『算術』は、時代を越え、国を越える。全13巻あったという『算術』は、暗黒時代を生き延び、15世紀にヨーロッパへ渡る。全13巻のうち7巻は失われてしまい、6巻しか残っていない。
さらに時代を越え17世紀。1621年、フランスのバシェが『算術』のラテン語版を出版する。そして、アマチュア数学者フェルマーの愛読書となった。
『算術』には、今でいう「ピタゴラスの定理」についても掲載されていた。フェルマーは、その余白に書き込みをする。
ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である。有名な「フェルマーの最終定理」についての記述である。
さらに書き加える。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。
さらに時代を越え、国を越える。そして1994年、「フェルマーの最終定理」はワイルズによって証明された。
ピタゴラスの定理から別の定理を考えたフェルマーや、その定理を証明したワイルズはすごいと思う。また、ピタゴラスやディオファントスもすごい。生き延びた『算術』もすごい。フェルマーが提出してワイルズが証明するまで、約360年。そしてその間にも数々の人々が挑戦しているし、楕円曲線などの数学の別方面での研究も発達している。数々の積み重ねによってなされた物語である。
この物語において、私が思うファインプレイ賞は、フェルマーの長男クレマン・サミュエル・フェルマーである。父の死後、『算術』の書き込みや走り書きをまとめ、『P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』を出版した。いくつもの証明されていない定理(定義上、証明されていないものは「定理」とはいえない)が残っていた。それらは後に、次々と証明されていったが、最後まで証明できず残っていたのが「フェルマーの最終定理」である。最後まで証明できていなかったので「最終」とつけられている(ちなみに証明される前は「定理」ではなく、「フェルマーの最終予想」である)。
もし、父フェルマーの書き込みがある『算術』を捨ててしまったら、捨てないまでも思い出の品として飾ってあるだけだったなら、「フェルマーの最終定理」という名前はなかっただろうし、その定理の発見も遅くなっていたかもしれない。数学者でなくとも、数学に貢献できるという格好の例である。
歴史の表舞台に出ていなくとも、いい仕事をしている人はたくさんいる。証明するには余白が狭すぎる。