唱者の山崎の著書では、管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、生え抜きでない社員や末端社員であっても容易に報告・連絡・相談が行える風通しの良い職場環境をつくるための手段して報連相を勧めているのであって、部下の努力目標ではない。

考えていたことが載っていたので、嬉しいことではある。しかし、「ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか」と考えていたことが、「報連相」が広まったときから既に述べられていたことは、少し残念な気もする。

もともとアイデアの種は蒔かれていたようである。

2017/04/05

植木の名人の話

孟子の「助長」の話を書いたので、似たような話も書いておこう。

柳宗元の「種樹郭橐駝伝」での話である。原典は読んだことはないが、松本肇『故事成語の知恵』(日経プレミアムシリーズ)と、森三樹三郎『老子・荘子』に概要が載っていた。孫引きのようなものである。

「橐駝(たくだ)」とは「駱駝(らくだ)」のことらしい。植木屋の郭さんは背中が曲がっていて駱駝に似ているところから、駱駝の郭さんと呼ばれていた。郭さんは植木の名人で、その植えた木は枯れず、よく茂り、よく実をつけたので人気があった。

あるとき柳宗元が郭さんに植木の秘訣を尋ねたところ、次のように答えた。

「秘訣というのはありません。ただ樹木の自然の性にしたがっているだけです」と。

植木というものは、木の根が広がり、土が平均にゆきわたり、古土が落ちず、木が倒れないくらいに土を固めておくことが必要とされる。その条件を整えさえすれば、あとは動かしたり揺すったりする必要はない。木の求めるようにするだけで、余計なことをしないだけだという。

木の成長を早めたり、よく実をつけさせたりすることはできず、成長を妨害しないようにするだけである。木は自然に成長する。

しかし、他の植木屋を見ていると、心配しすぎている。爪で引っかいて枯れていないか調べたり、根を揺すって土に隙間がないか確かめたり。木を大事にしているようだが、かえって危害を加えている、と。

『孟子』のたとえでも、この植木の名人の話でも、環境を整えることは大切ではあるが、作物(植木)自体には何もしていない。直接引っぱったり、揺すったりすることはしていない。

植物を育てるのと人を育てるのではやり方は違うかもしれないが、その育てる対象の特徴・性格を知り、それに合わせた環境を整えることは共通していると思う。

2017/04/04

心に忘るることなかれ、助けて長ぜしむることなかれ

『孟子』公孫丑上に以下の話が載っている。「助長」の語源ともいわれている話である。(小林勝人訳『孟子(上)』岩波文庫より)

むかし宋の国のある百姓が、苗の成長がおくれているのを心配して、なんとか早めたいものと一本一本引っぱってやった。グッタリ疲れきって家にかえるなり、『ああ、今日は疲れたわい。苗をみんな引きのばしてやったものだから』と家のものに話したので、息子が〔変に思って〕いそいで田圃へかけつけて見たら、苗はすっかり枯れていたとのことだ。世間にはこうした馬鹿げたことをするものが少なくない。

この話が、実際にあった話であるのか、それとも作り話であるのかはわからないが、『孟子』の中ではたとえ話として出てくる。もしかすると、『孟子』のたとえ話のために、「助長」に否定的な意味が付されたのかもしれない。

孟子は「浩然の気」を養うことを説明するために、上記のたとえ話を挙げた。先ほどの引用箇所の続きは以下である。

浩然の気を養うなどとは無益なことだとして〔告子のように〕見向きもしないのは、田圃の草取りをしないようなものだし、また浩然の気を養うことは大切だと知っていても〔北宮黝や孟施舎のように〕早く早くとあせって助長しようとするのは、苗を引っぱるようなものだ。こういうことは無益なばかりか、かえって害になるばかりだ。

「浩然の気」とは何かということはさておき、作物の育て方については当たり前のことを言っている。

無益なこととして見向きもせず、草取りもしないようでは作物は育たないし、早く早くとあせって苗を引っぱるようなことをしては作物にとって害になってしまう。目をかけて育てるが無理をしてはいけないということである。

心に忘るることなかれ。
助けて長ぜしむることなかれ。

これは人の育て方でもいえる。

2017/04/03

【メモ】ホウレンソウ関連記事

最近、ほうれん草のことについて考えていたので、ほうれん草や野菜関連の記事が目に止まった。メモとして書いているので、大したことは書いていない。


ひとつはGIZMODEの「ホウレンソウが人間の心臓になっちゃう!?」という記事である。

ほうれん草の葉脈を血管として利用し、心臓組織の修復に役立てようという技術で、実用化にはまだ至っていないが実験は成功したとのこと。

食べるのではないほうれん草の活用法のひとつとしてリンクを残しておく。


もうひとつは、日経ビジネスONLINEの「最強の植物工場は「手づくり」で完成させた」という記事である。こちらはほうれん草ではなく、植物工場の記事である。

畑で栽培ではなく、工場でレタスを栽培する。従来の植物工場はコストがかかり黒字化できないことが多かったが、この記事で紹介されている工場では黒字化できたということである。

 工場が本格稼働したのは2008年はじめ。「光、温度、湿度、空調、溶液など栽培環境の各要素をどう組み合わせるかというノウハウが重要。ハードだけそろえても、うまくいかない」。スプレッドの稲田信二社長に黒字化できたわけを聞くと、真っ先にそう答えた。

安定的に育てるためには、環境を整えることが大切である。その難しさと具体例が載っている。

2017/04/02

文化とあり方

ほうれん草が畑で育つならば、報連相は文化で育つのではないか。これをもう少し掘り下げていきたい。

畑を耕すことで、ほうれん草が成長しやすくなる。土をやわらかくすることで、芽が出やすく根が伸びやすくなる。

ここからいくつかの疑問が出てくる。文化を耕すとはどういうことか。土にあたるもの(あるいは、こと)は何か。報連相における芽や根は何に当たるか。

考えなくてもいいような疑問ではあるが、考えてみたい。

そもそも、文化とは何かということも考えておこう。


手元の国語辞典で「文化」を引くと、以下の意味が載っていた。

①ひらけない状態から、技術が進み生活が便利になり、また程度が高くなる状態。
②進歩・向上をはかる、人間の精神的ないとなみ(によって作り出されたもの)。
③その社会で受けつがれる、生活・行動のあり方。

報連相が大切だと言われているのは、主にビジネスシーンである。そこで、報連相を育てる畑としての文化を「企業文化」としよう。そうすると、文化の③の意味が一番近いように思う。つまり「社会」ではなく、「その会社で受けつがれる、生活・行動のあり方」である。「生活」というのはしっくりこないので「活動」としよう。

