2019/05/27

いるか いないか

谷川俊太郎さんの言葉遊びうた「いるか」に触発されて作ったもの。


『いるか いないか』

 いるか いないか
 いないか いるか
 いるか いないか さがしてみよう

 おるか おらんか
 おらんか おるか
 おるか おらんか しらべてみよう

 いるか いらんか
 いらんか いるか
 いるか いらんか いらんかいるか

 うるか うらんか
 うらんか うるか
 うるか うらんか どうしたものか

 えるか えないか
 えないか えるか
 かえる かえない かえるはいらんか

京極夏彦「百鬼夜行シリーズ」(2019年5月現在)

京極夏彦さんの『今昔百鬼拾遺 河童』を購入。3社横断3ヶ月連続刊行の第2弾で、今回の出版社は角川書店(角川文庫)。ちなみに、第1弾は『今昔百鬼拾遺 鬼』(講談社タイガ)、第2弾が『河童』(角川文庫)、来月(2019年6月)の第3弾は『今昔百鬼拾遺 天狗』(新潮文庫)。

京極さんの百鬼夜行シリーズは、あまり本を読んでいなかったころにたまたま読んで、それから新しいものが出る度に読んでおります。いろいろなミステリーを読みはじめるきっかけにもなっています。

とはいうものの、必ず読んでいるわけでもなく、本屋に行って新しい文庫本が出れば買って読むというやり方なので、ひょっとするとヌケモレがあるかもしれないと思い、あらためてホームページで確認してみました(『大極宮』公式ホームページ)。百鬼夜行シリーズは以下に挙げているもので、百鬼夜行シリーズ以外の著作も多数あります。(以下のものは自分用に文庫情報を掲載しております。)

百鬼夜行シリーズ(2019年5月現在)
『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)
『魍魎の匣』(講談社文庫)
『狂骨の夢』(講談社文庫)
『鉄鼠の檻』(講談社文庫)
『絡新婦の理』(講談社文庫)
『塗仏の宴 宴の支度』(講談社文庫)
『塗仏の宴 宴の始末』(講談社文庫)
『陰摩羅鬼の瑕』(講談社文庫)
『邪魅の雫』(講談社文庫)
『百鬼夜行 陰』(講談社文庫)
『定本 百鬼夜行 陰』(文春文庫)
『完本 百鬼夜行 陰』(文庫未。講談社ノベルズ)
『定本 百鬼夜行 陽』(文春文庫)
『完本 百鬼夜行 陽』(文庫未。講談社ノベルズ)
『百器徒然袋 雨』(講談社文庫)
『今昔続百鬼 雲』(講談社文庫)
『百器徒然袋 風』(講談社文庫)
『今昔百鬼拾遺 鬼』(講談社タイガ)
『今昔百鬼拾遺 河童』(角川文庫)
『今昔百鬼拾遺 天狗』(2019年6月予定。新潮文庫)

結構出てますね……。読んでいないのもちらほら。『百鬼夜行 陰/陽』の「定本」「完本」というのは収録が違うようですね。『陰』の方はノベルズ版で読んでいますが、「定本」「完本」は未読。『陽』は読んでいません。追々読んでいこうと思います。

このブログを書きはじめたのはリストを作りたいのではなく別のことだったのですが、なぜかリスト作りになってしまいました。というのも、書こうと思ったことは短い文章で書けることだから。

今回『今昔百鬼拾遺 河童』を買ったのですが、その発行年月は「令和元年5月25日」。奥付に書かれている発行年月を見て、令和になったということを実感した次第。もちろん5月1日から元号が令和に変わったのは知ってはいましたが、奥付を見て実感が湧きました(笑)

2019/05/25

洒落とお洒落

漱石の『草枕』に、他の人からはあまり聞いたり読んだりしたことがないところで、好きな場面がある。語り手である余(画工)と那美さんが会話する場面である。新仮名遣いで引用する。
「こう云ふ静かな所が、却って気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ち様一つでどうでもなります。蚤の国が厭になって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「蚤も蚊も居ない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出して頂戴」と女は詰め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとつて、女が馬へ乗って、山桜を見て居る心持ち――無論咄嗟の筆使いだから、画にはならない。只心持ち丈をさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊も居ません」と鼻の前へ突き付けた。驚くか、恥ずかしがるか、此様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、一寸景色を伺うと
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、丸で蟹ね」と云って退けた。余は
「わはははは」と笑う。
――夏目漱石『草枕』
お洒落だな、と思う。洒落だな、とも思う。

