2020/07/31

ウーティス発見伝

『英語遊び』を読んで、もう一つ。予想(というより希望か)はしていたけれども、思いがけず出くわしたもの。「ウーティス」についてである。

ホメロスの『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスの冒険譚のひとつに、キュプロクス挿話がある。キュプロクス(一つ目の巨人)の住む島に流れついたときの話で、オデュッセウス(とその仲間)はキュプロクスのひとりポリュペーモスに捕まるが、うまく逃げだした話である。

話の詳細は省くが、オデュッセウスはポリュペーモスに名前を聞かれ、「ウーティス」と答える。そしてポリュペーモスの一つ目を突き逃げ出す。やられたポリュペーモスは叫び狂う。仲間のキュプロクスたちから「誰にやられた?」と問われたとき「ウーティスにやられた」と答える。しかし「ウーティス」というのは、英語で Nobody という意味で、「ウーティスにやられた」というのは「誰にもやられていない」という意味となる。なので、仲間のキュプロクスたちの助けが得られなかった。

この話を読んだとき、おもしろいと思ったのだが、この「ウーティス」を日本語に訳すのはむずかしいと思った。訳注を読んでやっと「おもしろい」と思えたのだ。英語だったら「ノーバディ」という名前はちょっと苦しいかもしれないが、「ノーマン」とすればいいだろう。しかし日本語ではどうか。「名無しの権兵衛」(『ついでにとんちんかん』という漫画に習志野権兵衛というキャラクタがいたと思う)とか「笹内(刺さない)という苗字はどうか」とか考えたが、これといったアイデアは浮かばなかった。

しかし、柳瀬さんの書いた本を読んだとき、柳瀬さんなら訳せるのではないかと思った。というより「もう訳しているはずだ」と勝手に思った。訳すというよりは「もう考えているはず」の方が適切かもしれない。

完訳とはならなかったが、柳瀬さんはジョイスの『ユリシーズ』を訳していた。ユリシーズは、オデュッセウスの英語名である。柳瀬さんが『オデュッセイア』を知らないはずはない。読んでいないとしても、キュプロクス挿話やウーティスの話は有名であるので知っているはずだ。そして知っているならば、考えていないわけがない。

ただ、柳瀬さんがギリシア語を知っていたかどうかは知らないが、「翻訳は実践である」という柳瀬さんが「ウーティス」のところだけ取り出して「こう訳すことができる」と述べることはないだろうとも思っていた。このようにいうときは、ホメロスの『オデュッセイア』を全訳すると決めたときか、まったくの余談としていうかのどちらかであろうと。

そして、『英語遊び』のなかで「ウーティス」に出会った。柳瀬さんは「想像をたくましくして」3通りの訳(訳というよりは、翻訳の方向性みたいなもの)を示していた。どれも、なるほど面白いと思えるものだ。

しかしそれよりも、驚いたことがある。柳瀬さんが書いている次の文である。
名前といえば、話は飛ぶが――というより、話を故意に古代ギリシアへもっていくと、名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた英雄がいる。ホメロスの大叙事詩『オデュッセイア』の主人公、オデュッセウスだ。
名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた?!

私はずっと、オデュッセウスはとっさの機知により「ウーティス」と名乗ったと思っていたが、どうやら、名前を聞かれたオデュッセウスは「名乗るほどの者ではありません」というという意味で「ウーティス」といい、ポリュペーモスが「そうか、ウーティスか」と勘違いをしたということらしい。機知が身を助けたと思っていたが、偶然助かったと考えられるのか……。

ジョイスの『ユリシーズ』第12章は「キュプロクス挿話」と呼ばれていて、柳瀬さんが語り手は犬ではないかという「発犬」をしたことは有名である(『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』参照)。「ウーティス」がオデュッセウスの機知ではなく、ポリュペーモスの勘違いであることを知ったとき、私のなかで「発犬伝」とつながった。だから「キュプロクス挿話」なのだと。(この辺りを書いていると、どんどん長くなりそうなので、今日はこれくらいに)


2020/07/30

語呂つきシェイクスピア

柳瀬尚紀『英語遊び』のなかに、シェイクスピア作品についての言及があった。
英語圏の最大の語呂つきは、いうまでもなくシェイクスピアだろう。語呂つきの元締めのごときこの大物は、おびただしい数の語呂つきを世に送った。
ここでは、2つの例を挙げている。ひとつは『ロミオとジュリエット』のマーキュシオの例、もうひとつは『十二夜』のサー・トービー・ベルチの例である。柳瀬の訳ではなく、小田島雄志訳が掲載されている。

幸い手元には、松岡和子訳のシェイクスピア全集(ちくま文庫)があるので、該当の個所を比べてみたい。以下に引用する英文と小田島訳は、柳瀬の『英語遊び』からの孫引きである。

まずは『ロミオとジュリエット』。第3幕第1場で、マーキュシオはティボルトに剣で刺される。そのときのマーキュシオの台詞である。
……ask for me to-morrow, and you shall find me a grave man.
『英語遊び』にある小田島訳は以下。
ためしに明日、おれを訪ねてみろ、はからずも墓に眠る変わりはてたおれの姿をみとめるだろう。
松岡訳は次のようになっている。
明日、俺に会いにきてみろ、はかなく墓に納まってるよ。
grave が「大真面目な、おごそかな」という意味であると同時に「墓」の意味でもあることをつかったマーキュシオの台詞であるが、小田島も松岡も、語彙は異なるものの「はからずも」「はかなく」と「墓」と掛けた言葉を使っている。

『十二夜』はマライアとトービーの会話。第1幕第3場より(人名の太字は筆者)。英語の説明は省略。
Maria   By my troth, Sir Toby, you must come in earlier o' nights: your cousin, my lady, takes great exceptions to your ill hours.
Sir Toby   Why, let her except, before excepted.
Maria   Ay, but you must confine within the modest of order.
Sir Toby   Confine! I'll confine myself no finer than I am: these clothes are good enough to drink in; and so be these boots too: an they be not, let them hang themselves in their own straps.
小田島訳は以下(人名の太字は筆者)。
マライア それより、ねえ、サー・トービー、毎晩もっと早くお帰りにならなくては。あなたの姪のお嬢様も、あんまり遅いんでご機嫌が悪いわよ。
トービー こっちはキリスト紀元以来のいい機嫌なんだ、いいかげんにしろと言いたいな。
マライア でも限度ってものがあるわ、それを越えないようご自分に言いふくめることね。
トービー いいふくめる? おれの服はいい服だぜ、ふくいくたる酒を注ぎこむこのふくよかな腹を包むにゃ不服はない。靴だってそうさ、この靴がおれにキュークツな思いをさせるなら、屈辱を感じててめえの靴紐で首を締めればいいんだ。
マ「ご機嫌が悪い」、ト「紀元以来のいい機嫌」、マ「言いふくめる」、ト「いい服……ふくいくたる……ふくよかな……不服はない。靴だってそうさ……キュークツ……屈辱……靴紐」と語呂つく。

松岡は次のように訳している。
マライア それよりね、サー・トービー、夜はもっと早くお帰りにならなきゃ。あんまり遅いんで、お嬢様はおかんむりですよ。
トービー へん、何がおかんむりだ、早帰りなんざ無理だ。
マライア だけど、限度ってものがあります。少しは身をつつしんでいだかかなきゃ。
トービー 身をつつしむ? これ以上いい服に身を包むなんざごめんだね。酒飲みの土手っ腹包むにゃこれで十分。靴だってそうだ、この靴が理屈こねて俺を退屈させるようなら、てめえの靴紐で首くくれってんだ。
こちらは、マ「おかんむり」、ト「無理」、マ「身をつつしんで」、ト「身を包む……土手っ腹包む……。靴……理屈……退屈……靴紐」と語呂つく。引用して気づいたが、「つつしんでいだかかなきゃ」は「つつしんでいただかなきゃ」の誤植だろうか。

松岡は「訳者あとがき」で次のように書いている。
翻訳の過程で、自分でも思いがけないほどノッたのは、磊落さの化身、サー・トービーの台詞。彼一流の言葉遊びを訳すのはひと苦労だったけれど、ファイトの湧く楽しい作業だった。
『十二夜』には、このブログで引用したところ以外にも、言葉遊びはまだまだありそうだ。もちろん『十二夜』以外にも。 語呂つくシェイクスピアも楽しみたい。
 

2020/07/29

苦労す稚句にチクチク弄す

昨日「ああ苦労す知句」とつけた記事の最後に、自作のアクロスティック(ああ苦労す稚句ともいえる)を載せている。清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」にあった「柳瀬買い」という語句をつかった、柳瀬尚紀さん、清水義範さんへのオマージュのつもりである。

ところが、柳瀬さんの『英語遊び』を読み、清水義範さんの文庫解説を読むと、アクロスティックではないが、「柳瀬買い」が使われていた。「使われていた」と書いたけれども、使ったのはこちら(私)である。(以下の引用文の太字部分は、実際は太字ではなく傍点がふってある。)
 こういう怪人を見て、こういう怪書を読んでしまえば、私がかつて『船が洲を上へ行く』という短編の中にこっそりとしのばせておいた言葉遊びを、もう一度やりたくなるのである。
「英語に弱い人間にはこの世はやな世界だけれど、こんなに楽しい文庫本が出てしまったからには、だんぜん柳瀬買いである」
もともと「船が洲を上に行く」で使われていた箇所も、「やな世界」という言葉を文字って「柳瀬買い」と書いていて、清水さんが文庫解説を書いているのは知っていたので、解説のなかで「柳瀬買い」を使うことは予想できたはずなのに、予想しなかった自分が悪い。いや、悪くはないが、決まりが悪い。


2020/07/28

ああ苦労す知句

ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』の巻頭に次の詩がある。柳瀬尚紀による訳も続けて引用する(ちくま文庫『シルヴィーとブルーノ』より)。
Is all our Life, then, but a dream
Seen faintly in the golden gleam
Athwart Time's dark resistless stream ?