文化は一朝一夕でできるものではない。企業文化も同じである。

畑もまた最初から存在していたわけではない。開拓開墾して畑ができる。

畑を作ったらそれで終わりではない。毎年ほうれん草を育てるならば、種を蒔く前には畑を耕す。

企業文化も報連相を定期的に育てていくならば、耕すことは必要であろう。

文化を耕すとはどういうことか。これが次の疑問である。

2017/04/01

畑を耕すこと

ほうれん草を育てるために必要なものには、どのようなものがあるだろうか。ほうれん草を育てようとすると、何を準備するだろうか。

ほうれん草の種は必要だろう。種を蒔くための場所も必要である。他にも、肥料であるとか、鋤や鍬などの道具類も準備した方がいい。

プランターや土、肥料を用意して庭やベランダで栽培することもできるとは思うが、ここでは畑でほうれん草を育てることを考えてみたい。


種を蒔く前には、畑を耕す。鋤や鍬で畑を掘り返す。余談ではあるが、掘り返すという文字を打ったとき、「耕す」は「田(た)・返す」から来ているのではないかと想像した。方言で、ひっくり返すことを「かやす」という。


さて、なぜ畑を耕すのだろうか。


もっとも大きな理由は、土をやわらかくするためであろう。種を蒔くといっても畑の表面にぱらぱらと蒔くわけではなく、土中に種を埋める。土が固いとやりにくい。また、種から芽が出る、根が生えるときに土が固いと成長しにくい。やわらかい土の中に植えることで芽や根が伸びやすくなる。土中に石などの障害物があれば、掘り返すことで見つけやすく取り除きやすくなるだろう。

他の理由として、土と空気と混ぜるということもあるかもしれない。土と空気を混ぜるのでやわらかくなるともいえる。植物の根にも多少の空気は必要であろう。また適度な水分を保つためにも空気が混ざっていた方がよさそうだ。

他にも、雑草の繁殖を防ぐためであるとか、肥料をまいたあとに混ぜるためであるとか、様々な理由があるだろう。


なぜこのようなことに拘っているのかというと、ほうれん草と報連相を関連づけたいためである。

ほうれん草がよく育つように畑を耕す。報連相がよく育つように「畑を耕す」に相当することは何かを探りたい。

きっかけとなるのは言葉である。


「耕す」を英語でいうと、「cultivate」という。cultivateはラテン語のcolereから来ている。このラテン語colereから派生したcultivateとは別の英単語がある。「culture」である。「耕す」ことと「カルチャー(文化)」は同語源の言葉である。ちなみに「農業」を英語でいうと「agriculture」である。

畑を耕すことは、文化といえる。文化という土壌で、報連相が育つと考えてみたい。

2017/03/31

ホウレンソウの育て方(まえがき)その②

「ホウレンソウ」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。

大半の人は、野菜の「ほうれん草」を思い浮かべるであろう。また、会社などでビジネスに関わる人ならば、「報告・連絡・相談」を略した「報連相」を思い浮かべる人もいるであろう。

「報告・連絡・相談」いわゆる「報連相」は、仕事でのコミュニケーションの基本とされている。現在は一人でする仕事はあまりない。会社に勤めたり、チームを組んだり、仲間で集まったりして仕事をしている人がほとんどであり、意思疎通や情報伝達などのコミュニケーションがない状態で仕事をすることは不可能に近い。

書店のビジネス書のコーナーに行けば、報連相を取り扱った本に巡り合うこともしばしばある。「報連相のコツ」や「上手な報連相のしかた」などのタイトルが目立つ。

報連相に関するすべての本の内容を読んでいるわけではないので一概には言えないかもしれないが、それらの本は報告、連絡、相談を「する側」から書かれていることが多いように思う。上手く報告するにはどのようなことを報告すればいいのか、連絡するツールや媒体は何を選べばいいのか、相談する時間をつくるにはどうすればいいのか、など、新社会人向けに報告・連絡・相談のノウハウを紹介する内容である。

報連相を「される側」から書かれたものは少ないように思う。

「報告がない」「連絡をしっかりしてくれ」「事前に相談すべきだろう」など、報連相が少ない、あるいは、もっと詳しい報連相がほしいと思っているのは「される側」の方である。「される側」の方に、報連相についての課題意識、問題意識がある。しかし、書籍などで取り扱われている報連相の大半は「する側」向けの内容であるのは不釣り合いな気がする。「報連相をしたい/もっと上手くなりたい」という人より、「報連相をしてほしい/もっと上手になってほしい」という人の方が多数であると思う。

これから複数に分けて書いていくことは、報連相を「してほしい側」の人向けの内容である。

そして、ひとつの試みでもある。「ほうれん草を育てるように、報連相を育てられないか」ということを考えてみたい。

幸いにも実家は兼業農家で、自家消費用ではあるけれども、ほうれん草を育てている。また、報告・連絡・相談を受ける側にとって共通する「聞く」ということについては、ここ数年仲間とともに修行をしてきている。そのため相談者にも事欠かない。

そして何より、「言葉あそび」が好きで、「ほうれん草の育て方」と「報連相の育て方」をこじつけてみることにワクワクする。

昨日に引き続き「まえがき」のようになってしまったが、そろそろはじめよう。

2017/03/30

ホウレンソウの育て方(まえがき)

以前、思いつきで、『営業畑でホウレンソウを育てるには』というタイトルの本があったら読んでみたいとfacebookに投稿した。



このタイトル自体は思いつきだが、なぜこのようなことを思いついたのかについては経緯がある。


月に1度、とある勉強会に参加している。その勉強会で、各参加者の仕事あるいは得意分野など、1人あたり30分から1時間ほどの発表をすることになった。

参加者それぞれの面識はあり、それぞれの仕事や活動の内容も知ってはいる。しかし、実際に仕事をしている様子などを見たことはない。そのため、プレゼンテーションでもセミナーでも講義でも何でもいいので、それぞれの仕事ぶり活動ぶりを発表してみようという趣旨である。

月に1人か2人、発表をしていく。事前準備が必要であるかもしれないので数ヶ月先までの順番を決めた。私は3月の会で発表することにした。

どんな発表をしようかと考えていたときに出てきたのが冒頭のタイトルである。最初は「ホウレンソウを育てるには」だったが、ビジネスシーンで大切にされるホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)と、野菜としてのほうれん草のイメージを強めるために「営業畑」という言葉を付け加えた。


先日の勉強会が発表の番であった。タイトルは『ホウレンソウの育て方』とした。営業畑の仕事はしたことがない(仕事はすべて営業だ、という考え方もあるけれど)。

内容は、セミナーや研修として開催できるものではなく、一冊の本として出せるものでもないが、小ネタやブログネタにはなりそうではある。発表も終わったことであるし、発表では言いそびれたことも加えつつ、まとめの意味も込めて少しずつ書いていきたいと思う。

2017/03/29

「元」のもと、「本」のもと

「本」という漢字も、「元」という漢字も、どちらも「もと」と読める。

「もと」と読んだときには同じような意味に思えるのに、「本(ホン)」「元(ゲン)」とすると違う意味に思える。

「本気」と「元気」は違う。

手元の国語辞典でのそれぞれの意味は以下であった。

【本気】
〔いいかげんやじょうだんではなく〕まじめな気持ち。

【元気】
Ⅰ①心やからだの活動のもとになると考えられる力。②「元気①」のあらわれた状態
Ⅱ①健康。②「元気Ⅱ①」であるようす。

元気の意味をⅠとⅡに分けているのは、品詞の違いがあるためである。Ⅰは「名詞」として、Ⅱは「形容動詞」として掲載されていた。「元気がある」といえばⅠの意味で、「元気な(人)」といえばⅡの意味で使う。