ここのやり取りで、一休さんの頓知話を思い出す(アニメの方)。「屏風に描いてある虎を捕まえてみよ」と言われ、「わかりました。では、その虎をこちらへ出してください」と返した話である。『草枕』の方では、那美さんが「ここへ出して御覧なさい」と詰め寄ったあと、画工は画を書いて「この中へ御這入りなさい」と、さらに頓知をきかせている。ひねられている。

この場面の注には一休さんではなく、『無門関』の「達磨安心」の話が載っていた。面壁している達磨(禅宗の祖)に慧可(二祖)が「安心させてほしい」とお願いしたところ、「安心させてやるから心を出してみよ」と応じた話である。一休さんも禅僧であるから、アニメの一休さんもここから作られたと思う(もちろん、一休宗純がモデルとなっているので一休宗純の言動から作られてはいるのだろうが、一休宗純も「達磨安心」の公案は知っていただろう)。

さらにこの『草枕』の場面は、『草枕』冒頭で山路を登りながら画工が考えていたことも思い出させてくれる。冒頭で「智に働けば角が立つ」云々、そして「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る」と考えていた。そのとき考えていた中に、以下の部分がある。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
「人でなし」というのは通常、人でないような人、人情がないような人を指す。人でない、といいながら、人である。引用した部分の「人でなしの国」は、「人でない」ほうに主眼が置かれている。引用内の語句でいうと「神」や「鬼」である。

「蚤の国」「蚊の国」は、人ではないものの国である。人でなしの国である。言葉の音から「黄泉の国」「彼(か)の国」も思い起こされる。また、「神(かみ)」と「鬼(おに)」で「蟹(かに)」が出てきたとも考えられなくはない。いや、「蟹」は英語の「cancer(癌)」に通じるという理由からかもしれない。

もちろん、画工が書いた画が横長で、横にしか動けない「蟹」が出てきたのだろう。しかし、この会話の少し前には「それじゃ幅が利きます」というような科白があったり、後にもまた「蚤の国、蚊の国」や「蟹」が出てきたりしているので、意識的に言葉を選んで書いていると思う。そして、洒落をお洒落に使っている印象というのが、この場面でよく現れているというのが、この場面が好きな理由である。

Domino作曲(習作43~48)

貯まっている分を放出。

習作43(3:40)
ポリスの曲に似てしまっています…(パッと曲名が出てこないですが…)。


習作44(4:20)
寂しげな曲。



習作45(1:26)
8分の6拍子にチャレンジ。リズムがつかみきれず…。


習作46(3:38)
最初のドラムが入ってくるところが気に入っています。


習作47(3:47)
波の音を使ってみたかっただけです。曲のイメージと関係はありません。


習作48(4:06)
リズムで勝負。

2019/05/24

最近の読書傾向(感想含む)

5月の連休中、愛媛の実家に帰った。現在は名古屋に住んでおり、名古屋から新幹線で岡山まで。岡山で特急に乗り換え、松山・宇和島へと移動する。乗り換えを含めると6時間くらいになる。

帰省のお供として選んだ本は、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』。恩田さんの作品は、文庫本が出たものを読むようにしている。以前は文庫が出たものすべてを読んでやろうと思っていたのだが、読みきれず積読本が多くなってしまったので、最近は買ったり買わなかったりしていた。『蜜蜂と遠雷』は、承知の通り「直木賞」と「本屋大賞」のW受賞で話題となった本で、読んでみたいと思ったが文庫本が出るのを待っていた本だった。2019年4月に文庫本が出て買ったが、しばらくそのままになっていた。帰省の行き帰りで読むのにちょうどいいかもしれないと思い、この2冊(上巻・下巻)を持って行った。

