2012/07/27

わもんな言葉11-心の矢印

森博嗣さんの本はミステリから読み始めたのですが、最近はエッセイの類が好きです。

現在のベストは『自分探しと楽しさについて』。

「自分」と「楽しさ」について、この2つがほとんど同じものだという考えが、私にとって新鮮な考えで、面白く思いました。

この『自分探しと楽しさについて』からの一節。
「自分」を見つめることは、多くの場合、「他者は自分をどう捉えているだろう」とか、「自分は他者に対して何ができるだろう」というように、実は他者と自分の関係について考察することである。本当に自分だけのことについて考えるのは、かなり難しい。ほとんどできないといって良いだろう。自分にだけ集中すると、自然や他の生き物といった「自分以外」に考えが及ぶが、それらも排除すれば、最後は「無心」に近い情態になるのではないか、とも思える。

私は、「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という箇所から、京極夏彦さんの『塗仏の宴 宴の支度』の文言を思い出します。
不自由あっての自由である。
この文言を読んだときは、ハッとしました。


「自由」という概念というのは、「不自由」だったから生まれたのだと思います。

何かしら抑圧された状態、制限された状態から「自由」を求めたのではないかと思っています。

つまり「不自由」の方が先にあった。

不自由あっての自由です。


しかし、言葉の上では、「自由」が先で「不自由」が後です。

「不自由」という語は、「自由」という語に、打消しの「不」という語を伴ったものです。


「不自由」な状態から、「自由」を求め、「自由」という言葉ができ、「不自由」という言葉ができた。


私にとっては、興味深い発見でした。


冒頭の「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という文言は、「不自由あっての自由である」と同じ構造をしているように思います。


そして、「わもん」での「心の矢印」を自分に向ける、ということも。


「自由」に矢印を向けて「不自由」があるように、「自分」に矢印を向けて「他者」があるように、「聞き手」が自分に矢印を向けることで、自然と「話し手」が浮かび上がるのです。

『佐藤可士和の超整理術』と並行して読んでいたためか、両書が同じようなことをいっているように読めた。テーマは違うのだが。

「あとがき」によると、同じ集英社新書から出版された三部作『自由をつくる 自在に生きる』『創るセンス 工作の思考』『小説家という職業』のあと、森博嗣さんへの相談メールに対する返事のような気持ちで書かれたものらしい。

「自分」と「楽しさ」が同じようなものだという考えが自分にとっては新しい。


2012/07/26

わもんな言葉10-理想像に視点変化

ヤブログ放送室のお題が「わもんなことば」!


現在、1~9までありますが、待っていたかのように増えていなかった(!?)、「わもんな言葉10」です。

放送室の「わもんなことば」では、日めくりカレンダーの中の言葉のうちの2つ、「理想像に視点変化」と「命を聞く」について語られています。


そのうちの1つ、「理想像に視点変化」を聞いたときに頭に浮かんだのが、夏目漱石『夢十夜』の「第6夜」です。


護国寺の山門で、運慶が仁王を彫っています。

その刃の入れ方は、如何にも無遠慮ですが、少しも疑念を挟んでいないように見えた自分(主人公)が、「能くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心してつぶやくと、近くの若い男がこういいました。
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」

初めて『夢十夜』を読んだのは、中学生か高校生の国語の教科書です。

10話すべては載っていませんでしたが、「第六夜」は載っていました。

この運慶の話が一番好きでした。


そして、大学に入ってから文庫本を買い、読みましたが、やはり「第六夜」が一番好きでした。


ちなみに夏目漱石の作品は、この『夢十夜』(と文庫本に所収の『文鳥』『永日小品』)と、『吾輩は猫である』しか読んだことはありません…。


大学を卒業し働きはじめてから、コーチングのことを知り、勉強をし始めたころ、たしか本間先生の本だったと思うのですが、コーチングのたとえ話として、この「第六夜」の話が出てきました。

本間先生の本を数冊、該当の個所がどこにあったか探してみたのですが、見つからず…m(_ _)m


ツイッターを始めたのは2010年の秋くらいで、本間先生をフォローして、そこから「笑顔のコーチング」のことを知り、やぶちゃんのことも知り、「わもん」のことを知り、と現在に至っております。