本気の方は「名詞」と「形容動詞」が併記されていた。

「元気がある」とはいうが、「本気がある」とはあまりいわない。

「元気な人」はおかしくないが、「本気な人」はどうだろうか。「本気の人」という方が多いような気がする。

「本気になる」というと「まじめになる」というような意味で、「元気になる」というと「健康になる」という意味である。「元気」がありのままだとすると、「本気」は集中したような印象を受ける。「元気を出せ」というと励ましとなるが、「本気を出せ」というと叱咤激励のような感じになる。

漢和辞典で調べると、「本」という漢字は指事文字で、「木の根の太い部分に-印や・印をつけて、その部分を示したもので、太い根もとのこと」とあった。一方、「元」という漢字は象形文字で、「兀(人体)の上にまるい・印(あたま)を描いたもので、人間のまるい頭のこと。頭は上部の端にあるので、転じて、先端、はじめの意となる」である。指事文字とは、絵としては描きにくい一般的な事態を、抽象的な約束や印であらわした字で、象形文字は事物の形を描いて簡略化した絵文字であることから、「元」の方は具体的なもので、「本」の方は抽象的なのかもしれない。

2017/03/28

真空

「真空」とは真に空の状態のことで、一般的には空気のない状態のことを意味している。

おそらく古の人々は、何もないという意味で空(そら)に空(くう)の字を当て表現していたのであろうが、空気やその他の、目に見えないものが存在し、それを知ることによって真に空、つまり「真空」という呼び名が生まれたのだと想像する。

人は言葉によってものごとを考え、また他人に伝達し、その世界の把握に役立てているが、その原理とは、ものごとに名を与え、自分自身で制御できる範疇に取り込んでいくということであろう。


しかし、何もない、虚無に名を与えると、それがあたかも存在するように扱ってしまうということがある。

たとえば、「無」という言葉。知らず知らずのうち、「そこには無が存在する」ということがある。「無」というものがあたかも存在しているように錯覚してしまう。

何も存在しないものに名前をつけるなということではない。存在しないものに名前をつけないでいると、世界の大半のものが失われる可能性がある。

ただ、そのことに自覚的でいたいと思う。

真空は何もないために、その状態がポツンとあるわけではない。少なくとも地球上では何らかの物質で場所が占められ、真空は瞬く間になくなってしまう。

2017/03/27

言語観

ものにはなっていないが、学生時代は言語学を勉強していた。特に文法、言語学の分野でいうと統語論に興味をもっていた。

国語の文法の授業では、品詞やら活用やら、嫌いではなくむしろ好きだが、普段何気なく使っている日本語がとても複雑に思える。英語の授業では、第五文型やら仮定法やら、日本語で考えるととてもおかしな、面白い表現などたくさんあった。英語をしゃべりたいとは特に思わなかったが、英語の文法は面白いと思った。そして日本語の文法も。

大学に入ってから、言語学という学問があり、統語論という分野があることを知った。そして、「普遍文法」という考え方があることも知った。

英語も日本語も、人間が話す言語である。同じ人間が話す言語なのに、どうしてこんなにも表現が、文法が異なるのか。この問いに答える考え方のひとつが「普遍文法」である。

人間は「普遍文法」を持っている。しかし、その「普遍文法」にはいくつかのパラメータがあり、そのパラメータが異なることで英語と日本語の違いが生まれる、といった考え方。
ノーム・チョムスキーの『原理とパラメータの理論』である。私が知っている限りでは、チョムスキーの理論はさらに進み、『ミニマリスト・プログラム』という名となっている。今はもっと進んで、さらに変わっているかもしれない。

それはともかく、「普遍文法」あるいは言語の青写真というべきものを人間が持っていて、言語獲得の過程でパラメータが設定されていくという考え方は面白く感じる。

言語能力が先天的な能力なのか後天的な能力なのかはまだ意見がまとまっていない。

ただ人間が言語能力を有していることはいえる。そして言語能力は、認識能力ともつながっていると思っている。

世の中をどのように認識しているかという世界観は、言語観とつながっていると思う。

2017/03/26

時間の言語学

瀬戸賢一さんの『時間の言語学』を読んだ。少し悔しい。というのも、時間の表現について興味深いと思っていたにもかかわらず、深く考察していなかったからである。




『時間の言語学』では、未来から過去へ《動く時間》と、未来に向かって《動く自己》を想定する。そして《動く時間》と《動く自己》は矛盾しない。

時間の〈流れ〉のメタファーを捉えきれていなかったことが悔しい。

本書では、時間のメタファーとして〈流れ〉の他に〈時間はお金〉のメタファーがあるといい、さらに、「持続可能な定常経済を構築すべき時期」として、それにふさわしい新たなメタファーが必要であるとする。

そのメタファーとは、〈時間は命〉というメタファーである。「時間は円環する命」と提案する。

時間は抽象的な概念であり、それを表現するのに空間的な言葉を使う。空間的な言葉で時間を把握する。

メタファーは人間の思考能力の重要な要素であり、私が言葉に興味を持つのもそれが理由である。

2017/03/25

キョロック!

久々にチョコボールを買う。金のエンゼルがいないかと楽しみに開けたがいなかった。

代わりに(ではないが)、エンゼルがいるべきところに、今まで見たことがない切れ込みが入っていた。


「キョロック!」というらしい。くちばしを差し込んでロックできる機能である。


チョコボールは50周年。キョロちゃんは永遠の(?)5歳。箱やくちばしにもまだまだ可能性がある。


森永製菓│チョコボール

2017/03/24

木の成長に印をつける

「木」という漢字は、横棒を書き、縦棒を書き、横棒と縦棒の交点から左下、右下へ斜めにはらった形をしている。象形文字で、立ち木の形を描いたものだという。

木の根の太い部分に印をつけて、その部分を示すと「本」という漢字になる。「根本(ねもと)」の「本(もと)」である。

木の枝の先の方に印をつけるて、その部分を示すと「末」という漢字になる。「梢(こずえ)」とは「木(こ)の末(すえ)」である。

まだ伸び切らない枝を示すと「未」という漢字である。未だ伸び切ってはいない。


儒学の古典である『大学』に次の章句がある。
物に本末あり。事に終始あり。先後する所を知れば則ち道に近し。
木に本末があるように、物に本末がある。

本とは根本(ねもと)であり、根本(こんぽん)である。本質であり、本来である。

末とは梢(木の末)であり、枝葉末節である。花咲くこともあれば、実をつけることもあるだろう。

未とは末まで未だ伸び切っていない。しかし成長すると枝葉となり、花が咲き、実をつける。


本来とは過去を示すことがある。未来は可能性に満ちている。世も末だと終末思想につながる。


未知のことでも既知となる。未から末へと成長する。言葉という葉をつける。

言葉は結果という果実をつける。実は種となり芽を出していく。やがて書物、本となる。

2017/03/23

成功を引き継ぐ

「成功」を英語でいうと、successという。「成功する」はsucceedである。

succeedという動詞からsuccessという名詞が生まれている。

succeedには「成功する」の他に「相続する・継承する」という意味もある。

「相続・継承」は英語でsuccessionである。

つまり、succeedという動詞から、success(成功)とsuccession(継承)という2つの名詞が生まれている。

動詞succeedの語源は、「下に(suc)進む(ceed)」である。「下に進む」という語源から「成功する」と「継承する」という意味が生まれた。


私たちは、過去に生きた人たちから様々なものを継承している。物やお金であったり、土地であったり、無形資産も継承している。社会の仕組みもそうであるし、学問などもソウである。

