2014/11/26

手のひらで思うこと

店から出ると、雨が降っている模様。

アスファルトの道路が湿っている。

道行く人を見ると、傘をさしている人もいれば、さしていない人もいる。

傘を持っていなかったので、雨はどのくらい降っているのだろうと、手のひらをかざした。


ふと、なぜ手のひらをかざしたのか、と思う。

雨がどのくらい降っているのかを知るためならば、服を着ている部分は別として、顔にあててもわかるだろうし、手の甲でもわかる。

しかし、手のひらを上にして確認している。

おそらく、手のひらが一番確認しやすいところなのだろう。


触覚という観点からいえば、身体の中で手のひらが一番敏感かどうかはわからない。

顔の方が敏感なような気がするし、足の裏はほとんど地面などに触れているため鈍感な感じがするが、触られるとくすぐったい。

手のひらは、確認しやすいといったほうが無難だ。


「手のひらを返す」という言葉がある。

手元の辞書を引いてみると、「手の裏を返す」と書いてあり、「手の裏」の項を見ると、「手の裏を返す」の意味として、「態度や言うことが、今までとすっかり変わることのたとえ」とあった。

ちなみに「手の裏」とは「手のひら」のこと。

さて、「手の裏を返す」というのは、手のひらが上を向いているところを下にむけることだろうか。

それとも、下に向いているのを上に向けることだろうか。


「手の内を見せる」という言葉がある。

辞書の「手の内」の項には、「手の内=手のひら」とある。

「手の内を見せる」ときの「手の内」の意味は、「考えていること、これからの計画」のこと。

手のひらを上にしているのを下に返せば、考えや計画を伏せることになるだろうか。


また、「手のひら」のことを「掌(たなごころ)」という。

辞書で「たなごころ」を引いてみると、「手のひら」とあった。

そして、「たなごころを指すように」の意味として、「よく知っていることのたとえ」ともあった。

手の内を相手に見せるのは、身体的には手のひらを相手に見せることとすると、相手の手の内を知っているならば、手のひらを指さして見るのがいいかもしれない。


病気やけがなどに対して処置することを「手当て」という。

手を当てるときは、手のひらを当てる。

手を当てただけでは止血くらいの効果しかないのかもしれないが、手の内を相手に当てるのは「心配している」とか「大丈夫だ」というような考えを直接送っているのかもしれない。


「手の目」という妖怪がいる。

手のひらに目がついている姿で描かれる。

目は受信器官だが、視線を飛ばすことができる。


手のひらで雨がどのくらい降っているのかを確認したとき、傘を持っていなかったので、あまり降っていないでほしいという思念を空に飛ばしたのかもしれない。

豪雨のときに、どのくらい降っているのかと、手をかざしている人を見たことがない。

2014/11/21

わもんな言葉100-一人一天命

「天命」と聞くと思い出す一節があります。

儒学の四書のうちの一つ『中庸』の冒頭部分です。
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を修めるをこれ教と謂う。
『中庸』では、天の命じたこと、つまり、天命のことを「性」といいます。

そして、その性に従って生きることを「道」。

その道を整えたものが「教え」です。


「性」というのは、本性や性格、人間性や特性などの「性」。

「個性」も「性」のひとつでしょう。

そうすると、個性は天命とつながっています。


人にはそれぞれ個性があります。

それぞれ性格も違います。

それとともに人間性も持っていますし、男性・女性などの性もあります。

これらの性は持って生まれたもの。

天が命じたものともいうことができます。


ひとりひとりそれぞれ違う「天の封書」を持っています。

それぞれ違う個性があります。

性に従って生きると、道となります。

ひとりひとり違う道があります。

ひとりひとり、それぞれの天命があります。


私自身の天命が何であるのかは、まだわかっておりません。

しかし、何らかの天命があるということはわかっています。

この「わもんな言葉」を書き続けていることは、私しかしていないことで、現在は私だけの道です。

ここには私の「性格」や「個性」が反映されています。

ならば、天命につながってもおかしくない。


普段何をしているときが楽しいか、自分らしいのはどんなことか。

素の自分とは、どんな自分か。

日ごろの中に個性があります。

道があります。

その道は天命につながっていると思うのです。

そして、日ごろのあり方を整える方法のひとつが、わもんだと思うのです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/20

わもんな言葉99-素を聞き直にする

今年2014年10月、やぶちゃんが聖(ひじり)認定となりました。

「第2回輝くあなたに逢うわもん会in伊勢」でのことです。

今年は上田比呂志さんをお迎えし、「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」と題されて開催されました。


その2日目、神宮での正式参拝の際、上田比呂志さんに言葉が降りてきます。

やぶちゃんに伝えてほしいという言葉で、やぶちゃんにはお役目として、「素(そ)を聞き、直(ちょく)にする」という役割があるということです。


そして最近、偶然、吉田松陰の『講孟箚記』を読みなおしたところ、「序」の中に以下の文言がありました。
然れども天下の人、方且に富貴に淫せられ貧賤に移され、安楽に耽り艱難に苦しみ、以て其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。宜なるかな、其の道を見て以て高く且美しくして及ぶ可からずと為すや。


