2012/03/31

為政第二・4「子曰、吾十有五而~」

『論語』の中でも特に有名な章句のひとつ。
子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。
ここから年齢の呼び方が生まれています。
15歳「学志(がくし)」
30歳「而立(じりつ)」
40歳「不惑(ふわく)」
50歳「知命(ちめい)」
60歳「耳順(じじゅん)」
70歳「従心(じゅうしん)」
さて、自分の年齢を鑑みると…、学に志してもいなければ、自立しているとも言い切れない…。

次に迎えるは「不惑」。

戸惑うことなく生きていけるのでしょうか…。


ただし、「心の欲する所に従いて矩を踰えず」という境地には向かいたいと思っています!

2012/03/30

淀川散歩

淀川を散歩してきました。

てくてくと下流に向かって歩きます。

途中、土手で何かを摘んでいる方々がいて、何だろうと思って見ていると、どうやら土筆のようです。

土筆を摘んでいる方に向かって、足元をよ~く探してみると、ありました!

こちらにも!

久しぶりに土筆を見ました。


少し風は強かったですが、日差しのよいいい天気♪

ハトも嬉しそうです。

対岸には梅田のスカイビルが見えます。

大阪に出てきて初めて淀川を見たとき、「すごい大きな川だなぁ」と感じました。実家はどちらかといえば山に近い方で、流れが比較的早く川幅もそれほどない川しか見たことがなかったので、ゆったりと流れる淀川を見て、これも川なんだ…と感じた記憶があります。

阪急電車の十三・梅田間をつなぐ橋を越えて…

スカイビルも近づいてきました。

下流へ行くにつれて、川幅も広くなっていきます。

ここで、舗装された道がとぎれています。

しかし、橋の下をくぐれば、まだ行けそうなので、進みます。

けもの道(たぶん人が通った道ですが…)が続きます。

また開けた場所に出てきました♪

また、道がとぎれました…が、ここも行けそうです。

もう少し歩いていきます。どうやらもう少し歩けば海に行きそうです♪

が、疲れてきたのと、いい時間になってきたので、何かの水門のところで引き返すことにしました(^-^;) 水門の上は通れるようになっていたので、もっと向こうまで行くことはできます。

あとで地図で確認したところ、写真右側の高架橋は阪神高速湾岸線の模様。

遠くに観覧車らしきものが見えます(写真はズームして撮っています)。

スカイビルの見える角度も変わっています(これもズームで撮っています)。

とぼとぼと帰ります…。

日が暮れはじめ、人も少なくなってきました。

どこかの淀川の看板は、英語表記にしたとき「Yodogawa River」と書かれていて、「淀川川」じゃないか(笑)と思ったのですが、ここでは「Yodo River」となっていました。

FINISH!

4月1日(日)に「なにわ淀川ハーフマラソン」が開催されます。

かなり歩いたと思っているのですが、時間的な観点と、「なにわ淀川ハーフマラソン」のコースから考えると、多分20kmも歩いていないと思います。ですが、足の筋は痛くなるし、おそらく足に水ぶくれはできているかと…。


Googleマップでだいたいの距離を見たところ、片道7.1km…往復で15kmもなかったか…。

より大きな地図で 20120330淀川散歩 を表示



普段あまりしないことをする、いい休日でした♪

2012/03/29

為政第二・3「子曰、道之以政、~」

いつまで続くかわかりませんが、『論語』についての記事を書くペースを上げていきます。

本日は、為政篇の3つ目。
子曰く、之を道くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格し。

大まかな意味としては、「法制や刑罰のみで民衆を導いたりまとめたりしようとすると、民衆は規制されていなければ恥じることはない。しかし、徳や礼で導いたりまとめたりすると、己の身を恥じ正しくなる」ということです。


