2019/06/23

尾張名古屋は城でもつ


尾張名古屋は城でもつ、と伊勢音頭に唄われている。尾張の名古屋は城で、名古屋城で保たれているということであり、名古屋の歴史を名古屋城抜きに語ることはできない。

名古屋城は、徳川家康により、慶長5年(1610年)から設営された。

天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦で勝利し、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開くものの、大坂にはまだ豊臣家がおり、不安の種は残っている。そこで家康は、尾張を江戸と大坂を結ぶ東海道の要とすべく名古屋城の築城を命じたという。名古屋城築城前は、清須城のある清須が尾張の中心地であった。しかし、清須城は水攻めの危険性、また水害の可能性があった。家康は名古屋城築城とともに、尾張の中心地を清須から名古屋に変えたのである。

清須城の表記として、「清須城」のほかに「清洲城」の表記がある。現在の固有名は「清州城」である。清州城公式ホームページでは、名古屋城築城での大移動、いわゆる「清須越」を境に、清須越以前を「清須城」、以後を「清洲城」としている。

清須城は室町時代に、下津城(稲沢市)の別郭として建てられた。その後、文明10年(1478年)に尾張守護所が下津城から清須城に移る。清須は鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要所でもあったため、尾張の中心地として栄えた。戦国期になると、織田信長が清須城に入る。桶狭間の戦いも清須城から出陣したといわれている。その後、天下統一のために信長は京都へ向かうも本能寺の変で斃れてしまう。信長の跡継ぎをどうするか、それを話し合われた場所は清須城で、この話し合いが「清須会議」である。

このように、尾張国は清須が中心だった。その状況での名古屋城築城であり、清須越である。「みやこ」と言えるかどうかはわからないが、清須越は遷都のようなもので、人とともに政治・経済・文化なども名古屋に移った。清須城は廃城。清須城の資材が名古屋城築城の際に用いられている。

現在、新しい都市を創るとしたらどうするだろう。おそらくは、現在最先端の技術や今後も残しておきたい文化などを駆使してデザインするのではないだろうか。

名古屋城は、当時の最先端の技術・文化を総動員して造られたものである。

江戸幕府の政策として、外様大名を江戸から遠方に配し、大名が軍事費を蓄えることがないように、公儀普請を命じてお金を使わせたという。名古屋城築城の際にも多くの大名が動員された。さらに、当初は軍事目的で名古屋城の建設がはじまったが、慶長18年(1615年)の名古屋城本丸御殿の完成前後には、大坂冬の陣・夏の陣により豊臣家の脅威が滅した。

新しい時代の幕開けの象徴として名古屋の、そして名古屋城の歴史がはじまった。

2019/06/19

Domino作曲(試作54・55)

曲を作るときには、今までとは違った雰囲気のものを作ろうとしていますが、やはり今までに聞いたことのある曲を思い浮かべることが多いので、全くのオリジナルというものは中々作れないのではないかと思っています。しかし「アイデアは組み合わせである」とも言われるように、今までの音楽に存在しているものでも、組み合わせによってはオリジナルになることもあるでしょう。

作っているものがすでに、この世の中に存在している曲なのかどうか確認することは困難ですが、できるだけオリジナルを目指していくようにはしています。傑作かどうかは別として……。

習作54(3:29)
今までとは違った雰囲気を出そうと作った曲。不協和音を効果的に利用したいと思いますが、難しいですね。


習作55(4:51)
どこかで聞いたことのあるメロディがミックスされた印象です。どこが何の曲なのかは、わかりません。ただ何となくどこかにありそうなフレーズばかりだと感じています。良く言えば普通の曲です。

2019/06/18

Domino作曲(習作53)

習作53(4:53)
似たような曲を作っていたような気もしますが、気にせず。

2019/06/16

名古屋城探訪記


先日、初めて名古屋城を訪れた。

名古屋に来て3年強になるが、出不精な性格でもあり、近くに居るからいつでも行けるという考えもあり、これまで訪れたことがなかった。観光名所や寺社仏閣、景勝などを見るのは好きな方ではある。しかし、訪れるところの由来や歴史、意味や意義などを知っていないと、見たとしても楽しめないような気がして、特に拝観料などが必要なところはもったいないような気がして、なかなか足が向かない。そう思っているとそれこそ、いつ訪れるのかわからなくなるので、まずは行ってみようと思い、向かった。

