2013/12/29

わもんな言葉63-波動性と粒子性

先日、小布施にて「黒帯二段100人達成記念祝賀会」が開催されました。

その祝賀会の基調講演のタイトルは、「わもんを科学する」。

本間先生の講演です。

その中で「意識場」の話があり、「意識には、光と同じように、波動性と粒子性があるのではないか」という話がありました。


量子力学の世界では、すべての物質やエネルギーは波動性と粒子性の両方を持っていると言われています。

波動性というのは、波の性質。

粒子性というのは、粒子の性質。

あ、そのままですね(^-^;)

量子力学について詳しいことは知りません(^-^;)


文章で表わす力量はまだなく、また想像の範囲でしかありませんが、私は「波動性」と「粒子性」の関係は、「サインカーブ(三角関数)」と「円」の関係に似ているのではないかと思っています。

さらに言うと、「線」と「点」の関係です。


x軸、y軸の座標平面において、方程式 x^2 + y^2 = 1 は単位円を示します。

原点を中心とした半径1の円です。

その円周上の点Pの座標は、角θ(=∠xOP)を使って表すと、(cosθ, sinθ)となります。

角θが変化すると、cosθやsinθの値が変わります。

横軸をθ、縦軸をxとして、グラフを書くと、関数 x = sinθ は波の形になります。

これをサインカーブといいます。

「波動」をサインカーブに例えると、「粒子」にあたるものが円。


半径1の単位円で考えましたが、円の半径を小さくしていくと、サインカーブの波の振幅は小さくなっていきます。

円をどんどん小さくして、できるだけ点に近づけていくと、サインカーブの振幅はほとんどなくなり、直線に近づきます。


ここでの数学的表現はかなり曖昧ですし、うまく説明はできません。

ひょっとするとゼノンのパラドックスに陥っているのかもしれません。

しかし、やぶちゃんが「意識の粒子の細かくしていって…」などと言うとき、私の中では、円がどんどん小さくなっていき、サインカーブが直線に近づいていくイメージが浮かびます。

粒子を細かく小さくしていくと、波が穏やかになっていき、直線へ、完全沈黙へと近づくような、イメージが浮かぶのです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2013/12/19

わもんな言葉62-音楽を聞くように人の話を聞く

先日、わもんコーラス部が結成されました。

年末の小布施で行われる「わもん黒帯二段100人達成記念祝賀会」にて最初のお披露目となります。

私も部員の1人で、曲を練習しています。

といっても、発表曲を聞いているだけです(^-^;)

曲自体は知っている曲なので問題ありませんが、歌詞を覚えていませんので、まずは歌詞を覚えたいと思います。


歌を覚える方法は人それぞれにあるかと思いますが、私の場合は何回も聞くこと。

何回も聞いて、曲に合わせて歌ってみて、とすることでしか覚えることができません。

歌詞を覚えようというよりも、曲に合わせて言葉が出てくるようにしようとしています。


ふと、音の方を先に覚えているな、と思いました。

「曲自体は知っている」ということは、歌詞よりも音やメロディの方を先に覚えているということです。

音やメロディを先に覚え、その後、歌詞を覚えるという順番です。


わもんでは、音を入口に話を聞くといいます。

音調、音階、波長を合わせて話を聞くともいいます。

話し手の曲を聞いています。


良き聞き手は、話し手の曲に合わせて、一緒に歌ったり、ハモったり、コーラスで後押しをしたりしているのではないかと思います。

曲に合わせて歌詞が出てくると素敵ですね。


聞けば叶う〜わもん入門
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2013/12/13

わもんな言葉61-素数

「素数」とは、1と自分自身以外に約数を持たない、1でない自然数のことです。

例えば、5の約数は、1と5なので素数。

6の約数は、1と2と3と6なので素数ではありません。

素数ではない自然数を「合成数」といいます(1は除く)。

ちなみに、今回のわもんな言葉「61」も素数です。


「素数」という言葉が、わもんで頻繁に使われているわけではありません。

ただ、先日の「黒帯だけのわもん入門塾」で話を聞いて、面白いなと思ったので書いてみます。


もともとは紳士服で有名なAOKIの創業者、青木擴憲さんの著書(おそらく『何があっても、だから良かった 人間を磨き、格を高める経営』)から得た言葉とのこと。

申し訳ありません。

未読です。

人に何か教えたり、指示を出したりするときの例えで、「素数で伝える」という言葉があったそうです。

よりわかりやすく、これ以上は割り切れない最小限の言葉で伝えるという意味だと思います。

より具体的に、イメージしやすいように。

「12」を素因数分解すると、「2×2×3」です。

やってほしいことを素因数分解をして丁寧に伝えていくという意味です。


さて、ここから私のイメージが飛躍します。

素数でも分解自体は可能です。

例えば「3」という数は素数ですが、「1+2」のように和の形には分解できます。

積の形でも、「2×1.5」のような分解も可能です。

分解のやり方次第では、幾通りもの分解が可能。

しかし、「素因数分解」というやり方での分解は1通りだけです(素因数分解の一意性)。


「素数で伝える」というのは、指示や説明を素因数分解のように一意に決める伝達方法だと考えます。

すると、そこには「素数」にあたるものがあるのではないか。

私はそれが「言葉」、その中の「基本レベルの言葉」だと思っています。


言葉の中には、合成数にあたるようなものもふくまれています。

小数や分数もあると思います。

それらを素数で表わす表現があると思います。


一方で、素数で表わす表現よりも、ひとつの数としてわかりやすいときもあります。

「12」を「2×2×3」というよりも、そのまま「12」と伝えたほうがいい場合も多々あります。


大切なのは、素因数分解できることとともに、逆に素因数分解の形からもとに戻せることができることではないかと思っています。

「わもん入門塾」の講師の立場から言うと、「わもん」を素因数分解して、「わもん」とは○○だという説明ができると同時に、○○というのをひとまとめにすると「わもん」と呼ぶ、と言えることが大切だと思うのです。