私自身の「コーチング」そして「わもん」の理想像は、この運慶のようになりたいというものです。

先はまだ長いと思いますが、目指していきたいと思います。


『夢十夜』の本の紹介をするためにブクログを開いたところ、同じようなことを書いているのに驚きました(笑)

中学生か高校生のときの国語の教科書に載っていた。『夢十夜』のうち、第何夜が載っていたのかは定かではないが、「第6夜」が載っていたことは覚えている。

「第6夜」の中での、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」という科白が忘れられなかった。

運慶のようになりたかったし、今でもなりたいと思っている。

2012/07/23

夫子の道は忠恕のみ

沢庵禅師の「玲瓏集」の中に以下の文言がありました。
仁義礼智一体異名也。是中心也としるべし。故に夫子の道は忠恕也と云へり。忠は即ち中心也。恕は如心也。中心而如心なれは、万に一も悪事なし。

「玲瓏集」は池田諭さんの言葉を借りれば、
「不動智神妙録」が自分が自分になりきる方法を説き、「太阿記」が自分と他者との関係を説いているとすれば、「玲瓏集」は、本質的根源的立場に立って、自己とは何か、自己は何によって生き、何によってもっとも自己らしい本質を生かすものかを究明しようとしたものである。
というものです。

「仁義礼智一体異名也」とは、「仁」や「義」や「礼」や「智」というのは、ひとつのものに別々の名前をつけているということです。

欲で埋まっている身体の中に無欲で正直な中心がかくれていて、その中心のことを、あるときは「仁」と呼び、あるときは「義」と呼ぶ。

一体異名の仁義礼智が中心であることを知ることが「是中心也としるべし」です。

「故に夫子の道は忠恕也と云へり」とは、『論語』里仁15の文言を指していると思われます。
子曰く、参。吾が道は一以て之を貫く、と。曾子曰く、唯、と。子出づ。門人問うて曰く、何の謂いぞや、と。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ、と。

孔子が曾子に「私の道はひとつのことで貫いている」と言うと、曾子は「はい」と答えます。

孔子がいなくなってから、門人が「何のことを言っていたのですか?」と尋ねたとき、曾子の答えが「夫子の道は忠恕のみだ」というものです。

加地伸行さんの『論語』では、「忠」は「まごころ」、「恕」は「思いやり」と訳されていました。

そして、池田諭さんの「玲瓏集」(『不動智神妙録』に所収)でも、同じく「まごころ」と「思いやり」です。


面白いと思ったのは、「忠は即ち中心也。恕は如心也。」という言葉。

「忠」という漢字を上下に分けると「中心」、「恕」という漢字は「如心」。

なるほど。


で、「中心」というのは、まあなんとなくわかるのですが、「如心」とは?