名古屋城の近くまでは何度か行ったことがある。たとえば愛知県庁や名古屋市役所が近くにあることは知っているし、名古屋能楽堂には2度ほど行ったことがある。現在住んでいるところからは自転車で行ける距離だ。

行こうと決めたのは当日思い立ってのことだが、家を出る前に、念のためホームページで開園日と時間をチェックした。今日この時間ならば大丈夫であることを確認する。ただ現在、天守閣については閉館中であることがわかった。設備の老朽化や耐震性の確保のためであるらしい。他にもホームページには名古屋城に関する情報が多く載っていたが、見ていると足が動かなくなりそうであるので、ほどほどにした。

せっかく行くのだから、いろいろなものを見たいと思いデジタルカメラを準備した。普段持ち歩くことはないのだが、写真を撮ろうという意識は目のつけどころを探す助けになるだろうと考えたからである。もちろん記録として保存しておいて、あとで記憶の助けとしたいという意図もある。

名古屋城を訪れたのは、梅雨入り前、夏の到来を思わせるような暑さの日の午後。自転車に乗り名古屋城まで行く。20分くらいの距離である。近いものではあるが、うっすらと汗をかいていた。駐輪場を探すもすぐに見つからなかったため、近くの金シャチ横丁のバイク置き場に停めて名古屋城に向かった。

ぼくの名古屋城に関する知識は貧弱なもので、徳川御三家のひとつということと、金のシャチホコぐらいしか思いつかない。「尾張名古屋は城でもつ」とはよく聞くものの、それがどのような意味なのかは知らない。訪れるだけで意味がわかるとは思えなかったが、今回名古屋城を訪れることは、尾張名古屋について知る機会になるだろう。

せっかくなので、訪れた感想やその後、調べたり確認したりしたことなどをまとめておこうと思い、探訪記のように書きはじめた。長くなるのでブログには数回に分けて掲載していく。 

Domino作曲(習作52)

習作52(4:55)
メロディラインが今までに作ったようなものになりましたが、印象が異なるのでよしとします。

2019/06/13

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(12)

(前回はこちら

やっと第一章が終わりに近づいております。続きを読んでいきましょう。
 ここ迄決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂れ懸って居たと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走って居る所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
旅中に起こる出来事と旅中に出会う人を、能の仕組みと能役者の所作に見立ててみよう。そう決心して山路を歩くのですが、空があやしくなってきます。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」。観察点が揺れ動いています。
 路は存外広くなって、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。大分濡れたね」まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影画の様に雨につつまれて、又ふうと消えた。
 糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋毎に風に捲かれる様迄が目に入る。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。
馬子がふうとあらわれ、ふうと消える。幻想的な風景です。「夢幻能」のイメージの先取りでしょうか。

次が第一章最後の段落です。
 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも詠まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲烟飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかは猶更に解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。
読者にとっては、語り手自身も画中の人物、小説中の人物ですが、語り手自身にとっては、現在旅の途中で現実世界となります。外から見れば「詩にもなる、句にも詠まれる」かもしれませんが、雨具なく降られるのはやはり心苦しいものです。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」、己自身も純客観的に見ようとしてもなかなかできない。利害に気を奪われると、「美か美でないかと鑑識する事」は難しくなるのです。

2019/06/11

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(11)

(前回はこちら

『草枕』の語り手の画工である「余」は、旅をしています。向かう先は「那古井の温泉場」で、いまは山路を登っています。「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。できるだけ世間を離れ、出世間的な旅をしたい。かといって野宿をするほど非人情は募っていない。そこで、「能」を見るように人間を見ることはできないかと考えます。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。
「能の仕組と能役者の所作に見立て」、「悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して」、旅中に起こる出来事と、旅中に出逢う人間を観察してみようと決心します。人の世に人情はつきもので、画工自身も人間であるので、人情を捨てることはできませんが、これから起こる出来事や出会う人を、能を見るように、絵画を見るように、観察してみようというのです。「是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする」、つまり「第三者の地位」に立ち、利害に気を奪われないようにして、人や物、出来事や所作などを「芸術の方面から」、美しいか美しくないかを観察しようと考えます。

漱石は「余が『草枕』」という談話で、自身の書いた『草枕』について次のように述べています。
 私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。
――夏目漱石「余が『草枕』」(現代仮名遣いに変更)
『草枕』を読んで、「美しい感じ」が残るかどうか。