ちなみにこのブログ記事は、もう少し素因数分解ができるのではないかと思います。。。


何があっても、だから良かった 人間を磨き、格を高める経営
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聞けば叶う〜わもん入門
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2013/12/07

わもんな言葉60-お札商売

長野県上高井郡小布施町。

わもんに出会うまでは、小布施という所を知りませんでした。

小布施町は人口約1万1千人の町で、大きい町とは言えませんが、歴史や文化、自然を活かしたまちづくりがなされていて、観光地としての認知度も高くなっています。

今年初めて行きましたが、機会があればまた行ってみたいと思えるところでした。


特に印象に残っているのが、「オープンガーデン」です。

個人の庭を開放し、自由に庭を歩き眺めることができます。

オープンガーデンとは異なるかもしれませんが、「通り抜け禁止」とかの看板などあってもよさそうなところも、普通に歩けたりします。

「あんなところに庭があるな」とか、「この裏道はどこに通じているだろう」とか、いろいろと歩き回りました。


私の中では、なぜか「小布施」と「お札商売」が結びついています。

わもんに出会ってから小布施を知ったからかもしれませんし、「小布施(おぶせ)」と「お布施」が似ているからかもしれません。

しかし、「また行ってみたい」と思えることが一番の理由ではないかと思っています。


「お札商売」と聞くとインチキ臭く感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではご利益のあるお札を思い描いてください。


ご利益のあるお札は、「○○のお札はご利益がある」と求められます。

遠方からも求めにくる方がいらっしゃいます。

そのお札を手にすることで、「ありがたや」と感謝されます。

「遠くからも来てくれる」「手に入れることで感謝される」のが「お札商売」。


そして、何より「値切られない」(笑)


商売の理想を描いたものが、「お札商売」です。


「小布施」と「お札商売」が結びついているのも、小布施という土地が「お札商売」のひとつだと思うからです。


来る12月23日、小布施にて「わもん黒帯二段100人達成記念祝賀会」が開催されます。

「お札商売」の地に、「お札人間」が集まってきます。

さて、どんな会になるのか。

楽しみです。


聞けば叶う〜わもん入門
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2013/11/28

わもんな言葉59-心ある一人

『黒帯日めくりカレンダー』、27日の言葉は「心ある一人――自分のあり方が世界をつくる最初の一滴になる。」

この言葉を見たのは、池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』という本を読み終えたときでした。


以前に、わもんな言葉で「バタフライ効果」というものに言及したことがあります。

「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスで台風となる」という例えで、無視できるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となることを指します。

冒頭の一滴は、蝶の羽ばたきと捉えていいでしょう。

自分のあり方が、世界をつくる最初の一滴、羽ばたきです。


『単純な脳、複雑な「私」』のなかで、「自己組織化マップ」の紹介がありました。

「自己組織化」というのは、簡単にいうと、教えていないのに自然に秩序が生まれてくることをいいます。

紹介されていた「自己組織化マップ」は、10×10マス(計100マス)の色の変化のシュミレーションで、ランダムに色づけされた10×10マス(計100マス)に色を混ぜていく様子です。

ランダムに色づけられた100マスのパレット内ひとつに色を混ぜます。

このとき混ぜる色は、これもまたランダムに色づけられたもの。

ルールは2つで、1つは、ランダムに色づけられた1色を100マスの色の中で一番近い色のパレットに混ぜるということ。

もうひとつは、その色の混ざったパレットの上下左右斜めの8マスのパレットにも色を混ぜるということです。


もちろん、一滴ではほとんど変わりありません。

しかし、何十回、何百回、何千回と繰り返していると、次第に色が分類されているように見えてきます。


パレットのひとつが私だとしましょう。

私が一滴の色を受け、周りの人に同じ色を与える。

私には世界がどのように変わっているのかはわかりません。

しかし、それは世界を変える一滴だと思うのです。

最初で最後かもしれません。

それでも、世界を変えた一滴だと思います。


単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)
単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)

聞けば叶う〜わもん入門
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コホーネンの自己組織化マップ

2013/11/15

わもんな言葉58-わもんメビウスの法則


(画像:Wikipedia「メビウスの帯」より)

メビウスの輪(あるいは、メビウスの帯)というのをご存知でしょうか。

帯状の長方形の片方の端を180°ひねって、もう片方の端に貼り合わせた形をしています。

メビウスの帯上の平面をトコトコと歩いていると、最初は外側を歩いているのに、一周すると内側を歩くことになり、また一周すると外側を…、というおもしろい平面です。

このような平面を研究していたのが、数学者のメビウスさんで、メビウスの帯と名付けられました。


「わもんメビウスの法則」というのは、数学ではありませんが、「SOS理論」と「SNS理論」を組み合わせたもの。

「SOS理論」とは「そう 思ったら そう」の略、「SNS理論」とは「そう なれば すごい」の略(笑)

組み合わせると、「そう思ったらそうなればすごいと思ったらそうなれば…」。

「SOSNSOSNSOS…理論」(笑)


メビウスの帯には、数学的にいうと「向き付け不可能性」という特徴があります。

「向き付け不可能性」というのは、簡単にいうと、どちらが表でどちらが裏か決定できない、ということです。

先ほどは「SOS理論」を先に「SNS理論」を後に書きましたが、鶏が先か卵が先かと同じように、どちらが先とも言えません。


「ウラがあっても、おもてなし」という言葉がありますが、本当の「おもてなし」は、ウラもないものだと思います。

「もてなす心」にも通じるものがありますね。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2013/11/07

わもんな言葉57-同通

話し言葉において、ある言語から別の言語に変換することを「通訳」といいます。

通訳には「逐次通訳」と「同時通訳」という2種類の形式があるそうです。

例えば日本語の話者の話を通訳者が英語に訳す場合でいうと、話者が日本語で区切りがいいところまで話し、その話を通訳者が英語で話し、また話者が日本語で話し、通訳者が英語で話し、と交替交替に通訳をしていくやり方が「逐次通訳」。