手元の国語辞典には載っていませんでした。

そこで、先日購入した『漢字源』で確認しましたが、「如心」という項目は載っていません。

ということで、漢字の意味から想像したいと思います。


「如」というのは「如(ごと)し」というときに使います。

「~のようだ」という意味ですね。

そこで、「如心」を「心のようなもの」という意味にとってみるのですが、まだつながりが見えないです。

「忠」、「中心」、「まごころ(真心)」がイメージ的につながるように、「恕」と「如心」と「思いやり」をつなぎたいのです。


というわけで、ちょっと視点を変えて、「思いやり」の方から考えてみました。

「思いやり」の「やり」を漢字で書くと「遣り」。

「遣り」は「遣る」の名詞形です。

「遣る」から考えると、「思いやり」には相手がいます。

誰かのことを思い遣る。


そうすると、「如心」というのは、「(誰かの)心のように」あるいは「相手のような心」とも考えられるのではないか。

そんな気がしてきました。


そうすると、「夫子の道は忠恕のみ」というのもうなずけます。

「吾が道は一以て之を貫く」と言いながら、「忠」と「恕」の二つを出しているじゃないか、と屁理屈を考えていたこともありましたが、「忠」と「恕」でセットですね。

「忠」は「自分の中心」「まごころ」、「恕」は「他者のような心」「思いやり」。

「忠恕」の意味が、何となくわかった気がしました。


2012/07/19

「笑顔のコーチング」開催への第1歩

昨年2月に「笑顔のコーチング&ファシリテーター養成講座」を受講しました。

(そのときの様子はコチラ

それから、いつかは「笑顔のコーチング」をやってみたいと思いながらも、実際にすることなく月日は過ぎていきました。

つかず、はなれず、といった感じで。


しかし、先日、「笑顔のコーチング」ファシリテーターの勉強会に参加し、皆さんが実際に「笑顔のコーチング」を実施した上での経験や学び、気付きを共有されているのを聞いて、やってみたいと思う気持ちが強くなりました。


「笑顔のコーチング」は、NPO法人ハロードリーム実行委員会のプログラムのひとつです。

日々の生活の中で笑顔を増やしていくこと、周りの人の笑顔を増やしていくことのヒントを、コーチングという手法を用いて、体験してもらうプログラムです。



参加するのも楽しいのですが、できれば自分の周りにいる人も笑顔にしたい。

そして、ようやく、重い腰を上げました。


近所で「笑顔のコーチング」ができそうなところはないかな、ということで場所を探し、さすがに会社を休んでするわけにもいかないな、と日にちを絞り…。

そして、準備や段取りをあまり考えないまま、日時と場所だけ押さえました。


ありがたかったのは、facebookでの「いいね!」や「コメント」の数々。

できるかできないかわかっていない段階で、自分に圧をかけるために「やってみる」と投稿したのですが、笑顔のファシリテーターの方々を中心に多くの承認をもらいました。

やはり、承認されるのはうれしいこと。

後戻りできない、という気持ちもなくはないですが(^-^;)、モチベーションが高まります。


さて、これから告知方法などを考えなければなりませんし、準備もしなければなりませんが、せっかくやるのだから、いい講座にしたいと思います。

そして、もちろん楽しみながら。

壁?

注文をしていた本間正人さんの本『壁?』が届きました。

Amazonでの注文時には、「7月10日-12日にお届け予定」でしたが、7月10日にお届け予定変更のメールが…。

まあ、人気があるということで、のんびりと待ちました。


あなたの目の前に高い壁があります。
あなたならどうやって越えようとしますか?

この、帯の文言からは、「壁の越え方」を連想します。

実際、各種の壁の越え方がイラストと英語付で書かれているのですが、やはり、本のタイトルの『壁?』です。

「?(クエスチョンマーク)」です。


「壁」って何でしょうか?


本が到着するまでに想像していた内容は、ここが大部分だと思っていました。


実際に私が壁にぶつかったときにそう思えるかどうかは別ですが、
あなたの目の前に高い壁があります。
あなたならどうやって越えようとしますか?
と問われたとき、本の到着前の私が考えたことは、「そもそも、越えなければならないの?」「その壁は誰が何のために作った壁なの?」ということです。

「壁」という言葉からのイメージは、人工物のイメージです。

「岩壁」というような自然にある壁もあるでしょうが、どこかの誰かが作ったもののイメージが私には強いです。

となると、誰が作った壁なのか、という疑問はたやすく出てきます。

そして、何のために作ったのか、ということも。


壁を作る場合、目的として思いつくのは、何かから身を守るため。


自分が作った壁ならば、何から守るための壁なのだろう。

また、それを超えたいと思うのは、どういう理由があるのだろう。

他人が作った壁ならば、その人は何を守りたいのだろう。

なぜ、その壁を越えたいのだろう。


この辺りを読む前に考えていました。


もちろん(!?)、この本には答えは書かれてありませんでした。

この本は、あなたに問いを投げかける本です。
あなたの目の前に高い壁があります。
あなたならどうやって越えようとしますか?
Amazonには表紙イメージがなく、文章だけではちょっとさびしかったので、出版元の文屋さんのブログのキャプチャを貼り付けましたm(_ _)m
(画像クリックで文屋さんのブログ記事にリンクします)