Bowed to the earth with bitter woe,
Or laughing at some raree-show,
We flutter idly to and fro.

Man's little Day in haste we spend,
And, from its merry noontide, send
No glance to meet the silent end.

あらゆるわれらの人生は、すると夢にすぎないか
一条の金色の光の中にかすかに見えるのみか
残忍な時の暗流をよぎって

暴虐なる憂いに頭をたれ、あるいは
浮かれ気分で覗き眼鏡に笑いはしゃぎ
漫然とわれらうろつくのみ

慌しく人の短き日を過ごし
いとも陽気な真昼から、われら
ざわめきの絶える終わりを一瞥もせず
この詩はアクロスティック(acrostic)になっているという。各行の最初の文字を順に並べると Isa Bowman となる。Isa Bowman はキャロルのガールフレンド(少女友達)の名前である。さらに正確には double acrostic となっていて、各連の最初の三文字をあわせても Isa Bowman となる。各行の最初の文字を太字に、各連の最初の三文字を赤文字にしたものを以下に挙げる。
Is all our Life, then, but a dream
Seen faintly in the golden gleam
Athwart Time's dark resistless stream ?

Bowed to the earth with bitter woe,
Or laughing at some raree-show,
We flutter idly to and fro.

Man's little Day in haste we spend,
And, from its merry noontide, send
No glance to meet the silent end.
柳瀬は Isa Bowman を「アイザ・ボウマン」と読み(正確な読みはわからないらしい。「アイサ」かもしれないし「イサ」かもしれない)、各行の冒頭を「ア・イ・ザ/ボ・ウ・マ・ン/ア・イ・ザ」となるように訳している。

さらに柳瀬は、「こう翻訳した本人が、いまひとつ気に入らない」として、『英語遊び』のなかで「総ひらがな方式」での訳を挙げている。
ありとあらゆるわれらのじんせ
いはするとはかなきゆめにすぎ
ざるかときのあんりゆうにうす
ぼんやりひかるがみえるのみか
うれいごとにこうべをたれはた
またのぞきめがねにたわむれあ
んいにひびをおくるわれらなり
あわただしくもひをすごしつつ
いちべつすらあたえることをせ
ざるなりおわりなるちんもくに
漢字交じりの文で書くと、「ありとあらゆるわれらの人生は、すると、はかなき夢にすぎざるか、時の暗流にうすぼんやり光るが見えるのみか、憂いごとに頭をたれ、はたまた覗き眼鏡にたわむれ、安易に日々を送るわれらなり、あわただしくも日を過ごしつつ、一瞥すら与えることをせざるなり、終わりなる沈黙に」となる。

こんなものを見せられると、何かつくってみたくなる。「やなせなおき」でつくってみる。
やなせかいとひらがなでかくとや
なせかいとよみがちなのであとで
せいかくにかんじをかかなければ
なおきまりわるくぼくのこころは
おれそうになるもののかんじをか
きあらわすならやなせかいである
まったく詩的ではなく、私的な文章となった。「やなせかいと平仮名で書くと、嫌な世界と読みがちなので、あとで正確に漢字を書かなければ、なおきまり悪く、僕のこころは折れそうになるものの、感じを書き表すなら柳瀬買いである。」

なお「柳瀬買い」は、清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」より拝借した。「船が洲を上へ行く」が収録されている短編集『私は作中の人物である』(講談社文庫)の解説を柳瀬さんが書いていることは知っていたが、柳瀬さんの『英語遊び』(河出文庫)の解説を清水さんが書いていることに驚いた。以下は「船が洲を上へ行く」からの引用である(本文は総ルビで書かれているがここでは省略している)。
この錯品のように是論から書くのではなく、原文にそう胃う意身の多汁性があるのを、こちらの孤島歯に置き帰ていくんだからモノ凄い。多駄田だ、驚学する秤りである。柳瀬買いである。

2020/07/27

購入本

ブックオフで本を購入。読んでいない本もある中、新たに購入するのはどうだろうかと後ろめたい気もするが、背に腹は変えられぬと、よくわからない理屈をつける。

本はたいてい背を向けて書店に並んでいるものだ。

●清水義範『私は作中の人物である』(講談社文庫)
●井上ひさし『私家版 日本語文法』(新潮文庫)
●正岡子規『歌よみに与ふる書』(岩波文庫)
●正岡子規『墨汁一滴』(岩波文庫)
●正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫)
●三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)
●ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』(評論社)

●清水義範『私は作中の人物である』(講談社文庫)
柳瀬さんの『翻訳は実践である』に、清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」への賛辞が載っていた。短編集『私は作中の人物である』の文庫版解説として書かれた文章である。そのため、機会あれば「船が洲を上へ行く」を読んでみたいと思っていたので、『私は作中の人物である』を見つけたとき、すぐに手に取った。

●井上ひさし『私家版 日本語文法』(新潮文庫)
ブックオフに行くたびに目が留まっていたもの。読んではみたいが、どうしても読みたいというわけでもなく、自分ルールの「迷ったときは第1版第1刷なら買い」で外れることが多かった。今回も自分ルールに外れてはいたが、今回買った他の本も含め「機会あれば」というものばかりであったので、この際買っとけと思い購入。言葉、特に文法関係は好きな分野。

●正岡子規『歌よみに与ふる書』『墨汁一滴』『病牀六尺』(岩波文庫)
少し前に、正岡子規の『仰臥漫録』(岩波文庫)を買った。まだ少ししか読めていないが、『仰臥漫録』は子規の日々をつづった記録といった内容で、死を前にした病床でのことであることを思えば俳句にかける情熱というか、そのようなものを感じる。ただ、俳句の良し悪しとか、まだいま一つわかっていないので、子規の歌論みたいなものはないかと『歌よみに与ふる書』を読んでみようと思った。『墨汁一滴』『病牀六尺』は『仰臥漫録』と同じ系統の本であろうと思うが、ここで出会ったのも何かの縁と思い購入。こちらは読書欲より収集欲の方が強い。

●三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)
WEB上で、最新の『ビブリア古書堂の事件手帖』で、横溝正史が題材として取り上げられているという記事を見た。それが頭に残っていたのか、ブックオフで見かけたときに、読んでみようと思って手に取った。本の物語の物語を味わってみたい。

●ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』(評論社)
ティム・バートン監督が映画化したことで知っている人も多い作品。ダールについてはかなり前に『あなたに似た人』を読んだことがあるけれど、内容は思い出せない。「奇妙な味」の短編集といった記憶。柳瀬尚紀訳ということで購入。

2020/07/26

独知の噬臍

『広辞苑を読む』のまえがきで、柳瀬さんが「広辞苑を信じるあまり、間違った文章を活字にしてしまったことがある」と書いていました。
 ジョイスの『ユリシーズ』に出てくる agenbite of inwit という中世英語について書いたときだった。
 この妙な英語は、「内-知の再-噛(あるいは噬)」とも分解できる言い回しで、意味は「良心の呵責」。現代英語の感覚からは、一瞬、「おや?」もしくは「はて?」と思わせるような、忘れられた言葉である。その「おや?」「はて?」を翻訳するために、拙訳『ユリシーズ①-③』(河出書房新社)では、「独知の噬臍」という訳語を用いた。
 その訳語について、こう書いてしまったのだ。
 独知? 『広辞苑』にも『大辞林』にも、これはある。忘れられた言葉、西周の訳語である。
(『翻訳は実践である』あとがき・河出文庫)
 初版から第五版にいたるまで、広辞苑に「独知」の項目はない。
 大辞林、大辞泉にはある。『翻訳は実践である』の読者各位にここでお詫び申し上げたい。
「誰に指摘されたのでもなく自分でこの失錯を見つけ」た柳瀬さんは「独知の噬臍」を感じたのでしょうか、自分の誤りを認め、それを詫びています。「独知」の項目が『広辞苑』にあろうとなかろうと、他に載っている辞書があり、西周がつくった conscience の訳語があり、現在は使われていない、ということには変わりありません。こんな細かいところにまで気を使わなくともいいのではないかと思ったところで、「翻訳は細部に宿る」という柳瀬さんがどこかに書いていた言葉を思い出しました。

「翻訳は細部に宿る」と『翻訳は実践である』のなかで言っていたかもしれないとも思い、また、上記「独知」の個所も確認して書き込みでもしておこうと思い、『翻訳は実践である』をひっぱり出してきました。

まずは「独知」のところからと「あとがき」を見ようとしたところ、無い。

目次を見ても「あとがき」はありません。

ただ、冒頭で引用した独知のくだりはどこかで読んだ記憶がある。「あとがき」ではなく、『翻訳は実践である』の別の個所だろうと、本の後ろの方から探しはじめてみました。

引用文の該当の個所は、『翻訳は実践である』所収の「再び、翻訳とは実践である」という文章のなかにありました。河出文庫の『翻訳は実践である』の付記によると、「再び、翻訳とは実践である」の初出は、メタローグという会社から1996年10月に出版された『翻訳家になる!』という本で、初出時のタイトル「翻訳は実践である」を改題したものであることが書かれています。