結果として、行き(帰省の行き)の車内と実家に着いたその夜、そして翌日で一気に読んでしまった。ピアノやクラシック音楽について明るくはないが、クラシックを聞いてみたい、コンクールの観戦もおもしろそうだとも思った。書かれている曲はどれも聞いたことはない(ひょっとするとタイトルを知らないだけで聞いたことはある曲もあるかもしれない)が、音楽が言葉になっていると思った。そして、恩田さんの作家としての創作活動の姿勢が書かれているような気がした。また、言語の問題が書かれているようにも思った。このあたりはまだまとまっていないので、再読する本のひとつになった。

『蜜蜂と遠雷』を一気に読んでしまったので、連休中と帰り(帰省の帰り)に読む本がなくなってしまった。『蜜蜂と遠雷』を再読するという手もあるが、再読はゆっくりちょこちょこと読んでいくのがいいかと思う。

連休中に本屋に行った。森田真生さんが編集した岡潔さんの『数学する人生』の文庫本を見つけ、これにしようと購入した。

数ヶ月前に、(これも積読本であった)森田真生さんの『数学する身体』を読んだところだった。大まかな数学の歴史と数学の身体性について、森田さん自身の経験を踏まえて書かれていた本で、抽象化を極めていくと思っていた数学に新しい視点(失われがちになっていた視点)を持たせてくれた。数学については、少なくともクラシック音楽よりは知っている。とは言っても専門的なところは知らない。ただ、ゲーデルの不完全性定理にはずっと興味を持っているので、その周辺の事柄についてはある程度の知識があった。『数学する身体』での数学史でヒルベルトが出てきた後、いよいよゲーデル登場かと思いきや、チューリングが出てきた。そしてその後、岡潔である。歴史はひとつの線でできているわけではないが、チューリングと岡潔の組み合わせがおもしろい。

岡潔さんについては名前しか知らなかった。数学的業績はもちろん、数学以外の著作があることも知らなかった。正直に言うと、小林秀雄さんとの対談本である『人間の建設』を持ってはいるが、例によって積読本である(積読本がいくつあるんだ……)。森田さんの『数学する身体』で、岡潔さんに興味を持った。

興味を持ったものの、岡潔さんについて、手つかずのままだった。積読本は、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』をはじめ、まだまだたくさんある。そのうち『人間の建設』に手をつけようと思っていたところ、ゴールデンウィーク中、帰省先の本屋で『数学する人生』に出会ってしまった。そして帰りの車内でのお供となる。(ちなみに電車と書かずに車内と書くのは、宇和島・松山間では列車がまだ電化されていないところがあるため。)

岡潔さんの『数学する人生』を読んで、また追いかけるべき人が増えたと思った。もちろん岡潔さんのことである。数学的業績については難しいだろうが、ものの見方・考え方については外せないような気がする。何をどのように表現しているのか。現在の読書の対象として夏目漱石の諸作品に何かあると思って読んでいるが、岡潔さんにはそこに共通するものがある。

そして先日、本屋に行ったとき、岡潔さんの『春宵十話』『春風夏雨』を見つけた。

何という原理(?)か忘れてしまったが、たとえば「赤い色」と意識して一日を過ごすと、赤い色のものが目に飛び込みやすくなるという。見たいものが見えるということだろう。よく本屋に行くのは、自分がどのような本に魅かれるのかを知りたいためである。自分自身、未だに何をどうしたいのかがわかっておらず、このブログ記事も何となく「書いておいたほうがよさそうだ」と思い書きはじめたため、脈絡のないものとなってしまった感はあるが、一旦書いておくと次につながるような気がしている。


2019/05/23

漱石の「断片」がおもしろい。

漱石の「断片」がおもしろい。

たとえば、いま適当にページを開いて、「断片35E」をみると、最初に次のようなものが記されている。(読みやすいように、カタカナをひらがなに変えたり、句読点やカギ括弧を補ったりしている。)
△一人曰く「円なり」。一人曰く「方なり」。固く執って下らず。第三者に行って之を質す。第三者曰く「どうでもよい」。二人呆然たり。一人は円のみを知る。一人は方のみを知る。故に己れを是として他を非とす。第三者は円を知りまた方を知る。故にどうでもよいと云う。而して二人は第三者を以て愚となす。
群盲象を撫でるようなことが記されている。皮肉めいた(?)最後がおもしろい。