2012/07/18

メタファーの連鎖

以前に「言葉は『葉っぱ』である」ということを書きました(「わもんな言葉8-わもん聴覚」参照)。

言いたいことの「葉」が「言葉」であると。

そして、「根」や「幹」はないのかな、とも。

そこで少し「根」について考えてみました。


「根がやさしい人」など、「根」には「植物の根」という意味の他に、「生まれつきの性質」という意味があります。

「ネクラ(根暗)」という言葉もあります。


「根」には「原因」というような意味もありますが、人に対するメタファーとしては性質、性格、本質的な意味が見られます。

「根性」という言葉もありますね。


「根」が生まれつきの性質で、「葉」が言葉。

何となくつながってきました。


では、「根」を見る(知る)には、どうするのか。


ひとつには「目は口ほどにものを言う」という言葉。

「目」を同じ音である「芽」と捉えると面白いかもしれません。


またもうひとつには、「根」を「音」と置き換えてみても面白いかもしれません。

言葉は葉っぱかもしれませんが、本心から出た言葉は「本音」といいます。

本心が「音」で表現されている。

「根」が「音」として表現されていると考えると、「わもん」で「音を聞く」という意味が更に深くなった気がします。

2012/07/14

交点を探すこと

数学は好きな方です。

専門的な学問としての知識はありませんが、中学校や高校のときに習った数学は好きでした。

解き方がわかれば問題が解ける。

計算問題はあまり好きではありませんが、あれこれと考えて解き方がわかったときが一番うれしく思います。


いつの頃に習ったのかの記憶は曖昧ですが、また、このような表現がふさわしいかどうかはわかりませんが、代数と幾何が表現を変えた同じものを指していることを知ったときが印象に残っています。

連立方程式の解が、2直線の交点の座標と一致していると習ったとき。

「数学、すごい」と思いました。


仕事上での目標設定は、交点を探すことに似ているように思います。

会社あるいは組織の目標と、個人の目標が交わるところ。

そこを目標として設定することが一番いいのだろうと思います。


しかし、そこにはX軸やY軸があるわけではなく、もちろん2次元でもなく。

組織も個人も一直線ではありません。


それでも、交点はどこかにあると思います。


そしてもうひとつ、数学というか図形の問題で好きなことがあります。

それは「補助線」を引くと、いとも簡単に解けてしまうような問題です。


補助線がないときにはどうやって解こうか、手掛かりが見つからないのに、補助線を一本引いてもらうと簡単に解ける。

そんな問題が好きです。


そして、できれば、補助線が引ける人間になりたいと思っています。


先の目標設定での例でいえば、仕事上、オペレーターさんと目標設定の面談をすることがありますが、目標が上手く設定できないときに補助線を引いてみると簡単に目標が設定できた、というような感覚。

