2019/06/04

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(4)

(前回はこちら

前回最後に引用した部分です。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
詩や画、そして音楽や彫刻などの芸術作品というものは、住みにくい世から住みにくい煩いを引き抜いた世界をまのあたりに写したものだといいます。そして、細かいことをいえば、写さなくともいい、とも。

詩や画や音楽や彫刻などは、芸術家の手によって、紙に書かれたり、描かれたり、あるいは音として、形として、他の人の目にも見えるもの、耳に聞こえるものとして表現されています。実際にどのような機構で芸術作品が生み出されるのかということの実感はありませんが、便宜上段階的に説明をすると、「住みにくき世」から「住みにくき煩い」を引き抜いた「難有い世界」を感じ得て、それを「まのあたりに」かたちにする、ということになります。インプットとアウトプットと言ってもいいかもしれません。「写さないでもよい」というのは、アウトプットしなくてもよい、という意味です。「只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く」のです。「キュウ鏘の音は胸裏に起る」「五彩の絢爛は自から心眼に映る」のです。

「まのあたりに見る」対象は、「難有い世界」です。住みにくい世から、住みにくい煩いを差し引いたものです。「澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば」それでいい。「澆季溷濁」とは、「道徳がすたれて軽薄な末の世にして、汚れ濁っていること」と注にありました。『草枕』冒頭部分に呼応させてみれば、「住みにくき煩い」「澆季溷濁の俗界」というのは、「知に働けば~」「情に棹させば~」「意地を通せば~」というようなこととなります。

詩を作っていない「無声の詩人」、絵を描いていない「無色の画家」は、人の世を住みにくい煩いを差し引いて観じることができる点、煩悩を解脱している点、清浄な世界に出入りできる点、住みにくい世界とは同じようで違う世界を打ち立てている点、我利私欲との結びつきを断ち切っている点において、あらゆる人々よりも幸福である、と説きます。

人の世は住みにくいかもしれない。しかし、この住みにくい世の中で、住みにくき煩いを差し引いて感じることができる人たちがいる。その人たちがそんな世の中を表現したものが芸術作品であり、そんな人たちが芸術家であるということです。

では、続いていきましょう。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。――喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。之を切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えて居る。背中には重い天下がおぶさって居る。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
『論語』の「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。~」という句を意識しているのでしょうか。語り手は、20年生きて住む甲斐ある世の中と知り、25年になると明暗は表裏のようなもので、日のあたるところには影がさすと悟ります。陽と陰ですね。そして30年生きてきた今日ではこのように思っている、と続きます。

ここまでが、坂道を登りながら考えたことです。しばらくするとまた考えはじめますが、少し休憩です。そして初めて、語り手としての「余」が登場します。
 余の考がここ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸いと何の事もなかった。

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