『翻訳は実践である』は、もともと1984年5月に白揚社より単行本として刊行されたもので、文庫化にあたり、「再び、翻訳は実践である」など、雑誌等に掲載されていたいくつかの文章が加えられています。純粋な(?)「あとがき」ではありませんが、柳瀬さんは『翻訳は実践である』のあとがきを念頭において「(再び、)翻訳は実践である」という文章を書いたといえなくもありません。

柳瀬さんは勘違いで「あとがき」と記したのでしょうか。それとも意図的でしょうか。

「再び、翻訳は実践である」を読み直したところ、次の一節がありました。
 翻訳は実践である、と、これまでさまざまな場所で何度か書いてきた。また、そういう姿勢を貫いてきたつもりだ。いま、それをこう言い換えてもいいかもしれない。翻訳は実力である、と。ここで実力とは、読解力や表現力のみならず、集中力や注意力や視力までもふくめたものだ。あるいは、努力(という実は筆者の好かない言葉)をふくめてもいい。
いま、このブログに書いていることは翻訳ではありませんが、自分自身のまだ言葉になっていないところを、自分の知っている他の人にも伝わる言葉で表そうとしていると考えると、広い意味で翻訳と考えることができます。そして、書いていることが実践であり、実力です。

『翻訳は実践である』の「あとがき」を確かめるのも実力で、『広辞苑』に「独知」の項目がなく、『大辞林』『大辞泉』には「独知」の項目があることを確認していないのも実力です。

ちなみに「翻訳は細部に宿る」という言葉は、『翻訳はいかにすべきか』で見つけました。


2020/07/25

2020/7/25購入本

立て続けに本を買っている。読書欲もあるのだが、どちらかというと収集欲・所有欲の方が強く、特にここ数年は文庫・新書本を中心に柳瀬尚紀さんの著書・翻訳書を集めている。

今回は、有効期限切れとなりそうなポイントを利用しての購入。Amazon マーケットプレイスでの中古本で、柳瀬さん関連の本ばかり。当然ながら未読。

●柳瀬尚紀『英語遊び』河出文庫
●筒井康隆・柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』河出文庫
●柳瀬尚紀『広辞苑を読む』文春新書
●ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』ちくま文庫

購入動機は、柳瀬さんの本だからというのが一番強いが、それだけでは少し味気ないので、それぞれについて思うところを書いておこう。

●柳瀬尚紀『英語遊び』河出文庫
柳瀬さんは、ルイス・キャロルの翻訳を中心に、数々の英語の言葉遊びを、日本語の言葉遊びに翻訳している。この『英語遊び』は、おそらく、それまでに柳瀬さんが翻訳してきた英語の言葉遊び、そして日本語の言葉遊びの集成のようなものではないかと思っている。日本語の天才ぶりを読みたい。

●筒井康隆・柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』河出文庫
ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳を総ルビとしたのは、筒井康隆さんの助言であった(と、どこかに書いてあったと記憶している)。この対談中のことであるかのかどうかは不明。筒井さんの本は『文学部唯野教授』を読んだことがあるだけ。いろいろな文学理論がユーモアをふんだんに織り交ぜて書かれており、おもしろかった。『ロートレック荘事件』は読んでみたい本に入れているが、まだ手にしていない。実験的な小説をよく書いているという印象がある。筒井さんと柳瀬さんがどのようなことを話題に、どのような話をしているのかに興味がある。

●柳瀬尚紀『広辞苑を読む』文春新書
柳瀬さんに、辞書を読む楽しさを書いた『辞書はジョイスフル』という本がある。『広辞苑を読む』は、その『広辞苑』版のようなものではないかと思う。柳瀬さんの本やエッセイの内容は、そのときに実践中の翻訳から具体例を取り出してくることが多いので、『広辞苑を読む』もその執筆中に取り組んでいる翻訳の内容となっているだろう。『辞書はジョイスフル』ではタイトルが示すとおりジョイス(『フィネガンズ・ウェイク』だったと思う)の翻訳での出来事が書かれていた。『広辞苑を読む』ではどうだろうか。

●ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』ちくま文庫
『日本語は天才である』で、天才と思ったきっかけのひとつとして、『シルヴィーとブルーノ』の翻訳での出来事が描かれていた。EVIL を逆から読むと LIVE となることが物語のなかに埋め込まれていて、それをどのように翻訳したかという出来事である。このことから、そしてキャロルという作家から、『シルヴィーとブルーノ』にはいろいろな言葉遊びが織り込まれていることは想像できる。『シルヴィーとブルーノ』の原文は手元にないが、英語の言葉遊びをどのように翻訳しているのか、言葉遊びをどのように物語の中に織り込んでいるのかを中心に読んでいきたい。


2020/07/24

滑稽的美感

夏目漱石『吾輩は猫である』のなかに「滑稽的美感」という言葉が出てきます。出てくるのは次に引用する箇所で、通称「アンドレア・デル・サルト事件」の真相を述べたあとの迷亭のセリフです。(ここでは読みやすいよう一部表記変更して引用しています。)
「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑発するのは面白い。先達てある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったらそ学生が又馬鹿に記憶の善い男で日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが皆熱心にそれを傾聴して居った。それからまだ面白い話がある。先達て或る文学者の居る席でハリソンの歴史小説セオファーノの話が出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬまでは鬼気人を襲う様だと評したら僕の向こうに坐って居る知らんと云った事のない先生がそうそうあそこは実に名文だといった。それで僕はこの男も矢張僕同様この小説を読んで居らないという事を知った」
定本漱石全集の第1巻『吾輩は猫である』では「滑稽的美感」についての注解があり、そこには次のように書かれていました。
滑稽的美感 おどけたなかに感動させる味わいがあること。『文学論』第二編第三章「fに伴う幻惑」において、「文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれて存する事あり」と述べた内容が、「滑稽的美感」の説明に相当する。談話『滑稽文学』に「滑稽と云うものは唯駄洒落と嘲笑ばかりではあるまいと思う。深い同情もなければならぬ。読む人に美感をも与えなければならぬ」ともいっている。
そこで『文学論』を読みはじめたのですが、どうも六づかしい。漱石は『文学論』において、文学的内容の形式を(F+f)という公式で表しています。第二編第三章の章題「fに伴う幻惑」のfとはこの公式(F+f)のfのことです。Fは Focus(焦点)(あるいは、Fact(事実))、fは feeling(情緒)ではないかと考えられています。第二編第三章は「f其物の性質の細目に亘りて」論及するとして章を割いていますが、この章だけを読んだだけではよくわかりませんでした。

北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のなかで、テレビのNG集について言及されていたところがありました。
《確かに面白いけれど、人の失敗を見物するのは、いい趣味ではない。高みから笑う感じになるから》と書きました。しかし、個々の番組を見ると、そうともいえない。これは、テレビという、映画や舞台よりも身近な媒体が開発した、特殊な分野だ――と思えたのです。
「《いい趣味》ではないが、しかし、親しみの笑いです」といいます。しかし、NGは「本来、見られない筈のもの」です。見る側にとっては、見られない筈のものであればあるほど、見たくなるものですが、見られる側にとっては見せたくないものです。NGは芸ではありません。北村さんは続けます。
商品として見せるからには、芸でなければなりません。NGは違う。となれば、それを芸にするのは、番組を製作する人間です。いかに構成するかが勝負でしょう。いい間違いや、台詞に詰まった場面を、だらだら並べても仕方がない。こういった番組にこそ、心地よい機知と愛情が不可欠なのです。
 親しみの笑い。心地よい機知と愛情。これが「滑稽的美感」ではないかと感じました。

迷亭は、ただ冗談をいって笑っているだけではない。迷亭の冗談を真に受けて写生する苦沙弥先生や、演説する学生、知ったかぶりをする文学者の先生を、あざ笑うのではなく、親しみを込めて笑っているのです。「滑稽なことをしているが、それは美徳だ」と笑っているように思えます。

迷亭は美学者です。「滑稽的美学者」と呼んでもいいかもしれません。


2020/07/23

【メモ】『サロメ』の題材(新約聖書)

オスカー・ワイルドの『サロメ』は、『新約聖書』での、洗礼者ヨハネの斬首についての記述を題材として書かれている。具体的には、「マルコによる福音書」6章14-29節、「マタイによる福音書」14章1-12節。以下は該当箇所の引用(佐藤優さんが解説をつけている文春新書、新共同訳の『新約聖書Ⅰ』より)。

佐藤さんの解説によると、新約聖書の福音書のうちでは、「マルコによる福音書」がもっとも古く、「マタイによる福音書」は、「マルコによる福音書」や「Q資料」(現存していない)と呼ばれるものをもとに書かれたものであることが定説であるとのこと。

■マルコによる福音書 6章14-29節
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

■マタイによる福音書 14章1-12節
そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者だと思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それからヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

2020/07/22

『千の顔をもつ英雄』の脚注に引用される『フィネガンズ・ウェイク』の一節は?

ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』の脚注に、以下の文章がありました。
*ジェイムズ・ジョイスの言葉を借りるなら、「正反対同士は、両性的に表現するただ一つの条件と方法としての本質または精神の一つの同じ力によって進化し、反意の結合による再統合のために対立させられて、互角になる」(ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』) 
読んでいるのはハヤカワ・ノンフィクション文庫の新訳版で、引用の脚注は上巻161ページにあります。

さて、この引用文中で言及されている文は、『フィネガンズ・ウェイク』のどこにあたるのでしょうか。柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』には目を通しましたが、該当の文章は載っていないようです。もちろん、探し切れなかった可能性もありますが、柳瀬訳では、このようなすっきりした訳文にはなっていないだろうと思います。

脚注にある引用元は、『フィネガンズ・ウェイク』のどの個所で、柳瀬訳ではどのような訳になっているのでしょうか?