「同時通訳」というのは、日本語の話者が話しているそばから、英語の通訳者が話をしていくやり方です。

「同時通訳」のことを略して「同通(どうつう)」。


「逐次通訳」と「同時通訳」は、どちらも異なる言語を訳すということで、その2つ(以上)の言語を知っていなければなりません。

「逐次通訳」も「同時通訳」も、どちらも日本語しか知らない私にとっては難しいことですが、どちらかというと、「同時通訳」の方が難しいように感じます。

その理由は、「逐次通訳」ならば、一塊の文章をいったんまとめて異なる言語に言いかえて話す、ということができそうですが、「同時通訳」は、その話者が次に言わんとすることを予測して訳していかなければならないと感じるからです。

私にとって一番身近な言語は日本語で、その次は学校で習ったことのある英語となるので、日本語と英語のことでしか思い浮かべていないからかもしれません。


例えば日本語の場合は動詞が文の一番最後に来ます。

しかし、英語は主語の後にすぐ動詞が来ます。

日本語を英語に同時通訳をする場合、日本語では動詞がまだ現れていないときに、英語では動詞を発していないと文にならないのではないかと感じるためです。

日本語話者の話をよく聞き、このようなことを話すだろうと当たりをつけ、いわば先取りして英語で話すことをしなければならないのではないか、だから難しいと感じます。


「同時」通訳といっても実際は多少のタイムラグがあるとは思いますが、これがもし仮に本当に同時であるならば、つまり、日本語で話し始めると同時に英語でも話し始め、日本語で話し終わると同時に英語も話し終わるということができれば、その2人の話者は異なる言語で話しているとはいえ、一心同体ではないか、つまりは話聞一如の状態ではないかと思います。


(追記)

【同時通訳のわもん流定義(パヴィ・ ヴァージョン)】
同時通訳者【以下通訳者】が完全に離我すると、
通訳者は話者と非言語の場で完全につながり、話者の思念とひとつになります。

地下水脈を通して話者の思念/想いが通訳者を満たし、通訳者から言葉として表れます。

その瞬間、通訳者にとって話者は【あなたはもうひとりの私】であり、
それは離我による絶対的存在との融合であり、完全なる至高体験です。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2013/11/01

わもんな言葉56-聞くことで救える命がある

facebookのシェアで、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor)さんのことを知りました。

シェアされていたのは、TEDの映像です。



映像を見て、テイラーさんの本があることを知り、読んでみました。

『奇跡の脳』という本です。


テイラーさんは脳科学者ですが、ある日、脳卒中を起こしてしまいます。

『奇跡の脳』には、脳卒中により脳の機能が衰えていく様子や、手術・リハビリ等により回復していく様子が、脳科学者の視点から詳しく書かれています。

脳科学者が自分の脳を解説した稀有な本です。


手術後のリハビリ中のことを書いた章「最も必要だったこと」に、次の言葉がありました。
これまでのわたしではなく、これからのわたしを愛してくれる人々が必要だったのです。
脳科学者として様々な活動をされていたテイラーさんは、脳卒中により記憶能力も言語能力もおぼつかなくなってしまいました。

回復するために、最も必要だったのは、周りの人々。

脳卒中前の優秀な脳科学者としてのテイラーさんではなく、「これからのわたしを愛してくれる人々」です。
どうしても、自分を今ここにいる、ありのままのわたしとして受け入れてくれる人々が必要でした。

脳卒中だけでなく、聞くことで救える命はあると思います。

今ここにいる、ありのままのあなたとして受け入れて話を聞く。

このような聞き方を「わもん」と名付けています。


奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

著者 : 薮原秀樹
サンクチュアリ出版
発売日 : 2013-06-04

2013/10/19

秘根顔図上幾

時折思い出しては、ジェイムス・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(柳瀬尚紀訳)に挑戦するのですが、中々読み進めることができません。

理由は、読んでみるとわかるでしょうが、冒頭の一文を引用してみます。
川走せんそう、イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、く岸辺きしべからきょくするわんへ、こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
総ルビ、注釈なし、です。

ここまで書くのにも苦労しました…。

ちなみに、原文を見たことはありませんが、WEBで検索すると、どうやら以下の文章のようです。
riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

riverrun と小文字で始まっているのは、最終章と対応しているからだとか…。

最終章の最後にはピリオドがないとか…。

通読すればわかるのでしょうか?


まあ、しかし、最初の一文だけでも、注釈を試みてみます。

というか、思いついたことなどのメモです。

わからないことだらけなので、お暇な方のみお読みください。

区切りは適当です。

専門家でも何でもありませんので、その点ご了承ください。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
川走せんそう
riverrun,
川(river)と走る(run)で「川走」ですが、同音異義語の「戦争」も思い起こします。「戦争」がどのようにかかわっているのかは、通読していないのでわかりません。

イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、
past Eve and Adam's,
「イブ(Eve)」と「アダム(Adam)」は、言わずと知れた『創世記(旧約聖書)』に出て来る人間の名前です。神がはじめて造った人間(男)が「アダム」、そして男(アダム)の肋骨をもとに女(イブ、あるいはエヴァ)を造ります。順序から言うと、「アダムとイブ」という方が一般的かと思いますが、ここでは「イブとアダム」となっていることに何か意味がありそうです。
そして、「礼盃亭」。「礼盃亭」は、どこから来たのか。「礼拝」ではなく「礼盃」であることにも、何か意味がありそうです。
また、文法的には「イブ」と「アダム礼盃亭」と取るべきか。

岸辺きしべから
from swerve of shore
shore は「岸、海岸、川岸」という意味。swerve は「それる、曲がる」という意味。shore と swerve のように語頭の音を一致させた訳として「岸辺」「く寝る」を採用しています。
「くねる」を「く寝る」としたところにも意味がありそうですが、わからず。sleep も s で始まりますね。
文法的に一致するように訳すと「岸辺のくねり」となりそうですが、ここにも意味がありそうです。