画工は、この旅の中で、出来事や人物に遭遇します。画工は「美か美でないかと鑑識」しながら、これらの出来事や人間を見ていくのですが、読者の私たちも、小説に書かれていることが美しいかどうかを確認しながら読んでいくことになります。

Domino作曲(習作51)

曲数が50以上となったので、その中で自分のお気に入りをまとめたページを作りました。ヘッダー下のページリンクからアクセスできます。
https://sanotomo3.blogspot.com/p/domino.html

ついでに(?)新曲。

習作51(4:40)
最初はゆったりしていますが、後半は音数を多くリズムよくしてみました。

2019/06/10

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(10)

(前回はこちら

「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。このような願いでもって、語り手である画工は今回の旅をはじめます。東洋の詩歌にあるような「出世間的な詩味」を、間接的ではなく、直接に自然から感じたいということです。
 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。矢張り余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余も其通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿する程非人情が募っては居らん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬に迄逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いは中々取れない。夫れ所か、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。
向かう先は「那古井の温泉場」。「人の世」を作ったのは唯の人であるので住みにくいけれど、かといって、「人でなしの国」にいくほど非人情は募っていない。「すこしの間だけでも非人情の天地に逍遥したい」というのが、画工の願いです。
 ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
人の世であるから人がいることは当然で、そこに人情があるのも当然です。しかし、非人情をしに出掛けた旅ですので、全く人情を離れることはできなくとも、見方次第では人情を離れることができるのではないかと考えます。「能」を見るように、人間も見ることができないかと考えます。次の段落は長いので、今回は引用だけにして、また次回読んでいきたいと思います。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。

2019/06/09

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(9)

(前回はこちら

画工が詩に求めているものは「俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩」である。しかし、「ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ」と言います。そこで「東洋の詩歌」に話が移ります。
 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である。
西洋の詩は、人事が根本にあるため塵界を離れた心持ちになれることはないが、東洋の詩歌には、「そこを解脱したのがある」といいます。「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ようなものです。その例として、2つの漢詩(の一部)を挙げています。

ひとつは「採菊東籬下、悠然見南山」。これは陶淵明の詩「飲酒二十首幷序」の第五首の一節です。書き下し文にすると「菊を採る東籬(とうり)の下(もと)、悠然として南山を見る」。もうひとつが「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照」。こちらは、中国唐代の詩人、王維の「竹里館」の一節です。「独り幽篁(ゆうこう)の裏(うち)に坐し、琴を弾じて復た長嘯す、深林人知らず、明月来たりて相照らす」。

「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ような詩で、これらの詩は「別乾坤を建立して居る」と言います。別乾坤とは別世界のような意味です。この別世界のいいところは、徳富蘆花の「不如帰」や、尾崎紅葉の「金色夜叉」のいいところとは違い、「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である」といいます。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀に此出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれて居るから、わざわざ呑気な扁舟を泛べて此桃源に溯るものはない様だ。余は固より詩人を職業にして居らんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。只自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりも難有く考えられる。こうやって、只一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全く之が為めである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。
『草枕』が書かれたのは、20世紀初め、1906年(明治39年)のことです。江戸時代の終わりごろの黒船来航、開国を経て明治維新。西洋の文化がどんどん日本に入ってきて西洋化が進んでいる時代です。また、1904年から05年にかけての日露戦争で日本はロシアに勝利し、軍事化への道のりが進んでいる時代でもあります。

睡眠は20世紀でなくとも必要ですが、あえてここに「睡眠が必要ならば」とあるのは、睡眠が必要であると感じられる状況にあったのでしょう。江戸時代のペリー来航の際、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」という狂歌が詠まれたといいますが、時代として、開国以来眠ることができなかったのかもしれません。西洋化は休む暇もなく進んでいきました。

このような20世紀に、睡眠が必要ならば「この出世間的の詩味は大切である」といいます。「出世間的の詩味」とは、世間を離れて、「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ような、「別乾坤を建立して居る」ような、「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳」が得られるような詩味です。

そしてここで、「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」と、今回の旅の目的(願い)が明らかになります。

2019/06/08

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(8)

(前回はこちら

詩人に憂いはつきものだが、自然を見るに苦しみは感じられない。その理由は、「景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである」と画工は考えました。詩であり画であるから、苦労や心配が伴うことなく、「吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむる」ことができる、と。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身が其局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞う。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。
恋や孝や忠君愛国も結構なものだが、自分がその局面の当事者になると、利害関係に巻き込まれてしまい、美しいことにも結構なことにも目が眩んでしまい、わからなくなってしまいます。これがわかるためには、自分の利害を棚に上げて、わかるだけの余裕のある「第三者の地位」に立たなければならない。「第三者の地位」に立っているからこそ、芝居や小説は面白いのです。そして、芝居を見たり小説を読んだりする間だけは詩人であるとも言います。