例えていえば、ここでいう「政」や「刑」は権限のようなもの。

ここから先はやってはいけない、でもここまではやってもいい、という境界線みたいなものです。

「政」や「刑」のみだと、やってはいけないことをやらなければ大丈夫、となってしまう可能性があります。


一方、「徳」や「礼」は理念や指針のようなもの。

このようにやっていこうという中心線のようなものです。

「徳」や「礼」があることで、そこから外れてしまった、という意識が芽生える。


私は電話窓口でスーパーバイザーの仕事をしていますが、オペレーターからたまに「ここまではやっていいという基準を明確にしてほしい」と言われることがあります。

しかしそれは「政」や「刑」を設けること。

「徳」や「礼」で以て説明していきたいところです。


2012/03/28

為政第二・2「子曰、詩三百、~」

詩三百、一言を以て之を蔽えば、曰く、思い邪無し。

「詩三百」とは『詩経』のこと。

『詩経』を一言でいえば、その思いに「邪(よこしま)」がない。

加地伸行さんは「邪無し」を「こころのままのまっすぐな表われ」と表現しています。


『詩経』は、いわゆる「五経」のひとつ。

儒教でいう「四書五経」の「五経」で、五経とは、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』です。

ちなみに「四書」とは、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の4つ。


どれもまだ読んだことはありませんが、読んでみたいものです。


思い邪無し。まっすぐなこころの表われ。

素直。正直。


最近、このブログで書いた記事「心持ちのこと」が思い出されます。

2012/03/27

為政第二・1「子曰、為政以徳。~」

細々と読み続けている『論語』です。

ブログに書くのは、更に頻度が少なくなっています…。

このブログでは、やっと「為政篇」に入っていきます。

子曰く、政を為すは徳を以てす。譬うれば北辰の其の所に居りて衆星之と共にするが如し。

政(まつりごと)をするのは、「徳」を以てする。

例えるならば、「北辰の其の所に居りて衆星之と共にする」ようなものだ、と。


「徳」でもって政治をする。

言いたいことは、何となくわかります。


しかし、私には、その後の例えとのつながりが今ひとつわかりにくい…。

加地伸行さんの『論語』(講談社学術文庫)での現代語訳は、
為政者は民衆の模範となる有徳者でなくてはならない。〔そうであれば、その徳を慕って人々が集まってくる。〕比喩的に言えば、北辰がその位置に定まり、その他の星がそれを尊びつつ共に動くように。
というもの。

また、斉藤孝さんの『現代語訳 論語』(ちくま新書)では、
政治をするのに〈徳〉(人徳・道徳)があれば、不動の北極星をまわりの星がとりまいてあいさつするように、人々の心はその徳のある為政者にしたがうものだ。
との訳。

北辰(≒北極星)のまわりを星が周っているということは理解できるのですが、「尊びつつ共に動く」「とりまいてあいさつするように」という意味がどこから来たのか?

もちろん、このような言葉があった方が、「政を為すは徳を以てす」の例えとしてわかりやすくはあります。

また、孔子の時代には、北辰のまわりをその他の星がまわっているのは、北辰を尊敬しているためだという解釈をしていたということもあるかもしれません。

「北辰」の意味として、
《北極星が多くの星の中心であるところから》皇居。また、天子。
という意味もあるようですし(goo辞書「北辰」の項)。


ちょっと視点を変えて、「政を為すは徳を以てす」とその例えの要素を対照させてみましょう。

「北辰」は「為政者」、「衆星」は「民衆」ですね。

為政者を中心として民衆が動く。

そのために「徳」を以て。


ということは、「徳」というものは、天の運行でもある、ということがいえるかもしれません。


この一節だけではまだわかりませんが、孔子のいう「徳」がどのようなものか、「徳」をどうとらえているのか、を読み解かなければなりませんね…。


日本語で読みたい『論語』と言える。『論語』を通読するには一番適していると思う。

2012/03/26

もっと力強い生活をこの手に

エレカシの「ガストロンジャー」

歌詞の中にある、
「もっと力強い生活をこの手に!」
というフレーズが好きです。

とはいうものの、「力強い生活」とはどんな生活か?

これがまだ自分にはわかっておりません…。


力強い生活。

手ごたえのある生活。


漫然とした生活ではなく、生きるという確かな実感。

生きがい。


当たり前のように過ぎ行く毎日を幸せだと思う一方で、
物足りなさも感じてしまう。

翻って己自身の現状を鑑みるに
これはやっぱりいいとも悪いとも言えないな俺は
君はどうだ?
俺はこれは憂うべき状況とは思っていないけれども、
ならばこれがいいのかと問われれば
まあまあだと言わざるをえないのがおおいに不本意だ

かといって、生きるか死ぬかの生活をしたいかと問われれば、
それは、したくない。

けれども何かしら、「もっと力強い生活をこの手に!」


手ごたえを感じるためには、自分が力を入れること。

作用反作用の法則。


だから、胸を張って出かけよう!