きょくするわんへ、
to bend of bay,
bend と bay も頭韻。「輪ん曲」と「湾」も頭韻を踏んでいます。
「湾曲」とせず「輪ん曲」としたのは、「円環」を連想させる現れですかね。Wikipedeia「フィネガンズ・ウェイク」には「この作品の主題は、だれか特定の人物の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なのである。」とありました。となると、先の「く寝る」は、目覚めを予感させます。
bend は「曲げる、曲がる」という意味で、ここも文法的に一致するように訳すと、「湾の曲がり」となりそう。

こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.
さて、最後が難しい。とは言っても冒頭の一文なのですが…。
注目したところから書くと、recirculation という単語が目を引きます。circle は「円」。そこに re- という接頭辞があります。re- は「再び」というようないみがあるので、「円環」というイメージ。冒頭の riverrun が最後からの続きということならば、ウロボロス的な円環を思いうかべます。アダムとイブという創世記の語を配していることから、始まりも終わりもないもののとりあえずの最初としてこの一文が配されているという考え方ができそうです。ラストの Environs も、中学か高校で習った「環境(environment)」という単語を思い起こすものです。そういえば「環境」にも「環」という文字が使われていますね。「巡る」も「戻る」なども呼応します。back なんかは、recirculation の re- なんかと相性がよさそうです。
「今も度失せぬ」からは、「今度」とか、「堂々巡り」とか、「どうする」とか、「今度も」が入れ替わって「今も度」となったとか、いろいろなことを考えましたが、一概には言えず。また、「栄地四囲委蛇たる」というのもどこから来たのかがわかりませんが、「四面楚歌」などを思い浮かべるし、ウロボロスの蛇というのもここにイメージされている気がします。
commodius や vicus という単語は手元の英和辞典にはありませんでした。ついでに言うと、Howth もなし。
commodius からは、commodity(必需品)という単語を思い浮かべますが、どうでしょうか。
『フィネガンズ・ウェイク』では様々な言語を取り入れて書かれていると聞きますので、英単語としては存在しないのかもしれません。語末からは、commodius や vicus は、ラテン語(系)のような気もします。

しかし、日本語でも英語でもわからない…。
『フィネガンズ・ウェイク』は、イメージを喚起させる抽象化された小説のようなイメージです。
ミロの『アルルカンの謝肉祭(カーニバル)』という作品がありますが、それをさらに隙間なく寄せ集めた絵を思い浮かべました。

フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫)
フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫)

2013/10/17

わもんな言葉55-ミジンコ

やぶちゃんは、直感のことを「ミジンコ」と呼んでいます。

下の方から猛スピードで上がってくるミジンコ。

そのミジンコは、水面に上がるか上がらないかのうちに、また潜ってしまう。

猛スピードで上がってくるミジンコ(直感)を素早くキャッチして、それを行動に移す、という話。


直感を感じる感覚は人それぞれだそうで、やぶちゃんは下から上がってくる感じということですが、上から降ってくるという人もいるようです。


さて、自分はどうだろう、と思ったとき、浮かんできたものは…、

「ゲンゴロウ」でした(笑)


ゲンゴロウは翅の下に空気をためて水中を泳ぎます。

空気をためるためにときどきお尻を水面に出します。

その姿が浮かんできました。


本物のゲンゴロウを見たことはありません。

子どものころは昆虫採集などをすることがよくあり、ゲンゴロウもその対象としていましたが、捕まえられず…。

シマゲンゴロウはたくさんいたのですが…。


そう思うと、私は珍しいものが好きです。

あまり見かけないものだったり、思いがけない考え方だったり。

ゲンゴロウを思い浮かべたのは、そういった志向の現れなのかもしれません。

ミジンコよりは目につきやすく、それでいて珍しい。


実はミジンコはそこらじゅうに跳ねているのに目もくれず、空気を取り込むためにゲンゴロウが水面に顔(お尻)を出すのを探しているのかもしれません。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

10月は「8」の月?

10月は英語で言うと October です。

この October の oct- には、数字の「8」という意味があります。

8本の足を持つタコは英語で octopus ですし、八角形は octagon、音楽では8音上がると1オクターブ(octave)。


10月なのに、なぜ「8」が関係しているのか。

ローマ暦が関係しているようです。

以下、Wikipedia「ローマ暦」からの引用です。
紀元前753年(紀元前745年説あり)、最初のローマ暦が古代ローマで採用された。この暦法は、ローマを建国したとされる王ロムルスの名をとり、ロムルス暦と呼ばれる。3月から始まり12月で終わっていた。各月の名称と日数は次のとおり。
  • Martius (マルティウス、31日)
  • Aprīlis (アプリーリス、30日)
  • Māius (マーイウス、31日)
  • Jūnius (ユーニウス、30日)
  • Quīntīlis (クィーンティーリス、31日)
  • Sextīlis (セクスティーリス、30日)
  • September (セプテンベル、30日)
  • Octōber (オクトーベル、31日)
  • November (ノウェンベル、30日)
  • December (デケンベル、30日)
1年の長さは304日で、12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間続いた。農耕暦だったので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされる。当時のローマ人は1年の長さが約365日であることを知らなかったため、日付のない日は厳密に61日間ではなく、春めいてきた日に王が新年を宣言するという形をとったと考えられる。
なるほど、8番目が October です。

これに January、February が加わって、12ヵ月がそろうこととなります。


ちなみに、September(9月)、November(11月)、Decenber(12月)の sept-、novem-、decem- というのは、それぞれ7番目、9番目、10番目という意味があります。