私たちは、生まれたときから継承しているし、成功している。

2017/03/22

春を探しに出かけよう

3月21日、靖国神社にある標準木の桜が開花したとの発表があった。

3月20日の春分の日を過ぎ、これから昼の時間が少しずつ長くなっていく。

実家では今度の日曜日(つまり3月26日)、稲の種まきを行うと連絡があった。

SNSでは時折、土筆の写真が投稿されている。

朝晩はまだ肌寒い日が続いているが、春が近づいてきている。


三寒四温という言葉が浮かんだ。

3日間寒い日が続き、4日間温かい日が続き、また寒くなり暖かくなる。こうして徐々に春に向かっていく。

冬の季語らしいが、春先に使うことが多くみられる。


WEB上や言葉では春の訪れを感じているが、身の周りではまだ春を見つけられていない。

2017/03/21

コピーと解像度

ITの発達などにより、個人での発信が容易になっている。便利なWEBサイトやアプリも多くなり、コンテンツも多数ある。

そのような中、オリジナルのコンテンツはどのくらいあるだろうか。

コピーが容易にでき、発信も容易であるため、同じ内容の情報が多数ある。情報をまとめ編集したサイトや、キュレーションされた情報も多い。引用もあれば、無断複製もある。

WEBサイトの情報をコピー&ペーストして、レポートなどが作成されるとも聞く。「コピペ文化」というようなことも言われる。


紙媒体での写真のコピーについて、解像度の観点から考えてみたい。

最初のオリジナルの印刷物は、もともとの写真データの解像度とともに、プリンタなどアウトプット機器の解像度によって仕上がりが異なってくる。画像データの解像度がいくら高くても、プリンタの解像度が低ければ、印刷物の解像度は低い。その印刷物のコピーも同じで、印刷物の解像度がいくら高くても、コピー機の解像度が低ければ仕上がりは悪い。

デジタルデータのコピーでは、基本的にそのままコピーできる。

ただし、元データの解像度がいくら高くても、それをコピーする人の解像度が低ければ、仕上がりは悪くなる可能性はあるような気がする。

できるだけオリジナルなものを書いていきたいと思った。

2017/03/19

計画と解像度

解像度とは、画像の密度のことで、単位は「dpi」である。「dpi」は「dots per inch(ドット・パー・インチ)」の略で、一定の長さ(1インチ)あたりどのくらいの点(ドット)があるのかを表している。点があるというよりは、1インチをいくつに分けたか、といったほうがより正確かもしれない。解像度が高いほど点の密度が高く、斜め線や曲線がなめらかな画像であると言える。

解像度を高くすれば高くするほど綺麗な画像となるが、高すぎると人間の目では差がわからなくなる。300dpi以上は見た目にはあまり変わらないらしい。

ただし、拡大した場合は別である。300dpiの画像は1インチに300の点がある画像だが、2倍に拡大すると2インチに300の点がある画像となるので、拡大後の画像は1インチあたり150の点と考えられる。面積を2倍にするのか、正方形の辺の長さを2倍にするのかで数字は変わってくるだろうが、ここでは数字は気にせず、拡大すれば解像度が低くなると考えてもらえればいい。

今までは画像の話だが、「目的」や「ビジョン」などについて考えてみると、画像の解像度と同じように考えられる。

たとえば「長期計画」を例にとってみよう。

10年計画として長期計画を立てたとする。おそらくは大まかな計画になるであろう。長期計画として確認する分には申し分ない。その長期計画で今年の計画を取り出す。今年の部分を取り出したら、月ごとの計画など詳細がわかるようになるのが理想的である。10年計画では大まかな10年計画にふさわしい解像度で、1年計画に拡大したら1年計画にふさわしい解像度で、1ヶ月計画に拡大したら1ヶ月計画にふさわしい解像度で表示されるのが望ましい。解像度は高ければ高いほど、拡大に耐えられる。

しかし10年計画のすべてを高解像度にすると、作成に時間がかかってしまうという難点もある。高解像度にしたとしても、拡大したときには威力を発揮するかもしれないが、高すぎると見た目には変わらないので大まかな計画でもいいと思う。近い将来など拡大する可能性が高い部分から解像度を高くするのが望ましい。

2017/03/18

2045年問題とは問題ではないのでは?

昨日の投稿で、問題とは現状とあるべき姿のギャップであると書いた。

では、最近ときどき見かける「2045年問題」も、現状とあるべき姿のギャップとして定義できるだろうか。

まずはお決まりの口上から。私は専門家ではないので、2045年問題について詳しいことは知らない。

「2045年問題」でWEB検索し、ざっと見たところ、以下のようなことが2045年問題と認識されているようである(以下の引用は日本経済新聞の記事)。
本記事におけるシンギュラリティとは、コンピュータ・テクノロジーが指数関数的に進化を遂げ続けた結果、2045年頃にその未来を人間が予測できなくなるとする仮説のことである。
 人工知能が自らを規定しているプログラムを自身で改良するようになると、永続的に指数関数的な進化を遂げる。この結果、ある時点で人間の知能を超えて、それ以降の発明などはすべて人間ではなく人工知能が担うようになる。つまり、人工知能が人間の最後の発明になるという、仮説である。

結論から書く。

もし現状とあるべき姿のギャップを問題と定義するならば、2045年問題とは問題ではない。

現在、コンピュータ・テクノロジーが発展していることは間違いないだろう。一昔前までは、コンピュータの発達が著しいことを表現して「ドッグ・イヤー」といっていた。先の日経新聞の引用では「指数関数的」という表現がなされている。パソコンなどの性能は年々向上し、最近はAIやIoTなどがメディアを賑わせている。

「現状」はある程度わかるが、「あるべき姿」がどのようなものなのかまだわかっていない。

このままいくと『2001年宇宙の旅』のHALのようなコンピュータが現われ、それを危惧しているということならば「問題」といえる。人類に危害を加えないようなコンピュータが作られているという(明確ではないにしろ)「あるべき姿」があり、人工知能を持ったコンピュータが暴走する可能性があるという「現状」があるので、「問題」と捉えることができる。ただし、その問題のネーミングが「2045年問題」とは思えない。

Wikipediaでの情報だが、技術的特異点(シンギュラリティ)という用語を提唱したレイ・カールワイツは、「100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越する」瞬間のことをシンギュラリティと呼んでおり、それが2045年ごろではないかと予想している。「問題」というよりは「仮説」である。

