2017/04/16

孟子に申し上げる

ときどき『孟子』を読んでいる。『論語』に代表される儒学の書で、四書のひとつに数えられるものである。

『論語』は孔子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的短いものが多いので読みやすい。『孟子』は孟子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的長く、たとえ話や昔話(引用)が多い。そのため、おもしろいと思うときもあれば、そこまで言う必要はないのではないかと思うときもある。

たとえば、滕文公章句下に、公都子(孟子の門人)が問い、孟子が答えるやりとりがある。公都子の質問は以下である。
世間の人たちはみな、先生をたいへん議論好きだと申しています。失礼ですが、なぜなのでしょう。
現在読んでいるのは岩波文庫版で、訳もこれに依る。

孟子の回答は以下のようにはじまる。
自分とて、なにも議論が好きなのではないが、このご時勢では黙ってばかりもおられず、やむをえず議論しているまでだ。
ここで終わっても、会話としては通用する。

しかし、孟子の言葉は終わらない。
いったい、この世に人間があってから、随分久しい年月がたっているが、その間、治まったり乱れたり、くり返してばかりいるのだ。
そして、まずは堯のことを述べ、禹のことを述べ、紂のことを述べ、文王・武王のことを述べ……と世の中が治まったり、乱れたりした事例を挙げていく。周の時代になり、周が衰え、先王の道もだんだん行われなくなる。そして、また楊朱や墨翟の説がまかり通っているから自分は努力しているのである、と。

かなり端折ったが、この章は、岩波文庫版の上巻pp.252-260に掲載されている。原文と書き下し文を除くと、4ページから5ページ分くらいであろう。

公都子の質問は2行である。

それに対する孟子の回答は、4、5ページ。

もっとも4ページから5ページ分の孟子の回答を、公都子が黙って聞いていたかどうかはわからない。もしかすると、ところどころ公都子が相槌やちょっとした質問などをして進んでいった対話なのかもしれない。

ただ、議論好きだととられてもしかたがないようにも思う。

「夫子、敢えて問う。何ぞ弁を好むや?」


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