tag:blogger.com,1999:blog-61324668997577375872024-03-05T23:47:07.979+09:00Off the Job Training本の紹介や感想など、読書生活を中心に、誰かのため、何かのために、役に立つ「かも」しれない事々を綴ります。さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.comBlogger859125tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-22192032809975411642021-05-27T23:40:00.000+09:002021-05-27T23:40:38.817+09:00再開<p>これまでに、たくさんの本を読んできた。たくさんといっても、世の中には数えきれないほどの本があるので、読んだものはその極々わずかなものである。さらには、読んでも内容を覚えていないものがほとんどであるので、本を読んだことで何かの役に立ったとか、そういったこともあまりない。強いて言えば、読書の習慣がついたということは悪い事ではないだろう。</p><p>たいていは一回読んでそれっきりというものが多いのだが、いくつかの本は何度か繰り返し読んでいる。以前に読んだ内容を忘れてしまったので思い出すためであったり、そのとき読んでいた本のなかで以前に読んだことがある本に言及されていたのでもう一度読みたくなったり、理由は様々である。</p><p>最近、以前読んだことのある本を読みかえすことが多くなった。食指が動いた本を読むことを繰り返してきたので、本棚に自分の興味関心がある本が集まってきたのではないかと思っている。その興味関心は何なのかは、まだはっきりとしていない。</p><p>しばらく書くことをしていなかった。インプットだけでなくアウトプットが必要であるとは、しばしば言われることだが、書く習慣はまだついていない。あらためて書く習慣をつけるべく、何か読んだあとに感想なり、考えたことなり、少しでも書いていきたい。</p><p>再開は再会。そんな言葉が浮かんだ。</p><p>再び本を開くことは、再び著者に会うことであり、再び自分に出会うことでもある。</p>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-38066664362084556422021-01-18T21:51:00.000+09:002021-01-18T21:51:28.525+09:00【未読】奥泉光『雪の階(上・下)』中公文庫<p>
(以下は本を買った動機を書いたもので、読後の感想等ではない。読む前にどのようなことを考えていたのかを残しておこうと書いたもの。)
</p>
<p>
奥泉光さんは好きな作家のひとりで、文庫本が出ると買うようにしている。本日、書店の新刊コーナーで奥泉さんの文庫本を見かけて購入した。タイトルは『雪の階』。階には「きざはし」と振り仮名がついている。上下2巻に分かれていて、中公文庫(中央公論新社)から発行されている。
</p>
<p>
帯には、「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」でランキングトップ10入りをしていたことや、柴田錬三郎賞と毎日出版文化賞をダブル受賞したことが書かれていた。初出は雑誌『中央公論』2016年3月号~2017年10月号で、2018年2月に中央公論新社から単行本が刊行されている。
</p>
<p>
タイトルの「階(きざはし)」とは何だろうかと国語辞典を引いてみたところ、階段のことを文語で「階(きざはし)」というらしい。
</p>
<p>
裏表紙にある作品紹介の文章には、上巻・下巻それぞれ以下の文章が掲載されていた。
</p>
<p></p>
<blockquote>
昭和十年。華族の娘、笹宮惟佐子は、富士の樹海で陸軍士官とともに遺体となって発見された親友・寿子の心中事件に疑問を抱き、調べ始める。富士で亡くなったはずの寿子が、なぜ仙台消印の葉書を送ることができたのか。寿子の足どりを追う惟佐子と探偵役の幼馴染、千代子の前に新たな死が……。
</blockquote>
<p></p>
<p></p>
<blockquote>
親友の死は本当に心中だったのか。天皇機関説をめぐる華族と軍部の対立、急死したドイツ人ピアニストと心霊音楽協会、穢れた血の粛正をもくろむ「組織」……。謎と疑惑と陰謀が、陸軍士官らの叛乱と絡み合い、スリリングに幻惑的に展開するミステリー。
</blockquote>
<p>
帯の文言には、二・ニ六事件前夜を舞台としていることが書かれており、二・ニ六事件を絡めたミステリーであることがわかる。
</p>
<p>
歴史には疎い。特に近現代史は高校の授業でかけ足で終わったこともあり、二・ニ六事件についても名前は知っているものの、どのような事件であったのかは理解していない。戦争を知らない私は、戦争のことについて特に知ろうともせずこれまで生きてきた。最近、少しずつ歴史にも興味を持ちはじめ、近現代の日本を背景とした小説も少しずつ読みはじめた。『雪の階』もそのひとつになりそうだ。
</p>
<p>
奥泉さんは、戦争を背景とした小説を数作書いている。文庫本で出たものは買っていることが多いが、読み終えているものは少ない。これを機に『雪と階』以外の作品にも手を伸ばしていきたい。
</p>
<p>
「二・ニ六事件」「雪」「ミステリー」というキーワードから、ここ数年内に読んだ北村薫さんの『鷺と雪』を思い出す。雰囲気的なところは似ているだろうと勝手に思っている。また、「二・ニ六事件」と「雪」から、三島由紀夫が連想されたが、三島由紀夫の作品はほとんど読んだことがなく、関連があるかどうかはわからない。
</p>
<p>
それほど昔のことではないのに、そして今でも世界のどこかでは起こっている、起こり得ることなのに、自分とは無関係なことのように思える「戦争」について、考えなければならないときが来ているのかもしれない。
</p>
<p><br /></p>
<p></p>