語源はラテン語。

ラテン語の流れを汲むフランス語では、数字の 7、8、9、10 を sept、huit、neuf、dix といいます。

sept なんかは、seven に近いし、huit と eight、neuf と nine なども近いといえば近いです。


フランス語はロマンス系言語、英語はゲルマン系言語ですが、国も近いので交流があったのでしょう。


今回、暦月の後半について書きましたが、前半も語源を調べるとローマ神話の神様の名前が入っていたり、結構おもしろいと思います。

気が向けばブログにも書こうと思いますが、今回はこの辺で。

2013/10/10

わもんな言葉54-楽読

わもん界に楽読に関わる方々が多くなっています。

あるいは逆に、楽読界にわもんに関わる方々が多くなっているのかも。

楽読とわもんがつながってきています。


私は楽読のことをあまり知りません。

そこで、最近出版された楽読の本『世界一楽しい速読』を購入。

DVD付で、我らがピースさんが登場しています♪


楽読は書名からもわかるように「楽しい速読」。

読むことと聞くことの違いはありますが、楽読とわもんがつながってきているということは、楽読とわもんに共通したものがあるということです。


『世界一楽しい速読』の中では、「楽読のコツ」として次の4つのポイントが挙げられていました。
  1. 速く見る
  2. 見る幅を広げる
  3. 見たことと記憶の照合を速める
  4. 見えたことで勘を使う
ここから、「わもんのコツ」を探ってみましょう。


とりあえず、「見る」を「聞く」に替えてみます。
  1. 速く聞く
  2. 聞く幅を広げる
  3. 聞いたことと記憶の照合を速める
  4. 聞こえたことで勘を使う

1の「速く聞く」というのが、何だかわもんにはしっくりとしないような気がします。

話し手に速くしゃべってもらうわけにもいきません。

「見る」ならば速くすることはできそうですが、「聞く」を速くすることはちょっと無理かも、と思ってしまいます。


ならば、「ゆっくり聞く」というのはどうか。

話し手の話のスピードを上げることは聞き手にはできないことかもしれませんが、聞き手が聞くスピードを遅くすることで、相対的に話し手のスピードを上げてみるという提案です。


人の話す速さと、聞く速さでは、聞く方が3倍から4倍も速いと言われています。

聞く方が早いため、聞き手には余裕があり、聞きながら他のことを考えたりすることができます。

「ゆっくり聞く」というのは、話し手の話すスピードに、聞くスピードを合わせていくことです。


文字を読むときには、頭の中で音読をしています。

その音読をやめて、文字を見ることによって読む速度を上げるのが速読です。


ならば「ゆっくり聞く」には、話し手の話を音読すればいいのではないか。

「わもん流シャドーイング」は効果的なトレーニングですね。


世界一楽しい速読: 全脳開発トレーニング楽読講座51分DVDつき
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聞けば叶う〜わもん入門
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2013/10/02

わもんな言葉53-アプリ

一昔前はパソコン上で動くプログラムを「ソフトウェア」、略して「ソフト」と呼んでいました。

「ワープロソフト」や「表計算ソフト」など。

しかし、いつの間にか「アプリケーション」、略して「アプリ」と呼ぶことが主流になってきました。

スマホが普及し始めた頃からではないかと思います。


厳密な定義は知りませんが、「ソフト」と「アプリ」の違いは、使いやすさだと思います。


「ソフトウェア」に対応する語としては、「ハードウェア」、略して「ハード」があります。

パソコンで言えば、CPUとかハードディスクとかDVDドライブとか、物理的な装置などのことを「ハード」と言います。

一方「ソフト」というのは、「ハード」の上で動くプログラム全てのこと。


なので、WindowsやiOSなどのOS(Operating System)も「ソフト」。

「基本ソフト」という言い方もあります。


「アプリ」というのは、「ソフト」の中でも、人間にとってより使いやすくわかりやすいもの、あるいは「基本ソフト」上で動く「応用ソフト」だと思っています。


最近、やぶちゃんは、「アプリ」という言葉をよく使います。

「あまのじゃくアプリ」や「人と違うことをやりたいアプリ」など、その人の考え方や癖などを総称して「アプリ」と呼んでいます。


そういった癖や考え方、行動様式など「アプリ」を否定するわけではありません。

「アプリ」は使いやすく、わかりやすく、便利なものです。

人が生きていく中で、「これは使いやすいかも」「便利かも」と取り入れたものが「アプリ」です。


皆さんの持っているパソコンやスマホにも、様々なアプリが入っています。

それらのアプリは用途、機能が決まっているものがほとんどです。

「もう少しこんな機能がほしいな」とか「ここはちょっと使いにくいな」というようなアプリもあるかもしれません。

知らぬ間に動いているアプリもあるかもしれません。

また、Android用とかiOS用とか、特定のOS上でしか動かないアプリもあります。

自分専用の自分が使いやすく便利なアプリがほしいものです。


書籍『わもん入門』には、「わもんはコミュニケーションのOSです」という本間正人先生の推薦文がついています。

OSは基本ソフト。

わもんOSをインストールすると、わもんOS上では動かないアプリがでてくるかもしれません。

バージョンアップをしなければならないアプリもあるかもしれません。


人間というハードを理解し、わもんというOSをインストールして、自分自身が一番使いやすいアプリをつくってみたいと思います。


聞けば叶う〜わもん入門
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2013/09/29

奇跡的な出会いを求めて

「アスパラギン酸」という言葉を初めて聞きました。

Wikipediaには、
アスパラギン酸(アスパラギンさん、aspartic acid)とは、アミノ酸のひとつで、2-アミノブタン二酸のこと。示性式は HOOCCH2CH(COOH)NH2)。略号はD あるいは Asp、またD-Aspとも。アスパラギンの加水分解物から単離され、由来とその構造からこの名がついた。
とのこと。

厳密な定義はよくわかりませんが、どうやら、アミノ酸のひとつである「アスパラギン」に水を加え分解したものから取り出されたので、「アスパラギン酸」と名付けれらたとのこと。

そして、その由来となる「アスパラギン」という名前は、野菜のアスパラガスの汁から取り出されたことから付けられたようです。

アスパラガスの汁から「アスパラギン」、「アスパラギン」から「アスパラギン酸」。


で、「アスパラギン酸」についてネットで調べているうちに、興味深い実験を知りました。

ユーリー・ミラーの実験」と呼ばれているものです。

物質から生命が発生するかどうか、その過程を検証しようとした実験です。

現在では、生命が誕生したときの大気の組成と、実験で仮定していた大気の組成が異なるということから認められてはいないようですが、無機物から有機物が生成され生命が誕生した、という仮説を検証しようとした有意義な実験だと思います。


