国語の教科書にも掲載されていたので、ご存知の方も多いと思います。
帰省中に中島敦の『山月記・李陵 他九篇』(岩波文庫)にて、教科書以来数十年ぶりに「山月記」を読み直しました。
李徴が虎となった理由として自己分析を語る件で、有名な(?)言葉があります。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」。
それぞれが、どのようなことを指しているのかのメモ書きです。
「自尊」「羞恥」を国語辞典で引いてみると、次のような意味が記されています。
【自尊】
自分というものにほこりを持ち、品位をたもつこと。
【羞恥】
はずかしく思うこと。はじらい。
三省堂『国語辞典』(第五版)
ちょっと長くなりますが、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」について述べられている箇所を引用します。
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当たることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
まずは「羞恥心」という言葉がでてきます。
「実は、それがほとんど『羞恥心』に近いものであることを、人々は知らなかった。」
ここでの「それ」というのは、「己は努めて人との交を避けた」こと。
人との交わりを避けたのは、倨傲(おごり高ぶること)や尊大(自分がえらいと思って、人を見くだすようす)からではなく、羞恥心に近いものから人との交わりを避けた、と言っています。
つまり、恥ずかしいから人との交わりを努めて避けた。
では、人と交わることがなぜ恥ずかしいのか?
後段では「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず」とあります。
自分が平凡な才能しかないことを恐れ、あえて、師に就いたり、詩友と切磋琢磨することをしなかった。
これが「尊大な羞恥心」。
そして、自分には非凡な才能があると半ば信じているために、俗物の間に入ろうともしなかった。
これが「臆病な自尊心」。
いや、これも「尊大な羞恥心」か。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」は、同じことを指しているように思えます。
まるで、「ルビンの壺」の絵のように、どちらを「図」とするか「背景」とするか。
多少は才能があると思っているが、才能がないと評価されるのを恐れて、その才能を伸ばそうとしない。
しかし、自分自身、才能がないものとして平々凡々ともしたくない。
虎になってしまった李徴は、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」、「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」との自己分析をしています。
人が何か行動を起こすとき、その行動を起こす動機として2種類あります。
「何かを得るために行動する」か、「何かを避けるために行動する」か。
アメとムチのようなものです。
李徴の場合、避けるための行動が先に立ってしまっていました。
「才能の不足を暴露するかも知れない」「刻苦を厭う」。
そのために虎の姿に成り代わってしまった、ということです。
別の個所では、「己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるのだろう。」とも考えていますが、「だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐ろしく感じているのだ。」とも。
人間的なしあわせとは何か?
考えてしまいます。
考えさせられる作品は、いい作品であると私は思っています。
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