2012/03/25

2012/03/23

『第2回淀川国際ハーフマラソン』参加

先日、「第2回淀川国際ハーフマラソン」に参加しました。

結果は…リタイア…。

どうやら、ランナーズニーのようです。


3月4日にフルマラソンに出場(リタイアですが…)し、間をあまり開けず申し込みをしたのには理由があります。


実は、昨年開催された「第1回淀川国際ハーフマラソン」が、私の初めて出場した大会なのです(「淀川国際ハーフマラソンに参加」参照)。

昨年は10kmの部ですけれども…。

なので、今年はハーフに出場したかったのです。


それならば、3月頭のフルマラソンに出場するのを考えたらどうか、という意見は…ごもっとも。

申し込みをした順序的に、「フルマラソン申し込み」→「第2回淀川国際ハーフマラソン開催告知を見つける」という流れ…。


フルマラソンでのリタイアについては、先日の記事を確認いただきたいのですが、フルマラソン(リタイア)後、一度も走らずハーフの大会を迎えてしまいました。


ハーフマラソンは完走したことがあり、またフルマラソンを走ったときもハーフの距離までは快調だったこともあり、走れるだろうと甘く考えていたのは事実です。


天気もよく、気分は上々で会場に向かい、前回ハーフマラソンでは準備運動不足だったので入念にストレッチを行い、軽くランニングをすると…。

ピクッ。

ひざの痛みの前兆です。

なぜに準備運動で…。


何かの間違いかと思い、もう一度走ると、やはり左足のひざに違和感…。

これは(ひざの痛みが)来るな…、と思いました。


かといって、スタートはもうすぐ。

ランニングは中止し、ひざの屈伸運動を中心に準備運動。

そしてスタートを迎えます。


スタート直後、走り始めて500mも走っていないのに…左足のひざの痛み。

記録はあきらめ、目標を完走に切り替えました。

ペースを落とします。


しかし、ひざの痛みは衰えるどころかますます痛くなりました。


ひざを固定して走れば少しは痛みが和らいだので、左足のひざを固定して走ります。

2kmくらいまではこの走り方で何とかいけましたが、長くは持ちません。


次にやってみた走り方は、もちろん左足のひざは固定したままですが、前後に足を出すのが難しくなったため、斜めに走るような走り方。

普通に走るのと、いわゆる欽ちゃん走り(横に走る)との間のような走り方。

これで6km地点くらいまではいけました。

周りのランナーから見れば、非常に変な走り方をしていたと思います(^-^;)


7km地点が第1折り返し地点だったのですが、折り返し地点の前でついに歩き始めました…。


その後も歩くのがやっとの状態で、スタート地点でもある14km時点でリタイア…。

手元時計では2時間を超えていました…。


体力的には全く疲れておらず、精神的には走りたい気持ちでいっぱいでしたが、ひざがいうことを利かない…。

不完全燃焼です。


思えば、前回ハーフのときも不完全燃焼…。

そのころからひざの痛みを抱えていたようです。


しかし、楽観的に考えているところとしては、前回ハーフでは右ひざ、今回は左ひざで右ひざは大丈夫。

ということは、右ひざが丈夫になった。

なので、次は左ひざも大丈夫になる、と思っている自分もいます(^-^;)


しかし、無理は禁物。

練習で走るときには、ひざの違和感を感じたら走るのを止めていて、普段は痛みが出にくいのですが、前回のフルマラソンでひざを酷使してしまったのでしょう。

しばらくは大会参加を自重し、ひざの強化をしていきたいと思います。


目指すは、11月に開催される『大阪マラソン』の参加・完走です!