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正岡子規は『獺祭書屋俳話』の中で「加賀の千代」と題して一節を割いている。「加賀の千代は俳人中尤有名なる女子なり。其の作る所の句も今日に残る者多く、俳諧社会の一家として古人に譲らざるの手際は幾多の鬚髯男子をして後に瞠若たらしむるもの少なからず」と書き、千代の句と支考の句を並べ比べて「俳諧にも、男でなければ、あるいは女でなければ、言うことができないことがある」と述べている。加賀の千代、加賀千代女は、江戸時代の女流俳人で、各務支考(蕉門十哲のひとり)とも交流があった。
</p>
<p>次の句が、千代の代表句として知られている。</p>
<p></p>
<blockquote>朝顔に釣瓶取られてもらひ水</blockquote>
<p></p>
<p>
しかし、この千代の句についての子規の批評は手厳しい。子規は『俳諧大要』において、次のように書いている。
</p>
<p></p>
<blockquote>
朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非ざれば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるという意なり。このもらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへつて善し。それも取られてとは、最俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。
</blockquote>
<p></p>
<p>
〈朝顔に〉の句の解釈は、子規が述べているように、朝顔の蔓が釣瓶に巻きついていたので釣瓶を使うことができず、水をもらってきたということであろう。井戸から水を汲むために釣瓶を使いたいが、朝顔が巻きついている。引きちぎるのも忍びない。釣瓶は使わずそのままにして、水は余所からもらってこよう、ということである。朝顔を愛でる視線が伝わってくる。自然を愛おしむ気持ちが感じられる。
</p>
<p>
しかし、この子規の評を読み、よくよく考えてみると、子規が「俗極まりて」「俗気多くして」と言う気持ちがなんとなくわかる気がする。
</p>
<p>
この句が、千代の実生活から作られたものなのか想像から作られたものなのかは知らないが、仮に千代が、朝顔の釣瓶に巻きついているところを見て詠んだとすると、ちょっと嫌な書き方をするが、「私にはこんな気持ちがあるのですよ」と自慢しているようにも読めてしまうのだ。朝顔の美しさ、自然の美を詠めばいいのに、この句は人の優しい気持ち、自然を愛する気持ちを詠んでいる。そんな気持ちをわざわざ句として表現するということは俗であるということであろう。
</p>
<p>
〈朝顔に釣瓶取られて〉の「釣瓶」には助詞がついていないが、格助詞を補い、文のかたちにすると「朝顔に釣瓶を取られた」となるだろう。子規もそのように解釈している。この「朝顔に釣瓶を取られた」というのは文法用語でいうと間接受身である。対応する能動形は「朝顔が釣瓶を取った」ということになる。目的語が主語の位置にくる受身を直接受身といい、この例では「釣瓶が朝顔に取られた」とするのが直接受身である。間接受身は「被害の受身」「迷惑の受身」とも呼ばれることがあり、目的語はそのままに、被害者(被害というのが強すぎるなら被影響者といってもいい)が主語の位置にくる受身形である。〈朝顔に釣瓶取られて〉という表現には主語が明示されていないが、釣瓶を取られて迷惑を伴った人であり、〈もらひ水〉で表現されている誰かに水をもらいにいった人と同一人物であると解釈できる。
</p>
<p>
この句では、朝顔が釣瓶に巻きついているのを見て、釣瓶を使うことを止め、水をもらいにいった人物が主語であり、朝顔は主語ではない。朝顔よりも人物を主語に置くことを選択している。主語の位置は主題の位置でもあるので、人物を中心とした表現であると考えられる。
</p>
<p>
主題を人ではなく、朝顔にした方がいいのではないかというのが子規の評であろう。「もらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり」「取られてとは、最俗なり」というのは、人が主題となってしまっていることを言っているのであろう。「ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす」と、朝顔を主語とした言い方をしている。
</p>
<p>
<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3" target="_blank">Wikipedia「加賀千代女」</a>を見ると、興味深いことが書かれていた。代表的な句としてこの〈朝顔に〉の句が挙げられているが、そこに「35歳の時に、朝顔や~
と詠み直される」と書かれていた。
</p>
<p></p>
<blockquote>
<p>朝顔<b>に</b>釣瓶取られてもらい水</p>
<p>朝顔<b>や</b>釣瓶取られてもらい水</p>
</blockquote>
<p>個人的には〈朝顔や〉の方がいい。〈朝顔や〉とすることで、朝顔を主語とした解釈をすることができる。「朝顔が釣瓶を取られた」と読めなくもない。朝顔の視点からの表現で、釣瓶を水を汲むために取られてしまったという意味である。もちろん、元の〈朝顔に〉の句の情景のままで朝顔を強調するために〈朝顔や〉としたということかもしれないが、「朝顔が釣瓶を取られた」という解釈の方が面白く感じる。</p>
<p>
水を汲もうと井戸に行くと、朝顔が釣瓶に巻きつこうと蔓を伸ばしていた。成長はうれしいが釣瓶に巻きつかれてしまうと困る。まだしっかりとは巻き付いていないので「朝顔さんちょっとごめんね」と、朝顔から釣瓶を取り上げて水を汲んだ。そして「さっきはごめんね」と汲み上げたばかりの水を朝顔にかけてあげる。こんな情景を朝顔の視点から描いた句として読むことができるのではないだろうか。
</p><p>他にもこんな解釈をしている人はいないかと(大雑把にではあるが)ネット検索をしてみたがいないようである。ただ、〈朝顔や〉としている千代直筆のものが残っているということはわかった。</p>