其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。

「平素の心がけを失い、そのような混乱から抜け出ることができないでいる。」と訳されています。


「素」というのは平素の「素」でもありますが、手元の漢和辞典を引くと次の意味が載っていました(名詞的意味のみ抜粋)。
①より糸にする前のもとの繊維。蚕から引き出した絹の原糸。
②人工を加えたり、結合したりする前の、もととなるもの。
③人工を加えない本質。生地のままのさま。飾り気のないさま。

松陰は、天下の人々が、富貴貧賤・安楽艱難に染められ、素を失ってしまい、抜け出ることができないでいることを嘆いています。

道というものは、高く美しいものではあるが、身近で簡単なものであるのに、と。


『講孟箚記』とは、吉田松陰の『孟子』の講義録。

『孟子』の一節を思い出します。
己を枉ぐる者にして、未だ能く人を直くする者はあらざるなり。
己(おのれ)を曲げる者で、人を真っ直ぐにする者は未だいない。


素を聞き、直にする。

やぶちゃんにふさわしい役割です。

講孟箚記(上) (講談社学術文庫)
講孟箚記(上) (講談社学術文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/19

わもんな言葉98-直感は未来からの予告

最近、「U理論」というものに興味を持っています。

U理論とは、MITのオットー・シャーマー博士の提唱している理論で、その著書『U理論』の副題からいうと、「過去や偏見にとらわれず、本当に必要な『変化』を生み出す技術」です。

そのU理論の考え方の一つとして、「出現する未来からの学習」があります。

「人には二つの異なる源(ソース)による学習」があり、一つは「過去の経験からの学習」、もう一つは「出現する未来からの学習」。

そして、『学習する組織』の著者で、組織学習で有名なピーター・センゲは、『U理論』の序文の中で、「出現する未来から学ぶ」ことについて以下のように述べています。
こうした学び方(過去の経験からの学習)はつねに重要だが、現代のように大きな変化が生まれつつある時代では、到底それだけでは十分とはいえない。そこで、まだよく知られていないが新しい学習方法が求められる。シャーマーはこれを「出現する未来から学ぶ」と表現する。出現する未来から学ぶことはイノベーションには不可欠だ。出現する未来から学ぶには直感が必要だ。非常にあいまいかつ不確実な状況を許容し、失敗を恐れないことが求められる。想像もつかないようなことに直面し、不可能なことを試みることを覚悟しなければならない。我々は恐怖と危険を感じつつも、これから出現しようとするきわめて重要な何かに貢献しているのだという気持ちによって、前進を続けることができる。
U理論の「U」は、何かの略号ではなく、いったん深く潜って帰ってくる形が「U」の文字に似ていることから名づけられました。

書籍『聞けば叶う~わもん入門~』での「話聞一如」の説明には「心の奥底」という表現が使われています。
「わもん」をおこなうことによって、聞き手が話し手の「声なき声」を高い精度で感じとったとき、両者が言葉を介することなく思いを分かちあっている状態。聞き手が完全沈黙の状態を保ち、絶対尊敬を贈りつづけて、話し手の心の奥底にある思いをすっかり受けとめきったときに発生する、最高のありよう。両者は自他の境界をこえ、「無意識共同体」でつながりあう。
聞き手にとっての「声なき声」は「直感」といえます。

心の奥底に「声なき声」は生まれます。

深く潜り、Uの底で「声なき声」が生まれ、言葉として結晶化(クリスタライズ)して帰ってくるのです。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/18

わもんな言葉97-音を入れる

わもんでは、「ガチ聞き」などで、よく「音を入れる」ということをいいます。

抽象的ないい方になりますが、魂が震えるような音を入れます。


会話での「あいづち」を、漢字では「相槌」と書きます。

刀鍛冶が刀を打ち鍛えるときに、刀鍛冶とその弟子が2人で交互に槌をふるって刀を打っているのが語源です。

刀鍛冶が本気で刀を打っているとき、弟子が手抜きをしているとどうなるか。

会話も同様で、話し手が本気の話をしているのに聞き手が気を抜いた相槌をすると、どうなるか。


刀の製法について詳しくは知りませんが、熱した鉄を打つのは、固く丈夫にするためだと思います。

自信、決意、覚悟…ときどき揺らぐことがあるかもしれません。

そのような話をしているとき、しっかりとした相槌を入れることで、自信や決意などを固く丈夫にすることができるかもしれません。

自分以上に信じてくれているという相槌を打つ。

そのような相槌を打つことを、「音を入れる」といいます。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/17

わもんな言葉96-教育とわもん

大学生のときに、教育実習に行ったことがあります。

先生になりたいということは特に思っていませんでした。

しかし、せっかく大学に入ったのだから教員免許の資格を取っておこう、そして、教育実習の経験がどこかで役に立つかもしれない、そのような軽い気持ちで教育実習に参加しました。