「生命とは何か」というところから始めなければならないのかもしれませんが、現代では、アスパラギン酸などの組成もわかっているし、ナノテクノロジーなどの技術も発展しているのにも関わらず、未だ物質を組み合わせて生命を作りだしたという話は聞いたことがありません。

私たち人間も物質でできているにも関わらず。


生命の起源についてはいくつかの説があるようですが、一番有名な説(というか私が知っている説)としては、「無機物から有機物が蓄積され、有機物の反応によって生命が誕生した」とする化学進化説です。

そして、この地球という惑星が、太陽に近からず遠からず、地軸が安定していて、空気があって雲があって日照時間もほどほどで、など様々な環境条件が整っていたため、というもの。

あまり詳しく知りませんが、偶然の産物ともいえます。


とすれば、地球外知的生命体などもいたりして…。


偶然でできた地球に、偶然生命が誕生し、偶然生きている。

「わかる」ことは「わける」こと。


奇跡的な確率であるということは、それだけ「分けて」考えている。

それだけ知識が増えているとも言えます。


しかし、偶然にしろ奇跡的な確率の産物にしろ、私たちが今ここに生きている、存在していることに変わりはありません。

アスパラガスから「アスパラギン(酸)」と名付けられはしたけれど、アスパラギン(酸)はアスパラガスだけに存在するものではありませんし、アスパラガスがなかったとしても、別の名前かもしれませんがアスパラギン酸は存在すると思います。

この記事を読んでいる方にも、私はまだ読者としか名付けていませんが、ひとりひとり名前がある。


偶然か必然か、それはわかりませんが、私もあなたも存在していることは確かです。


もし、あなたの名前が「アスパラギンさん」でしたら、教えてください。

2013/09/19

わもんな言葉51-明治維新

わもんな言葉に「明治維新」というのも少しおかしな話かもしれませんが、ときおり「明治維新」がキーワードと思うことがあります。

やぶちゃんが幕末の志士、中岡慎太郎のオタクであったり、常ちゃんが心徒塾を松下村塾に例えた話をしたり、わたふさんの「わもんの現場」では明治維新について風水的な観点からの話があったり、など。

そして今回、長野で行われた「佐久間象山塾」。


「明治維新」に関連ある人物や動きが、ときおり顔をのぞかせます。


一方、私は…、明治維新のことをあまり知りません…。

もちろん「明治維新」という名称や、それに関わった人物の名前であるとか、そういったことは知っていますが、さて、「明治維新」とは何か?と問われると答えることができません。

いろいろなことが変わった、というくらいの認識です。


そのため興味を持って、少しずつ明治維新について調べたりしています。

特に、幕末の動きについて。

しかしまだ、「知っている」とは言えません。


とはいえ、何となくですが、その胎動が感じられる気もしています。


おそらくは明治維新といえども、1日でガラッと変わったわけではなく、幕末の黒船の来航など大きな出来事は多々ありましたが、変化としては少しずつで、それがやがて大きな波となりうねりとなって変わっていったものと思われます。

人々の意識の変化は、右向け右で一気に変わるものではありません。

小さな蝶の羽ばたきが、その蝶が2羽になり、3羽になり、そして大きな風となったのだと思います。


先日行われた「佐久間象山塾」では、安藤忠雄さんから「これからの時代をつくる君たちへ」と題する講演がありました。

いわば、若い世代に向けて、「羽ばたいていこう」というメッセージです。

そして、やぶちゃんの講演では、まだ最初のひと振りかもしれませんが、舞台に上がって実際に羽ばたいてみた若い世代の方々がいました。


歴史に名前が残っている人は、大きく羽ばたいた人であったり、何度も羽ばたいた人であったり、遠くから見れば目立つ人だったのだと思いますが、小さな羽ばたきはそこらじゅうにあったと思います。

その大小の羽ばたきの最中にいるような雰囲気が今、感じられる。

幕末から明治にかけて日本がひとつの国として意識され、まとまったように、世界が、そして地球が、ひとつとしてまとまっていくような動きの中にいるような感覚が、「わもん」に触れていると感じられます。

特に、若い世代へと「わもん」の心が伝わっていくときは尚更。

明治維新のように、後から見ると大きな変化となるような、そんな時代に自分は生きている気がします。


聞けば叶う〜わもん入門
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わもんな言葉52-わもんな言葉

「わもんな言葉」が、不定期ながら、50回を超えました。

最初は、自分が読んだ本の中で、「わもんと同じようなことを言っているな」と思って紹介したのがきっかけで書きはじめ、それが、やぶちゃんをはじめとして一部の方々に好評で、そのうち自分が読んだ本に限らず、「わもん」で語られる言葉について書きはじめて今に至っております。

今回、振り返りも兼ねて、「わもんな言葉」をテーマにしてみました。


「わもんな言葉」を書くとき意識していることは、少し違った視点から「わもん」を見てほしいということです。

押し付けるわけではありませんが、「このような考え方もある」「こんな風に思っている人もいる」ということを知ってもらいたいと思っています。

やぶちゃんが言う説明や解説をそのまま書くのは簡単ですが(いや、簡単ではありませんが…)、なるべく独自の考え方とか、あるいは突飛な例えとか、なんらかのオチをつけたりとか、そのようなことを盛り込んで書きたいと思っています。

ときには今回のように、自分以外には誰も拾わない言葉を拾ってみたり、とか。


だから、「わもんの言葉」ではなく、「わもんな言葉」です。


私は、どちらかというと、文章を書くのがニガテです。

この文章も「どんなことを書こうか」「何から話そうか」などと考えながら書いています。

そしておそらく、書き終わった後にまた見直して「変なことは書いていないだろうか」「もう少しわかりやすくするにはどうしたらいいだろうか」などと考えることでしょう。


ときには、「これでいいや」と公開することもあります(^-^;)

