2021/05/27

再開

これまでに、たくさんの本を読んできた。たくさんといっても、世の中には数えきれないほどの本があるので、読んだものはその極々わずかなものである。さらには、読んでも内容を覚えていないものがほとんどであるので、本を読んだことで何かの役に立ったとか、そういったこともあまりない。強いて言えば、読書の習慣がついたということは悪い事ではないだろう。

たいていは一回読んでそれっきりというものが多いのだが、いくつかの本は何度か繰り返し読んでいる。以前に読んだ内容を忘れてしまったので思い出すためであったり、そのとき読んでいた本のなかで以前に読んだことがある本に言及されていたのでもう一度読みたくなったり、理由は様々である。

最近、以前読んだことのある本を読みかえすことが多くなった。食指が動いた本を読むことを繰り返してきたので、本棚に自分の興味関心がある本が集まってきたのではないかと思っている。その興味関心は何なのかは、まだはっきりとしていない。

しばらく書くことをしていなかった。インプットだけでなくアウトプットが必要であるとは、しばしば言われることだが、書く習慣はまだついていない。あらためて書く習慣をつけるべく、何か読んだあとに感想なり、考えたことなり、少しでも書いていきたい。

再開は再会。そんな言葉が浮かんだ。

再び本を開くことは、再び著者に会うことであり、再び自分に出会うことでもある。

2021/01/18

【未読】奥泉光『雪の階(上・下)』中公文庫

(以下は本を買った動機を書いたもので、読後の感想等ではない。読む前にどのようなことを考えていたのかを残しておこうと書いたもの。)

奥泉光さんは好きな作家のひとりで、文庫本が出ると買うようにしている。本日、書店の新刊コーナーで奥泉さんの文庫本を見かけて購入した。タイトルは『雪の階』。階には「きざはし」と振り仮名がついている。上下2巻に分かれていて、中公文庫(中央公論新社)から発行されている。

帯には、「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」でランキングトップ10入りをしていたことや、柴田錬三郎賞と毎日出版文化賞をダブル受賞したことが書かれていた。初出は雑誌『中央公論』2016年3月号~2017年10月号で、2018年2月に中央公論新社から単行本が刊行されている。

タイトルの「階(きざはし)」とは何だろうかと国語辞典を引いてみたところ、階段のことを文語で「階(きざはし)」というらしい。

裏表紙にある作品紹介の文章には、上巻・下巻それぞれ以下の文章が掲載されていた。

昭和十年。華族の娘、笹宮惟佐子は、富士の樹海で陸軍士官とともに遺体となって発見された親友・寿子の心中事件に疑問を抱き、調べ始める。富士で亡くなったはずの寿子が、なぜ仙台消印の葉書を送ることができたのか。寿子の足どりを追う惟佐子と探偵役の幼馴染、千代子の前に新たな死が……。

親友の死は本当に心中だったのか。天皇機関説をめぐる華族と軍部の対立、急死したドイツ人ピアニストと心霊音楽協会、穢れた血の粛正をもくろむ「組織」……。謎と疑惑と陰謀が、陸軍士官らの叛乱と絡み合い、スリリングに幻惑的に展開するミステリー。

帯の文言には、二・ニ六事件前夜を舞台としていることが書かれており、二・ニ六事件を絡めたミステリーであることがわかる。

歴史には疎い。特に近現代史は高校の授業でかけ足で終わったこともあり、二・ニ六事件についても名前は知っているものの、どのような事件であったのかは理解していない。戦争を知らない私は、戦争のことについて特に知ろうともせずこれまで生きてきた。最近、少しずつ歴史にも興味を持ちはじめ、近現代の日本を背景とした小説も少しずつ読みはじめた。『雪の階』もそのひとつになりそうだ。

奥泉さんは、戦争を背景とした小説を数作書いている。文庫本で出たものは買っていることが多いが、読み終えているものは少ない。これを機に『雪と階』以外の作品にも手を伸ばしていきたい。