これまでは、自然の景色を見ながら、詩や画を中心として考えていましたが、ここで「芝居」や「小説」が出てきます。そして芝居や小説についての考えを進めていきます。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつか其中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
芝居や小説に人情はつきものです。芝居を見る人、小説を読む人は、たとえば、主人公に感情移入し経験を追体験することをひとつの楽しみにしています。芝居、小説の中の出来事ですので実際には利害関係は及びません。しかし画工は「それが嫌だ」と言います。
 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこ迄も世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じて居る。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたり」という人情は人の世につきものです。画工は人の世につきものの人情は、人の世で間に合っている。だから「嫌だ」と言います。画工が求めている詩は、「世間的の人情を鼓舞するようなもの」ではなく、「俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩」です。

しかし、「人情を離れた芝居」や「理非を絶した小説」はあまりありません。特に西洋の詩は「人事が根本になるから」、塵界を離れた心持ちになれるような詩は見当たりません。同情や愛や正義や自由といった人の世にあることを主題にしています。「勧工場」というのは、デパートのようなものです。

『草枕』には、語り手の画工である余を通して、漱石の芸術観が描かれています。そしてその芸術観に則して書いてみた小説が『草枕』です。

Domino作曲(習作50)

記念すべき50曲目(正確には違いますが)。

傑作とは言えませんが、力が入ったせいか、今までより曲の時間が長くなりました。

習作50(5:50)

2019/06/07

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(7)

(前回はこちら

画工は、シェリーの雲雀の詩の一節を口ずさみ、そして、考を進めます。
 成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜もあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
以前に「千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」と評した詩人について、「あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい」と考えを述べています。雲雀の声を聞くときは「まのあたりに写した」のかもしれませんが、詩として着想を紙に落としたときには「愁(うれい)」が含まれているのに気づきます。「喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい」ことが、詩にも現れているのです。
 しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護して居る。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座して居る。呑気なものだ。又考えをつづける。
詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英も其通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だろう。
シェリーの詩にあるように、詩人に憂いはつきものかもしれません。しかし、雲雀の声や菜の花、蒲公英(たんぽぽ)、桜など、自然の景物、景色は見るもののも聞くものも面白く、苦しみが起こらない。それはなぜだろうと、画工は考えを進めます。
 然し苦しみのないのは何故だろう。只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只此景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬ此景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力は是に於て尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
自然の景物を見たり聞いたりするのには苦しみがない。それはなぜかと考えるに、「只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むから」であると画工は言います。ただこの景色が景色としてのみ楽しませてくれるからであると言います。

自然は、見る人を楽しませようとしてあるわけではありません。ただありのままにある。それを「まのあたりに見る」。「景色が景色としてのみ」あるからこそ、心を楽しませてくれるのです。開拓したり、鉄道をかけたりしようと見た場合は、自然をありのままに見ることができません。開拓後や鉄道をかけた後の姿を見ていることになります。こちらから何かしようと見るでもなく、対象がこちらに何かなそうとするでもなく、ただありのままに存在する。そしてそれが「自然の力」であり、その力によって「醇乎として醇なる詩境」に入れてもらえるのです。「醇」は「純」と同じような意味で、まじりけがないことです。

2019/06/06

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(6)

(前回はこちら

山路を行く春の日に、姿のない雲雀(ひばり)の声。絶え間なく一面に鳴く雲雀は、画工の想像で、雲まで登り詰め、形をなくしていきます。画工は歩を進めます。
 巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
「雲雀」に「菜の花」。春が広がります。想像も膨らみます。注によれば、漱石に「菜花黄」という漢詩があるようです。また、「雲雀」も「菜の花」も春の季語。これも注によりますが、漱石自身の句や、上島鬼貫、向井去来などの俳句も思い起こされる描写です。
 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
こうして余(画工)の考えは、再び「詩」に戻ります。「只菜の花を遠く望んだときに目が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する」。こう愉快になるのが「詩」であると。

先に「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」と言っていました。雲雀の声、一面の菜の花、春の陽気、このようなものが、まのあたりに、心のカメラに写ったのです。