「2000年問題」は問題であったと思う。コンピュータに内蔵されている時計が2000年を認識できない可能性があり、多くの人々が課題として捉え、解決した。しかし「2045年問題」として言われていることを聞いたり読んだりしても、何が問題なのかがわからない。もしくは別のネーミングをつけた方がよさそうな問題である。

コンピュータ・テクノロジーの「あるべき姿」、あるいは人類の「あるべき姿」を求める方が問題であり課題ではないかとも思う。

2017/03/17

課題を明確にするには

課題解決で大切なことは、課題を明確にすることである。課題が明確でないと、解決はできない。では、課題を明確にするにはどうすればいいのか。その前に「課題」と「問題」の違いを見てみよう。

ビジネスの現場では、問題と課題は違うとよく言われる。では、問題と課題は何が違うのか。

手元の国語辞典では、それぞれ次のように載っていた。

【問題】
①答えさせるために出す、題。
②解決すべきことがら。
③議論の材料(となることがら)。
④世間の注目を集めていることがら。
⑤事情。ことがら。
⑥めんどうな事件。もめごと。
【課題】
①やるようにと相手にあたえる問題。
②解決すべき問題。
③〔スケートで〕コンパルソリー。

注目するのは、課題の「②解決すべき問題」というところである。

問題は個々人によって異なる。問題意識の違いなどとよく言われる。個人のなかでも問題は複数あるかもしれない。その複数ある問題のうち、「解決すべき問題」が「課題」である。課題には解決の意思がある。たくさんの問題があるなかで、「この問題を解決しよう」という問題が課題である。これを「問題の課題化」という。式で表すとすれば「課題=問題+意思」である。

では、問題とは何か。ビジネス書では「現状とあるべき姿のギャップである」と定義することが多い。「あるべき姿」とは、目標であったり、理想であったりする。その目標や理想、あるべき姿と、現状、現在の状況の差が「問題」である。式で表すとすれば、「問題=あるべき姿-現状」となる。

すると、問題を発見するには、「現状」と「あるべき姿」がしっかりとしていなければならない。「現状」と「あるべき姿」があやふやであれば、「問題」もあやふやとなる。

そのため、問題解決あるいは課題解決の方法で一番大切なことは、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」である。「あるべき姿の具体化」は「目標設定」にもつながっている。問題が「現状とあるべき姿のギャップ」であるならば、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」をすることで、問題も明確になる。

問題は複数あることがほとんどである。それは、現状やあるべき姿を明確にするには複数の言葉が必要だからである。一言で表した現状、あるいはあるべき姿はわかりやすいものではあるが、抽象的でもある。現状もあるべき姿もできるだけ具体化、さらに数値化するのが望ましい。そうなれば、さまざまな観点から現状、あるべき姿を描く必要がある。

つまり、「現状把握」→「あるべき姿の具体化」→「問題発見」→「課題抽出」というのが通常の流れであると考える。もちろん「問題発見」が最初でもいい。ただし、問題を発見したときに「現状」と「あるべき姿」もしっかりと認識することが大切である。

「課題=問題+意思」「問題=あるべき姿-現状」であるならば、「課題=(あるべき姿-現状)+意思」である。

課題を明確にするとは、「現状」「あるべき姿」「意思」を明確にすることに他ならない。

そして、「現状」のよりも「解決の意思」が大きければ大きいほど、課題は小さくなることもわかる。

2017/03/16

可能と存在

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を読んでいると、興味深い表現があった。
「つまりね、《○○が可能である》と式で表現するために、∃を使って《○○を満たす数が存在する》と言い換えているんだね」
「何かが《可能》だというのを、数の《存在》に置き換えて表す……」

記号「∃」は、論理記号のひとつで「存在記号(existential quantifier)」と呼ばれている。

ここでは記号のことは置いといて、「可能」と「存在」について、思いつくことを書いていきたい。

特に言葉と意味について。

日本語で「可能」を表現するとき、冒頭の引用のように「○○が可能である」とも言うが、「○○することができる」とか「○○できる」という表現をすることがある。「できる」を漢字で書くと「出来る」、「出て来る」である。何もなかったところから「出で来る」。

可能表現ではないが、「作品ができた」というような表現もある。これは「(もともとはなかったが)作品が出て来た」という意味合いにも受け取れる。

では、例えば「逆上がりができる」なんかはどうだろうか。「(今、実際には逆上がりをしていないが、)逆上がりをする能力を持っている」という意味合いに取れる。目には見えないかもしれないが、その萌芽があることを「可能性」と呼んだりする。「逆上がりをすることができる」というのも、ほとんど同じ意味を有している。


面白いのは、日本語での可能表現では「が」がでてくることである。「私は逆上がりする」という表現を可能表現にすると「私は逆上がりできる」という表現になる。「私が逆上がりをする」とは言えるが、「私が逆上がりができる」とは言えない。

「話す」という動詞の派生語で、「話せる」という可能動詞がある。「英語を話す」など、「話す」は目的語に「を」を使う。これが「話せる」ならば、「英語を話せる」とも言えるし、「英語が話せる」とも言える。実際には今現在、英語を話してはいないが、「英語を話す能力がある」「英語を話す可能性がある」ということである。

何かが可能であることを、可能性があると存在に置き換えて表すことは、数学や論理学に限ったことではない。言葉の上でもそのようなことが言えそうである。

英語でも、助動詞canを使った言い方と、イディオムとしてbe able toを使った言い方がある。be動詞を使っている分、be able toは存在に近い気がする。

日本語での助動詞「れる、られる」は可能の機能も持っている。確証はないが、動詞「ある」から助動詞「れる、られる」が発達したと考えることもできると思う。

だから、どうした?と問われると、思いつきで書いているだけであり、何の役に立つのか、ここからどのような結論が得られるかはまだ考えることができていない。

ただ、可能性は存在していると思う。

2017/03/15

立体的に世界を見る

最近、日本語と英語の違いについてのブログ記事を2つ見つけた。

ひとつは、シゴタノ!「英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること」という記事である。日本語は「ドライバーズビュー」、英語は「バードビュー」であると紹介している。
本書(引用注:遠藤雅義『英会話イメージトレース体得法』)では、日本語は「ドライバーズビュー」であり、英語は「バードビュー」であると主張されており、イラストで分かりやすく提示されているのですが、この説明(およびイラスト)を目にしたとき、「うわ、そういうことか!」と激しく腑に落ちました。
もうひとつのブログ記事は、STUDY HACKER「英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」」である。
結論から言うと、日本語は「自分をカメラにして世界を眺める」言語です。(中略)
一方、まるで幽体離脱のように「自分を外から眺めながら話す」言語、それが英語なのです。

どちらの記事でも同じことを言っている。日本語は「ドライバーズビュー」で「自分をカメラにして世界を眺める」言語、英語は「バードビュー」で「自分を外から眺めながら話す」言語であると。もちろん、どちらが優れている言語か、ということではない。日本語と英語は視点・モノの見方が違うと言っている。その違いを認識すると英語がわかりやすく、使いやすくなるという内容である。

