2013/09/29

奇跡的な出会いを求めて

「アスパラギン酸」という言葉を初めて聞きました。

Wikipediaには、
アスパラギン酸(アスパラギンさん、aspartic acid)とは、アミノ酸のひとつで、2-アミノブタン二酸のこと。示性式は HOOCCH2CH(COOH)NH2)。略号はD あるいは Asp、またD-Aspとも。アスパラギンの加水分解物から単離され、由来とその構造からこの名がついた。
とのこと。

厳密な定義はよくわかりませんが、どうやら、アミノ酸のひとつである「アスパラギン」に水を加え分解したものから取り出されたので、「アスパラギン酸」と名付けれらたとのこと。

そして、その由来となる「アスパラギン」という名前は、野菜のアスパラガスの汁から取り出されたことから付けられたようです。

アスパラガスの汁から「アスパラギン」、「アスパラギン」から「アスパラギン酸」。


で、「アスパラギン酸」についてネットで調べているうちに、興味深い実験を知りました。

ユーリー・ミラーの実験」と呼ばれているものです。

物質から生命が発生するかどうか、その過程を検証しようとした実験です。

現在では、生命が誕生したときの大気の組成と、実験で仮定していた大気の組成が異なるということから認められてはいないようですが、無機物から有機物が生成され生命が誕生した、という仮説を検証しようとした有意義な実験だと思います。


「生命とは何か」というところから始めなければならないのかもしれませんが、現代では、アスパラギン酸などの組成もわかっているし、ナノテクノロジーなどの技術も発展しているのにも関わらず、未だ物質を組み合わせて生命を作りだしたという話は聞いたことがありません。

私たち人間も物質でできているにも関わらず。


生命の起源についてはいくつかの説があるようですが、一番有名な説(というか私が知っている説)としては、「無機物から有機物が蓄積され、有機物の反応によって生命が誕生した」とする化学進化説です。

そして、この地球という惑星が、太陽に近からず遠からず、地軸が安定していて、空気があって雲があって日照時間もほどほどで、など様々な環境条件が整っていたため、というもの。

あまり詳しく知りませんが、偶然の産物ともいえます。


とすれば、地球外知的生命体などもいたりして…。


偶然でできた地球に、偶然生命が誕生し、偶然生きている。

「わかる」ことは「わける」こと。


奇跡的な確率であるということは、それだけ「分けて」考えている。

それだけ知識が増えているとも言えます。


しかし、偶然にしろ奇跡的な確率の産物にしろ、私たちが今ここに生きている、存在していることに変わりはありません。

アスパラガスから「アスパラギン(酸)」と名付けられはしたけれど、アスパラギン(酸)はアスパラガスだけに存在するものではありませんし、アスパラガスがなかったとしても、別の名前かもしれませんがアスパラギン酸は存在すると思います。

この記事を読んでいる方にも、私はまだ読者としか名付けていませんが、ひとりひとり名前がある。


偶然か必然か、それはわかりませんが、私もあなたも存在していることは確かです。


もし、あなたの名前が「アスパラギンさん」でしたら、教えてください。

2013/09/19

わもんな言葉51-明治維新

わもんな言葉に「明治維新」というのも少しおかしな話かもしれませんが、ときおり「明治維新」がキーワードと思うことがあります。

やぶちゃんが幕末の志士、中岡慎太郎のオタクであったり、常ちゃんが心徒塾を松下村塾に例えた話をしたり、わたふさんの「わもんの現場」では明治維新について風水的な観点からの話があったり、など。

そして今回、長野で行われた「佐久間象山塾」。


「明治維新」に関連ある人物や動きが、ときおり顔をのぞかせます。


一方、私は…、明治維新のことをあまり知りません…。

もちろん「明治維新」という名称や、それに関わった人物の名前であるとか、そういったことは知っていますが、さて、「明治維新」とは何か?と問われると答えることができません。

いろいろなことが変わった、というくらいの認識です。


そのため興味を持って、少しずつ明治維新について調べたりしています。

特に、幕末の動きについて。

しかしまだ、「知っている」とは言えません。


とはいえ、何となくですが、その胎動が感じられる気もしています。


おそらくは明治維新といえども、1日でガラッと変わったわけではなく、幕末の黒船の来航など大きな出来事は多々ありましたが、変化としては少しずつで、それがやがて大きな波となりうねりとなって変わっていったものと思われます。