そして、雲雀の詩を思います。
 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦して見たが、覚えて居るところは二三句しかなかった。其二三句のなかにこんなのがある。
  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
本文では「シェレー」と表記されていますが、「シェリー(Shelley)」の方が、通りがいいでしょう。イギリスの詩人です。引用されている英語は、シェリーの詩「To a Skylark」の一節です。「雲雀」は、英語で「skylark(スカイラーク)」。ファミリーレストランの「すかいらーく」に鳥のマークがついていますが、あれは「雲雀」なのですね。

シェリーの英詩の一節の引用部分の訳も載っています。「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」。詩の翻訳は別の言語に置き換えるだけではないということも何となく感じますね。

2019/06/05

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(5)

(前回はこちら

余の考えが中断され、山路での景色の描写に入ります。
 立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せた様な峰が聳えて居る。杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁程で切れて居るが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路は頗る難義だ。
そして、路についての描写です。
 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾等の為めに道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿って、其頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
『草枕』冒頭で「山路を登りながら、こう考えた」とありました。登っているということを知ってはいるのですが、考えながら登っていたため、本文に書いていることは「余」の考えが中心でした。読者は「余」が山路を登っていることを忘れてしまいそうになります。しかしここで景色の描写を入れ、路についてのちょっとした思考が入り、そして「ぶらぶらと七曲りへかかる」ということで、山路を登っているということを思い出します。

また思考と景色を対応させているようにも感じます。「角石の端を踏み損くなった」から考えが中断したのですが、考えが中断したから足を踏み損なったようにも感じるのです。考えが少し行き詰まり、どうしようかと一旦周りを見渡したようにも思うのです。これから「七曲りへかかる」ので、「余」の考えも「七曲りへかかる」かもしれないと予感させます。
 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれない様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。其上どこ迄も登って行く、いつ迄も登って行く。雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うて居るうちに形は消えてなくなって、只声丈が空の裡に残るのかも知れない。
そんなときに出てくるのが「雲雀(ひばり)」です。正確には「雲雀の声」です。この「雲雀の声」をきっかけに、「余」の考えは歩みを進めていきます。

雲雀の鳴き声を聞いたことがあるでしょうか。おそらく、あると思います。ネットでも動画などがありますから聞いてみてください。雲雀の鳴き声を聞いたことがないと思っていても、「ああ、この鳴き声は雲雀だったのか。これなら聞いたことがある」と感じる人がいると思います。

鳴き声はするけれど、姿は見えない。私も実際に雲雀を見たことはありません。鳴き声は聞いたことがあるので、どこかに近くにいるのだろうとは思うのですが、目で見たことはないです。視界に入っていたことはあるのかもしれませんが、その場合、私の中では「雲雀」ではなく「鳥」として捉えられているので、雲雀を見たとは言えません。

「余」は「雲雀の声」から、いろいろと想像、連想します。この「雲雀」の部分は、『草枕』の読みどころのひとつであると思っています。

2019/06/04

新しいことを覚えるということ

お世話になっている方に、ラーメン屋さんに連れて行ってもらった。

そのラーメン屋さんに行くのは2度目であるが、普段行かない地域で土地勘がなく、かつ、前回も今回も車で連れて行ってもらったので、たとえば次に一人で行こうと思い立っても一人では行けない。店の名前を覚えていたら検索できるかもしれないが、店の名前も忘れてしまった。

自分一人で訪れたり、事前に調べてから行ったりしたところは覚えていることが多い。忘れていたとしても何となく覚えていて、近くに来たりすると少しずつ思い出す。

普段、車に乗らないので、車内からの景色は知っている道でも違って見えたりする。


お世話になっている方に、ときどきスマホの使い方を教える。WEBやSNSの使い方の内容である。なかなか覚えられない。同じスマホでも、電話やメールの使い方は覚えている。

僕が車で走る道を覚えにくいのと同じように、その方はSNSの使い方を覚えにくいのだろう。

もし何かを覚えておきたいと思うならば、自分の足で行ってみる、自分の手でやってみることだ。そして、その前段階として、覚えていたいと思っているかどうかだ。慣れていることは自然と覚えている。必要なことを意識することはない。


うろ覚えの記憶を元に、連れて行ってもらったラーメン屋をGoogleマップで探してみる。それらしきところが見つかった。あとは実際に行って確認すれば、定着するだろう。