2012/03/19

心持ちのこと

宮本武蔵は、「兵法の心持ち」をこう説きます。
常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は躰につれず、躰は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心のたらぬ事なくして、心を少しもあまらせず、うへの心はよわくとも、そこの心をつよく、心を人に見わけられざるやうにして、小身なるものは心に大きなる事を残らずしり、大身なるものは心にちひさき事を能くしりて、大身も小身も、心を直にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要也。

水源豊かな湖のイメージです。

広く、静かで、

溢れることなく、枯渇することもなく、

波風立たず、ゆるやかな、

そして、どっしりとした湖。


「水の巻」は、水を手本として、心を水にすることを目指し書かれた巻。

水は器によって形を変え、一滴ともなれば、蒼海ともなる。碧潭の色もある。


心も、人という器、意識という器、言葉という器、自分という器によって、形を変え、色を変え、音を変え。


「心を直にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事」というのは、シェイクスピアの『ハムレット』で、ポローニアスが息子レアティーズを送るときの言葉、
何より肝心なのは、己に忠実であること。
そうすれば、夜が昼につづくように
誰に対しても忠実にならざるをえない。
(松岡和子 訳)
この言葉に通じるように思います。



2012/03/18

理想的な聞き方のイメージ

前回の「動態聴力のイメージ」という記事で、話し手と聞き手の関係を下の図で表してみました。

左手が話し手、右手が聞き手。

しかし、この図からは、何となく対立の図式となってしまっています。

そこで、理想的な聞き方のイメージをこのように置いてみました。

左側の話し手は、意識的に、あるいは無意識的に、言語表現だけでなく、言語外表現も発しています。

右側の聞き手は、集音機のイメージで、それらをキャッチするように聞いていくのです。


このように置くと、話し手の「声なき声」を聞くことが、すなわち自分自身の「声なき声」を聞くことであることがわかります。

顕在意識・潜在意識を通して話を聞く。

全身を、五感をフルに使って聞く。

こういった聞き方が理想ではないかとイメージしました。


聞くときには、自分を前面に出さず、奥の方に。

そして、何かを話す場合には自分に語りかけるように。


感じるように聞く。

味わうように話す。


さらに進めると、理想的な話し手と聞き手ならば、以下の図のようになるかもしれません。

言語を必要としない、以心伝心のコミュニケーションも可能となります。

動態聴力のイメージ

意識には、自覚的な「顕在意識」と、自分では自覚していない「潜在意識」があると言われています。

ものの本には、「顕在意識」は10%もなく、「潜在意識」が90%を占めると言われることも。

そのため、意識の例えとして、氷山のイメージで説明されることがしばしばあります。


海面上に見えている部分が「顕在意識」、海面下で見えないところが「潜在意識」。

「氷山の一角」という言葉があるように、顕在意識は意識という氷山の一角と。


そして、私は顕在意識の氷山の一角が、言語化されたものだと思っています。

意識に浮かんでも、例えばイメージとして浮かんでいたり、音として浮かんでいたりと、言語化されていないものもあるからです。

図にするとこんな感じです。


話が飛びますが、仕事柄、話を聞くことの重要性を認識しています。

ここ最近は「聞く」をより高めていきたいと思い、「わもん」という聞く修行の最中です(「わもん」については、わもんのHPまたはこの記事の下の方に紹介している書籍『わもん』をご覧ください)。

より深く聞くにはどうすればいいか。


「わもん」は、話し手の心の声「声なき声」を聞く修行です。

そして、自分の「声なき声」も。

その「声なき声」を聞く入口として、「言語外の音を聞いてみる」などということが提案されています。


人が話をするとき、言葉に出すのはもちろんですが、言語外の表現も、意識的にせよ無意識的にせよ、行っています。

言語外表現にも注目しつつ話を聞き、その人が本当に言いたいことを聞く。


言葉を替えると、その人の言葉にならない部分も聞く。

つまり、顕在意識やさらには顕在意識まで聞く、ということになります。


実際問題としては、私はまだまだ聞くことができていませんが…。

まぁ、それはともかく…。


ただ、「わもん」でのイメージと、今まで自分が持っていた潜在意識や顕在意識のイメージがちょっとずれているように感じました。

「氷山の一角」のイメージと、「わもん」のイメージが少し違うように感じたのです。


そのイメージのズレは何なのか。

そこを考えていると、ふと頭に浮かびました。

浮かんでみると何のことない、単に横にしただけです。

しかし、この図を手掛かりにすると、最近の「わもん」のキーワードである「動態聴力」のことがわかりやすくなりました(参考:ヤブログ放送室「動態聴力」

話し手は、言葉以外に、言語外表現として様々な表現をしています。意識的であれ、無意識的であれ。

図にすると下の図のようなイメージで、左手が話し手、右手が聞き手。

意識的な言葉は、聞き手の方に向かっているため、一番目立つところです。しかし、それ以外にもいろいろなサインが出ています。しかし、聞き手からみると、それらは弱いサイン。