あ、漢字変換で「後悔」がでできた…。

それはさておき。


わもんでは、「音」や「波長」など、非言語部分を重視します。

話し手の出している音、あるいは身振りやしぐさなどに、そのときの話し手の感情などの無意識の部分がひょっこりと顔を出します。

かといって、言葉を軽視しているわけではありません。

言葉への理解はそのままに、その言葉についてくる音にも注意を向けましょう、音を入り口に話を聞いてみましょう、という提案です。


では、このブログは何のために書いているのか。

音声情報ではなく、文字情報として書き連ねている意図は何か。


わもんを通じて、音でしか伝えられない、伝わらないことがあることが多々あることを知りました。

ならば、文字として、文字でしか伝えられないことも、ある。


これを読んでいる皆さまが、「ガチ聞き」ならぬ「ガチ読み」として、この「わもんな言葉」をお読みいただければ、より深い、より輝く「わもんな言葉」となっていくと思い、これからも「わもんな言葉」を書き続けていきたいと思います。


聞けば叶う〜わもん入門
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2013/09/10

わもんな言葉50-深める

「聞く力を『高める』と言っていましたが、最近『深める』と言いはじめました」

やぶちゃんが最近ときどき言っている言葉です。

そして私が以前から気になっている言葉です。

「高める」と「深める」。


以前に「知識とスキル」という記事を書いたことがあります。

知識は「深い」「浅い」と言い、スキルは「高い」「低い」と言うことから書いたものです。

「知識を深める」とは言うけれど、「知識を高める」とはあまり言わない。

「スキルを高める」とは言うけれど、「スキルを深める」とはあまり言わない。


ここで「聞く力」を考えてみると、「聞く力を深める」「聞く力を高める」、両方言える。

「力(ちから)」だけで考えてみると、「力を深める」よりは、「力を高める」の方がふさわしいような気がするのになぜでしょう。


「知識」は「わかる」と関係しています。

「わかる」は「分かる」「解る」「判る」「別る」。

何かを分解することが「わかる」。


一方、「スキル」は「できる」と関係しています。

「できる」は「出来る」「出で来る」

何かから創造することが「できる」。


知識を得るためには、分析することが有効。

スキルを得るためには、統合することが有効。

知識は「静」、スキルは「動」。


「わかる」と「できる」は違うと言われます。

「わかっていても、できなければ何にもならない」など。


「わかる」というときには下方向へ、「できる」というときには上方向へのイメージがあります。

「知識」は「深い」、「スキル」は「高い」というイメージからでしょう。

となると、「わかっていて、できる」というのは、下へ行って戻ってくるようなものでしょうか。


「聞く力を高める」「聞く力を深める」と両方言えるのは、上方向への「できる」にも、下方向への「わかる」にも関わっているからではないかと思います。

「可能性を引き出す」力ならば、「高める」の方がふさわしく、一方「可能性を見つける」力ならば、「深める」がふさわしく思います。


「聞く力を『深める』」と言いはじめたのは、可能性を見つけていく、あるいは可能性を明らかにしていく方へ、さらに焦点が近づいてきたのではないかと思っています。

「わもん」の目的は「自己わもん」。

自分の声なき声を聞くために、深く深く潜っていくのです。


聞けば叶う〜わもん入門
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2013/09/08

わもんな言葉49-壁打ち

何度か「壁打ちわもん」を見たことがあります。

「壁打ちわもん」というのは、話し手が2人(あるいは複数)、聞き手が1人。

話し手の2人をAさん、Bさんとすると、聞き手はまずAさんの話を聞き、その非言語を言語化してBさんに伝え、そしてその話を伝えたBさんの話を聞き、その話の非言語をAさんに伝え…、というのを壁打ちのように繰り返し行っていくというものです。

非言語を伝え合うことで、AさんとBさんの間にあったちょっとしたズレが解消したり、双方の理解度がよりよくなったりしていきます。


先月の萩での黒帯心徒塾で、「壁打ちわもん」を見た方の感想に、「2人の間にあったアクリル板がなくなっていったようだった」というものがありました。

ここで「アクリル板」というのは、その黒帯心徒塾の冒頭で以下のようなアクリル板の例え話があったからです。


ピラニアは獰猛な魚です。

水槽にピラニアと小魚をいっしょに入れておくと、ピラニアは小魚に襲いかかります。

そこで、ピラニアと小魚の間を透明なアクリル板で仕切ると、ピラニアは最初同じように小魚を襲おうとしますが、間のアクリル板に阻まれ、そのうちあきらめてしまいます。

その後にアクリル板を外しても、ピラニアはアクリル板があるものと思ってか、小魚に襲いかからない、という話。

カマスの例としても述べられます。

自分で限界を作っているのではないかという例え話です。


さて、この小魚を襲うのをやめてしまったピラニアを元に戻すには…。

アクリル板の存在を知らないピラニアを水槽に入れること。

アクリル板の存在を知らないピラニアが小魚を襲うのを見て、アクリル板がないことに気付き、元に戻る、とのこと。


そして、今回参加した黒帯心徒塾でも「壁打ちわもん」を見ました。

そこでは、「聞き手が絶対尊敬を話し手の2人に贈ることで、2人の間も絶対尊敬でつながり、そして終わった後でもそれが続く」というコメントがありました。


話し手2人の間に、本当は存在しないアクリル板。

聞き手は、アクリル板の存在を知らないピラニア。

アクリル板がない聞き方そして伝え方をすることで、話し手2人はアクリル板がないことに気付く、というのが「壁打ちわもん」ではないかと思っています。


とすると、壁打ちわもんができるには、話し手2人の間にアクリル板がないと思うこと。

というよりは、元々ないものなので、そんなことすら感じないでしょう。


著者 : 薮原秀樹
サンクチュアリ出版
発売日 : 2013-06-04

2013/08/15

きぬかけの路~金閣寺

(「龍安寺その2」からの続き)

龍安寺を後にし、時間があったので金閣寺へ向かうことにしました。

仁和寺から龍安寺、金閣寺へと続く道を「きぬかけの路」というようです。


きぬかけの路を歩いてしばらくすると、立命館大学があり、その向かい側になにやらアートな雰囲気の建物がありました。

堂本印象美術館」です。

写真は撮り損ねました。。。


建物を近くで見ようと近づいていたところ、従業員(?)のおば…、お姉さんに声をかけられました。

「無料で展示しているので、どうぞ」

そのときは、そこが美術館であるとも知らず、何を展示しているのかも知らず、でしたが、天気のいい暑い中を歩いていたので、休みがてら見て回ることにしました。

堂本印象というのは、画家の名前ということを知ったのも、美術館に入ってからです(^-^;)


このブログを書くため、堂本印象美術館のホームページを見ると、入館料が掲載されていました。

はて、記憶違いか??

