しかし、日経ビジネスオンラインで連載されている「イノベーション殺し[村上春樹を経営学者が読む]」を読んでいると、村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んでみたいと思うようになった。
日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、最初に読んだのは第3回目からであった。タイトルは「驚くほど鋭く、洞察のようなメタファー」である。
メタファーとは隠喩のことで、比喩表現のひとつである。
コラムのなかで、メタファーについて以下の説明がある。
メタファーには2つの種類がある。1つは、馴染みのある喩えを用いて、馴染みのないことを説明するというメタファーである。未知のことを、既知のことで説明することによって、その本質を瞬時に理解させる。理解を促すためのメタファーなのである。このメタファーの能力こそ、私が伸ばしたい能力であり、使っていきたい能力である。
もう1つのメタファーは、逆に、馴染みのない喩えで、馴染みのあることを説明するというメタファーである。既知のことでも、そぐわない喩えによって説明されることで、頭が刺激されて新しいアイデアが生まれる。一見すると違うものだと思っていた2つを結びつけることによって、いろいろなアイデアを次から次へと生み出すことができる。発見や学習を促すためのメタファーである。これを「認知的メタファー」という。
言葉に興味を持つのも、この能力を知り、伸ばしたいためである。
私たちはしらずしらずのうちに、言葉をメタファーとして使っている。たとえば、「走る」という動詞は、最初は人間が右足左足を交互に蹴って走る動作を指していたかと思うが、列車や自動車が開発されると、それらも「走る」と使いはじめた。「道路が南北に走る」など、動かないものにまで「走る」という。視線を「走らせる」ためという説明をしたりする。メタファーがなければ、新しいコト・モノが発生するたびに、新しい言葉が必要になってくる。覚えきれず、効率が悪い。
そもそも概念自体もメタファー的である。形の違うコップを見て、両方ともコップと呼ぶ。この世の中に完全に同じというものはない。量産品であっても違うものである。それを同じものとみなす能力が人間にはある(人間だけではないかもしれない)。
「走る」の例は、コラムの引用文中にある1つ目のメタファーで、未知のことを既知のことで説明するメタファーである。もうひとつの、馴染みのない喩えで馴染みのあることを説明する「認知的メタファー」については、コラム中のグーグルの例がわかりやすい。「検索エンジン」とかけて「学術論文」と解く。その心は「どちらも引用数が大切だ」というものである。
理解や学習、発想や発見など、私が興味ある分野には「メタファー」が関わっている。数学が好きなのも、代数と幾何がつながっていたり、楕円曲線とフェルマーの最終定理がつながっていたり、違ったように見えるものの中につながりがあることを見るのが好きだからだ。
わもん研究所のロゴはミジンコのイメージであるが、「直感」と「ミジンコ」のつながりを見つけたいという思いがある。
村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んてみたい理由はメタファーにある。