2019/06/13

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(12)

(前回はこちら

やっと第一章が終わりに近づいております。続きを読んでいきましょう。
 ここ迄決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂れ懸って居たと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走って居る所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
旅中に起こる出来事と旅中に出会う人を、能の仕組みと能役者の所作に見立ててみよう。そう決心して山路を歩くのですが、空があやしくなってきます。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」。観察点が揺れ動いています。
 路は存外広くなって、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。大分濡れたね」まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影画の様に雨につつまれて、又ふうと消えた。
 糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋毎に風に捲かれる様迄が目に入る。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。
馬子がふうとあらわれ、ふうと消える。幻想的な風景です。「夢幻能」のイメージの先取りでしょうか。

次が第一章最後の段落です。
 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも詠まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲烟飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかは猶更に解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。
読者にとっては、語り手自身も画中の人物、小説中の人物ですが、語り手自身にとっては、現在旅の途中で現実世界となります。外から見れば「詩にもなる、句にも詠まれる」かもしれませんが、雨具なく降られるのはやはり心苦しいものです。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」、己自身も純客観的に見ようとしてもなかなかできない。利害に気を奪われると、「美か美でないかと鑑識する事」は難しくなるのです。

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