無料で入った気がします。

と、よくよく見ると、「クールスポットのお知らせ」として、「7月2日(火)~9月1日(日)まで入館無料」とのこと。

涼をとるために入った私は正解でした(^-^;)


堂本印象という名前は知りませんでしたが、パンフレットを見ると、「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」は見たことがありました。


訪れたときは「モノクロームの可能性」と題された企画展が展示されていて、東寺小子房の襖絵に書かれていた鷲の力強さが印象的でした。


一休みした後、金閣寺へ。


消防訓練が行われている最中でした。


ちょっと足早に




足利義満がお茶の水に使ったという「銀河泉」


義満が手を洗ったという「厳下水」


「龍門の滝」と、登龍門の故事に因んだ「鯉魚石」


「夕佳亭」の床の間。


不動堂。


不動堂で外国人のお子さんがガラガラと鳴らしていたのが可愛くてパチリ。


後ほどバス停で、このお子さんのお母さんに、バスの乗り継ぎについて英語で尋ねられることとなろうとはつゆ知らず。。。

2013/08/11

わもんな言葉48-ハイタッチわもん

内田樹さんの『修行論』を読んでいると、次のような文章に出くわしました。
右手と左手を打ち合わせて拍手するとき、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを私たちは言うことができない。というのも、両手は同一の共身体から枝分かれして、右手と左手は同じ時間を生きているからである。そこに先後はない。
「石火の機」「間髪を容れず」を説明するためのひとつの例として挙げられている文章です。

そこで、思考が飛びます。

ならば、「ハイタッチ」はどうだろう?


ハイタッチは、自分の手と相手の手を打ち合わせて「パンッ」と音がします。

タイミングが合えばきれいな音が鳴り、気持ちがいいものです。

一方、タイミングが合わないと、相手の手を叩いたように、あるいは叩かれたようになってしまいます。

ということは、ハイタッチでも、最初はどちらかが仕掛けてということはあるかもしれませんが、「パンッ」ときれいな音が出るその瞬間には、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを言うことができない。

ならば、ハイタッチがきれいにできたとき、その瞬間は、両者は同一の共身体から枝分かれして、同じ時間を生きているとも言えそうです。


そこで、思考が飛びます。

「ハイタッチわもん」はこれか!


話し手と聞き手がつながりあったとき、話聞一如の状態になったとき、きっと、きれいな音が出るのでしょう。

どちらが話し手、どちらが聞き手であるのでなく、同一の共身体から枝分かれして同じ時間を生きているのではないかと思います。


その先は、隻手の声も聞こえるのかもしれません。


修業論 (光文社新書)
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聞けば叶う〜わもん入門
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2013/08/06

龍安寺その2

(「龍安寺石庭」からの続き)

石庭にしばらくいました。

思ったよりも小さな庭ですが、飽きずに眺めることができます。

かといって、ずっと座っておくこともできませんので、石庭のある方丈の中を少し歩きました。

畳の上に上がることはできませんが、回廊に沿って回ることができます。

方丈内の広間。


襖絵に魅かれます。



別角度から。


方丈の裏手には、有名な蹲踞(つくばい)があります。



方丈の裏手の蹲踞は模型で、本物は蔵六庵という茶室(非公開)にあるとのこと。

真ん中の水が溜まっているところを「口」として、「吾唯足知(われただたるをしる)」という4つの漢字がデザインされています。

無理矢理書くとこんな感じ(漢字)です。

この蹲踞は、水戸光圀公の寄進と伝えられています。


回廊を巡り、もう一度石庭を眺めてから方丈を出ました。

方丈の勅使門。


桜もあるようで、春の季節がいいのかもしれませんが、夏の新緑の境内の散歩もいいですね。



鏡容池は別名おしどり池とも言われているようです。

写真はおしどりとは違うと思います…。


お茶屋のおば…もとい、お姉さんの話によると、やはり春と秋が観光客が一番多いとのこと。

修学旅行などの団体客も多く、団体客がバッティングすると、石庭をゆっくり眺めることはできないそうです。

また、外国人観光客では、中国や韓国など東洋の方々よりは欧米の方々が多いとのこと。

Zenの影響でしょうか。


石庭を含め、小一時間散策してから、龍安寺を後にしました。


(「きぬかけの路~金閣寺」に続く)

2013/08/04

龍安寺石庭

(「龍安寺」からの続き)

さて、今回の目的である龍安寺の石庭です。

龍安寺のホームページによると、「大きな4つの謎が秘められて」いるらしいのですが、4つの謎とは…知りません(^-^;)

石庭には計15個の石が配置されていて、どこから見ても14個しか見えない、ということは聞いたことがありますが、これは謎のひとつなのですかね?

歴史の教科書に載っていたことで石庭のことを知ったのですが、歴史的な知識もありません。


枯山水の庭の代表、というようなことしか知らないものの、なぜか、一度は見てみたいと思っていました。

中学校の修学旅行が関西で、そのときの自由行動の際に龍安寺を提案したのですが却下された記憶があります。

そういえば、その修学旅行ではどこに行ったか…。

記憶が定かでないです…。


それが今頃になったのは…、これもなぜですかね(^-^;)


実際に見た印象は、思っていたよりも小さい庭でした。

が、飽きずに眺めることができます。

時折、眺める位置を変えては、石の数を数えたりしていました(笑)


あまり言葉はいらないと思いますので、撮った写真を並べるだけにいたします。



(「龍安寺その2」に続く)

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