そのような気持ちを知ってか知らずか、教育実習初日のオリエンテーションの際、教育実習担当の先生に釘を刺されます。

「この中には、先生になりたいと思っている人も、思っていない人もいると思う。しかし、生徒は、皆さんを将来先生になる人だと見ている。もし、現時点では先生になる気がなかったとしても、『先生になる気はない』というようなことを生徒には話さないでほしい」

このようなことを言われました。

そして、教育実習が始まりました。

クラスのホームルームも担当しました。

私が前に立って、生徒の質問を受けるという機会です。

「なぜ、先生になりたいと思ったのか?」

生徒からそのような質問がでてくるのは予想できることですので、問われたらこう答えようと準備をして臨みました。

案の定、「なぜ、先生になりたいと思ったのですか?」という質問がでました。

用意した答えを言おうと思っていましたが、緊張もあり躊躇しました。

そして、回答として出した最初、次の言葉を言いました。

「別に先生にはなりたいと思っていない」

言ってはいけないことを言ったなと頭の片隅では考えていましたが、生徒たちの真剣な目がこちらに向いているのを感じ、今は作られた回答よりは現時点での本当の考えを伝えたほうがいいと感じました。

そして、言葉を続けます。

「先生になりたいと思っていないというのは、先生になるのが嫌だというわけではない。『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』という言葉があるが、自分の名前を残したいと思っている。名前を残すというのも有名になるというわけではなく、誰かの心に残るような人になりたい。先生はその選択肢のひとつではある。実際、A先生(担当したクラスの先生)は私の心に残っている」

このようなことを言いました。

「名前を残したい」ということは、それまで考えたことがありませんでした。

しかし、この経験から、私は今でも、「名前を残したい」ということを意識するようになりました。


教育実習での出来事は、わもんと出会う前の経験ではありますが、思い返すと、生徒たちの聞く姿勢とそれにふさわしい場があったため、上っ面の回答はできないと感じたのではないかと思っています。

「先生になる気はない」ということを言ってはいけないと外から言われたことを守るより、自分の思いを素直に話したほうがいいと感じて、そのようにした。

この経験では、話し手が私で、聞き手は生徒たち。生徒たちの聞く力が、私の中にあった思いを引き出してくれた経験です。

自分の中の制限に気づき、その制限を超えた経験でした。

生徒や教育現場に限らず、聞く力、場の力はどのような人にもあります。

聞く力が深まると、場も深まります。

場が深く整っていれば、気づきを促しやすくなります。

聞く力を深めることで、気づきを促す場づくりができます。

教育の現場にも「わもん」は有効かもしれません。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/12

わもんな言葉95-透明心徒塾

「黒帯心徒塾」「白帯心徒塾」に加えて、「透明心徒塾」というものが開催されています。

やぶちゃんが聞く力の可能性への挑戦と銘打たれた心徒塾です。

内容は、そのときどきによって変わりますので説明できません。


今では複数の○○心徒塾がありますが、始まりは、「黒帯」や「白帯」「透明」は付いていない、心徒塾からでした。

心徒塾が進化するにつれ、心徒塾に参加される方のスタートラインを揃えたいというところから「白帯心徒塾」が誕生。

白帯心徒塾が誕生したことで、従来の心徒塾を「黒帯心徒塾」と呼ぶようになりました。

現在、白帯心徒塾は、わもんの黒帯の方々が中心になって運営されています。


そんな中、やぶちゃんも白帯心徒塾を開催していたところ、やぶちゃんの白帯心徒塾のレベルが深まっていきます。

ときには、白帯心徒塾のレベルをはるかに超えることも…。

そこで、やぶちゃんが思う存分やりたいということから、白でもない黒でもない、オール直感進行の「透明心徒塾」が誕生しました。


さて、なぜ「透明」なのか?

透明心徒塾は、「白帯」「黒帯」という流れの延長線上にあるものではなさそうです。

聞く修行のステップでも番外編として取り扱われています。


色としての「白」「黒」は、光の反射によって説明されます。

可視光線のほとんどを反射(散乱)する物体は白く、可視光線のほとんどを吸収する物体は黒く見えます。


「透明」は色ではありません。

可視光線が散乱もせず、吸収もされない状態のことです。


可視光線は、人間が見ることのできる電磁波のことを言います。

電磁波は波長があって、人間の目で感知できる波長の電磁波が可視光線です。

人間の目で感知できない電磁波に「赤外線」や「紫外線」があります。


透明心徒塾は、ひょっとすると人間には捉えられないことをしているのかもしれません。

しかし、「赤外線」や「紫外線」「X線」など、人間は目に見えない電磁波を様々なことに利用しています。

透明心徒塾の中に、何か利用できるもの、役に立つものがあるかもしれません。

「聞く力の可能性への挑戦」。

透明心徒塾は、そのような心徒塾、と、ひとまず理解しておきます。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

ブログ アーカイブ