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復本一郎『俳句実践講義』に、俳句における必須の「技巧」として「取合せ」が取り上げられている。許六編『俳諧問答』中の「自得発明弁」などの俳論資料から説明されており、具体的でわかりやすい。正岡子規の『俳諧大要』にも「取合せ」についての言及がある。
</p>
<p>
子規は、暁台の「時鳥鳴くや蓴菜の薄加減」という句を例にして「取合せ」に言及している。
</p>
<p></p>
<blockquote>
蓴菜は俗にいふじゆんさいにして此処にてはぬなはと読む。薄加減はじゆん菜の料理のことにして塩の利かぬようにすることならん。さて時鳥と蓴菜との関係は如何にといふに、関係といふほどのものなくただ時候の取り合せと見て可なり。必ずしも蓴菜を喰ひをる時に時鳥の啼き過ぎたる者とするにも及ばず。ただ蓴菜の薄加減に出来し時と時鳥の啼く時とほぼ同じ時候なるを以て、この二物によりこの時候を現はしたるなり。しかも二物とも夏にして時鳥の音の清らかなる蓴菜の味の澹泊なる処、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに足る。これらの句は取り合せの巧拙によりてほぼその句の品格を定む。
</blockquote>
<p></p>
<p>
時鳥(ほととぎす)と蓴菜(「ぬなわ」と読む。じゅん菜のこと)は基本的には関係がないが、時鳥が鳴く時期と、蓴菜を薄味の塩加減で料理するような時期が同じころで、ともに夏の清涼感を想像することができる、と言っている。このような俳句の技法を「取合せ」という。
</p>
<p>
時鳥は、古来より歌に詠まれ、イメージが固定化されているところがあるが、「取合せ」によっては新たなイメージを呼び起こすことができ、陳腐な表現を避け、オリジナリティを発揮することができる。
</p>
<p>
『俳句実践講義』には、「取合せ」の注意事項も書かれていた。「決して二つの関係を説明してはいけない」ということで、二つの関係を句の中で説明してしまうと「理屈」の句になってしまうからである。
</p>
<p>
また、「取合せ」は、大変効果的な作句方法であるが「一つ間違えれば、独りよがりの作品になってしまいます」とも言う。よく言えばシュルレアリスム的俳句ということもできなくはなさそうだが、句を作った本人にしかわからないような俳句が「独りよがりの作品」ということであろう。
</p>
<p>このブログ記事のタイトルは、独りよがりの作品に近い。</p>
<p>
鵜と鷺はともに鳥の名であり、「取合せ」と掛けている。また「ウ」と「サギ」を合わせると「ウサギ」となり、兎の数え方は一羽、二羽である。一羽の鵜と一羽の鷺を合わせて一羽の兎となるのは、生命の神秘にも似て、アイデアの創出にも似ている。
</p>
<p>
「鵜」は夏の季語、「鷺」は手元の歳時記にはなかったが、「白鷺」「青鷺」は夏の季語となっていた。ちなみに「兎」は冬の季語であったので、句中にはいれなかった。
</p>
<p>
理屈、知識に訴え、言語の遊戯に属する独りよがりの句である(俳句とは言えない)。
</p>
<p>
そして、鵜と鷺で兎になるとか、兎の数え方であるなどは、柳瀬尚紀のエッセイより拝借したもので、私のオリジナルではない。私が考えたこととしてはそこに「取合せ」を取合せたのみで、誰でも思いつきそうなものである。
</p>
<p>ただし、独りよがりの作品であっても、自分にとっては意味がある。</p>
<p><br /></p>
<iframe
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さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-28749339551951228662020-08-22T22:57:00.000+09:002020-08-22T22:57:33.372+09:00仰ぎ見て我田引水天の川<p>
正岡子規『俳諧大要』に「修学第一期」と題された章があり、俳句初心者の心得の数々が述べられている。「俳句をものせんと思はば思うままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ」からはじまり、どんなものでもいいので俳句をつくってみること、古人の俳句に数多く触れることなど、初心者へのアドバイスや注意事項が書かれている。
</p>
<p>その中に、次のようなものがある。</p>
<p></p>
<blockquote>
初心の人古句に己の言はんと欲する者あるを見て、古人已に俳句を言い尽せりやと疑ふ。これ平等を見て差別を見ざるのみ。試みに今一歩を進めよ。古人は何故にこの好題目を遺して乃公に附与したるかと怪むに至るべし。
</blockquote>
<p></p>
<p>
これまでに数多くの人々が俳句を詠んでおり、ひとつの題材についても数多くの句が詠まれている。自分が言いたかったこともすでに俳句となっているかもしれない。もう自分が形にするようなことはないのではないか、言い尽くされているのではないか。そんな疑いを抱くかもしれないが、「試みに今一歩進めよ」という。
</p>
<p>
たとえば、「天の川」という題で俳句を作ろうとする。天の川を詠んだ句には次のようなものがある。
</p>
<p></p>
<blockquote>
<p>あら海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉</p>
<p>真夜中やふりかはりたる天の川 嵐雪</p>
<p>更け行くや水田の上の天の川 惟然</p>
</blockquote>
<p></p>
<p>
これ以外にも子規は例を挙げる。下記引用では2音にまたがる繰り返し記号(〱、〲)を仮名に書き換えている(「よひよひに」の句)。
</p>
<p></p>
<blockquote>
<p>一僕を雨に流すな天の川 浪化</p>
<p>打ち叩く駒のかしらや天の川 去来</p>
<p>引はるや空に一つの天の川 乙州</p>