ただ自宅からは少し距離があり、「ここの、このラーメンが食べたい」という意欲がわかなければ、行こうという気にはなれない。食に対して興味の薄い僕は、その店の味を覚えていない。

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(4)

(前回はこちら

前回最後に引用した部分です。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
詩や画、そして音楽や彫刻などの芸術作品というものは、住みにくい世から住みにくい煩いを引き抜いた世界をまのあたりに写したものだといいます。そして、細かいことをいえば、写さなくともいい、とも。

詩や画や音楽や彫刻などは、芸術家の手によって、紙に書かれたり、描かれたり、あるいは音として、形として、他の人の目にも見えるもの、耳に聞こえるものとして表現されています。実際にどのような機構で芸術作品が生み出されるのかということの実感はありませんが、便宜上段階的に説明をすると、「住みにくき世」から「住みにくき煩い」を引き抜いた「難有い世界」を感じ得て、それを「まのあたりに」かたちにする、ということになります。インプットとアウトプットと言ってもいいかもしれません。「写さないでもよい」というのは、アウトプットしなくてもよい、という意味です。「只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く」のです。「キュウ鏘の音は胸裏に起る」「五彩の絢爛は自から心眼に映る」のです。

「まのあたりに見る」対象は、「難有い世界」です。住みにくい世から、住みにくい煩いを差し引いたものです。「澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば」それでいい。「澆季溷濁」とは、「道徳がすたれて軽薄な末の世にして、汚れ濁っていること」と注にありました。『草枕』冒頭部分に呼応させてみれば、「住みにくき煩い」「澆季溷濁の俗界」というのは、「知に働けば~」「情に棹させば~」「意地を通せば~」というようなこととなります。

詩を作っていない「無声の詩人」、絵を描いていない「無色の画家」は、人の世を住みにくい煩いを差し引いて観じることができる点、煩悩を解脱している点、清浄な世界に出入りできる点、住みにくい世界とは同じようで違う世界を打ち立てている点、我利私欲との結びつきを断ち切っている点において、あらゆる人々よりも幸福である、と説きます。

人の世は住みにくいかもしれない。しかし、この住みにくい世の中で、住みにくき煩いを差し引いて感じることができる人たちがいる。その人たちがそんな世の中を表現したものが芸術作品であり、そんな人たちが芸術家であるということです。

では、続いていきましょう。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。――喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。之を切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えて居る。背中には重い天下がおぶさって居る。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
『論語』の「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。~」という句を意識しているのでしょうか。語り手は、20年生きて住む甲斐ある世の中と知り、25年になると明暗は表裏のようなもので、日のあたるところには影がさすと悟ります。陽と陰ですね。そして30年生きてきた今日ではこのように思っている、と続きます。

ここまでが、坂道を登りながら考えたことです。しばらくするとまた考えはじめますが、少し休憩です。そして初めて、語り手としての「余」が登場します。
 余の考がここ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸いと何の事もなかった。

2019/06/03

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(3)

(前回はこちら

人の世は住みにくい。住みにくいと悟ったときに「詩が生れて、画が出来る」。

少し唐突な感じでしたので、少し補足が入ります。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
人の世は住みにくい。住みにくさが高じると引っ越したくなる。しかしどこに引っ越したとしても、人がいるところは人の世であるからやはり住みにくい。住みにくいところを少しでも住みやすくするために、詩人や画家が生まれる。だからこそ詩や画がある。といいます。ここでは「詩」と「画」を挙げていますが、芸術全般のことです。芸術家の方々は、人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする。芸術の存在意義のようなことを述べています。

のちのち触れると思うので、「人でなしの国」についても少し触れておきたいと思います。引用では「人でなし」に傍点が振ってありますが、ここでは太字としています。太字にしてある「人の世」も原文では傍点です。

普通「人でなし」というと「人情がない人」というような意味に使われます。「人でなし」と言っておきながら、「人」に対して言います。人ではないものに「人でなし」とはあまり言わないですね。しかし漱石は「人でなしの国」というのを「人ではないものの国」という意味にも使っています。具体例を挙げれば、引用部分冒頭にある「神」や「鬼」も「人でなし」です。人の世を作ったのは唯の人で、その唯の人が作った人の世が住みにくいからといって、「人でなしの国」は猶住みにくいだろう。「神」の国はどうだかわかりませんが、「鬼」の国は住みにくいでしょう。通常の「人でなし」の国も住みにくいでしょう。「人でなしの国」には、通常の「人でなしの国」と「人ではないものの国」という二重の意味が込められています。