それらをキャッチする力が「動態聴力」だと感じました。


仮に下の図のように、曲線を描いてみて…、

それを聞き手側から見てみると、下のような図になるかと。


中心部分はもっとも目立つところなので、一番注目されるところですが、「声なき声」を聞くには、それ以外の部分、いわば周辺視野の部分にもアンテナを張っておく必要があります。

そして「動態聴力」は、「動体視力」から来た言葉。

「動体視力」を鍛える方法は、テレビか何かで見たことがあります。

以下は、YouTubeで見つけた動画。



この動画の場合は、画面上に表れる印の内、四角い印を指す、というものです。

画面の真ん中あたりはわかりやすいのですが、慣れるまではわからないときがあります。

しかし、視野を広げ、慣れてくるとわかりやすくなってきます。


「動態聴力」も同じように、視野(聴野?)を広げ、全体を見るように「聞く」といいのではないか。

言葉だけでなく、「言語外を聞く」というのは、視野を広げるキーワード。

そして、全体を聞くということは、全身全霊で聞くにつながる。


図を横にするだけで、イメージが連鎖していきました。

2012/03/11

平常心と平常身

『五輪書』の「水の巻」には、「兵法の心持の事」という項があります。

兵法での心の持ちよう、ありかたを説いた項です。
兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。

常の心。「平常心」。


一方で、身なりについて、「兵法の身なりの事」という項があります。
惣而兵法の身において、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。

常の身。「平常身」。


「平常心」と「平常身」。

言葉を変えると「朝鍛夕練」。

日々修行です。

2012/03/06

声なき声を聞く

引き続き、『五輪書』より。

「水の巻」に「兵法の目付といふ事」という項があります。その中には有名な「観の目」「見の目」のことが書かれています。
目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、聊かも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。

「観の目」を強くして、「見の目」を弱くする。

遠いところを近くに、近いところを遠く見る。

敵の太刀の動きを知るが、敵の動きには惑わされない。


何となく、わかります。


『五輪書』の中では、「観の目」とはどんな目なのか、「見の目」とはどんな目なのか、ということは書かれていませんが、現在私が読んでいる鎌田茂雄(全訳注)『五輪書』(講談社学術文庫)では、「観」「見」を次のように言っています。
「見」というのは目もとで見ることだというのであり、「観」というのは心で観ることで、仏教の言葉でいえば観智のことであるというのである。
また、柳生流の『兵法家伝書』の「活人剣」の言葉も引用されていました。
目に見るるを見と言ひ、心に見るを観と言ふ。


これらのことは、単に視覚のことだけでなく、聴覚にも及ぶと考えます。


『五輪書』では「目付のこと」として書かれているので、視覚的な「見る」や「見える」という表現になっていますが、「聞く」「聴く」にも通じます。

「聞の耳」「聴の耳」と表現すると、わかりにくいですかね…。


私は、言葉というのは、器とかパッケージのようなものだと思っています。

器を見て中身を想像することはできますが、実際に何が入っているかはすぐにはわかりません。

濃い色の液体の入ったコーヒーカップを出されて、飲んでみたら麦茶だった、ということもありえます。

言葉も、耳で聞くだけではなく、味わうことが大切かと。


書籍『わもん』には、「わもん聴覚」という言葉が載っています。
「わもん聴覚」には、もちろん耳から得られる感覚もふくまれます。しかしそれにとどまらず、目で、肌で、心で、その他あらゆる経路からキャッチする感覚をトータルしたものが、「わもん聴覚」です。