<p>西風の南に勝や天の川 史邦</p>
<p>よひよひに馴れしか此夜天の川 白雄</p>
<p>天の川星より上に見ゆるかな 同</p>
<p>江に沿ふて流るる影や天の川 暁台</p>
<p>天の川飛びこす程に見ゆるかな 士朗</p>
<p>天の川糺の涼み過ぎにけり 同</p>
<p>天の川田守とはなす真上かな 乙二</p>
<p>てゝれ干す竿のはづれや天の川 嵐外</p>
<p></p>
<blockquote><span style="font-size: small;">巨鼇山</span></blockquote>
<p></p>
<p>山嵐や樫も檜も天の川 同</p>
</blockquote>
<p></p>
<p>
『合本俳句歳時記』の「天の川」の項を見ると、他にも「天の川」を詠んだ句が見える。(「天の川」の語句が入っているもののみ記載。傍題の例句は略)
</p>
<p></p>
<blockquote>
<p>うつくしや障子の穴の天の川 一茶</p>
<p>天の川の下に天智天皇と臣虚子と 高浜虚子</p>
<p>妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 中村草田男</p>
<p>天の川怒涛のごとし人の死へ 加藤楸邨</p>
<p>天の川柱のごとく見て眠る 沢木欣一</p>
<p>うすうすとしかもさだかに天の川 清崎敏郎</p>
<p>天の川礁のごとく妻子ねて 飴山實</p>
<p>列車みな駅に入りて天の川 杉野一博</p>
<p>長生きの象を洗ひぬ天の川 中西夕紀</p>
<p>寝袋に顔ひとつづつ天の川 稲田眸子</p>
<p>天の川漂流船の錆深く 照井翠</p>
<p>自転車の二つ並んで天の川 涼野海音</p>
</blockquote>
<p></p>
<p>
もちろんここに挙げたものだけでなく、他にもたくさん詠まれているだろう。こんなにもあると、さらに「今一歩」が難しくなると感じるが、逆に、まだ表現のしかたがあるかもしれないという気持ちにもさせてくれる。</p><p>子規は言う。</p>
<p></p>
<blockquote>
なまじ他人の句を二、三句ばかり見聞きたる時は外に趣向なき心地す。十句二十句百句と多く見聞く時はかへつて無数の趣向を得べし。古人が既に己の意匠を言ひをらん事を恐れて古句を見るを嫌ふが如きは、耳を掩ふて鈴を盗むよりもなほ可笑しきわざなり。
</blockquote>
<p></p>
<p><br /></p>
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漱石の書簡集は、明治22年5月13日付正岡子規宛の書簡からはじまっている。「今日は大勢罷出失礼仕候然ば其砌り帰途山崎元修方へ立寄り大兄御病症幷びに療養方等委曲質問仕候処」云々と、いわゆる候文で書かれており、句読点もなく、珍文漢文で読みにくい。この手紙は漱石が子規を見舞った日に書かれたもので、簡単にいうと、「見舞いの帰りに主治医のもとを訪ねたが、どうもこの主治医はあてにならない。なので第一医院で再診を受け入院してはどうかしてはどうか」という内容である。当時の書き言葉は漢文調であるのが普通だったにせよ、「二豎の膏盲に入る」や「雨振らざるに牖戸を綢謬す」という故事や、「to
live is the sole end of
man!」との英文も見え、漱石の学識の高さがうかがえる。漱石このとき22歳。
</p>
<p>
漱石と子規は明治22年1月ごろから親しくなったといわれている。その年の5月9日、正岡子規は喀血する。漱石はそれを見舞い、そして先に述べた手紙を書いた。
</p>
<p>
正岡子規の「子規」という号は、この喀血からつけられている。この喀血により、子規はホトトギスの句を数十句詠んだ。ホトトギスは高い声で鋭く鳴き口の中が赤いので、鳴いて血を吐くといわれ、そして結核の代名詞にもなっていたからである。そして号を「子規」とした。ホトトギスの漢字はいくつもあるが、「子規」はそのひとつである。
</p>
<p>
おそらくは、子規はこのときに作った俳句を、見舞いに来た漱石にも見せた(聞かせた)のであろう。冒頭の漱石の手紙の末には、漱石が詠んだ二句の俳句がしたためられている。
</p>
<blockquote><p>帰ろふと泣かずに笑へ時鳥</p>
<p>聞こふとて誰も待たぬに時鳥</p></blockquote>
<p>ホトトギスの故事に、次のようなものがある。</p>
<p>
中国古蜀の杜宇は農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。望帝杜宇は、死ぬとホトトギスになり、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために鳴くという。後に蜀が秦によって滅ぼされてしまった。そのことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」と鳴きながら血を吐いた、口の中が赤いのはそのためだ、といわれるようになったという(参考:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%AE%E3%82%B9#%E6%95%85%E4%BA%8B" target="_blank">Wikipedia「ホトトギス#故事」</a>)。
</p>
<p>
ホトトギスの漢字がいくつもあることを先に述べたが、「杜宇」や「不如帰」などの漢字はこの故事が由来である。漱石が手紙に書いた一句目の俳句「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」には、この故事が踏まえられている。
</p>
<p>
そして、二句ともに子規への見舞い、励ましの句でもある。「鳴かせてみせよう」とか「鳴くまで待とう」とかいわれるホトトギスではあるが、誰も君の喀血なんか望んではいない、鳴くのではなく笑ってほしい、元気になってほしい。そんな漱石の子規に対する心情である。
</p>
<p>これらの俳句を読んだとき、こんな風に俳句を作れたらいいな、と思った。</p>
<p>