人々の意識の変化は、右向け右で一気に変わるものではありません。

小さな蝶の羽ばたきが、その蝶が2羽になり、3羽になり、そして大きな風となったのだと思います。


先日行われた「佐久間象山塾」では、安藤忠雄さんから「これからの時代をつくる君たちへ」と題する講演がありました。

いわば、若い世代に向けて、「羽ばたいていこう」というメッセージです。

そして、やぶちゃんの講演では、まだ最初のひと振りかもしれませんが、舞台に上がって実際に羽ばたいてみた若い世代の方々がいました。


歴史に名前が残っている人は、大きく羽ばたいた人であったり、何度も羽ばたいた人であったり、遠くから見れば目立つ人だったのだと思いますが、小さな羽ばたきはそこらじゅうにあったと思います。

その大小の羽ばたきの最中にいるような雰囲気が今、感じられる。

幕末から明治にかけて日本がひとつの国として意識され、まとまったように、世界が、そして地球が、ひとつとしてまとまっていくような動きの中にいるような感覚が、「わもん」に触れていると感じられます。

特に、若い世代へと「わもん」の心が伝わっていくときは尚更。

明治維新のように、後から見ると大きな変化となるような、そんな時代に自分は生きている気がします。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

わもんな言葉52-わもんな言葉

「わもんな言葉」が、不定期ながら、50回を超えました。

最初は、自分が読んだ本の中で、「わもんと同じようなことを言っているな」と思って紹介したのがきっかけで書きはじめ、それが、やぶちゃんをはじめとして一部の方々に好評で、そのうち自分が読んだ本に限らず、「わもん」で語られる言葉について書きはじめて今に至っております。

今回、振り返りも兼ねて、「わもんな言葉」をテーマにしてみました。


「わもんな言葉」を書くとき意識していることは、少し違った視点から「わもん」を見てほしいということです。

押し付けるわけではありませんが、「このような考え方もある」「こんな風に思っている人もいる」ということを知ってもらいたいと思っています。

やぶちゃんが言う説明や解説をそのまま書くのは簡単ですが(いや、簡単ではありませんが…)、なるべく独自の考え方とか、あるいは突飛な例えとか、なんらかのオチをつけたりとか、そのようなことを盛り込んで書きたいと思っています。

ときには今回のように、自分以外には誰も拾わない言葉を拾ってみたり、とか。


だから、「わもんの言葉」ではなく、「わもんな言葉」です。


私は、どちらかというと、文章を書くのがニガテです。

この文章も「どんなことを書こうか」「何から話そうか」などと考えながら書いています。

そしておそらく、書き終わった後にまた見直して「変なことは書いていないだろうか」「もう少しわかりやすくするにはどうしたらいいだろうか」などと考えることでしょう。


ときには、「これでいいや」と公開することもあります(^-^;)

あ、漢字変換で「後悔」がでできた…。

それはさておき。


わもんでは、「音」や「波長」など、非言語部分を重視します。

話し手の出している音、あるいは身振りやしぐさなどに、そのときの話し手の感情などの無意識の部分がひょっこりと顔を出します。

かといって、言葉を軽視しているわけではありません。

言葉への理解はそのままに、その言葉についてくる音にも注意を向けましょう、音を入り口に話を聞いてみましょう、という提案です。


では、このブログは何のために書いているのか。

音声情報ではなく、文字情報として書き連ねている意図は何か。


わもんを通じて、音でしか伝えられない、伝わらないことがあることが多々あることを知りました。

ならば、文字として、文字でしか伝えられないことも、ある。


これを読んでいる皆さまが、「ガチ聞き」ならぬ「ガチ読み」として、この「わもんな言葉」をお読みいただければ、より深い、より輝く「わもんな言葉」となっていくと思い、これからも「わもんな言葉」を書き続けていきたいと思います。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2013/09/10