前回の「兎角に」という当て字についての話も、このような漱石の言葉遣いから推測したものです。漱石は言葉遊びのようなものを多用する傾向があります。漱石は小説を書くごとにより深くなっていくと言われていますが、初期のころは「ユーモア」や「諧謔」といった要素が強く出ていました。最初の小説である『吾輩は猫である』が滑稽味のある小説であることはご存知かと思います。『草枕』も初期の小説で、言葉遊びの要素が散見されます。

さて、芸術の存在意義を述べたあと、語り手はさらに考えを進めていきます。次に入ると長くなりそうですので、引用とちょっとした言い訳を述べた上で次回に回したいと思います。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
言い訳というのは、※印をつけた「キュウ鏘」「尺ケン」について、「キュウ」「ケン」は本来漢字で書かれています。ただこの漢字が(私の)パソコンでは打てない漢字だったため、カタカナにしています。『草枕』には難しい漢字・漢語が使われているので今後もこのようなことがあると思いますがご了承ください。ちなみに「キュウ鏘」というのは「美しい玉の触れ合って発する妙なる音。詩歌の美しい調べのたとえ」、「尺ケン」というのは「一尺四寸ほどのわずかな絹の画布」です。漢字は、実際の書籍でご確認ください。

2019/06/02

Domino作曲(習作49)

最近『草枕』のことばかり挙げていますが、少し休憩。Domino作曲です。タイトルをつけるのが億劫になっております……。

そろそろ50曲。実際には作り直しをしたり、番号をつけていなかったりする曲があるので50曲は超えているのですが、まずは習作50までいってみたいです。

目指しているのは100曲。100曲作れば、自分の作曲の傾向がわかりそうな気がします。

習作49(4:09)
Aメロ・Bメロ部分とサビの部分の曲調が変わっています(実際に変わっているのかどうかはわかりません。感覚的なもの)。かといって短調や長調を意識しているわけではなく、結果的にそうなってしまっています。

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(2)

(前回はこちら

やっと二行目です。ここから、語り手が山路を登りながら考えたことの内容が少しずつ明らかになっていきます。ここの文章は『草枕』でもっとも有名なところだと思います。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
とてもテンポのいい文章ですね。「智に働けば角が立つ」「情に棹させば流される」「意地を通せば窮屈だ」と、ほぼ七五調のつながりが耳に心地よく聞こえます。引用最後の文である「兎角に~」というところは、先の3つの内容を受け、そして3回の七五調の調べを受け、それにふさわしいまとめをしています。

『草枕』の注をみると、「人の世は住みにくい」ということを、「智に~」「情に~」「意地を~」と、知情意の3つの観点から述べたものと書いていました。漱石は『文芸の哲学的基礎』の中で、「精神作用を知、情、意、の三に区別します」と述べているということです。『文芸の哲学的基礎』は読んだことがありませんが、「知情意」をWEB検索してみたところ、もともとはカントに由来するということが書かれていました。カントについても読んだことはありません。

先の引用最後の文の「兎角に」ですが、これは漱石の当て字ということです。「兎に角(とにかく)」と読んでしまいそうですが、「兎角に(とかくに)」であることに注意です。「とにかく」というと、「なんだかんだ言っても人の世は住みにくい」という意味に捉えてしまいがちですが、「とかくに」ですのでニュアンスが異なります。「とかくに」は、「と、このように」というような意味でしょう。知情意の3つの観点から述べた上で、「と、このように人の世は住みにくい」と言っています。

では、なぜ「とかくに」に「兎角に」という当て字をしたのでしょうか。

「兎角」というのは兎の角という意味で、仏典などにも記載がある用語ということです。特に「兎角亀毛(あるいは亀毛兎角)」という四字熟語で用いられることが多く、兎の角や亀の毛のようにありえないことのたとえとして用いられています。漱石は仏典や漢籍にも造詣が深く、「兎角」という言葉を知っていた可能性は高いです。

もし漱石が意識的に「兎角」を当て字として使ったならば、「兎角に人の世は住みにくい」という文は、「と、このように(ありえないことではあるが)人の世は住みにくい」という意味合いを持たせたかったとも考えられます。「人の世は住みにくい」と単純に嘆いているわけではありません。