「二・ニ六事件」「雪」「ミステリー」というキーワードから、ここ数年内に読んだ北村薫さんの『鷺と雪』を思い出す。雰囲気的なところは似ているだろうと勝手に思っている。また、「二・ニ六事件」と「雪」から、三島由紀夫が連想されたが、三島由紀夫の作品はほとんど読んだことがなく、関連があるかどうかはわからない。

それほど昔のことではないのに、そして今でも世界のどこかでは起こっている、起こり得ることなのに、自分とは無関係なことのように思える「戦争」について、考えなければならないときが来ているのかもしれない。


2020/08/25

朝顔や釣瓶取ったか取られたか

正岡子規は『獺祭書屋俳話』の中で「加賀の千代」と題して一節を割いている。「加賀の千代は俳人中尤有名なる女子なり。其の作る所の句も今日に残る者多く、俳諧社会の一家として古人に譲らざるの手際は幾多の鬚髯男子をして後に瞠若たらしむるもの少なからず」と書き、千代の句と支考の句を並べ比べて「俳諧にも、男でなければ、あるいは女でなければ、言うことができないことがある」と述べている。加賀の千代、加賀千代女は、江戸時代の女流俳人で、各務支考(蕉門十哲のひとり)とも交流があった。

次の句が、千代の代表句として知られている。

朝顔に釣瓶取られてもらひ水

しかし、この千代の句についての子規の批評は手厳しい。子規は『俳諧大要』において、次のように書いている。

朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非ざれば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるという意なり。このもらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへつて善し。それも取られてとは、最俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。

〈朝顔に〉の句の解釈は、子規が述べているように、朝顔の蔓が釣瓶に巻きついていたので釣瓶を使うことができず、水をもらってきたということであろう。井戸から水を汲むために釣瓶を使いたいが、朝顔が巻きついている。引きちぎるのも忍びない。釣瓶は使わずそのままにして、水は余所からもらってこよう、ということである。朝顔を愛でる視線が伝わってくる。自然を愛おしむ気持ちが感じられる。

しかし、この子規の評を読み、よくよく考えてみると、子規が「俗極まりて」「俗気多くして」と言う気持ちがなんとなくわかる気がする。

この句が、千代の実生活から作られたものなのか想像から作られたものなのかは知らないが、仮に千代が、朝顔の釣瓶に巻きついているところを見て詠んだとすると、ちょっと嫌な書き方をするが、「私にはこんな気持ちがあるのですよ」と自慢しているようにも読めてしまうのだ。朝顔の美しさ、自然の美を詠めばいいのに、この句は人の優しい気持ち、自然を愛する気持ちを詠んでいる。そんな気持ちをわざわざ句として表現するということは俗であるということであろう。

〈朝顔に釣瓶取られて〉の「釣瓶」には助詞がついていないが、格助詞を補い、文のかたちにすると「朝顔に釣瓶を取られた」となるだろう。子規もそのように解釈している。この「朝顔に釣瓶を取られた」というのは文法用語でいうと間接受身である。対応する能動形は「朝顔が釣瓶を取った」ということになる。目的語が主語の位置にくる受身を直接受身といい、この例では「釣瓶が朝顔に取られた」とするのが直接受身である。間接受身は「被害の受身」「迷惑の受身」とも呼ばれることがあり、目的語はそのままに、被害者(被害というのが強すぎるなら被影響者といってもいい)が主語の位置にくる受身形である。〈朝顔に釣瓶取られて〉という表現には主語が明示されていないが、釣瓶を取られて迷惑を伴った人であり、〈もらひ水〉で表現されている誰かに水をもらいにいった人と同一人物であると解釈できる。

この句では、朝顔が釣瓶に巻きついているのを見て、釣瓶を使うことを止め、水をもらいにいった人物が主語であり、朝顔は主語ではない。朝顔よりも人物を主語に置くことを選択している。主語の位置は主題の位置でもあるので、人物を中心とした表現であると考えられる。

主題を人ではなく、朝顔にした方がいいのではないかというのが子規の評であろう。「もらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり」「取られてとは、最俗なり」というのは、人が主題となってしまっていることを言っているのであろう。「ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす」と、朝顔を主語とした言い方をしている。