読んでいるのは岩波書店から刊行中の漱石全集第十九巻『日記・断片(上)』である。漱石の日記や読書メモ、構想メモなどを集めたもので、思索なども書かれている。漱石の小説に使われているものも多い。上記の「断片35E」の注をみると、この断片は小説『野分』に使われているところが多いらしいが、『野分』を読んだことがないので上記部分が実際に使われているのかどうかは知らない。

『日記・断片』を読んでいると、もし漱石がツイッターとかブログをしていたら、こんな感じになるかもしれないと思った。なかには炎上しそうなことも書いてあるので、もし漱石の時代にツイッターとかブログがあったとしても、しなかったかもしれない。

現在少しずつ読んでいる岩波書店版の漱石全集での『日記・断片(上)』は、できるだけ漱石が書いたそのままを載せる方針であるため、少し読みづらいところが難点である。たとえば、冒頭の引用箇所は次のように記載されている。(全集以外の本ではどんな表記をされているのだろうか。)
△一人曰く円なり。一人曰く方なり。固く執つて下らず。第三者ニ行ツテ之ヲ質ス。第三者曰くどうでもよい。二人呆然タリ。一人ハ円ノミヲ知ル。一人ハ方ノミヲ知ル。故ニ己レヲ是トシテ他ヲ非トス。第三者ハ円ヲ知リ又方ヲ知ル。故ニドウデモヨイト云フ。而シテ二人ハ第三者ヲ以テ愚トナス
また、句読点がないものもしばしばある。初期の頃に多いようだ(すべてを読んでいるわけではないので感覚的な感想)。たとえば「断片19C(2)」は次のように書かれている。
 月並
或日本ノ政治家ガ欧洲ヲ漫遊シテ伊太利ニ行キ或る宿ニトマル宿屋ノ前ニ伊太利名士ノ彫像ガアツタトスルト此政治家ガ日本ヘ消息ヲシテ此像ヲ引合に出して曰ク日夕相対シテ古今知己の感なくんばあらずと申した余はかゝる月並を云ふ気にならない。月並とは何かと尋ねる人があるかも知れないから一寸説明をする月並とは(年は二八かにくからぬ)と(云はず語らず物思ひ)の間に寐かろんで居て(此日ヤ天気晴朗)と来ると必ず(一瓢を携へて滝の川に遊ぶ)連中を云フ
文章の切れ目に句読点がない。全く使っていないわけでもない。書き下し文のようにカタカナで書いているかと思えば、ひらがなになったり、またカタカナを使ったりする。括弧の使い方も、自分だったらこんな風には使わないだろう。ここでの引用では例がないが、英語が混ざっていたり、メモすべてが英語だったりするところもある(英語の断片に当たったときは、注にある翻訳で済ませている)。しかしこのような文章を見て、普段の自分が気づいていない書き方や、無意識のルールに気づかされることも多い。漱石には書き方のルールがあったのだろうかとも想像する。人に読ませるものではなかったと思うので、漱石はただ書いていただけだとも思う。ならば、ツイッターやブログはしないだろう。漱石の作品をしっかりと読んでいれば「この断片はあの小説のあそこの部分だ」というような楽しみも増えるだろう。

いまは『草枕』の画工よろしく、ページを適当にめくり適当に読んでいる。

2019/05/21

兎にも角にもアルミラージ

夏目漱石『草枕』の冒頭部分に、「兎角に」という言葉がある。
 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
最近まで、この「兎角(とかく)に」は「兎に角(とにかく)」の元となった言葉で、「兎角に」も「兎に角」同じような意味だろうと思っていた。しかし、再読した際、少し気になったので、「兎角に」と「兎に角」の意味を辞書で引いてみた。