漱石の心遣いや博識に打たれたのはもちろんであるが、その心遣いや博識が、感情や知識が、俳句という十七音に凝縮しているところがすごいと思った。俳句の上手い下手はわからないけれども、俳句が「十七音の世界」といわれている意味がわかったような気がした。言葉にせず表現する、言葉にできないことも表現する、このようなことができるかもしれないという可能性も感じる。
</p>
<p>
ここから俳句についての興味が湧きはじめた。正岡子規にも興味を持ちはじめた。</p><p><br /></p>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4000928422&linkId=a4009ab5e111a784c8a954f816962502" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4000928376&linkId=e1d564ff115b3dc1af2647d7940bc448" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-71913449138790055182020-08-20T22:52:00.000+09:002020-08-20T22:52:51.891+09:00中古本つれづれ<p>古本・中古本を買うと、書き込みがあったり、何かが挟まっていたりすることに、ときどき出会う。</p><p>難しい漢字などに手書きで振り仮名が振ってあったり、キーセンテンスに傍線が引いてあったりするものがある。自分も読めない漢字に振り仮名が振ってあると助かるし、自分が大事だと思ったところに線が引いてあると、やはりここは大事なところだったのだと確認することができる。そして、以前の所有者に「あなたも、だったのですね」などと、どこの誰だか知らない人に対して呼びかけたくなる。</p><p>自分が読める漢字に振り仮名が振ってあったりすると、「俺は読めるぞ」と優越感を感じることもなくはないが、その漢字、文章を読もうとする意志も感じられ、自分が流し読みをしていることに気がつくこともある。自分ならここには線を引かないと思っているところに線が引いてあると、なぜだろうとも思う。</p><p>日付が書かれているときもある。購入日だろうか、読了日だろうか。以前にも同じ本(物理的にも)を読んでいる人がいたことを実感する。以前の所有者の名前が書かれているときもある。</p><p>自分自身も、日付や名前は入れないが、本に書き込みをすることがあるので、書き込みがされている本に出会っても腹を立てることはないのだが、自分と違った書き込みである場合、その書き込みに引っ張られてしまうときがあるので、書き込みがないに越したことはない。ただ書き込みがあったとしても、その書き込みを含め買ったのだと思うことはできる。</p><p>映画の半券が挟まれていたことがある。栞に使っていたというのが一番の可能性で、その本と映画は関係なさそうに思われるが、ひょっとすると、挟んだその人にとっては何か意味のあるものだったのかもしれない。</p><p>以前には手紙が挟まっていたときもあった。病気療養中に知人から送られた手紙で、見舞いの言葉とともに本を送る旨が書かれていた。手紙が挟まっていた本がその本である。手紙を挟んでいることを忘れて、その本を売ったのであろうか。それとも手紙が挟まれたまま売られるという状況となったのであろうか。</p><p>先日の購入本のなかで、ページが破られていたものがあった。根元から破られていたので、破れたというよりは、故意に破ったものである。破った跡が残っているので落丁でもないと思う。おそらくは、そのページに書かれていた文章を手元に残しておきたかったのであろう。</p><p>自分自身は、本を破くことはめったにない。しかし、雑誌については切り抜いたりすることもあるので、本のページを破りとる気持ちはわからないでもない。ただ、切り抜いた本を売ろうとは思わない。</p><p>書き込みのときと同じように、破り取られたところも含めて買ったのだと思うこともできなくはない。しかし、書き込みのときよりは破り取られているときの方が、がっかり感が強い。</p><p>この辺りに、自分自身の本に対する価値観があるのだろう。深めてみる価値があるかもしれない。</p>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-87043244461965657362020-08-15T22:00:00.001+09:002020-08-15T22:00:04.070+09:00ここ数日の購入本<p>8/13~16、ブックオフで本が全品20%OFFの<a href="https://www.bookoff.co.jp/event/lp/ultra202008/" target="_blank">ウルトラセール</a>が開催されているので、足を運ぶ。このウルトラセールだけではないが、ここ数日に買った本をまとめておく。</p><p>読んだ感想ではなく、読みたいと思った動機。</p><p><br /></p><p>●正岡子規『俳諧大要』『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』(ともに岩波文庫)</p><p>子規の『墨汁一滴』等や、復本一郎『俳句実践講義』を読んでいるうちに読みたくなり購入。子規の俳句観を知ることが目的。</p><p>●伊藤博(校注)『万葉集(上巻・下巻)』(角川ソフィア文庫)</p><p>こちらも子規つながりが大きい。子規は『古今集』より『万葉集』を推している。『万葉集』も『古今集』も読んだことがない。歌の良し悪しはわからずとも一度は目を通しておいて損はないだろうと思い購入。ゆっくりと読み進めていきたい。</p><p>●外山滋比古『ことわざの論理』(ちくま学芸文庫)</p><p>『思考の整理学』をはじめ、外山さんの著作をいくつか読んでいる(エッセイ中心)。「ことわざ」は好きだが、ことわざについてまとまった本は読んだことがない。「ことばの技」としての「ことわざ」を読めるかもしれないという期待がある。