わたしが文法を好きな理由は、文法からモノの見方・視点を学びたいためである。STUDY HACKERの記事内で、それを言い表した文章があった。
実は文法というのは人間の感覚が世界を感じた結果が言葉の中に反映される「現象」なのです。
文法は人間の「感覚」そのものでできているのです。文法というのはルールではなく、一種の心理学のようなものだと考えましょう。
つまり、この世界で自分の周りに起きることを、「感覚がどのように捉えているのか」。文法が表しているのはそれです。

ここでは日本語と英語の比較だが、同じ日本語話者でも「文法」が違うと思っている。もちろん言語には伝達するという機能があるので、大部分は似たようなものだろう。しかし個人差はあると思っているし、個人によって世界の捉え方にも差があると思う。

また逆に人間である以上、英語話者でも日本語話者でも共通部分はある。外界を捉える感覚、五感は共通したものだからである。

人間は目が2つあるから立体的に見えるという。2つの視点から世界を見たとき、人間の捉えている世界がさらに立体的に見えると思う。

【参考記事】
シゴタノ!│英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること
STUDY HACKER│英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」

2017/03/14

うれしい勘違い

一応、といってはなんだが、個人事業主であるため、確定申告をした。平成28年(2016年)分の所得税および復興特別所得税の確定申告は2017年3月15日までである。郵送してもいいのだが、まだ慣れていないため、所轄の税務署に行く。

昨年4月に大阪から名古屋に引越をして、所轄の税務署も変わった。納税地の移動届を提出したときに1度行ったきりで、今回税務署を訪れるのは2回目である。

確定申告の〆切(というのだろうか)が近いため混み合っていたが、無事申告し終わった。


税務署の近くに郵便局があった。

ずぼらなもので、転居届(転送届)は提出しているものの、ゆうちょ銀行の口座の住所変更手続きをしていなかったことを思い出した。いや、思ってはいたのだが、郵便局に行くついでにやろうとしていて、印鑑を持っていなかったり、免許証など本人確認ができるものを持っていなかったりして、延び延びになってしまっていた。今回は確定申告のために印鑑も免許証も持っていたので、住所変更の手続きをしようと郵便局に行った。自宅近くにあるゆうちょ銀行のATMでは通帳の繰越ができず、通帳記入もしばらくしていなかったので、通帳繰越もやってもらった。

名前を呼ばれたので窓口に向かった。

「ご住所の変更と通帳の繰越をいたしました」と窓口の方が言い、新しい通帳と古い通帳を手渡してくれる。「未記帳分も記入しています。普通預金と定期預金と」

思わず「えっ」と声をあげてしまった。「定期預金、あるんですか?」

「ええ、ありましたよ。今年満期ですので、またよろしければお願いします」


会社を辞めたのが2014年の7月末。のんびりと貯金を切り崩しながら生活をしていた。何度か定期預金を解約した。すべて解約したと思っていた。

しかし、まだひとつ残っていたようだ。もともと手元にあったものであるが、臨時収入があったような気分になりうれしくなった。


ふと思う。

自分の強みなども同じなのではないか。もともと持っているものではあるが、ないと思い込んでしまっていて、それが発見されたときには同じようにうれしくなるのではないか、と。

自分の強みの通帳記入をしに行こう。自分を更新しに行こう。

2017/03/13

『(ら)れる』のコーチング論(3)ー行動と感動

感動について考えていると、漢字からの連想で「行動」という言葉が出てきた。「動」という共通の漢字が含まれているので、「行動」と「感動」は対比しやすいのではないかと考えはじめた。

連想は続く。今回も結論はない。


能動態、受動態を英語でいうとそれぞれ active voice、passive voice という。activeはact(行為)からの派生語、passiveはpassion(情熱)と関連する語であるため、行動と能動態、感動と受動態を結びつけることはできないだろうかとも考える。


以前、「『(ら)れる』のコーチング論」というのを考えようとしていたことがある。

1回目では、「受身」「被害」「自発」「可能」「尊敬」は関係があることを、2回目では、クライアントに「動作主」になってもらうことがコーチングの目的ではないか、ということを述べた。3回目をしばらく書いていなかった。

(1回目と2回目はこちらから)
『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬
『(ら)れる』のコーチング論(2)


「行動」は身体的、「感動」は精神的である。行動から感動が生まれ、感動から行動が生まれるとしよう。クライアントが行動する側ならば、コーチは感動する側である。クライアントの行動にコーチは感動し、コーチの感動にクライアントは行動する。このような循環が起こればいいと思う。


今回、『(ら)れる』のコーチング論の3回目だが、わもんな言葉で少し触れたことがある。
わもんな言葉69-人が走り出す
「言語の中の『離我』を捉えようという試み」という言葉があった。

そのものの本来の輝きに触れたときに人は感動する、というのが昨日の記事の一応の結論である。

クライアントの本来の輝きに触れたときにコーチは感動する。

コーチはクライアントの行動や言動を見たり聞いたりする。

「受身」や「被害」を抑え、「自発」「可能」「尊敬」を活かす。

『(ら)れる』のコーチング論が、わもんに近づいている。

それとも、『(ら)れる』のコーチング論を、わもんに近づけているのか。

2017/03/12

感動について

人は何に感動するのだろうか。ふと、こんなことを考えた。

大自然を見て感動する人もいれば、建物を見て感動する人もいる。誰かの話で感動することもあるし、音楽を聞いて感動することもある。新しい命の誕生に感動したり、成長に感動したりする。映画や小説、漫画など、人工的なものでも感動する。

今のところ、ありきたりな言葉かもしれないけれど、そのものの本来の輝きに触れたときではないかと思う。

では、本来の輝きとは何かと問われても、答えようがないので、まだ深掘りする必要はある。


感動とは何だろうか。

手元の辞書には、「ものごとに感じて起こる、精神の興奮。深く感じ入ること。」と書かれている。わかるようなわからないような意味である。

「感動」は、「感」じて「動」くと書く。「感動する」と「感じる」では意味が違う。「感動する」と「動く」でも意味が違う。何かを感じて行動するというのもしっくりこない。

先ほどの辞書の意味に「深く感じ入ること」とあった。「感じ」「深く入る」こととすれば、感動の「動」は「深く入る」ことになる。


言葉のかたちをあれこれと述べていても「感動」はわからない、と言われそうだが、感動は自分にしかわからないように思う。誰かが感動しているかいないかなどはわからない。涙を見せていたり、何かに見入っていたりすると、ひょっとしたら感動しているのかも、と推測することはできる。

感動を見ることはできないし、聞くこともできない。臭うこともできない。

ただ、感動に触れることはできそうな気がするし、感動を味わうことはできる。

2017/03/11

ハチに刺されたとき

今までで2度、蜂に刺されたことがある。

初めて刺されたのは小学生のとき、クマバチ(田舎ではクマンバチと呼んでいた)に刺された。

夕暮れ前だったと思う。縁側に布団があった。布団の近くには洗濯物があった。日が陰ってきたので干していた布団と洗濯物を取り込んで縁側に置いていたようだ。

布団の上に寝転んだ。気持ちがいい。

そのときはジーパンにトレーナーという服装だった。このまま一眠りしようと思ったが、寝返りをしたりするとジーパンの留め具やリベットが当たって気になったので着替えることにした。洗濯物の山のなかにジャージを見つけたのではき替えた。