そのようなことができたとき、うれしく思います。


しかし、今のところ、上手く補助線を引くことはできていません。

交点を探すようにはしていますが、ちょっと力づくで捻じ曲げたり、誘導したりしています。

あるがままを見ることは難しい。

あらためて、そう思いました。

2012/07/11

「そうめん流し」か「流しそうめん」か

facebookを眺めていると、「流しそうめん」という言葉があることを知りました。

初めて聞きます。

私のなかでは「流しそうめん」ではなく、「そうめん流し」です。


で、自己正当化のために、理屈を。


日本語は、言語類型論的に言うと、「後方主要部言語」です。

単純にいうと、「後の方に大切な言葉があらわれる言語」です。


たとえば、日本語はSOV言語、英語はSVO言語と言われます。

「S」は「Subject(主語)」、「O」は「Object(目的語)」、「V」は「Verb(動詞)」です。

日本語と英語では、動詞と目的語の語順が逆になっています。

文を構成する目的語と動詞では、動詞の方が「主要部」とみなされ、動詞が後に来る日本語は「後方主要部言語」、動詞が前に来る英語は「前方主要部言語」です。


他にも、日本語では「助詞」という品詞がありますが、これは名詞の後に付く「後置詞」とも取れます。

英語には「前置詞」がありますね。


また、修飾関係でも、日本語では修飾する語が前に来ます。

英語では、形容詞は名詞の前に来るときもありますが、関係代名詞など、後ろから修飾することが多いです。


このルールは、複合語を作るときにも当てはまります。


私がよく例としてとりあげるのが「サラダうどん」と「うどんサラダ」

「サラダうどん」は「うどん」が主要部。

なので、私は「サラダうどん」を「うどん」の一種ととらえます。

「うどんサラダ」は「サラダ」が主要部。

「うどんサラダ」は、「うどん」が入っている「サラダ」です。


同じように、「蜂蜜」は「蜜」の種類で、「蜜蜂」は「蜂」の種類。


そうすると、「そうめん流し」は「流し」が主要部で、「流し」の一種。

「流し」というと何だかキッチンのような感じがしてしまいますが、「流し」は「流す」の名詞形。

「精霊流し」とか「白線流し」とか「島流し」の「流し」

いわば、イベント名詞です。


一方、「流しそうめん」は「そうめん」の一種。

「そうめん」の種類、形態のひとつとして「流しそうめん」というものがある。


なので、何か行事として行うときは「そうめん流し」

そして、「そうめん流し」で流れる「そうめん」のことを「流しそうめん」と言う。


このように決めました。


(実際は地域によって言い方に差があるようです…)

2012/07/06

不完全性定理(2)

前回はこちら

さて、まずは「プリンキピア・マテマティカ」とは何か?です。

不完全性定理や数学史をご存知の方は知っているかと思いますが、「プリンキピア・マテマティカ」というのは、アルフレッド・ホワイトヘッドバートランド・ラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica:数学原理)のことです。

1910年~1913年に出版された数学の基礎に関する全3巻の大著です。

当然(!?)未読です。

未読ではありますが、『プリンキピア・マテマティカ』は、数学を論理で表現しようする試みです。


この時期の数学界は非常に論争が多かったようです。

全体的な流れとして、数学の厳密化、算術化がすすみます。

そして、大きな事柄としては、カントールの集合論の台頭があります。


カントールの集合論は「無限」を扱います。

「無限」を取り扱うことで、もちろん様々な恩恵があるのですが、一方で様々な矛盾(パラドックス)が発見されていきます。

カントール自身も、「カントールのパラドックス」を発見します。そして、ラッセルも「ラッセルのパラドックス」を発見します。


パラドックスの内容はさておき、基礎部分が揺らぐと数学全体が危ない、ということで、この時代に「数学基礎論」が発展します。

『プリンキピア・マテマティカ』もその流れのひとつです。


ゲーデルの論文「プリンキピア・マテマティカおよびその関連した体系の形式的に決定不能な命題についてⅠ」の第1章は「概説」にあてられていますが、冒頭は以下のようなものです。
 数学は一層の厳密性を目指して進化し、周知のように、その大部分を形式化するにいたった。すなわち、僅かな機械的規則によって証明が実行できるような数学の形式化が達成されたのである。
現在までに構築された形式系のうち、もっとも包括的なものは、一方では、プリンキピア・マテマティカの体系(以下、PM)であり、他方では、ツェルメロ-フレンケルの集合論の公理系である(後者はJ.フォン・ノイマンが更に発展させている)。
数学が形式化され、構築された形式系のひとつとして「プリンキピア・マテマティカの体系(以下、PM)」が挙げられています。

これらの体系の中に「形式的に決定不能な命題」がある、というのが、ゲーデルの論文の主旨です。

では、「形式的に決定不能な命題」とはどんなものか?

それはまた次回に。

2012/07/05

わもんな言葉9-事実集積が直感を生む

今週のヤブログ放送室のタイトルは「わもんな話

さすが本家本元!