手元の国語辞典(『三省堂国語辞典』第五版)には次のようにあった。ついでに「ともかく」の意味も記載しておく。
とかく[(兎角)](副・自サ)①あれこれ。「――するうちに」②ややもすると。ともすれば。「――この世は住みにくい・あせると――失敗しやすい」
とにかく[(兎に角)](副)①とりあえずそのことを先にするようす。いずれにしても。「――行ってみよう」②〔前を受けて〕どうのこうのと言わないけれども。「知らないことなら――」
ともかく[(兎も角)](副)①そのことは、どうであっても。「――出かけよう・手段は――(として)」②〔前を受けて〕(…なら)問題はないが。「和解すれば――、そうでない限り」
「兎角」というのが漱石の当て字であるということは何かで知っていたが、「兎角に」と「兎に角」の意味の違いに思い当たることはなかった。『草枕』の冒頭の「兎角に」が②の意味で用いられているとすれば、今まで読んでいた意味と若干ニュアンスが異なる。今までは「とにかく」「ともかく」というような意味で、「(いずれにしても)人の世は住みにくい」と読んでいた。それがもし「(ともすれば)人の世は住みにくい」となると、厭世観のようなものが少し減った気がして、こちらの方の意味のほうが、『草枕』にふさわしく思えてきた。

それはともかく、「とかく」に、「兎角」という当て字をしたことも気になってきた。「兎(うさぎ)」の「角(つの)」である。

まずは、ドラクエの敵モンスター「アルミラージ」を思い出す。『ドラゴンクエストⅢ』から出てきたと思う。ドラクエなど、特にファンタジー系のゲームのモンスターやキャラクターは、世界各国の神話や伝説、物語などから名前をつけられていることが多い。「アルミラージ」については、何が元になっているのか知らなかった。とりあえず、手元にあるボルヘスの『幻獣辞典』の索引を見てみたが、載っていない。Wikipediaには載っていた。
アルミラージ(アラビア語:al-mi'raj)は、角の生えたウサギに似た動物。インド洋に浮かぶとされる島、ジャジラト・アル=ティニン島(Jazirat al-Tinnin)に棲息すると言われる。その名前は、ムハンマドが昇天する際に通った天への道と同じ名前である。
「アルミラージ」は「al-mi'raj」で、「アル・ミラージ」のようだ。これまで「アルミ・ラージ」と勝手に思っていた。「アル」というのは定冠詞のようなものだったと思うので、「ミラージmi'raj」の意味が気になる。アラビア語には明るくないのでWEB検索に頼ってみると、どうやら「はしご」そしてそこから派生して「昇天」という意味があるようだ(levha.net「昇天」より)。

一方で、「兎角亀毛(とかくきもう)」(あるいは「亀毛兎角(きもうとかく)」)という四字熟語がある。兎に角がついていたり、亀に毛が生えていたりすることはないので、「ありえないこと、起こりえないことのたとえ」をいう。中国古典や仏典に比喩として出てくるようである(大谷大学「生活の中の仏教用語 - [163]」より)。漱石がどのような意図で「兎角」の当て字をしたのかは定かではないが、「兎角」という言葉自体は知っていた可能性がある。「アルミラージ」については知らない可能性が高いと勝手に思っている。

とにかく、漱石があえて「兎角」の当て字をしたと考えてみるとどうだろう。「とかくに」というのは、もともとおそらくは「と、このように」というような意味であろう。『草枕』の冒頭を例にとると、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。と、こんな風に人の世は住みにくい。」と読める。しかし、「ありえないこと、起こりえないことのたとえ」として「兎角」という漢字を用いることで、「と、こんな風に(ありえないことだが)人の世は住みにくい」という意図を含ませているとも感じられる。「(ともすれば)人の世は住みにくい」「(一見すると)人の世は住みにくい」という風にも捉えることができる。


さて、この文章に「アルミラージ」のくだりは必要だろうか。何かの意図を持って書いたのだろうか。

正直に書くと思いついただけなのだが、あえて智を働かせれば、兎に角を立たせてみただけである。あるいは「アルミラージにとっては人の世は住みにくい」と言ってみたかっただけである。「とにかく、アルミラージを倒して、経験値の足しにしてほしい」とは言わない。

2019/05/14

スタバの誘惑

スタバのロゴ、トレードマークに描かれているのは、人魚(マーメイド)に見えるが、人魚ではない。セイレーンである。セイレーンは、ギリシア神話にでてくる怪物で、島に住んでおり、美しい歌声で船乗りたちを惑わし、船を難破させる。また、セイレーンは、サイレンの語源でもある。サイレンは注意を促す。

なぜスターバックスがこのセイレーンをトレードマークにしているのか。以下のサイトに、スターバックスの社名の由来と、セイレーンにたどり着いた様子が書かれていた。人びとがセイレーンに誘われてコーヒーを買うだろうという期待が込められているらしい。