</p><p>●北村薫『鷺と雪』(文春文庫)</p><p>先日『詩歌の待ち伏せ』を読み、久々に北村さんの小説を読みたくなった。「円紫さんシリーズ」しか読んだことがなかったので、今回は別のものをと思い購入。</p><p>●武田祐吉(訳注)『古事記』(角川ソフィア文庫)</p><p>同じ角川ソフィア文庫の『ビギナーズ・クラシック 日本の古典 古事記』を持っているが、「ビギナーズ・クラシック」版では、原文(書き下し文)が確認できないところがある。青空文庫で確認することもできるが、文庫本というかたちで手元に置いておきたかった。</p><p>●大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)</p><p>学生時代に図書館で読んだ記憶がある。ブックオフで50円のワゴンの中にあったので購入。</p><p>●別冊宝島編集部(編)『読んでおきたいベスト集! 宮沢賢治』(宝島社文庫)</p><p>先日、竹内薫さんの『宮沢賢治の星座ものがたり』を十数年ぶりに読み返した。宮沢賢治の作品自体はあまり読んでいない。ブックオフで目にしたことを機会に読んでみようと思う。</p><p>●『新編 俳句表現辞典』(東京新聞出版局)</p><p>最近の俳句興味より。俳句・俳諧について、考え方のようなものはいくつか読んでいるが、その実作物をあまりにも知らない。現在、実作物に触れる機会となっているのが、子規の著作物と歳時記である。『新編 俳句表現辞典』は、季語を項目としたものではなく、俳句に詠まれる事物等を項目としており、その言葉を使用した句が載っているので、歳時記とはまた違った俳句の実作品に触れられる機会となるかと思う。</p><p>●「だまし絵」展カタログ(中日新聞社)</p><p>2009年に名古屋・東京・神戸で開催された「だまし絵」展のカタログ。ISBN はなく、定価も書かれていないが、おそらくそこそこの値段で売られていたものだと思う。詳しく調べてはいない。高値で売れるかもという思いもなくはないが、実際自分が読みたい(見たい)と思い買ったもの。「トリックアート」や「錯覚・錯視」の類は好きである。</p><p><br /></p><p>そろそろ本棚の整理をすべきところなのだが、暑さを理由にだらけてしまっている。</p>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-71087569687914995562020-08-14T01:43:00.000+09:002020-08-14T01:43:20.798+09:00子規三部作<p>
正岡子規による『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』は「子規三部作」と称されているようである(Wikipedia「正岡子規」の項参照)。図らずも、この三部作(と『歌よみに与ふる書』)を最近購入し、ときどきぱらぱらとめくっている。
</p>
<p>
最近俳句に興味を持ちはじめ、漱石つながりで正岡子規を読んでみようと思い上記3冊を購入したのだが、3冊ともに俳句よりは短歌(和歌)についての話題が多い。正岡子規=俳句というイメージしかなかったので、『歌よみに与ふる書』を含め、和歌の改革もなしていたことを知り驚く。若くして亡くなったということは知っていたが、死の直前まで俳句そして短歌、文章を書いていたということも知った。
</p>
<p>
『墨汁一滴』は、新聞「日本」に連載されていた文章を集めたもので、ジャンル分けするとすれば随筆にあたる。明治34年1月16日~7月2日にほぼ毎日連載されていた(途中数日の抜け有)。
</p>
<p>
『病牀六尺』も、新聞「日本」に掲載されていたもので、明治35年5月5日~9月17日(これも途中抜け有)。随筆となるだろう。
</p>
<p>
『仰臥漫録』は、日記である。明治34年9月2日から書かれているが、途中書かれていない時期もある。『仰臥漫録』で確認できる最後の日付は(明治35年)9月3日であった。
</p>
<p>
子規は明治35年9月19日未明に亡くなった。結核を患っており、闘病生活を続けていた。
</p>
<p>
『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』ともに、闘病生活の中で書かれたものである。しかし内容は、自身の病気のことも多々書いているが、闘病生活だけを書いているわけではなく、日ごろ考えていることを書いたもので、俳句や和歌についての言及もある。
</p>
<p>
とくに『墨汁一滴』の書き出しあたりには、『枕草子』あるいは『徒然草』のような趣きがあるように感じる。文語で書かれているからそのように感じるだけかもしれないが、なんとなくそう感じる。
</p>
<p><br /></p>
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さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-9646200732693238152020-08-11T22:00:00.004+09:002020-08-11T22:00:01.914+09:00ドラッガーの「三人の石切り工の話」について(1)<p>
先日「<a href="https://sanotomo3.blogspot.com/2020/08/blog-post_10.html" target="_blank">3人の連歌職人(戯作)</a>」と題する小文を書きました。戯作の名のとおり戯れに作ったもので、「3人のレンガ職人」の話を元として、「レンガ」と「連歌」をかけて、連歌から俳諧、俳句の成立の歴史をおもしろく書こうとしたものです(成功したとは言えませんが……)。
</p>
<p>
さて、その元とした「3人のレンガ職人」の話について、いくつかのバリエーションがあるので、その大元はどんな話であったのか確認したいと思い、「3人のレンガ職人」で
WEB 検索をしてみました。
</p>
<p>多くのサイトに「イソップ寓話から」という記述があります。</p>
<p>
はて、イソップ寓話にそんな話があったっけ?