キャンベルの本を原書で読んで引用個所の原文を確認し、そこから『フィネガンズ・ウェイク』の原文にあたり柳瀬訳を確認するというのが確実な方法でしょう。しかしこのためだけにキャンベルの原書を用意するのもどうかと思い、柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』を読みながら該当箇所らしきところを探すことにしました。

現時点で該当しそうな箇所は以下のところです。

『フィネガンズ・ウェイクⅠ』の105ページ(原典ページでは、49-50ページ)です。柳瀬訳と原典の該当箇所を引用します(柳瀬訳の振仮名は省略。強調は筆者による)。
そこで、ミコラス・ドサクサーヌスのいうわが自我衝動の百重の示我をば――そのすべてからわれはわが下文において当然遡及によりわれを解任するものであるが――それら相対立者の偶然照応によって識別不能なるものの同一性のなかに再混同するがよく、そこにおいては肉屋もパン屋も魔化二つに分かれはしないであろうからして(しかしこの點において、われらが彼のも軍鶏しゃな始根の鉄蹴爪に装備をととのえたつもりでいるにしろ、尾しまいには辛し芥子菜の臭気にはほとんど器まずい目に会うのであるが)、この超んでもないブルー乃蝋燭は能羅ものを平和離に尿忙に融したのである。 
Now let the centuple celves of my egourge as Micholas de Cusack calls them, — of all of whose I in my hereinafter of course by recourse demission me — by the coincidance of their contraries reamalgamerge in that indentity of undiscernibles where the Baxters and the Fleshmans may they cease to bidivil uns and (but at this poingt though the iron thrust of his cockspurt start might have prepared us we are well-nigh stinkpotthered by the mustardpunge in the tailend) this outandin brown candlestock melt Nolan's into peese!
合っているかどうか、現時点では自信が持てません。


2020/07/21

本を読んだというのはどういうことか

正直に書いておきましょう。

清水義範さんの『独断流「読書」必勝法』の目次には、有名な文学作品が並んでいました。『坊っちゃん』にはじまり、『ロビンソン・クルーソー』『伊豆の踊子』『ガリヴァー旅行記』など。目次にタイトルが掲載されている作品を数えると、20個ありました。

その20作品のうち私が読んだことのある作品は3つ、そしてその3つのうち2つは読んだことはあるが内容は覚えていないという状況です。ちなみに清水義範さんの作品を読むのも初めてであると思います。

いま「思います」と書きました。清水義範さんの名前は知っています。知っているということは、ひょっとすると、どこかで作品にも出会っているかもしれません。清水さんの作品であると気づかずに読んでいるものもあるかもしれません。いま覚えていることを書けば、清水さんは文体模写を得意とする作家さんで、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のパスティーシュである「船が洲を上へ行く」という短編を書いています。桃太郎などの昔話を下敷きに、柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイク』の文体模写をしています。

『独断流「読書」必勝法』に挙げられている作品も、その作品名はどこかで聞いたり読んだりしたことがあるものです。目次にはタイトルしか書かれていませんが、それぞれの作者は誰であるかを答えることができます。読んではいませんが、どんな小説なのかいうことができるものもあります。

読んだのに忘れたものがある一方で、読んでいないのに知っているものもある。本を読んでいるとはどういうことでしょうか。読んだのに何も覚えていないときに、その本を読んだといえるのか、読んでいないのにその本について語ることができるとき、その本を読んでいないといえるのか。

そういったことをテーマに、フランスのピエール・バイヤールという人が『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を書いています。本を読んでいるかいないかを判断することはむずかしい。他人もさることながら、自分のことでもむずかしいといいます。

バイヤールは、読んでいない本について語る場合の心がまえとして、4つのことを挙げています。「気後れしない」「自分の考えを押しつける」「本をでっちあげる」「自分自身について語る」。読書は、多かれ少なかれ、独断流となります。本について語ることもまた然り。言ったもの勝ちです。

少なくとも文体模写は、その文体を知らないことには模写することはできません。文体模写の名手といわれる清水さんの『独断流「読書」必勝法』にはどのようなことが書かれているのでしょうか。

まだ読んでいません。


狐につままれる

読んでいる文章のなかに「狐につままれたように」とあった。

ん?と思ったが、スルーして読み進める。するとまた「狐につままれた」とある。

狐につままれた?

国語辞典を取り出した。【狐(きつね)】の項を見る。【狐につままれる】という表現が載っていた。「つまむ」には「化かす」という意味もあるらしい。「狐に化かされる」という意味で、「狐につままれる」という。

ずっと「狐につつまれる」だと思っていた。狐が大風呂敷を広げて、亜空間を作り出し、幻影のなかで気づかずに過ごしていることを「狐につつまれる」というと思っていた。

狐につままれて目が覚めた。

2020/07/20

胸に抱くあの日セロリと新左衛門

先日、ブログ記事の最後にこんな言葉を書きました。「こうやって、人は信用をなくしていくものです」と。

この一文は、先日のブログ記事で言及している北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のなかに現れている文で、その言い回しがおもしろく、使ってみたくなったので使ったものです。

文自体の言い回しが気に入り使ったものなのですが、実際に使われている文脈について、何か洒落を言っているのでしょうがそれがわからず、読み飛ばしても差支えがないところでしたのでスルーしていたのですが、しばらくして気になりはじめたので追いかけてみることにしました。

次のように使われています。
 一般的にいって、セロリは新しい食材でしょう。
「いつ頃、伝来したか知っていますか」
 と、編集者の方に話しました。
「さあ………」
「豊臣秀吉の御側衆が伝えたそうです」
「そうなんですか」
「セロリ新左衛門」
「………」
 こうやって、人は信用をなくして行くものです。
セロリを使った短歌や俳句を紹介し、セロリのイメージについて述べているなかでのことでした。

わかる人にはわかるのでしょう。私はわからない側の人でした。落語を聞いていて、周りの観客が笑っているのに、一人笑っていないような感覚です。電車に乗ろうとホームに着いたときに電車のドアが閉まったような。

キーワードは「新左衛門」と「豊臣秀吉の御側衆」。

確認したところで、そっとウィンドウを閉じました。

読書の記録として

ブログタイトルの説明を変更しました。

テーマを決めることなく自由に綴っていけるようにつけた説明でしたが、最近は、買った本、読んだ本のことばかり書いているので、いっそのこと本を中心にしようと変更しました。
(変更前)
誰かのため、何かのために、役に立つ「かも」しれない事々
(変更後)
本の紹介や感想など、読書生活を中心に、誰かのため、何かのために、役に立つ「かも」しれない事々を綴ります。
だからといって、書く内容が変わるわけではありません。 

理想をいえば、自分の読書記録のデータベースとして活用できるようなサイトにしていきたいとは思っています。

役に立つ「かも」の可能性を高めるように意識はしていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

2020/07/19

可愛い蝸牛考

北村薫『詩歌の待ち伏せ』のなかで、可愛い句に出会いました。江戸時代の俳人、椎本才麿(しいのもと・さいまろ)の句です。
猫の子に嗅れてゐるや蝸牛
《蝸牛》を嗅ぐ《猫の子》、可愛いですね。《蝸牛》は「かたつむり」と読みます。

しかし、続く文章にはっとさせられます。可愛いのは《猫の子》なのか《蝸牛》なのかアンケートを取ったとすると、ほとんど全員が《猫の子》と答えるとした上で、
流れとして、視線は《蝸牛》に収束していきます。そこが焦点となる。季語も《猫》の春ではなく、《蝸牛》の夏です。しかし、読み終えた時、読者の眼というカメラは必然的にぐっと引かれ、再び《猫の子》の方を向いてしまう――と思うのです。生まれて初めて見た不思議な物体に初々しい関心を示す彼の、ひくひくする小さな鼻が見えるようです。ところで、この場合、ピンチに陥っているのは、勿論、後者です。そうなると、《定義》はどうなるのでしょう。
引用文中の《定義》というのは、「可愛い」を国語辞典(『新明解国語辞典 第二版』)で引いた意味のことで、《自分より弱い立場にある者に対して保護の手を伸べ、望ましい状態に持って行ってやりたい感じ》です。「ピンチに陥っているのは」《蝸牛》の方ですので、《猫の子》よりも《蝸牛》の方が弱い立場にある。しかし「可愛い」のは《猫の子》。

私も可愛いと思うのは《猫の子》の方ですので、ここに理屈はいらないのですが、はっとさせられたのは、「視線は《蝸牛》に収束していきます。そこが焦点となる」ということです。私は《蝸牛》に焦点を合わせていなかった。もちろん《蝸牛》はそこにいるのですが、背景の一部となっていました。《猫の子》ばかりに焦点をあてていたのです。

季語が《蝸牛》であることは言われなければわからないことでしたが、句の構造的に《蝸牛》が焦点となるはずなのです。句は「猫の子が嗅いでゐる」とは書かれておらず、「猫の子に嗅れてゐる」と書いているのです。文章として書くならば、「猫の子が蝸牛を嗅いでゐる」のではなく、「蝸牛が猫の子に嗅がれてゐる」のです。前者は、《猫の子》が《嗅ぐ》という行為の主体で、能動態の主語です。後者は、《嗅がれる》という受身で、主語は《蝸牛》です。文法的に焦点が《蝸牛》にあてられているのに、《猫の子》の可愛さに目を奪われていました。