Gigazine:「スターバックスコーヒーのロゴはどうやってデザインされてきたのか」がよく分かるムービー(以下の動画の日本語解説記事)



スターバックスのホームページを確認したが、ロゴやトレードマークに関する記述は見つけられなかった。しかし、下のサイトでスターバックスの広報さんの話が出ているので、スタバの公式見解でもあるのだろう。

マイナビニュース:スターバックスコーヒーのロゴデザインに隠された秘密 -広報さんに聞いてみた
サイレンは、コーヒーの魅力、そして航海を想起させることから、スターバックス、そしてスターバックスのコーヒーを具象化している存在です。また、サイレンはとてもきれいな歌声で船乗りを魅了したといわれています。同じように、スターバックスも多くの人々を魅了したい、そんな想いも込められています。

スタバは人々を魅了する。誘惑する。

その誘惑から逃れるためにはどうすればいいか。

オデュッセウス(英語名ユリシーズ)を見習うのがいいかもしれない。

ホメロスの叙事詩『オデュセイア』に、トロイア戦争が終わり、英雄オデュッセウスが故郷イタケに帰るまでの冒険譚が書かれている。その冒険譚のひとつに、オデュッセウスがどのようにセイレーンの誘惑を逃れたかが書かれている。

オデュッセウスは、魔女キケローからの助言もあり、家来や水夫たちの耳を蜜蝋で塞ぐ。そしてオデュッセウス自身は家来たちに、自分を船のマストに縛りつけ何があってもほどかないように命じた。

セイレーンの住む島に近づき、セイレーンたちが歌うも、水夫たちには聞こえず誘惑されることはない。オデュッセウスは美しい歌声に魅了されるが、マストに縛られているため身動きはできず、狂って海に飛び込んだりなどすることはなかった。

ここで疑問に思うことは、なぜオデュッセウスは自分の耳を蜜蝋で塞がなかったのだろう、ということだ。家来に塞いでもらってもいい。耳を塞ぐという選択肢をなぜ採らなかったのか。

思うに、オデュッセウスは、セイレーンの歌声を聞きたかったのではないか。何人をも魅了する美しい歌声を聞きたかったのではないか。

だとすれば、スタバの誘惑には負けてもいい。魅了されてもいい。

狂わなければ。

スタバの魅力はヴィバレッジやフードなどの美味しさにもあるが、店内の居心地の良さにもある。静かではないが騒がしいことはなく、座り心地のいいソファのような椅子があり、落ち着いた雰囲気のレイアウトがなされている。一度座ってしまうと時間の許すかぎり居座ってしまう。スタバというブランドの価値もある。

ふらっと立ち寄るのはいい。待ち合わせに使ってもいい。Macを持って「ノマド」的に過ごすのもいい。しかし、溺れてはいけない。

そんなことを思いながら、僕はスタバへと向かった。




(おまけ)セイレーンの後ろ姿
What the Starbucks lady is actually doing from r/funny

2019/05/13

どんぐりの背比べ

「オレの方が背が高い」
「ボクの方が背が高い」
「いや、おいらの方が」

どんぐりたちが言い争っていた。だれも譲らない。お互いに自分の方が背が高いと言い張っている。このままだと埒が明かないので、どんぐりたちは「誰が一番背が高いのか、他の誰かに確認してもらおう」と言って、そこに通りかかったおじいさんに声をかけた。


「オレの方が背が高い」
「ボクの方が背が高い」
「いや、おいらの方が」

まだ、どんぐりたちは言い争っていた。
あるどんぐりが、おじいさんに尋ねた。
「ぼくたちの中で、誰が一番背が高いですか?」
おじいさんは、どんぐりたちを眺めた。どんぐりたちは、おじいさんの言葉を待った。
「みんな、小さくてあんまり変わらないように見えるねぇ。もっと大きくなったらわかるかもしれないねぇ」
どんぐりたちは、もっと大きくなろう、背を伸ばそうと思った。