心のなかの感覚的な耳で聞く。感じる。味わう。

以心伝心のコミュニケーションに必要なことだと思います。



2012/03/04

フルマラソン挑戦

本日(3/4)、フルマラソンに挑戦してきました。初のフルマラソンです。

フルマラソン完走は、個人的な目標のひとつ。挑戦です。


が、結果は残念ながらリタイア…。さすがに甘くはありませんでした。


今日の大会は、「第34回大阪42.195kmフルマラソン大会」。長居公園での開催です。

長居公園の周回コースを15周。

1周2,813mを15周で42.195kmです。


フルマラソンを走ったことがないので、どのくらいのペースで走れるのかもわかりません。

とりあえず、普段は時速11kmで1時間走っているので、まあそれよりかは遅くなるだろう、そして、心徒塾の仲間であるくろちゃんが先日初マラソン完走をしたタイムが4時間37分くらいだったので、1周18分から19分くらいで走れるかどうか試してみようと思っていました。

1周18分で走ると4時間半、19分だと4時間45分です(ゼッケンが送られてきた封筒に目安タイムの表が載っていました)。


さて、スタート。

相変わらず自分のペースがあまりわからないので、普通に走ってみて同じようなペースの人の後ろについていく、という走り方。

小雨の降るなかのレースで、雨対策をされていた経験豊富そうなおじさんの後ろについていきました。


1周目のタイムは…、15分!

「早い」と思いましたが、「いける」とも思ってしまいました。


同じペースで、2週目・3周目と走っていきます。

1周15分で走っていきます。


6周目くらいのとき、ふと頭によぎります。「1周15分でいくと、8周で2時間。ハーフなら2時間切りのペース。フルなら…4時間切り!」

このときはまだ快調に走っていましたので、欲が出てしまいます。今までの大会での経験上(といっても、それほど数をこなしているわけではありませんし、最長でハーフマラソンですが…)、欲が出たら失敗しているにもかかわらず。


案の定、8周目はペースダウン。

ふくらはぎが張ってきました。


そして、あっという間に、ふくらはぎがいうことを聞かなくなりました…。


「脚が前に出ない」「いうことを聞かない」ということを初めて実体験として経験しました。


9周目から走ることができず、歩きはじめました…。そして12周目でリタイア…。

晴れていれば、歩いてでも完走(完歩?)を目指したと思うのですが、小雨の降るなか、歩いているだけでは「寒い!」(ちなみに半袖Tシャツ・ハーフパンツ姿)

しばらく歩いていれば持ち直すこともできるかも、と思っていましたが、持ち直すことはできず、寒く雨降る中で歩いていては風邪をひくと思い、リタイアを決意しました。


結果としては、リタイアとなり残念な結果となりましたが、収穫もあり、課題もでき、これはこれでいい結果となりました。


収穫としては、「ハーフマラソンの2時間切りに自信がついた」こと。

実は強行日程で、今月20日にハーフマラソンの予定を入れています(「第2回淀川国際ハーフマラソン」)。

この大会は昨年第1回が行われたわけですが、その第1回目がマラソンの初の大会参加なので(「淀川国際ハーフマラソンの記録」)、出たいと思っていました。

今日のフルマラソンの影響がどれだけ残るかは心配ですが、次のハーフマラソンでの2時間切りが見えてきました。


課題としては、やはり(いままでもそうなのですが)「ペース配分」。

今回、初のフルマラソンでしたのでペースを適当に考えていました。同じスピードでどれだけ長く走れるか、を知らなければなりませんね。


また、「ふくらはぎの筋力増加」も課題です。

自分の中で一番筋力に自信があるのが「ふくらはぎ」なのですが、それでは足りないということがわかりました。このことは、前回のハーフマラソンのときも同じような状況だったのでそのときに気付いてもよかったのですが、前回のハーフのときは、ひざの痛みの方が強かったため見過ごしていました(「『大阪・淀川市民マラソン大会』参加」)。

今回は、終わったときにはひざの痛みも出てきましたが、ハーフの距離では出てこなかったので◎。


あとは、「雨対策」。全くしておりませんでした…。


今はハーフの距離ならばいける。フルマラソン完走には筋力が必要。

フルマラソンでは、「気力」「精神力」がものをいうと思っていましたが、「気力」「精神力」の方は大丈夫そうです。


現在は、次のフルマラソンをどこにするか、思案中です。

大阪マラソンが抽選でないならば、そこに照準を合わせるのですけどね(^-^;)

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