2017/02/21

小田原市は神奈川県にある(後編)


なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。
北村薫さんの「織部の霊」を読んだとき、その理由がわかった。

(前編はこちら

北村薫さんの短編「織部の霊」(『空飛ぶ馬』所収)の話の内容以下のようなものである。

文学部教授の加茂先生は、子どもの頃に、見たことのない人物の夢を何度も見ていた。その人物は、古田織部正重然。焼き物の「織部」の名の由来となっている人物である。その古田織部の切腹のシーンを夢で何度も見ていた。古田織部の肖像画は、加茂先生の叔父の別荘にあったのだが、その肖像画を見る前から夢に出ていた。そして夢を見ていた頃は、古田織部が切腹したという事実も知らない。それなのに古田織部の切腹シーンが夢に出てくる。それがなぜなのか、という話である。

探偵役の落語家、五代目春桜亭円紫がその話を聞いただけで、ひとつの解答を出す。ここから先はネタバレになってしまうので書かないが、ヒントにはなってしまう可能性があるので、未読の方にはご了承いただきたい。

話を戻すと、なぜ小田原市の位置を間違って覚えていたか。

それは地図帳のためである。

小学生のときか中学生のときか忘れてしまったが、社会の授業の副教材として地図帳を持っていた。世界地図と日本地図がさまざまな縮尺で載っていた。当然、小田原も載っていた。

「織部の霊」を読んだとき、地図帳のページが頭に浮かんだ。小田原が、このブログ記事の冒頭の地図ように、ページの右上にあった。下の方に目をやると伊豆半島があり、駿河湾も載っていた。そして気がついた。伊豆半島と房総半島を混同していた、と。

おそらく別のページにも小田原は載っていたのだと思うが、「織部の霊」を読んだときに浮かんだ地図は上記のような地図で、小田原より右の地図はなく、切れていた。伊豆半島を房総半島と、駿河湾を東京湾と勘違いしていたのだろう。きちんと地名を覚えていればこんなことはなかったのだろうが、地図帳で見たイメージだけが残っていたみたいだ。小田原市をはじめ、関東地方や静岡県のことを知らなくとも何の支障もなかったため、確認することもなかった。

自分とあまり関係のないところはしっかりと確認もしていないことを反省しつつも、地図帳のイメージが記憶のどこかに残っていたことに驚いた。

ひょっとすると、覚えようとせずとも、見たこと、聞いたこと、今まで経験してきたことはすべてどこかに記憶されているのかもしれない。ただ思い出せないことが多く、無意識下に留まっているだけなのかもしれない。新幹線でのアルバイトで小田原駅に停まったとき、認識にほころびが生じた。そして「織部の霊」を読んだとき、そのほころびを修正した。そう考えることもできる。

ちなみに「織部の霊」を読んだとき、もうひとつほころびを修正したところがある。

織部は地名でなく人名である、と。

2017/02/20

小田原市は神奈川県にある(前編)


大学生の頃まで、小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいた。アルバイトがきっかけで、あらためて小田原は東京よりも西にあることを知った。

愛媛で生まれ育ち、大学入学をきっかけに大阪で一人暮らしをはじめた。関東に親類縁者はおらず、小田原には行ったことがない。小田原という地名は、鎌倉時代の北条氏の拠点だということで知っていた。しかし場所ははっきりと覚えておらず、小田原は東京の向こう側、太平洋に面したあたりにあるというイメージだった。間違って覚えていても、小田原に縁もゆかりもなかったため、何の支障もなかった。

大学生のときに、新大阪-東京間を往復する間にワゴン販売をするアルバイトをしたことがある。新大阪で新幹線に乗り東京まで行き、東京からまた新幹線で戻ってくる。ひかり号に乗ることが多かった。

小田原駅に停車するひかり号に乗ったとき、「ここが小田原?」と不思議に思った。同じバイト仲間に「小田原はもっと(東京よりも)向こうじゃなかった?」と聞くと、怪訝な顔をされた。

あらためて考え直すと、箱根駅伝で小田原中継所があるくらいは知っていて、小田原が神奈川県にあるという知識はあった。大阪からみれば、神奈川県は東京よりも手前にあることも知っていた。新幹線の路線図を見ても、間違いなく「小田原、新横浜、東京」の順だった(バイトをしていたときはまだ品川には停まっていなかったと思う)。なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。その理由はわからなかった。別に知る必要性もなかった。

しばらくたってから、北村薫さんの『空飛ぶ馬』を読んだ。その中の「織部の霊」を読んだとき、小田原は東京より向こうにあると思い込んでいた理由がわかった。

(続きは後編にて)


2017/02/19

根掘り葉掘りで実を結ぶ

NHK、Eテレで「ねほりんぱほりん」という番組がある。ゲストの話し手はブタの人形、聞き手はモグラの人形で、「根掘り葉掘り」赤裸々な話を聞き出すトーク番組だ。残念ながらTVは見ないので持っておらず見たことはないが、facebookやtwitterで番組の広告や感想の投稿を見かけ、結構人気があるようだ。タイトルの「ねほりんぱほりん」は、「根掘り葉掘り」という慣用句からつけたタイトルだろう。

「根掘り葉掘り(聞く)」とは「徹底的に、事細かに、しつこく(聞く)」という意味で使われる。“「葉掘り」は「根元から枝葉に至る隅々まで」といった意味合いから、「根掘り」に語調を合わせ添加したものである”と「語源由来辞典」に載っていた。「根掘り葉掘り」という言葉に「しつこい」というネガティブな印象があるのは、余計な枝葉の部分まで掘っているからだろう。