北村さんは「思考は足の遅いランナーです」「《猫クン》を見た瞬間にやって来る微笑みに、追いつくことは出来ません」といいます。

柳田國男が提唱した考えのひとつに『蝸牛考』があります。方言で「カタツムリ」をどのようにいうか(たとえば「デンデン虫」「マイマイ」など)を調査した論文で、その方言の分布が京都を中心として同心円状に広がっていることから、方言周圏論を唱えています。『蝸牛考』は「カギュウコウ」と読みます。『蝸牛考』を読んだことがないので、私の勝手な想像ですが、方言調査ならば別にカタツムリでなくともいいのではないかと思うので、私は勝手に、同心円状のイメージとカタツムリの殻のイメージを重ねるために論文のタイトルを『蝸牛考』としたのではないかと思っています。

《猫の子》が《蝸牛》の臭いを嗅いでいる。これは「蝸牛香」です。

こうやって、人は信用をなくしていくものです。
足の遅いランナーは《猫クン》に追いつくことをあきらめ、別のところへ言葉を放りだします。これを「放言」といいます。


【書名】 詩歌の待ち伏せ
【著者】 北村薫
【出版社】 筑摩書房(ちくま文庫)
【刊行年月日】 2020/7/10
(文藝春秋(文春文庫)より刊行された『詩歌の待ち伏せ1』(2006/2)、『同2』(2006/3)、『同3』(2009/12)の3冊を合本し、加筆訂正を加え文庫化)
【内容】(裏表紙より)
本の達人・北村薫が古今東西、有名無名を問わず、日々の生活の中で出会った詩歌について語るエッセイ集。作品、作家への愛着や思いがけない出会いが、鋭敏な感性や深い想像力とともに丁寧に穏やかに語られるとき“詩歌”の世界の奥深さと溢れる愛情を感じずにはいられない。これまで分冊で刊行されてきたものを1冊に合本し、〈決定版〉としてよみがえる。解説 佐藤夕子

出会えなかったかもしれない

引き続きこの口調で文章を綴っていきたいと思います。

北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』の冒頭は、こんな文章ではじまっています。
『詩歌の待ち伏せ』が、一冊本としてよみがえります。
最初読んだときには単に文庫化されたんだという意味で読んでいましたが、昨日この本のことについて書いていると、あらためて考えさせられました。

いま手元にある『詩歌の待ち伏せ』は、先日書店で見かけて購入したもので、筑摩書房(ちくま文庫)から発行されたばかりの本です。2020年7月10日の発行となっています。以前は3分冊となって刊行されていましたが、その3冊が合本されて発行されたので「一冊本としてよみがえります」と書かれています。

以前の3分冊版は手元にありませんし、そもそも北村さんがこのような本を出版していることすら知りませんでした。ちくま文庫版が書店に並んでいることで読んでみようと思ったしだいです。

ちくま文庫版には「本書は文藝春秋より刊行された『詩歌の待ち伏せ1』(文春文庫 2006年2月)、『同2』(同年3月)、『同3』(2009年12月)の三冊を合本し、加筆訂正を加え文庫化したものです」と書かれていました。インターネットで調べたところ、文藝春秋からは単行本として『詩歌の待ち伏せ』(上・下)、『続・詩歌の待ち伏せ』が出版されていました。発行は、上巻2002年6月、下巻2003年10月、『続』は2005年4月です。おそらくは雑誌に連載されたものをまとめたもので、上・下巻のあと『続』との間が空いているのは中断期間があったからではないかと思います。(最初は『オール讀物』2000年2月号から連載されていたもののようです。掲載月号の詳細は未確認)

雑誌掲載から単行本として刊行、そして文庫化というのは珍しくない流れで、分冊を合本化することや、逆に分冊化されること、また版元が変わることも珍しいことではありません。ただ、――よみがえるのが早すぎではないですか――と思ってしまいました。

よみがえってくれたことは嬉しいことです。そのおかげで私はこの本を手に取ることができ、紹介されている詩歌の待ち伏せに楽しませてもらっています。しかし、よみがえるということは、その前に一度死んでしまったということです。つまり、よみがえるのが早すぎではなく、――死ぬのが早すぎではないですか――ということです。

文春文庫版(3分冊版)の3巻目の発行は2009年12月。ちくま文庫版が2020年7月。この約10年の間に一度死んでしまったということになります。良書であるからよみがえったのでしょうが、良書にもかかわらず10年ほどの命だったと考えると、少し悲しくなりました。

もちろん完全に死んでしまったわけではなく、本を持っている人は持っているでしょうし、図書館などにも存在しているでしょう。どこかしらで生きのびてはいます。また、本になることなく現れては消えていく文章もあるなかで、単行本化され、文庫化され、再度刊行されること自体が良書であることの証であり、本の命が続いていることの現れであると考えることもできます。

とすれば、悲しくなったというのは、ここで出会えてよかったということの裏返しです。出会えてよかったと思っているからこそ、出会えなかったかもしれないことを考えたときに悲しくなるのではないでしょうか。

これは本のことだけではなく、人についてもいえるのかもしれません。別れがつらい、悲しいのは、その人に出会えてよかったと思っているからではないかと思うのです。


【書名】 詩歌の待ち伏せ
【著者】 北村薫
【出版社】 筑摩書房(ちくま文庫)
【刊行年月日】 2020/7/10
(文藝春秋(文春文庫)より刊行された『詩歌の待ち伏せ1』(2006/2)、『同2』(2006/3)、『同3』(2009/12)の3冊を合本し、加筆訂正を加え文庫化)
【内容】(裏表紙より)
本の達人・北村薫が古今東西、有名無名を問わず、日々の生活の中で出会った詩歌について語るエッセイ集。作品、作家への愛着や思いがけない出会いが、鋭敏な感性や深い想像力とともに丁寧に穏やかに語られるとき“詩歌”の世界の奥深さと溢れる愛情を感じずにはいられない。これまで分冊で刊行されてきたものを1冊に合本し、〈決定版〉としてよみがえる。解説 佐藤夕子


北村薫『詩歌の待ち伏せ』

本を読んでいると、その著者の語り口が移ってきたように思うときがあります。本を読みながら考えごとをしていると、ふと作者の口調や言葉遣いで考えていることに気づくのです。今回は、そんな余韻に浸りながら書き連ねていきたいと思います。

最近、少しずつではありますが、北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』を読んでいます。

詩、短歌、俳句などの詩歌について、私はどちらかといえば敬遠していました。何となくいいなと思うものもあれば、よくわからないというものもある。感性が豊かでないと味わえないものではないか。感受性の乏しい私が、詩歌を味わうことは難しいだろう。そのように思い、詩人の感覚や物事の捉え方、言葉の使い方などにあこがれはするものの手の届かぬところにある気がして、なかなか手が出ないのです。

北村さんは、詩歌が待ち伏せをしているといいます。
心魅かれる詩人がいたら、そういう『詩集』で読むのが本筋です。
しかしながら、いきなり、そこに行く読者も少ないと思います。きっかけが必要です。まず、どこかでちらりと出会うのだと思います。
(……中略……)
小説以上に、詩や短歌、俳句は、こういう偶然の出会いから、それぞれにとって大事なものとなることが多いのではないでしょうか。わたしなどは、系統立ててというより、その時々、手に触れたものを読んで行く方だから、なおさらです。
そういったように、いわば心躍る待ち伏せをして、否応無しにわたしを捕らえた詩句について、ここで述べてみたいのです。 
この本は、北村さんが、待ち伏せをしている詩歌に出会い、捕らえられたときの体験をつづったエッセイ集です。

もし、詩歌が待ち伏せをしているならば、手が出ないといって敬遠していると、出会うことはありません。すべての詩歌が私を待ち伏せしているとは言えないでしょうが、私を待ち伏せしている詩歌はひとつもないと言い切ることもできません。

思えば、私の好きな作家とかアーティストとかそういう人たちの作品も、たとえば小説ならばその小説の一部とどこかでちらりと出会い、その小説を読んでみたくなり、その人が書いた他の小説も読んでみたくなり、と広がってきました。詩歌を別物とする理由はありません。

本を読むことの意味の幅が広がります。本を読むことは、その本の作者と出会い、会話することですが、その作者の友人知人と出会うことでもあります。人と人の間に言葉があるのと同じように、本もそこにあるのです。

北村さんの『詩歌の待ち伏せ』に載っている詩歌やその作者の方々について、私はほとんど知りませんでした。しかし、北村さんを介して語られることで、詩人と呼ばれる方々、そしてその作品たちの人柄を少し垣間見ることができました。

読んだのは半分ほどですので、これからまた、まだ出会ったことのない詩歌に出会えるのが楽しみです。


【書名】 詩歌の待ち伏せ
【著者】 北村薫
【出版社】 筑摩書房(ちくま文庫)
【刊行年月日】 2020/7/10
(文藝春秋(文春文庫)より刊行された『詩歌の待ち伏せ1』(2006/2)、『同2』(2006/3)、『同3』(2009/12)の3冊を合本し、加筆訂正を加え文庫化)
【内容】(裏表紙より)
本の達人・北村薫が古今東西、有名無名を問わず、日々の生活の中で出会った詩歌について語るエッセイ集。作品、作家への愛着や思いがけない出会いが、鋭敏な感性や深い想像力とともに丁寧に穏やかに語られるとき“詩歌”の世界の奥深さと溢れる愛情を感じずにはいられない。これまで分冊で刊行されてきたものを1冊に合本し、〈決定版〉としてよみがえる。解説 佐藤夕子