Wikipedia「加賀千代女」を見ると、興味深いことが書かれていた。代表的な句としてこの〈朝顔に〉の句が挙げられているが、そこに「35歳の時に、朝顔や~ と詠み直される」と書かれていた。

朝顔釣瓶取られてもらい水

朝顔釣瓶取られてもらい水

個人的には〈朝顔や〉の方がいい。〈朝顔や〉とすることで、朝顔を主語とした解釈をすることができる。「朝顔が釣瓶を取られた」と読めなくもない。朝顔の視点からの表現で、釣瓶を水を汲むために取られてしまったという意味である。もちろん、元の〈朝顔に〉の句の情景のままで朝顔を強調するために〈朝顔や〉としたということかもしれないが、「朝顔が釣瓶を取られた」という解釈の方が面白く感じる。

水を汲もうと井戸に行くと、朝顔が釣瓶に巻きつこうと蔓を伸ばしていた。成長はうれしいが釣瓶に巻きつかれてしまうと困る。まだしっかりとは巻き付いていないので「朝顔さんちょっとごめんね」と、朝顔から釣瓶を取り上げて水を汲んだ。そして「さっきはごめんね」と汲み上げたばかりの水を朝顔にかけてあげる。こんな情景を朝顔の視点から描いた句として読むことができるのではないだろうか。

他にもこんな解釈をしている人はいないかと(大雑把にではあるが)ネット検索をしてみたがいないようである。ただ、〈朝顔や〉としている千代直筆のものが残っているということはわかった。

2020/08/23

鵜と鷺で一羽となるや取合せ

復本一郎『俳句実践講義』に、俳句における必須の「技巧」として「取合せ」が取り上げられている。許六編『俳諧問答』中の「自得発明弁」などの俳論資料から説明されており、具体的でわかりやすい。正岡子規の『俳諧大要』にも「取合せ」についての言及がある。

子規は、暁台の「時鳥鳴くや蓴菜の薄加減」という句を例にして「取合せ」に言及している。

蓴菜は俗にいふじゆんさいにして此処にてはぬなはと読む。薄加減はじゆん菜の料理のことにして塩の利かぬようにすることならん。さて時鳥と蓴菜との関係は如何にといふに、関係といふほどのものなくただ時候の取り合せと見て可なり。必ずしも蓴菜を喰ひをる時に時鳥の啼き過ぎたる者とするにも及ばず。ただ蓴菜の薄加減に出来し時と時鳥の啼く時とほぼ同じ時候なるを以て、この二物によりこの時候を現はしたるなり。しかも二物とも夏にして時鳥の音の清らかなる蓴菜の味の澹泊なる処、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに足る。これらの句は取り合せの巧拙によりてほぼその句の品格を定む。

時鳥(ほととぎす)と蓴菜(「ぬなわ」と読む。じゅん菜のこと)は基本的には関係がないが、時鳥が鳴く時期と、蓴菜を薄味の塩加減で料理するような時期が同じころで、ともに夏の清涼感を想像することができる、と言っている。このような俳句の技法を「取合せ」という。

時鳥は、古来より歌に詠まれ、イメージが固定化されているところがあるが、「取合せ」によっては新たなイメージを呼び起こすことができ、陳腐な表現を避け、オリジナリティを発揮することができる。

『俳句実践講義』には、「取合せ」の注意事項も書かれていた。「決して二つの関係を説明してはいけない」ということで、二つの関係を句の中で説明してしまうと「理屈」の句になってしまうからである。

また、「取合せ」は、大変効果的な作句方法であるが「一つ間違えれば、独りよがりの作品になってしまいます」とも言う。よく言えばシュルレアリスム的俳句ということもできなくはなさそうだが、句を作った本人にしかわからないような俳句が「独りよがりの作品」ということであろう。

このブログ記事のタイトルは、独りよがりの作品に近い。

鵜と鷺はともに鳥の名であり、「取合せ」と掛けている。また「ウ」と「サギ」を合わせると「ウサギ」となり、兎の数え方は一羽、二羽である。一羽の鵜と一羽の鷺を合わせて一羽の兎となるのは、生命の神秘にも似て、アイデアの創出にも似ている。