と、岩波文庫の『イソップ寓話集』を本棚から引っ張り出して目次を見るも、それらしきタイトルの話は見当たりません。ざっと読み返しましたが「3人のレンガ職人」の話は見つけることができませんでした。
</p>
<p>
それならば、と、また WEB
検索に頼ってみると、どうやら「3人のレンガ職人」の話はイソップ寓話ではなさそうです。同じように『イソップ寓話集』に載っていないということで、その出所を探している記事に出会いました。
</p>
<a href="https://aoi-management.co.jp/article-9/" target="_blank"><blockquote>
AOI manegement ブログ:イソップ寓話「三人のレンガ職人」をめぐる冒険
</blockquote></a>
<div>
<p>
この一連の記事(4回に分けて投稿されてあります。タグ「<a href="https://aoi-management.co.jp/tag/%e4%b8%89%e4%ba%ba%e3%81%ae%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ac%e8%81%b7%e4%ba%ba/" target="_blank">三人のレンガ職人</a>」参照)の中で、図書館に問い合わせたことが書かれています。このブログが書かれた時期とは異なりますので別の方の問い合わせでしょうが、図書館からの回答が載っているサイトもありました(<a href="https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000195132" target="_blank">国立国会図書館:レファレンス共同データベース レファレンス事例詳細</a>)。
</p>
<p>
AOI manegement
のブログには、ドラッガーの著書『マネジメント』の中に、「三人の石切り工の話」が載っていることが書かれています。『エッセンシャル版
マネジメント』であれば手元にあるので早速確認してみると、たしかに「三人の石切り工の話」が載っていました。そこには「三人の石切り工の話がある」と書かれています。しかし、その出典については記載されていませんでした。
</p>
<p>
結局、「3人のレンガ職人」の出典はわからず、「<a href="https://sanotomo3.blogspot.com/2020/08/blog-post_10.html" target="_blank">3人の連歌職人(戯作)</a>」を書きました。しかし、あらためてドラッガーが書いている「三人の石切り工の話」を読むと、また別の「3人の連歌職人の戯作」を書けるかもしれないとも思いました。
</p>
<p>
よく聞く「3人のレンガ職人」の話と、ドラッガー『マネジメント』に書かれている「三人の石切り工の話」は似ていますが、文脈が少し異なっているからです。
</p><p><br /></p><p><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=400321031X&linkId=0d4dc4f52c4b151ff8ab05a6cc7348e3" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4478410232&linkId=3f7b560b9be852137e74261f09addf61" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe></p></div>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-7010896251586535142020-08-10T22:00:00.001+09:002020-08-10T22:00:04.545+09:003人の連歌職人(戯作)<p> 3人の男たちが座している。</p><p>「何をしているのですか?」と問うと、1人の男が答えた。</p><p>「レンガをしています」</p><p>「レンガ、ですか?」</p><p>「歌を連ねると書いて連歌といいます。最初の人が五七五の句をつくり、次の人が先の五七五の句に続く七七の句をつくり、さらに次の人はそれに続く五七五の句をつくり、次の人は七七――と、句を、歌を連ねていくのです」</p><p>歌を連ねているところに、レンガを積んでいる映像が重なる。</p><p>別の男が続けて言う。</p><p>「もう少し詳しく言うと、俳諧の連歌ですね。一般的に連歌は、百韻の形式といわれています。五七五の発句のあと、七七で2句目、次の五七五で3句目として、百韻の形式とは100句つくるということですが、ここでは36句としてしています。俳諧の連歌、歌仙形式の俳諧ですね。また、連歌は和歌の流れからできたものなので雅語を使うのが普通ですが、俳諧の連歌では俗語、俗言でもOKです。俳諧とは戯れごとです」</p><p>「ホック……」と、ひっかかった言葉をつぶやく。ホックがついたレンガ壁。</p><p>3人目の男が口を開いた。</p><p>「わしはいま最初の句、発句を考えとる。最初の句なので自由に詠むことができるが、いまこの場にふさわしい歌にしたい。