2020/07/17

燕の尾話

英語の tale と tail は、片仮名で書くと、ともに「テイル」と発音するため、しばしば言葉遊びに用いられる。すぐに思い出されるものは、キャロルの『不思議の国のアリス』にある鼠の尾話である(訳文は柳瀬尚紀訳)。
“Mine is a long and a sad tale!” said the Mouse, turning to Alice, and sighing.
“It is a long tail, certainly,” said Alice, looking down with wonder at the Mouse’s tail: “but why do you call it sad?”
「悲しい長いお話でなあ」鼠はいい、アリスを振り向いて溜息をついた。
「長い尾は無しですって、あんなに長い尾なのに」アリスは鼠の尻尾を先までしげしげと眺めた。「どうして悲しいなんていうんですか?」
引用した箇所は第3章で、章題は A Caucus-Race and a Long Tale である。柳瀬はこれを「コーカス競争と長い長い尾話」と訳している。tale と tail で「尾話」である。

これから書いていくことは、燕の尾話である。 

「スワロウテイル」は、swallowtail と綴る。「揚羽蝶(アゲハチョウ)」のことである。swallowtail は swallow tail で、swallow は「燕(ツバメ)」、tail は「尾」、つまり「燕の尾」という意味である。燕の尾のような羽の蝶が揚羽蝶である。

「燕尾服」という服がある。燕の尾のかたちをした服で「モーニング」とも呼ばれる。「燕尾服」を英語でいうと swallow-tailed coat で、swallow-tailed coat を訳して「燕尾服」としたともいわれている。しかし、今野真二『振仮名の歴史』を読んでいると、次のような文章に出会った。
この「燕尾服」は「swallow-tailed coat」という英語をそのまま日本語に訳したものだといわれている。しかし「エンビ(燕尾)」という漢語は日本語の中でわりあいと古くから使われており、直訳からできた語と断言しない方がよいようにも思う。
ここでいわれていることは、swallow-tailed は「燕の尾のかたちをした」だから「燕尾」という漢語を作って訳したというわけではなく、もともと「燕尾」という漢語があって、ちょうど swallow-tail(ed) に当てはまった可能性があることを述べている。

ためしに手元の漢和辞典で「燕」を引いてみた。「燕」の項には、「燕尾」や「燕尾服」は載っていなかったが、「燕服」という単語が載っていた。「宴服」「讌服」とも書くようで「日常、くつろいだときに着る衣服。普段着」と書いてある。「讌」には「酒盛り、宴会」のような意味がある。「燕」という漢字は鳥である「ツバメ」の意味もあるが、「くつろぎ落ち着いて酒食を楽しむ(こと)」という意味もある。「ゆったりと落ち着く」とか「うちとける」という意味もある。そのため「燕」を、「宴」の字に当てたり「安」の字に当てたりすることもある。

ツバメの特徴のひとつは尾のかたちで、二股に分かれている。swallowtail「燕尾」とはこのかたちを意味していて、裾の後ろが燕の尾のように二股になっている服が swallow-tailed coat「燕尾服」である。「燕服」が普段着であることを考えると、「燕尾服」は燕の格好をしようと努力しているようにも思う。揚羽蝶も燕のようになりたいと思っているのかもしれない。

先に『振仮名の歴史』からの引用を挙げたが、ここには振仮名の例として「燕尾服」などが載っていたわけではない。ここで載っていたのは、「断後衣」という漢字に「テイルコート」と振仮名が付けられていることである。現在、振仮名は通常、縦書きであれば、漢字の右側に書かれているが、「テイルコート」は左側に付いている。1876年(明治11年)に出版された丹羽純一郎(訳)『龍動新繁昌記』(「龍動」は「ロンドン」と読む。ジョン・マレイ著『Handbook to London as it is』の翻案書)という本の中の例で、この本では漢字の左右に振仮名が付いていて、右振仮名が読み、左振仮名が外来語の振仮名であるという。「断後衣」には右振仮名がなかった。
これは翻訳のためにつくった、漢字による書き方であることを示唆しているのではないだろうか。だから「読みとしての振仮名」を付けなかった。つまり「ダンゴイ」という語は安定してみんなが使うような語ではなかった。もしかすると、ここだけにしかみられないかもしれない。
「テイルコート」は tail coat で、swallow-tailed coat つまり「燕尾服」のことである。今では「燕尾服」という服も言葉も知っているから tail coat は「燕尾服」のことだとわかるが、明治11年ということは、開国後、外国(欧米)の文化が押し寄せている時代である。そこに tail coat なる服があり、もちろん日本にはないかたちの服であるのでそれをどのように訳そうかと考えた結果が「断後衣」であると思われる。『振仮名の歴史』の中には書かれていないが、「断後衣」は「裾の後ろが二股に分かれている(断たれている)衣」という意味で付けられたのだろう。tail coat だけでは、ここの tail は swallow-tail の略であることを知ることは難しく、当然「燕尾」という訳語を思いつくことも難しい。

ちなみに英語の swallow には「ツバメ」の他に、「飲み込む」という意味もある。「ツバメ」と「飲み込む」の関係が薄いのか、手元の英和辞典では、「飲み込む」という意味の swallow と「ツバメ」という意味の swallow は、別項目として掲載されている。また、日本語に「飲み込む」という意味で「嚥下」という漢語があり、「嚥」という字に「燕」が入っているのだが、手元の漢和辞典で「嚥」の字義をみると「燕は音符で、ツバメという意味とは関係がない。咽と同じ」とあった。


2020/07/16

金田一春彦『ことばの歳時記』

まだ全部は読んでいない。1月1日から12月31日までの365日分、365語(+α)の項目が載っているので、当日部分を中心に少しずつ読んでいる。1語につき1頁ほどの文量だ。

本日7月15日の項目は「そうめん」。夏の食の代表的なもののひとつである。しかし「ことばの歳時記」であるので、食べ物の「そうめん」のことというよりは、「そうめん」という言葉についての内容である。

「そうめん」は、漢字で「素麺」と書くが、もともとは「索麺」と書いていた。誰かが「索麺」を「素麺」と書き間違えたところ、それが広まったということが書かれていた。今の観点から見ていることも関係しているかもしれないが、「素の麺」というのは「そうめん」にふさわしい漢字がする。

「そうめん」に関することはこれだけだが、その他、下記誤った漢字が現在も使われている例が3つ書かれていた。「有職(ユウソク)」「一丁字(イッテイジ)」「不入斗(イリヤマズ。地名)」。


【書名】 ことばの歳時記
【著者】 金田一春彦
【出版社】 新潮社(新潮文庫)
【発行年月日】 1973(S48)/8/30
(1965年1月から12月まで、東京新聞と中部日本新聞の夕刊に「ことば歳時記」として書かれたもの。翌年1966年に文藝春秋より『ことばの博物誌』と題して単行本として出版。文庫化の際、『ことばの歳時記』に改題)
【内容】(カバー裏表紙より)
移りかわる日本の美しい四季折々にふれ、ある日は遠く万葉の時代を回顧し、ある日は楚々とした野辺の草木に想いをはせ、ある日は私達が日常生活の中で何げなく使っている言葉の真意と由来を平易明快に説明する――。著者のユニークな発想と深い学識によって捉えられ選ばれた日本語の一語一語が、所を得てみずみずしく躍動し、広い視野と豊かな教養をはぐくむ異色歳時記である。

2020/07/15

復本一郎『俳句実践講義』

復本一郎『俳句実践講義』(岩波現代文庫)を読んだ。俳句とはどのような文芸なのかということが俳句の成立の歴史から述べられており、これまでよりも俳句が楽しめそうな気がする。俳句とは、五・七・五の十七文字で表す詩で、季語を入れるという基本的なルールくらいは知っていたが、俳句の良し悪しはどのように判断すればよいのかはあまりわかっていなかった。しかし、この本を読むことで、特に「切れ」について学ぶことで、俳句に対する理解が深まったように思う。「キレがある」という言い方があるが、もしかすると俳句の「切れ」が語源ではないかと思えた。

俳諧・俳句では「切字」が重視されていた。たしかに学校の授業で「切字」というものがあるということは聞いたことがあったが、その機能、役割については全く認識していなかった。この本では、なぜ「切字」が重視されていたのかについて、俳句成立の歴史的な背景とともに、大学生の実作の評価も加えて丁寧に解説されており、俳句が何を目指して発展してきたのかということの理解が深まった。

俳句とは、2つの世界のぶつかり合いだという。「二つの世界が一句の中でぶつかり合って、一つの世界へと融合するのです。二つの事物・事象の「とり合」(取合せ)によってもたらされる「行てかへる」構造を持った五・七・五の十七音(文字)の世界が発句ということになります」という。二つの世界のうちのひとつは、いわば「季語」の世界。「季語」にはその季語がもつ季節感はもちろん、これまでに歌などで読まれてきたイメージ・印象がある。「雅」の世界ともいえる。その世界に、「俗」の世界、身近なあるいは個人的な事物・事象を取り合わせることでぶつかり合い、融合するというということである。まだ上手く説明はできないが、数学で接線(あるいは接点)を求めるような感覚ではないかと思う。