右足がチクッとした。

最初、マチ針か安全ピンかなにかがジャージに刺さっていて、それに触れたのだと思い、ジャージを脱ぎ、右足の裾のあたりを観察した。それらしきものはついていない。

ジャージを振ってみると、ジャージの腰の部分から、黒く丸々と太ったクマバチが、ブーンという音とともに飛んで出た。細かく速く羽ばたいているのに、飛んでいるクマバチ自体のスピードは遅く、太りすぎじゃないかと感じた。

縁側のガラス戸を開け、クマバチを追い出した。自分の右足を見ると、チクッとところを中心に赤く腫れていた。

笑いながら「ハチに刺された」と母親に言うと、祖母からアロエをもらってきて、皮を剥いで患部に塗った。


2度目は、バカな経験だと思う。多分アシナガバチだろう。

友人の家へ遊びに行き、虫取り網で友人の家の庭にいる虫を捕まえて遊んでいた。調子に乗って、花の上を飛んでいるハチを網で捕らえた。トンボの羽を合わせてつかむように、アシナガバチの左右の羽を合わせつかみ上げると、ハチの体は腰のところで器用にクニャリと曲がり、尻の先端の針で人差し指を刺した。自分のバカさ加減に笑った。

「アロエ、ある?」と友人にきくと、「アンモニア水ならある」と家の中からアンモニア水を持ってきた。そのとき初めて、ハチに刺されたら小便をかけろ、と聞いた意味がわかった気がした。


ハチに刺されたときのアロエや小便は、民間療法のようである。意味がないという話も聞いたことがある。ただ少なくとも患部を冷やすくらいの効果はあるとは思う。無意味ではなく効果が小さいというくらいに思っておいたほうがいい。

こんなことを書いていると、もし今ここでハチに刺されたらどうするだろうかと考えた。アロエは近くに見当たらない。アンモニア水も持っていない。小便もすぐには出ないだろう。ではどうするか。

刺されたところを水で冷やすと思うが、その前に、笑いそうな気がする。

2017/03/10

「気づき」はたくさんあるけれど

こんな例を見てみよう。

朝、家を出て駅まで行った。定期券を出そうとカバンのポケットを探ったが見つからない。そういえば、昨日は違うカバンで出かけていた。おそらくそのカバンの中に入っているだろう。今日は切符を買って電車に乗った。用事をすませて家に帰り、昨日使ったカバンの中を確認すると定期券が見つかった。

ありがちな話である。

この例の中にも「気づき」があると言えばある。

たとえば、
  • カバンに定期券がないと気づいた。
  • 昨日使ったカバンに入っているだろうと気づいた。
  • 切符を買えば家に戻らなくてもいいことに気づいた。
など。

これらは気づきではないと言えば気づきではないと言えるが、気づきと言えば気づきだろう。とりあえず、「ありきたりな気づき」と名付けよう。

では、「気づきを得た」と言うときの「気づき」とはどんなことだろうか。

手元の辞書には「気づき」の項がなく、「気づく」の名刺形として掲載されている。「気づく」には以下の意味が載っていた。
  1. 注意がそちらに向いて、ものがあることや変化したことを知る。気がつく。
  2. 正気に返る
今まで注意を払っていなかったところに注意が向いて、ものがあることや変化したことを知ることのようである。

「こんなところに花が咲いていた」など、多少の驚きや感動が伴うとさらにふさわしく思う。

冒頭の例では、駅に行くまで定期券に注意を向けていなかった。改札ではじめて定期券に注意が向き、定期券がないことを知った。昨日使ったカバンに注意が向き、そこに入っている可能性が高いことを知った。電車に乗るには切符があればいいということに注意が向いて、家に戻らなくてもいいことを知った。

カバンを変えた時点では、定期券のことに気づかなかった。この気づきがあれば、「ありきたりな気づき」はなかったのかもしれない。

気づいてばかりの人は、さらなる気づきを求めていこう。もう気づきはないと思うところまでいくと、大きな気づきが得られると思う。

2017/03/09

山羊座とパニック

山羊座の山羊を描くときは、上半身が山羊、下半身が魚の姿で描かれる。

そこにはギリシア神話での物語がある。

詳しくは覚えていないが、ギリシアの神々が宴会か何かをしていたとき、突然怪物テュポーンが現れた。神々は思い思いに逃げる。鳥に変身して空を飛んだり、足の速い動物に変身して走って逃げたりした。逃げる神々のなかには牧神パンもいた。パンは通常、上半身が人間、下半身が山羊で、山羊の角を生やした姿である。

パンは魚に変身して川に逃げようとした。しかし、慌てていたため、上半身は山羊、下半身は魚になって逃げたという話である。

なぜ逃げ惑う姿で、中途半端な変身の姿で星座となったのかは知らない。


このような話を覚えているのは、私が山羊座であることが大きい。

そしてもうひとつ、この物語が「パニック(panic)」の語源とされているからでもある。パニックは、牧神パンが慌てて逃げ惑う様子である。


山羊座の物語にも、パニックの語源にも諸説あると思うが、細かく調べたりするとパニックを起こしそうなので、今回はこの辺で逃げる。

2017/03/08

地上の星座

星座が好きだった。星空を眺めて星座を見つけることが好きだった。

オリオン座の三ツ星やおおぐま座の北斗七星などは見つけやすく、夜空を見上げると無意識に探すことが多かった。

星座を覚え、一等星の名前を覚えた。

星座への興味は、その星座にまつわる物語へと進む。

中学生・高校生のころはあまり本を読まなかったが、ギリシア・ローマ神話だけは読んだ。

神話のなかで活躍する神々や英雄たちが星座として夜空にいることで、星座を見る楽しみが増えた。

大学入学を機に、愛媛から大阪に出て一人暮らしをはじめた。

夜空の星が少なく感じた。代わりに地上が明るかった。

大学が山の方にあったので街を見下ろすことができた。

夜空の星を見上げることが少なくなり、街の夜景を見下ろすことが多くなった。


空想する。

夜空にいた神々や英雄たちが地上に降りてきたのではないか、と。

夜景のなかに星座を探した。物語を探した。


探せば見つかる。

ギリシア神話の神々や英雄たちのように活躍する人たちが。

活躍を彩る物語が。


ニーチェは「神は死んだ」と言った。

地上に降りてきたのではないだろうか。

全知全能の神が、八百万の神々となり地上で人の姿で生きている。

いろいろな物語を生み出していく。

2017/03/07

ひとはなぜ戦争をするのか

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄について、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」

もし自分がこのような依頼を受けたならば、誰に、どのような事柄について、意見を求めるだろうか。

この問い(と言ってもいいだろう)を目の前にすると、今の文明についてはおろか、もっとも大事だと思われる事柄や、意見を交換したい相手など、何も見当がつかない自分に気づく。自分ならば「少し考えさせてほしい」と、その場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。