「鵜」は夏の季語、「鷺」は手元の歳時記にはなかったが、「白鷺」「青鷺」は夏の季語となっていた。ちなみに「兎」は冬の季語であったので、句中にはいれなかった。

理屈、知識に訴え、言語の遊戯に属する独りよがりの句である(俳句とは言えない)。

そして、鵜と鷺で兎になるとか、兎の数え方であるなどは、柳瀬尚紀のエッセイより拝借したもので、私のオリジナルではない。私が考えたこととしてはそこに「取合せ」を取合せたのみで、誰でも思いつきそうなものである。

ただし、独りよがりの作品であっても、自分にとっては意味がある。


2020/08/22

仰ぎ見て我田引水天の川

正岡子規『俳諧大要』に「修学第一期」と題された章があり、俳句初心者の心得の数々が述べられている。「俳句をものせんと思はば思うままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ」からはじまり、どんなものでもいいので俳句をつくってみること、古人の俳句に数多く触れることなど、初心者へのアドバイスや注意事項が書かれている。

その中に、次のようなものがある。

初心の人古句に己の言はんと欲する者あるを見て、古人已に俳句を言い尽せりやと疑ふ。これ平等を見て差別を見ざるのみ。試みに今一歩を進めよ。古人は何故にこの好題目を遺して乃公に附与したるかと怪むに至るべし。

これまでに数多くの人々が俳句を詠んでおり、ひとつの題材についても数多くの句が詠まれている。自分が言いたかったこともすでに俳句となっているかもしれない。もう自分が形にするようなことはないのではないか、言い尽くされているのではないか。そんな疑いを抱くかもしれないが、「試みに今一歩進めよ」という。

たとえば、「天の川」という題で俳句を作ろうとする。天の川を詠んだ句には次のようなものがある。

あら海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉

真夜中やふりかはりたる天の川 嵐雪

更け行くや水田の上の天の川 惟然

これ以外にも子規は例を挙げる。下記引用では2音にまたがる繰り返し記号(〱、〲)を仮名に書き換えている(「よひよひに」の句)。

一僕を雨に流すな天の川 浪化

打ち叩く駒のかしらや天の川 去来

引はるや空に一つの天の川 乙州

西風の南に勝や天の川 史邦

よひよひに馴れしか此夜天の川 白雄

天の川星より上に見ゆるかな 同

江に沿ふて流るる影や天の川 暁台

天の川飛びこす程に見ゆるかな 士朗

天の川糺の涼み過ぎにけり 同

天の川田守とはなす真上かな 乙二

てゝれ干す竿のはづれや天の川 嵐外

巨鼇山

山嵐や樫も檜も天の川 同

『合本俳句歳時記』の「天の川」の項を見ると、他にも「天の川」を詠んだ句が見える。(「天の川」の語句が入っているもののみ記載。傍題の例句は略)

うつくしや障子の穴の天の川 一茶

天の川の下に天智天皇と臣虚子と 高浜虚子

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 中村草田男

天の川怒涛のごとし人の死へ 加藤楸邨

天の川柱のごとく見て眠る 沢木欣一

うすうすとしかもさだかに天の川 清崎敏郎

天の川礁のごとく妻子ねて 飴山實

列車みな駅に入りて天の川 杉野一博

長生きの象を洗ひぬ天の川 中西夕紀

寝袋に顔ひとつづつ天の川 稲田眸子

天の川漂流船の錆深く 照井翠

自転車の二つ並んで天の川 涼野海音

もちろんここに挙げたものだけでなく、他にもたくさん詠まれているだろう。こんなにもあると、さらに「今一歩」が難しくなると感じるが、逆に、まだ表現のしかたがあるかもしれないという気持ちにもさせてくれる。

子規は言う。

なまじ他人の句を二、三句ばかり見聞きたる時は外に趣向なき心地す。十句二十句百句と多く見聞く時はかへつて無数の趣向を得べし。古人が既に己の意匠を言ひをらん事を恐れて古句を見るを嫌ふが如きは、耳を掩ふて鈴を盗むよりもなほ可笑しきわざなり。


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