さて、山路を登りながら考えたことは、これだけではありません。「人の世は住みにくい」というだけでは終わらないということです。名調子である有名な冒頭のみでは終わらないということですね。せっかくですので是非続きを読んでみてください。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世は住みにくい。住みにくいから引越をしたくなる。そして、どこに引っ越しても住みにくいと悟ったときに、詩が生まれて、画ができる。住みにくいと悟ったときに詩歌や絵画ができる、と少し唐突な感じはありますが、ここから文芸・芸術についての考えになっていきます。『草枕』の冒頭部分を暗唱できる方もいらっしゃると思いますが、「人の世は住みにくい」で終わらずに、是非ここまでは合わせて覚えておいてください。

2019/06/01

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(1)

『草枕』の冒頭は有名です。『草枕』を読んだことがなくとも知っている方も多いでしょう。国語の教科書に載っていたのかもしれませんが、残念ながら覚えておりません。
さて、冒頭の部分です。
山路を登りながら、こう考えた。
誰かが山路を登りながら、何かを考えているといいます。誰かというのは、のちに画工である「余」と判明しますが、ここではまだわかりません。

この一文に、日本語の特徴と、小説の特徴が現れています。

日本語の特徴というのは、日本語では主語を明示しないことが多いということです。たとえば、『草枕』冒頭の文は「私」という主語を明示して、次のような文にすることができます。
私は山路を登りながら、こう考えた。
文法的に誤っているわけではないし、意味もわかりますが、何となく余計なものがくっついている感じがします。日本語の主語の省略について述べるとき、よく引き合いに出されるのが、川端康成の小説『雪国』の冒頭です。サイデンステッカーの英訳と合わせてみてみましょう。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
(直訳:汽車は長いトンネルを抜けて雪国まで来た)
日本語では主語がありませんが、英語ではthe trainという主語が補われています。日本語には主語がないので英語も主語なしで、というわけにはいかないのですね。『雪国』の冒頭の文だけでは、少なくとも英語話者にとっては、誰が(あるいは何が)トンネルを抜けたのかというのがわかりません。

『草枕』も英訳されていますので、ついでにこちらもみてみましょう。訳者はアラン・ターニーです。
山路を登りながら、こう考えた。
Going up a mountain track, I fell to thinking.
(直訳:山路を登りながら、余は考えはじめた)
ちなみに、タイトルの『草枕』は、『The Three-Cornered World』と訳されています。直訳すると「三角の世界」。この理由はのちのち出てきますのでお楽しみに。

さて、主語を明示しなくてもよいという日本語の特徴の他に、小説の特徴も現れていると先に書きました。では小説の特徴とは何かというと、語り手(あるいは視点)の問題です。

小説という文芸は近代以降の産物です。日本においては、江戸時代末期の開国と明治維新を経て、新しい文芸として輸入され発展してきました。

『草枕』は1906年(明治39年)に雑誌『新小説』に発表され、翌1907年に『鶉籠』に収録されました。このあたりで「言文一致運動」がある程度収まりをつけています。

「言文一致運動」というのは、簡単に言えば、話し言葉(言)と書き言葉(文)を一致させようという動きです。一致させようというからには、言と文が違っていたということです。どのように違っていたかというと、こちらも単純に言えば、書き言葉が漢文調でした。いわゆる「文語文」です。この文語文を口語文に一致させようとしたのが「言文一致運動」です。このあたりの話はいろいろな方が論じておりますし、私も詳しくはありませんので割愛しますが、漱石の存在が日本の近代小説の確立に大きく影響しているということはお伝えしておきたいと思います。

小説の視点・語り手についてですが、大きく一人称小説と三人称小説に分けることができます。一人称小説は一人称である「私」の視点で語られたもの、主語は「私」となり、「私」は小説内の登場人物として登場します。三人称小説はいわゆる神の視点という言い方がなされますが、語り手が登場人物として小説内に出てくることはなく、通常は登場人物の誰かに焦点を当てて叙述をなしていく小説です。『草枕』は一人称小説となります。

日本での一人称小説は、「私小説」を中心に発展してきました。作者自らの体験なり生活なりを小説にするというやり方です。私小説についても細かく話しはじめるとキリがないので割愛しますが、漱石の『草枕』は一人称小説で、漱石自身の経験体験をもとに書いていますが、作者と語り手の区別に自覚的であったことは押さえておいていいと思います。

『草枕』の一行目だけで長くなってしまいました。次回、やっと二行目以降に進んでいきたいと思います。

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