アインシュタインは、この依頼を受けた。

国際連盟からの依頼。選んだ相手はフロイト。テーマは「戦争」。

今回のブログのタイトル「ひとはなぜ戦争をするのか」は、アインシュタインとフロイトの往復書簡を収録した本のタイトルである。

アインシュタインがフロイトに手紙を出したのは1932年7月、フロイトからの返信は同年9月。書簡を交わした当時は二人ともドイツにいた。

往復書簡がなされた1932年は、ナチ党が第1党となった年である。翌年にはヒトラーが首相に、さらに1934年には大統領職も得て総統となる。第二次世界大戦のはじまりとされるドイツ軍のポーランド侵攻は1939年9月。往復書簡を交わした後すぐに、アインシュタインはアメリカへ、フロイトはイギリスへ亡命する。二人ともユダヤ人である。

二人とも第一次世界大戦(1914-1918)も経験しているであろう。「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄」が「戦争」であったことは当然かもしれない。

アインシュタインにとって戦争についていちばん意見を交換したい相手がフロイトだった、というのがすごいと思う。


だれもが戦争の問題を解決しようとしているができていない。人間には本能として破壊への衝動の欲求があるのではないか。人間の衝動に精通している専門家に聞きたい。戦争を避けるにはどうしたらいいか。

アインシュタインがフロイトに意見を求めた理由は、簡単に書くと、このようになる。

フロイトはこの問いに対して、精神分析の欲動理論を中心に意見を返す。

人間の攻撃性を取り除くことはできない。なので、人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよい。戦争を克服する間接的な方法が求められる、と。

かなり省略するが、結論として「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」とフロイトは言う。
文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安――この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。

アインシュタインとフロイトのやり取りから半世紀以上たった。第二次世界大戦は終わり、大規模な戦争は今のところない。「将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安」は、ある。

もう一つの「文化の発展が生み出した心のあり方」はどうだろうか。

そして、いつになったら「戦争の終焉」といえるだろうか。

「少し考えさせてほしい」と、この場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。

2017/03/06

実験的経験的体験

「森博嗣さんの小説にね、『実験的経験』って本があるんですよ」

「あ、読んだことあります。あれって小説ですかね?」

「ボクが読んだのは文庫本だけどね、そのオビには『小説を飛び越えた新しい小説のカタチ』とか『超小説』とか書かれているから、小説だね」

「超小説? 小説を超えちゃったら小説ではないのでは?」

「いや。たとえば『超スピード』は、とてつもなく速いという意味だろう。程度の差があるだけで、スピードはスピードだよ」

「超小説も程度の差ということですね」

「『サラダうどん』はうどんの一種で、『うどんサラダ』はサラダの一種だからね。『超小説』も小説の一種だよ」

「なんか、本題から外れていっていませんか?」

そもそも本題から外したのはキミだろうとボクは思ったが口には出さなかった。代わりにちょっとした疑問が湧いた。

「キミの名は?」

「いきなり話が飛びますね。映画の話ですか?」

「いやいや、映画の話をするなら二重括弧で括るよ。『君の名は?』って」

「そんなこと、会話ではわかりませんよ。二重括弧とか、カタカナと漢字の違いとか」

(わかっているじゃないか……。)

(また本筋から逸れていますよ……。)

「……キミは心が読めるのかい?」

「心は読めませんが、文字は読めます」

だったら話が早い。普通に書けばいいということだ。

「まあ、そうですけど……。それだと会話をはじめた意味がなくなってしまうのではないですか?」

また話がズレていく。そもそもキミは「本題から外れる」とか「本筋から逸れる」と言うが、ボクが書こうとしている本題や本筋が何なのかわかっているのか? それならば、会話をはじめた意味もわかるのではないか?

「だから、こうしてつきあっているんじゃないですか」

そうだね。読んでくれてありがとう。

2017/03/05

「わかる」と「できる」

「わかる」と「できる」は違う、とよく言われる。わかっていてもできないことはたくさんあるし、できていてもわからないこともたくさんある。

では、「わかる」と「できる」の違いは何か?

「わかる」ということは頭で理解している、「できる」ということは身体で理解している、ということもできる。また、「わかる」ということはINPUT、「できる」ということはOUTPUT、ということもできる。

ここではちょっと視点を変えて、言葉の面から考えてみたい。

「わかる」という言葉は「分ける」という言葉と関係している。「わかる」を「分かる」と漢字で書くこともある。「わかる」と似たような意味を持つ言葉として、「理解(する)」とか「分別(がある)」とか、「判断(する)」など、2つ以上のものに分けるような言葉もある。何か対象を分けて、分析して、理解して…、というようなイメージである。

一方「できる」は、漢字で書くと「出来る」と書く。「出で来る」で「出来る」。また「できる」という語には、「作る」という意味もある。料理ができる、作品ができる、といったように。何かいろいろな材料から新しいものを作るという意味でである。

方向のイメージとして、「わかる」は上から下へ、「できる」は下から上へというイメージもある。あるいは、「わかる」は外側から内側へ、「できる」は内側から外側へ、というイメージもある。

「わかる」という言葉から連想されるのは「知識」、それと呼応させると「できる」という言葉から連想されるのは「スキル(技術)」。知識を形容するとき、「深い知識」「浅い知識」という。一方、スキルを形容するときは、「高いスキル(技術)」「低いスキル(技術)」という。

思考力は深め、行動力は高めたい。

2017/03/04

息づかいが激しい

ふとしたことから、「息」を使った慣用句を検索した。さまざまな慣用句がある。(weblio辞書「息の慣用句」

その中のひとつ「息が合う」。意味は、ともに事をする二人以上の間で気分がぴったりと合うことである。

コーチング・スキルのひとつに「ペーシング(pacing)」というのがある。文字通りペースを合わせるである。「息を合わせる」と言い換えることができる。

呼吸を合わす」という言葉もある。相手と調子を合わせることである。「呼吸を計る」ことも必要だろう。

また「息が切れる」という言葉があれば、「息が続く」という言葉もある。「息が切れる」は、物事を長く続けられなくなること、「息が続く」は、物事を長く続けることができること。

息を呑む」と驚くのに、「呼吸を呑み込む」と、物事をうまく行うための微妙な調子を会得する。上手く呑み込めず「息が詰まる」と緊張する。「息を詰める」と「息を凝らす」も同じく緊張する。「詰まる」は自動詞だが、「詰める」「凝らす」は他動詞である。

息筋張る」は怒ることだが、「息精張る」は全力を出すこと。青筋を立てるよりは、精を出した方がいい。

息が長い」は、活動期間や価値を保っている期間が長いという意味である。 冒頭のリンク先の一覧には載っていないが「息が短い」もあるだろう。

息を殺し」ても死なないが、「息の根を止める」と死んでしまう。「息を吹き返す」ことはあるかもしれない。

消息」は「息を消す」と書くが、手紙や便りのことである。「消息を断ち」、「息を潜め」るのは、「息がかかる」のを避けているのかもしれない。

息もつかせず」書いてみたが、そろそろ「(ひと)息つこ」う。「息が弾ん」できた。「息を入れ」ても「息を抜い」ても「息を継い」でも一休み。

一休み ほっと一息 息白し

さて、この記事には「息が通っ」ているのかどうか。

2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

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