俳人の夏井いつきさんが、季語の入っていない十二音のフレーズ(「俳句の種」と呼んでいる)と五音の季語を合わせたら俳句になるとYouTubeで言っていた。「切れ」を理解することで、この意味するところがより理解できたように思う。


僕は、これまで俳句を作ろうとすると、季語を探してそこからイメージを広げるというようなやり方をしてきた(してきたというほど俳句を作ったことはないけれど……)。それだとありきたりな陳腐な表現、そして月並になりがちであることも理解できた。

月並については、迷亭が「まず年はニ八か二九からぬと言わず語らず物思いの間に寝転んで居て、此日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中」であるとか、「馬琴の胴へメジヨウ、ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んで置く」とできるとか、「中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上がります」とか言っているので参考にしてほしい。


【書名】 俳句実践講義
【著者】 復本一郎
【出版社】 岩波書店(岩波現代文庫)
【発行年月日】 2012/5/16
(2003年4月、岩波書店より単行本で刊行されたものを文庫化)
【内容】(裏表紙より)
大学生への俳句の実作指導を通して、俳諧・俳句文学の歴史と理論、その味わい方を、具体的かつわかり易く講義する。近世の芭蕉、鬼貫、去来、土芳、近代の子規、虚子、さらに現代俳句の日野草城にいたる代表的な俳論、俳句を広く紹介して、俳句文芸の骨格たる「切字」「季語」「取合せ」「写生」などをテーマにして、俳句の独自性と勘所、その奥深い魅力を解説する。

2020/07/14

猫事記

吾輩はネコである。名前はまだ無い。

どこで生まれたか混沌と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で名ー無ー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕らえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だか浮羽浮羽した漢字があったばかりである。掌の上で少し落ち着いて書生の顔を見たのが所謂人間というものの見始めであろう。

この書生の掌の内でしばらくはよい心持ちに坐っていたがしばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分からないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っているとどさりと音がして右眼から日がでた。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考えだそうとしても分からない。

ふと気が付いて見ると書生はいない。沢山おった兄弟が見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。そのうえ今までの所と違って無暗に明るい。眼を明いておられぬ位だ。果てな何でも様子が可笑しいと淤能語呂と這い出して見ると非常に痛い。吾輩は急に葦原の中に棄てられたのである。

漸くの思いで這い出すと向こうに大きな柱がある。余は柱の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。暫くして泣いたら書生がまた迎えに来てくれるかと考え付いた。試みにやって見たが誰も来ない。そのうちさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。いざ泣きたくても声が出ない。仕方がない何でもよいから食物のある所まで歩こうと決心をしてそろりそろりと柱を左に廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くと何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入ったらどうにかなると思ってもぐり込んだ。ここで余は書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。大地にあったのがお産である。我輩を見るや否やいきなり「あなにやし、えをとこを」と頸筋をつかんで地表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。何でも同じ事を繰り返したのを記憶している。吾輩が最後につまみ出され様としたときに主人が騒々しい何だといいながら出て来た。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておった。やがて「女の先だち言いしに因りて良はず、亦還り降りて改め言え」と云った。

ちくま文庫のシェイクスピア全集(2020年7月時点)

松岡和子訳シェイクスピア全集(ちくま文庫)の一覧を更新(2020年7月時点)。
以前の投稿に、『ジョン王』を追加した。

英語での原題とシェイクスピアの執筆時期は、Wikipedia「シェイクスピア」の項を参照(Wikipediaは『リヴァーサイド版シェイクスピア』による)。記載順はちくま文庫のシェイクスピア全集での順番。英語原題のあとが執筆時期。日本語タイトルの後ろはちくま文庫版の出版年月。
  1. Hamlet(1600-01)
    ハムレット(1996年1月)
  2. Romeo and Juliet(1595-96)
    ロミオとジュリエット(1996年4月)
  3. Macbeth(1606)
    マクベス(1996年12月)
  4. A Midsummer Night's Dream(1595-96)、Comedy of Errors(1592-94)
    夏の夜の夢・間違いの喜劇(1997年4月)
  5. King Lear(1605)
    リア王(1997年12月)
  6. Twelfth Night, or What You Will(1601-02)
    十二夜(1998年9月)
  7. Richard III(1592-93)
    リチャード三世(1999年4月)
  8. The Tempest(1611)
    テンペスト(2000年6月)
  9. The Merry Wives of Windsor(1597)
    ウィンザーの陽気な女房たち(2001年5月)
  10. he Merchant of Venice(1596-97)
    ヴェニスの商人(2002年4月)
  11. Pericles, Prince of Tyre(1607-08)
    ペリクリーズ(2003年2月)
  12. Titus Andronicus(1593-94)
    タイタス・アンドロニカス(2004年1月)
  13. Othello(1604)
    オセロー(2006年4月)
  14. Coriolanus(1607-08)
    コリオレイナス(2007年4月)
  15. As You Like It(1599)
    お気に召すまま(2007年6月)
  16. Love's Labour's Lost(1594-95)
    恋の骨折り損(2008年5月)
  17. Much Ado About Nothing(1598-99)
    から騒ぎ(2008年10月)
  18. The Winter's Tale(1610-11)
    冬物語(2009年1月)
  19. Henry VI(1589-91)
    ヘンリー六世 全三部(2009年10月)
  20. Taming of the Shrew(1593-94)
    じゃじゃ馬馴らし(2010年8月)
  21. Antony and Cleopatra(1606-07)
    アントニーとクレオパトラ(2011年8月)
  22. Cymbeline(1609-10)
    シンベリン(2012年4月)
  23. Troilus and Cressida(1601-02)
    トロイラスとクレシダ(2012年8月)
  24. Henry IV(1596-98)
    ヘンリー四世 第一部、第二部(2013年4月)
  25. Julius Caesar(1599)
    ジュリアス・シーザー(2014年7月)
  26. Richard II(1595)
    リチャード二世(2015年3月)
  27. The Two Gentlemen of Verona(1594)
    ヴェローナの二紳士(2015年8月)
  28. Measure for Measure(1604)
    尺には尺を(2016年4月)
  29. Timon of Athens(1607-08)
    アテネのタイモン(2017年10月)
  30. Henry V(1599)
    ヘンリー五世(2019年1月)
  31. Henry VIII(1612-1613)
    ヘンリー八世(2019年12月)
  32. King John(1594-96)
    ジョン王(2020年6月)
残り作品(戯曲)は、『終わりよければすべてよし』『二人のいとこの貴公子』の2作。この2作を訳し終えると、個人でのシェイクスピア戯曲の全訳は、坪内逍遥、小田島雄志に続いて3人目。

2020/7/13購入本

先日買った本をまだ読み終えてもいないのに、また本を買ってしまった。衝動買いの感がある。目的の本だけにすべきだったのかどうかは読後の楽しみといったところ。

●シェイクスピア『ジョン王』(ちくま文庫)
 今回書店に行った目的はこの本を買うことだった。松岡和子訳のシェイクスピア全集の最新刊(全集32)である。以前にも書いたことがあると思うが、本を読みはじめた頃に全集1として『ハムレット』が発刊され、そこから新しく発刊されるたびに買いそろえている(買いそろえているというのは、買っただけで読んでいないのもあるから……)。個人によるシェイクスピアの戯曲全訳まで、あと2作。

●ジョイス『ダブリナーズ』(新潮文庫)
 先日買った『ダブリン市民』は(もちろん)まだ読めていない。今回買ったのは柳瀬訳の方。どうせ買うなら今日買っておこうと思い購入。

●復本一郎『俳句実践講義』(岩波現代文庫)
 俳句に興味が出てきたので、俳句についてもう少し知りたいと思い選んだ本。俳句の作り方というようなハウツー系の本はたくさんあり、俳人や有名な俳句の紹介や解説の本もたくさんあったが、その両方を満たすようなものはないかと探したところ、この本が目についた。購入後、さっそく読みはじめ、まだ途中ではあるが、俳句の成立の歴史から実践の方法まで載っていて、学術的な俳論入門といった感じで、自分にとっては好みの書。読み進めていきたい。

●北村薫『詩歌の待ち伏せ』(ちくま文庫)
 北村薫さんの本をいくつか読んだことがある。ミステリの「円紫さんシリーズ」と『盤上の敵』、そして『謎物語』というミステリに関するエッセイ。もと国語の先生だったと記憶している。詩歌に対して、僕はよくわからないことがおおく、北村さんの感受性のようなものは持ち合わせていないので、触れておきたいと思い購入。

●グレアム・ウォーラス『思考の技法』(ちくま学芸文庫)
 帯に、ジェームス・ヤングの『アイデアのつくり方』の源泉となった本、という文句にひかれて購入。発想法・発見法の類の本は結構好きでいろいろと読んできている(実践できていないのが玉に瑕……)ので、その源泉となれば読んでみたいと思った。

●今野真二『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)
 以前見かけたとき購入をためらった本。今回また目に留まり、再三気にするならば、と購入。以前にもどこかに書いたかと思うが、僕の本の買うときのルールというか、迷ったときの基準として、その本の奥付を見て初版初刷りであれば買うということにしている。この岩波現代文庫は2020年3月刊で第1刷であった。
 以前は集英社新書で2009年7月に発行されていて、岩波現代文庫への収録の際に、「補章」と「現代文庫版あとがき」が追加されているとのこと。

●セバスチアン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』(創元推理文庫)
 『物語の詩学』(だったか、『ミステリの詩学』だったか)という本で知った本。一人四役(探偵、被害者、記述者、犯人、だったか)のミステリということでいつかは読んでみたいと思っていたもの。たまたま目につき、他にも多数の本を購入しようとしていたので、この際一緒に買っておけと、今日買った本のなかでは衝動買いというのにふさわしい。

