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2017/05/04

トゥモロウ・スピーチ

松岡和子さんの『深読みシェイクスピア』で、「トゥモロウ・スピーチ(Tomorrow Speech)」という言葉を知った。シェイクスピア『マクベス』第五幕第五場でのマクベスの独白部分のことである。このトゥモロウ・スピーチについて、松岡さんは「音と意味とイメージのつながりがパーフェクト!」であるという。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生はたかが歩く影、哀れな訳者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない。
――松岡和子訳『マクベス』
音と意味とイメージがどのようにつながっているかということは『深読みシェイクスピア』を読んでいただくこととして、私はこの部分を読んで、ソクラテスの「洞窟の比喩」を思い出した。

洞窟の比喩は、プラトンの『国家』のなかでソクラテスが言ったこととして記述されている。『国家』を読んだことはないが、洞窟の比喩については言及を見ることがある。Wikipediaにも「洞窟の比喩」という項目があった。

私が洞窟の比喩で思い出した本は、小林秀雄さんの『考えるヒント』である。確認のため、『考えるヒント』に収められている「プラトンの「国家」」をあらためて読むと、文脈は異なるが、私の勝手な関連づけがはじまった。

「プラトンの「国家」」のなかで、小林さんは以下のように書いている。
もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。
マクベスは夫人と共謀し、国王ダンカンを暗殺し王位を得る。そしてその地位を守るため罪を重ねていく。冒頭の「トゥモロウ・スピーチ」は、夫人が亡くなったという知らせを受けた直後の独白である。そしてその後、バーナムの森が動き戦いがはじまり、その戦いでマクベスは殺される。

もしかするとマクベスは、束の間の灯火であったかもしれないが、洞窟の比喩での光源を見たのではないか。そして、洞窟の比喩を語り終えると自分の死を予言したのではないか。そんな勝手な想像が生まれた。

『マクベス』はまだ読み返していない。明日にしよう。

2017/02/24

常識

以前から気になっていた、小林秀雄さんの『考えるヒント』を読みはじめた。有名でロングセラーな本であるため、いつでも読めると思い、また今度、また今度、と先延ばしになっていた。先日書店に行ったとき、また目についたので、やっと購入した。

小林秀雄さんのことはほとんど知らない。『考えるヒント』についても、エッセイ集であることくらいしか知らない。その『考えるヒント』の最初のエッセイのタイトルが「常識」である。

常識については持論がある。

常識という言葉は、「常識を知らないのか」とか「そんなことは常識だ」とか、知っていて当然のことを知らないときに使われることが多い。しかし考えてみてほしい。常識というのが、「いついかなるときでも誰もが知っている知識」だとすれば、知らない人がいることは常識ではない。だから「常識を知らないのか」と言われたら、「私が知らないということは、それは常識ではありません」と答えるようにしている。心の中で。

かといって、自分が知っていることが常識であるかどうかはわからない。自分にとっての常識が、相手にとっても常識であるかどうかもわからないし、世界中の誰もが知っていることがあるのかと問われれば確認のしようもないわけで、常識の中身はわかっていない。だから基本的に「常識」という言葉は使わないようにしている。

以上は私の持論である。小林秀雄さんが書いているわけではない。

極端な例(屁理屈ともいう)を挙げてみたが、私も常識というのが「いついかなるときでも誰もが知っている知識」とは思っていない。誰かが「常識」という言葉を使ったとき、そこにはその人の常識の範囲がある。それは私が使ったときも同じである。

小林秀雄さんはエッセイの中で以下のように述べた。

常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。

そんなことは常識だ。

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