わもんな言葉50-深める

「聞く力を『高める』と言っていましたが、最近『深める』と言いはじめました」

やぶちゃんが最近ときどき言っている言葉です。

そして私が以前から気になっている言葉です。

「高める」と「深める」。


以前に「知識とスキル」という記事を書いたことがあります。

知識は「深い」「浅い」と言い、スキルは「高い」「低い」と言うことから書いたものです。

「知識を深める」とは言うけれど、「知識を高める」とはあまり言わない。

「スキルを高める」とは言うけれど、「スキルを深める」とはあまり言わない。


ここで「聞く力」を考えてみると、「聞く力を深める」「聞く力を高める」、両方言える。

「力(ちから)」だけで考えてみると、「力を深める」よりは、「力を高める」の方がふさわしいような気がするのになぜでしょう。


「知識」は「わかる」と関係しています。

「わかる」は「分かる」「解る」「判る」「別る」。

何かを分解することが「わかる」。


一方、「スキル」は「できる」と関係しています。

「できる」は「出来る」「出で来る」

何かから創造することが「できる」。


知識を得るためには、分析することが有効。

スキルを得るためには、統合することが有効。

知識は「静」、スキルは「動」。


「わかる」と「できる」は違うと言われます。

「わかっていても、できなければ何にもならない」など。


「わかる」というときには下方向へ、「できる」というときには上方向へのイメージがあります。

「知識」は「深い」、「スキル」は「高い」というイメージからでしょう。

となると、「わかっていて、できる」というのは、下へ行って戻ってくるようなものでしょうか。


「聞く力を高める」「聞く力を深める」と両方言えるのは、上方向への「できる」にも、下方向への「わかる」にも関わっているからではないかと思います。

「可能性を引き出す」力ならば、「高める」の方がふさわしく、一方「可能性を見つける」力ならば、「深める」がふさわしく思います。


「聞く力を『深める』」と言いはじめたのは、可能性を見つけていく、あるいは可能性を明らかにしていく方へ、さらに焦点が近づいてきたのではないかと思っています。

「わもん」の目的は「自己わもん」。

自分の声なき声を聞くために、深く深く潜っていくのです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2013/09/08

わもんな言葉49-壁打ち

何度か「壁打ちわもん」を見たことがあります。

「壁打ちわもん」というのは、話し手が2人(あるいは複数)、聞き手が1人。

話し手の2人をAさん、Bさんとすると、聞き手はまずAさんの話を聞き、その非言語を言語化してBさんに伝え、そしてその話を伝えたBさんの話を聞き、その話の非言語をAさんに伝え…、というのを壁打ちのように繰り返し行っていくというものです。

非言語を伝え合うことで、AさんとBさんの間にあったちょっとしたズレが解消したり、双方の理解度がよりよくなったりしていきます。


先月の萩での黒帯心徒塾で、「壁打ちわもん」を見た方の感想に、「2人の間にあったアクリル板がなくなっていったようだった」というものがありました。

ここで「アクリル板」というのは、その黒帯心徒塾の冒頭で以下のようなアクリル板の例え話があったからです。


ピラニアは獰猛な魚です。

水槽にピラニアと小魚をいっしょに入れておくと、ピラニアは小魚に襲いかかります。

そこで、ピラニアと小魚の間を透明なアクリル板で仕切ると、ピラニアは最初同じように小魚を襲おうとしますが、間のアクリル板に阻まれ、そのうちあきらめてしまいます。

その後にアクリル板を外しても、ピラニアはアクリル板があるものと思ってか、小魚に襲いかからない、という話。

カマスの例としても述べられます。

自分で限界を作っているのではないかという例え話です。


さて、この小魚を襲うのをやめてしまったピラニアを元に戻すには…。

アクリル板の存在を知らないピラニアを水槽に入れること。

アクリル板の存在を知らないピラニアが小魚を襲うのを見て、アクリル板がないことに気付き、元に戻る、とのこと。


そして、今回参加した黒帯心徒塾でも「壁打ちわもん」を見ました。

そこでは、「聞き手が絶対尊敬を話し手の2人に贈ることで、2人の間も絶対尊敬でつながり、そして終わった後でもそれが続く」というコメントがありました。


話し手2人の間に、本当は存在しないアクリル板。

聞き手は、アクリル板の存在を知らないピラニア。

アクリル板がない聞き方そして伝え方をすることで、話し手2人はアクリル板がないことに気付く、というのが「壁打ちわもん」ではないかと思っています。


とすると、壁打ちわもんができるには、話し手2人の間にアクリル板がないと思うこと。

というよりは、元々ないものなので、そんなことすら感じないでしょう。


著者 : 薮原秀樹
サンクチュアリ出版
発売日 : 2013-06-04