一方で「根も葉もない」という慣用句もある。「根も葉もない噂」のように「根拠がない、理由がない」という意味合いで使われている。こちらは「故事ことわざ辞典」を見ると、“根も葉もなければ植物が育つはずないことからや、「根拠」を「根」で表したため語呂合わせで「葉」が加わったともいわれる”とある。語呂合わせの可能性もあるが、植物が育つには「根」と「葉」が必要であることも示している。

以前から「言葉は『葉』である」と思い、そこから連想して「根」は「音」ではないかとも書いたことがあるが、最近「根」は「心根(こころね)」ではないかとも思いはじめた。植物が育つには「根」と「葉」が必要ならば、人間が育つには「心根」と「言葉」が必要ではないかと。根も葉もなしに生きていくのは困難かもしれない。根と葉があれば実を結ぶかもしれない。

「ねほりんぱほりん」の聞き手役がモグラの人形であるのは、掘っていくイメージからだろう。本音、心根を掘っていく。ときには枝葉を掘るかもしれない。そして、人気番組として実を結んだのではないか。

番組を見てもいないので、根も葉もない戯言として。

2017/02/14

義理チョコで本命を仕留める

2月14日、バレンタインデー。

この時期になると思い出すキャッチコピーがある。

「一目で義理とわかるチョコ」

有楽製菓株式会社の看板商品「ブラックサンダー」のキャッチコピーである。


ブラックサンダーは標準小売価格30円(税抜き)。バレンタインデーに買ったり、もらったり、あげたりする類のものではなく、特別感はあまりない。

そこをうまくついたキャッチコピーだと思う。七五調でリズムもいいし、ユーモアもある。


よく知っていてお世話になっているMさんという人がいる。

Mさんのキャッチコピーは「G・N・N」。「義理・人情・浪花節」である。

義理チョコの「義理」という意味ではない。


そのMさんが、先日「仕留める」という言葉をつかった。

相手の話を聞いて、その奥底にある思いを言葉にするという意味で、核心を突くというような意味である。


奥底にある思いや、商品・サービスの本質などは、見えないし聞こえない。触れもしない。

しかし、ある。

それが見えたとき、聞こえたとき、それはひとつの「発見」「創造」だと思う。


「一目で義理とわかるチョコ」というキャッチコピーは、ブラックサンダーの核心を突いている。顧客の心も突いた。

キャッチコピーがしとめた本命の例だ。

2016/11/03

言葉という言葉

「言葉」という言葉が好きだ。

「葉」という漢字からの連想なのか、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。日本語だから当たり前のことかもしれないが、日本的な言葉だとも思う。

web上の和英辞典で「言葉」を引いてみると、「speech」「word」「language」の3語が載っていた。しかし私にとっては、どれも「言葉」という言葉にしっくりとくる単語ではない。

「speech」は「speak」とも関係があり、「話」や「発言」という意味が強い。口から発せられた音声としての言葉が意味の中心である。「言葉」には音声も文字も含まれているだろうが、「speech」は話し言葉に限定される気がする。

また「word」は、「単語」もしくは「語」という文字がふさわしく思う。「話す」というのが原義だと手元の英和辞典には書いてあった。私は英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからないが「word」はきっちりかっちりとしたイメージがある。英語の文章を書くと単語と単語の間にスペースを入れて書くことになるが、スペースとスペースの間のまとまったものが「word」であり、「words」のように複数形となるように、数えられるものである。日本語では複数の意味を明示的に表現しないせいもあるが、「言葉」は「word」や「単語」のようには数えられない。

「language」は「言語」である。日本語ならば日本語全体あるいは日本語体系という意味合いがあるように思う。

いずれにせよ、先にも書いたが、英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからない。また、日本語の単語と英語の単語で一対一に対応していなければならないという理由もない。ソシュールを持ち出す必要もないが、言語は恣意的なものである。

ただ「ことば」の漢字に「葉」を当てたところがいい。

英語では「話す」や「語る」など、人間の活動としての側面が強く感じられる。日本語でも「話」「語」「言語」「言」など似たような言葉はある。しかし「言葉」という言葉は人間の活動とは少し切り離されたところにあるような気がする。

これもweb上で「言葉」の語源を調べてみると、「言(こと)」+「端(は)」の複合語だという。古くは「言語」を表す語は「言(こと)」が一般的であったが、「言(こと)」は「事(こと)」と同じ意味があり、「言(こと)」は事実にもなり得る重い意味を持つようになったため、軽い意味を持たせようと「端(は)」をつけて「ことば」となったと考えられると書いてあった。(語源由来辞典「言葉」

「事(こと)」の実が「事実」で、「言(こと)」の葉が「言葉」。

同じく語源由来辞典には、「言葉」が残った理由として、『古今和歌集』仮名序の「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける」でうまく表現されているとおり、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表すためと考えられるとあった。

人間活動というよりは、植物にたとえて表現している。

心を種とし、言の葉が茂り、事の実ができる。

ひょっとすると、「音(ね)」は「根(ね)」かもしれない。心の種から「本音」が出てくる。

またひょっとすると「気(き)」は「木(き)」かもしれない。「気配り」は「木配り」。宮本武蔵も『五輪書』で大工にたとえて書いている。

「言葉」という言葉には、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。イメージが育っていく。枯れることもあるかもしれない。

話のタネとして書いてみた。