2020/07/13

旗艦店

WEB記事で「旗艦店」という語が目に留まった。「キカンテン」と読む。目に留まった理由は次のように思ったからだ。――はて、漢字が違っているのではないか、「仕事」を「志事」と書く人もいるから、こんな風に「旗艦店」と書いたのかな、と。

結論からいうと、僕の認識が誤っていた。僕は「キカンテン」は「基幹店」と書くものと思っていた。幸いにも、これまで「キカンテン」と書く機会はなく、会話の中にも「キカンテン」が出てくるような話題はなかったから、認識の誤りを指摘されることはなかった。

「旗艦店」は、英語 flagship shop の訳であるということを知った。「販売の拠点となる中心店舗。多店舗展開をしているグループ店の中でも、とりわけ力を注ぎ、ブランドの浸透を図るための店。店舗展開を艦隊に見立てた語」であるらしい(weblio辞書「旗艦店」コトバンク「旗艦店」)。

意味的には「基幹店」でも間違ってなさそうであるが、もととなる英語があるということは「旗艦店」の方がもともとの漢字であろう。冒頭の「シゴト」の漢字の例でいえば、「仕事」にあたるのが「旗艦店」である。

「旗艦」とは「司令官(司令・司令長官などを含む)やその幕僚が座乗し、指令・命令を発する艦を指す海軍用語」であるらしい(Wikipedia「旗艦」)。経営論や企業論では軍事用語がよく使われる。旗艦店が向かっているのは「レッドオーシャン」か「ブルーオーシャン」か。

2020/07/12

星新一(訳)『竹取物語』

先日、購入した星新一(訳)『竹取物語』を読んだ。

ストーリーは原文に忠実に訳されているが、章の終わりごとに「ひと息」と断りをつけて、星さんの解説・感想が挟まれていること、そして「竹カンムリ」の漢字が出てくるごとに一言加えられているのがおもしろい。たとえば、冒頭はこんな風にはじまる。
 むかし、竹取じいさんと呼ばれる人がいた。名はミヤツコ。時には、讃岐の造麻呂と、もっともらしく名乗ったりする。
 野や山に出かけて、竹を取ってきて、さまざまな品を作る。
 笠、竿、笊、籠、筆、箱、筒、箸。
 筍は料理用。そのほか、すだれ、ふるい、かんざし、どれも竹カンムリの字だ。
 自分でも作り、職人たちに売ることもある。竹については、くわしいのだ。
竹カンムリの漢字を確認したくなってくる。たとえば引用文の「すだれ」「ふるい」「かんざし」を漢字で書くと「簾」「篩」「簪」となり、竹カンムリの漢字である。

巻末には『竹取物語』の原文が載っているのもうれしいところ。

引用文の個所のつづきの原文は「その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける」で、筋も竹カンムリの漢字であるが、訳中では触れず、章末の「ひと息」で触れている。物語の雰囲気を壊さないように配慮しているのだろう。

「もと光る竹」ということで、「竹カンムリ」に「光」という漢字はないかと漢和辞典をぱらぱらとめくったが、発見できなかった。

代わり、というわけではないが「簧」という漢字を見つけた。「竹カンムリ」に「黃(黄の旧字体)」で、「コウ」と読む。そして「黄」のもともとの意味は「四方に広がる光」である。「もと光る竹」を「簧」と読めばどんな物語になるか。ちなみに「簧」は「笙などの穴の所にあって、吹いて振動させて音を出すもの。笛の舌。リード」と漢和辞典にあった。竹取の翁が、リードを発明し、大金持ちになったような話を想像する。竹取の翁は家具屋のおやじにしようか、家具屋から楽器店に業態転換したところでツキがなくなるとか、変な想像を膨らませる。

こんな想像をさせてくれて、読んでよかったと思う。


(以下、書誌情報)
購入した文庫本は1987年8月発行のもの。下記Amazonリンクは2008年7月発行の改版。Amazonリンクの下にある書誌情報は1987年版に基づく。

 

【書名】 竹取物語
【訳者】 星新一
【出版社】 角川書店(角川文庫)
【発行年月】 1987(S62)/8/10
【内容】(カバー見返し)
 『竹取物語』の大筋については、ほとんどの日本人が知っている。それほどポピュラーなこの物語が、世界で最も古い「SF」ではないかといわれている。アポロ宇宙船が月に到達して、人類が初めて地球以外の地に立ったのは、ついこの前のことだ。それよりも、何と1000年以上も前の日本に、月からやって来た美しい人がいた――という発想にはあらためて驚かされる。
 SF界の第一人者が、わかり易い文章で、忠実に「古典」の現代語訳にいどんだ名訳! 章の終わりごとに書き加えられた訳者の“ちょっと、ひと息”が、この物語の味わいを、いっそう引きたてている。

2020/07/11

2020/7/11購入本

しばらく降り続いた雨が止み、日中には晴れ間が差し、ふと気づくと蝉の声が聞こえる。梅雨明けはまだであろうが、夏の盛りに近づいていることを感じる。

漱石の全集でいろいろなところを拾い読みしていることもあり、最近、俳句に興味を持ちはじめた。蝉の声が聞こえたことで、よし一句つくってみるかと意気込むものの、すぐに出てくるわけではない。

ただ、今年初めての蝉の声ではないかと思い、「初蝉」という言葉が浮かんだ。おそらく「初蝉」は季語にあるだろう。WEBで検索してみると「初蝉」はやはり夏の季語としてあり、読みとしては「はつぜみ」が主流であるようである。「初蝉」という語が浮かんだときには「はつせみ」と読んでいた。読み方に正解不正解はなさそうだが、実際に「初蝉」という言葉があること、そして「はつぜみ」と読むことを確認することができた。

自転車で、少し遠いところにあるブックオフに出かけた。手頃なサイズ、価格の『歳時記』があったらいいなと思ったからである。近くの本屋で売っているのだが、いまのところちょっと俳句に興味を持ちはじめたというところであり、きちんとした『歳時記』を定価で買っておこうという気にはまだなっていないというところである。

今日のブックオフには『歳時記』はなかった。ひととおり店内を歩き回る。『歳時記』の代わりではないが、いくつか文庫本を購入した。以下、購入した本の記録として。当然ながら、まだ読んでいない。

●金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)
 『歳時記』目的で訪れたこともあり、代わりではないが『ことばの歳時記』を見つけた。目次をみると、1日1語、365日分あるようである。季語ではなさそうな言葉も挙げられているので、俳句用ではないと思う。ブログのネタがないときに使ってみることができそうである。

●星新一(訳)『竹取物語』(角川文庫)
 今日の掘り出し物といった感。『竹取物語』は、いろいろな人が現代語訳をしていて、川端康成や星新一も訳しているということを何かで読んで知っており、機会あれば、だれがどんな風に訳しているのか読み比べてみるのもおもしろいかもしれないと思ったことがあった。SF、ショートショートで著名な星新一がどのように訳しているかが読みどころ。

●松浦弥太郎『最低で最高の本屋』(集英社文庫)
 松浦弥太郎のエッセイは丁寧でやわらかいが芯がある感じがして好きである。まだ読んだことのない本であったので購入。

●清水義範『独断流「読書」必勝法』(講談社文庫)
 ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やその関連本を読んでいるなかで、清水義範が柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』の文体で短編小説(「船が洲を上へ行く」)を書いたという話があった。それが収録されている短編集はなかったが、なんとなくおもしろそうなタイトルだったので購入。

●ジョイス『ダブリン市民』(新潮文庫)
 まだ少し先になりそうだが、ジョイスの『ユリシーズ』を読んだ後、同じジョイスの『ダブリナーズ』を読もうと思っていた。そのときは柳瀬訳の『ダブリナーズ』を購入予定であるが、今日この新潮文庫の『ダブリン市民』を見つけたときに、ひょっとするとこの『ダブリン市民』(安藤一郎訳)は絶版となっているのではないかと思い購入。柳瀬訳『ダブリナーズ』は新潮文庫から出ている。

●立川志の輔(選・監修)『古典落語100席』(PHP文庫)
 落語の簡易な辞典として使えないかと購入。落語は話芸であるので、落語を楽しむには寄席で聞くのが一番だとは思っているが、いまのところは大まかな知識として落語を知っておきたいというところ。漱石の『吾輩は猫である』など、落語を知っていればもっと楽しめるのではないかという思いから。

●正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫)
 漱石、俳句とくれば、正岡子規が連想される。俳句の良し悪しはわからないし、岩波文庫なので、逐一詳しい句釈があるわけでもないだろうから、あまり目を通さない可能性はある。110円本にあったので購入。

●大江健三郎『あいまいな日本の私』(岩波新書)
 大江健三郎がノーベル賞を受賞したときだったと記憶しているが、その講演が「あいまいな日本の私」というタイトルで、新聞に全文が掲載されていた。当時の新聞の切り抜きがまだあると思う(捨ててなければ)。その講演が著作になったものだと思い購入。

夜になると、また雨が降りはじめた。雨の音が大きくなる。もしかすると、今日が初蝉ではなく、すでに鳴いていたのかもしれないが雨の音でかき消されていたのかもしれないとも思った。
雨音散り初蝉の声散り散りに
俳句らしくひねり句練り出してみたものの、情景としてはぱっとしない。

ブログ アーカイブ