やぶちゃんの突っ走り宣言です。


さて、こちらの「わもんな言葉」は亜流の道を進みます(笑)


今週の放送の中で、ヤブログ放送室の第1回目のテーマが「エアロビ」というのを聞き、最初の方の放送はあまり聞いたことがなかったので聞いてみると、第2回目のテーマは「シャーロック・ホームズ

やぶちゃんがホームズファンだというのは、どこかで聞いたことがあったのですが(まぁ、心徒塾かヤブログ放送室のどちらかとはなります…)、ここで聞いたのだったかな…。


ということで(!?)、ホームズ物から「わもんな言葉」を書こうとしたのですが、シャーロック・ホームズ・シリーズの文庫本は実家に…。

たしか、ホームズの物語の中に、「分析的推理」とか「逆向きの推理」という箇所があったと思ったからです。


しかし、シャーロッキアン(シャーロック・ホームズの愛好家とか研究者)とまではいきませんが、私もシャーロック・ホームズのファンです。

で、手元には『ホームズ探偵学序説』という本があります。


久々に手に取って読んでみると、『ホームズ探偵学序説』の中の引用に目的の個所がありました。

引用の引用になってしまいますが、また、長くなってしまいますが、『緋色の研究』からの引用です。
論理家は、たとえば一滴の水から、自分の見たことも聞いたこともない大西洋やナイアガラ瀑布の存在を推理しうる。同様に、人生もまた一本の大きな鎖であり、その本質はたった一個の環から知りうるのである。あらゆる学問と同様、「推理分析学」もまた長年の研鑽の末にはじめて習得しうるものであり、ましてやその完成の域に達するには、人生はあまりに短い。すべからく初心者は、きわめて多大なる困難をともなう倫理的精神的問題に取りかかるまえに、より基礎的な問題からマスターすべきである。たとえば他人に会ったら、ひと目でその人物の経歴や職業を見分けられるようにする。子供じみたことと思うかもしれないが、こうした訓練が観察力を鋭くし、どこを見、何を見るべきか教えてくれるのである。たとえば指の爪、上着の袖、靴、ズボンの膝、人差し指や親指のタコ、顔の表情、ワイシャツの袖口等々――いずれをとっても、その人の職業が端的に顔をのぞかせている。しかるべき観察者がこれらを総合すれば、必ずや何かわかるはずである。

『緋色の研究(A Study in Scarlet)』の中には、ホームズの雑誌記事「人生の書(The Book of Life)」についての記載があり、上に引用した箇所は「人生の書」の一節。


あらためて読むと、やぶちゃんがヤブログ放送室や他のところで言っていることとリンクしていますね。

ホームズ物語をあらためて読みなおすと、いろいろな「わもんな言葉」がでてきそうです。


文庫本を実家においている理由は、WEB上にテキストがあるから。

しかし、WEB上のテキストは探し物には便利ですが、私は、読むのは本の方が好きです。

久々に正典を読みたくなりました。



2012/07/03

不完全性定理(1)

クルト・ゲーデルの「不完全性定理」という言葉を知ったのは大学生の頃なので、知ってからかれこれ十数年経ちます。

しかし、未だにわかったようなわからないような…。

突き詰めて考えていくとわからなくなって途中で嫌になるのですが、またしばらくするともう少し考えてみようという、何だか魅力的な定理です。

かといって、本気で理解してやるぞ、という気合いもなく、少しずつ理解していこうと思っています。


で、理解するには、人に話すのが一番。

とはいうものの、話すにはまだまだ自信がないため、ブログを利用しようと思った次第。

なので、これから書いていくことの中には、まだまだ理解不足のところがあるかと思います。


以下、ゲーデルの論文の引用や用語については、岩波文庫の『ゲーデル 不完全性定理』の翻訳での言葉や記号を利用しています。

しかし、数式や論理式の表記について、このブログでは限界がある(表記しようと思えばできるのでしょうが、方法を知らない)ので、独自の表記になってしまう箇所もあるかもしれませんのでご容赦ください。


さて、ゲーデルが「不完全性定理」を発表した論文のタイトルというのは、「プリンキピア・マテマティカおよび関連した体系の形式的に決定不能な命題についてⅠ」です。

(「Ⅰ」とついていますが、「Ⅱ」が書かれることはありませんでした)

さて、初めて「不完全性定理」を知る人には、タイトルから「???」が並びます。

単純に疑問に思うことは、
  • 「プリンキピア・マテマティカ」とは何か?
  • 「形式的に決定不能な命題」とはどんな命題か?
  • そもそも「命題」とは何か?
など。

まずは、ここを起点として話を進めていきたいと思います。

が、不定期に更新していきますのであしからず。