どんぐりたちは芽を出し、少しずつ大きくなった。そして、まだ言い争っていた。
「オレの方が背が高い」
「ボクの方が背が高い」
「いや、おいらの方が」

おじいさんが傍らを通るたびに、おじいさんに尋ねていた。
「ぼくたちの中で、誰が一番背が高いですか?」
「もっと大きくなったらわかるかもしれないねぇ」
どんぐりたちは、もっと大きくなろうと、もっと背を伸ばそうとした。


十年経った。どんぐりたちはクヌギの木になった。そして、まだ言い争っていた。
「オレの方が背が高い」
「ボクの方が背が高い」
「いや、おいらの方が」
「ぼくたちの中で、誰が一番背が高いですか?」
おじいさんは、クヌギの木々を見上げて言った。
「みんな大きくてわからないねぇ。立派に育ったねぇ。誰が一番大きな実をつけるかねぇ」
クヌギの木々たちは、自分が一番大きな実をつけようと思った。


あるときから、おじいさんの姿が見えなくなった。背の高さを、実の大きさを見てくれる人がいなくなったクヌギの木々は、しばらくは毎年、実をつけていたが、そのうち枯れてしまった。

2019/05/01

Domino作曲(習作41、42)

規則的だと単調だと思う。
不規則すぎると乱雑だと思う。


習作41(3:48)


習作42(2:43)

感想的実践

 不思議な死体? いったいどのような死体なのですか?
「探偵は尋ねた。あまりにも、警部の表情が面白かったからだ」
躰のいろいろな部分が、なかったのです。
「警部は言った。自分の顔が面白いなどとはまったく気づいていない」
このような文章で、森博嗣『実験的経験』は、はじまっている。地の文を括弧の中に入れて、会話文を括弧の外に出すという「独自のルール」である。しかし、このルールでずっと書かれているわけではない。
」あ、もしかして、先生……「
」何?「
」私、わかっちゃいましたよ「
今度は鍵括弧が逆である。そして、それを「こともなげ」に言ってのける。
いや、さきほどまでと同じです。たまたま地の文がないと変に感じるだけです。この場合は、語らない地の文を括弧で括っているだけのことで、空集合という集合みたいなものです。


世の中にはルールがある。明文化されているものもあれば、明文化されていないものもある。ルールという言葉が強すぎるとしたら、パターンと言ってもいい。常識とか習慣、癖などと言ってもいい。意識しているものもあれば、無意識に従っているものもある。

「変だな」「おかしい」「違和感を感じる」と思うところで、なんらかのルールの存在に気づく。「違和感」だけで「感じる」という意味が含まれているのに「違和感を感じる」と書くのはおかしいのではないか。

「おかしい、という言葉には、変だという意味の他に、面白いという意味もありますね」

いきなり、何ですか?

「おかしい、というところには、怪しいところ、そして、面白いところがあります。おかしいを漢字で書くと、可笑しいと書きますね。おかしなところには、どこか、ルールを逸脱しているというか、常識では考えられないというか。そこは、遊び、余裕のあるところです」

車のハンドルの遊びみたいなものですね。

「そうそう。グレーゾーンとも言えます。白でもなく、黒でもない、白黒つかない灰色のところです」

白黒で思い出しましたが、余白とか空白はなんで白なんですかね。意味としてはグレーゾーンに近いと思いますが。

「さあ。無と有の間ですかね。あるいは、有限と微小の間」

間は「かん」と読んだ方がいいですかね?

「パンとは読めないですね」

(空白)

突飛なものは大衆には望まれていません。それなのに、突飛なものを見せたい、というのが創作の基本的衝動です。このギャップを埋めるために歩み寄り、ぎりぎりの妥協の線として提示することも、創作者の使命の一つであって、これは、デザイン、アートを問わず、常に、そして暗黙のうちに掲げられる、ほとんど唯一の共通テーマであると思われます。逆にいえば、この挑戦を避けること、忘れることは、すなわち創作の堕落であり、惰性への隷属であり、芸術から生産への没落、「求められるものを与えるのだ」という偽善としての背信といえるものでしょう。

「この上に書いているところは引用ですよね。もとに戻したのですね」

「そうですね。引用は、引用符をつけたり、段を下げてなされることが多いです」

「引用で思い出しましたが、陰陽は、陰と陽という順番ですね。白黒とは逆ですね」


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