発端の句だから発句じゃ。この発句であとの展開が変わるので、おもしろくもあり、難しくもある」</p><p>発句に四苦八苦。4×8=32 で、36句には足りない。四苦八苦でなく四九発句としてはどうだろうか。いや、敷く発句としよう。</p><p>発句を敷いてレンガを重ねていくイメージに変わる。</p><p>「発句には、切れがほしいのう」3人目の男が考え込む。一緒に発句を考える。</p><p></p><blockquote><p>布きれの発句を敷いたレンガ壁</p><p>連歌にて徘徊をする男ども</p></blockquote><p></p><p>切れがない。</p><p>創作とは捜索であり、俳諧の発句が俳句となるのはまだ先のことである。</p>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-53823684692655513632020-08-09T22:49:00.000+09:002020-08-09T22:49:17.814+09:00差し渡す夢<p>漢字を覚える際、言葉遊びとか語呂合わせのように覚えたものがいくつかある。「立って木を見る親子連れ」であるとか、「耳と十四の心で聴く」であるとか、「ル微王徴」であるとか、このような類の覚え方である。</p><p>漢字だけでなく、たとえば√2の覚え方「ひとよひとよにひとみごろ」であるとか、元素の周期表「すいへいりーべーぼくのふね」だとか、惑星の順序「水金地火木土っ天海冥」(冥王星は惑星から準惑星になった)だとか、リズムをつけた覚え歌みたいなものもある。31日がない月の覚え方を「西向く士」というようなもの、歴史で「鳴くようぐいす平安京」みたいなものもある。</p><p>言葉遊び、語呂合わせ、替え歌などでいろいろなことを覚えた。覚えてしまい使わなくなったものもある。使う機会がなく忘れてしまったものもある。「いい国作ろう鎌倉幕府」みたいに使えなくなったものもある。</p><p>こういった類の言葉遊びは、文字化されていないものも多い。残るものは残るだろうが、残らないものは残らない(当たり前だ)。最近は、こういったものを残しておきたいと思うようになった。また、自分でも何か作ってみたいと思うようにもなっている。</p><p>次世代へ、あるいはもっと先へ、ちょっとした差し渡す言葉になるかもしれない。</p><p>「差し渡す夢」とは、「夢」という漢字を分解して「サ四ワタ」したものである。</p>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-7914345951314626652020-08-08T21:47:00.000+09:002020-08-08T21:47:21.687+09:00苦肉の作2句<p>「歳時記」を手にしたことで、あらためて俳句をつくってみようと思った。「あらためて」というのは、以前にも作ったことは何度かあるが、季語らしき語を入れた五七五という感じで、俳句よりは川柳に近いものだった。</p><p>「歳時記」があるからといって俳句となるわけでもなく、言葉遊びを入れたいという欲もあり、言葉遊びを入れると季語を入れたとしても川柳に近くなる。以前読んだ『俳句実践講義』で学んだ、「切れ」があるかどうかで俳句と川柳を分けるとすれば、今回作ったものは川柳であろう。少なくとも「切れ字」は使っていない。</p><p>時事的なことを入れることにして、昨今の話題は新型コロナとなるわけで、「コロナ」と「季語」を使った言葉遊び的な五七五の句をつくることを目標とした。</p><p>結果として、2句作る(「苦肉の作」と言いたかったわけではない)。1句目よりは、2句目の方が気に入っている。1句目は説明を要するだろうし、今年の梅雨明けは例年より遅かったにせよ、「梅雨明け」は夏の季語であるため時期がずれている。</p><p></p><blockquote><p>梅雨明けの頃ナウ居留守スタイルす </p><p>汗る日のころ名ばかりの秋来たる</p></blockquote><p>頭で考えて作ったので「月並」である。</p><p>理想をいえば、宝井其角の「夕立や田をみめぐりの神ならば」という雨乞いの句のように、新型コロナの感染拡大防止語彙を入れたかったが思いつかなかった。もう少しひねり句練りたい。</p><p></p>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-11978372102488907312020-08-07T23:54:00.004+09:002020-08-07T23:54:55.388+09:00歳時記雑記<p>本日8月7日は立秋。暦の上では秋に入る。</p>
<p>
秋とはいえども暑さは厳しく、まだまだ真夏日、猛暑日は続きそうである。気象庁の定義では、日最高気温が30℃以上の日を真夏日といい、日最高気温が35℃以上の日を猛暑日という。
</p>
<p>
立秋は二十四節気のひとつで、簡単にいえば、夏から秋に変わるところ。昼が一番長いのは夏至であり、昼と夜が同じ時間であるのが春分と秋分であるが、立秋は夏至と秋分の中間だと考えればいい。
</p>
<p><br /></p>
<p>
歳時記を買った。買ったのは角川書店編『合本俳句歳時記 第五版』で、合本というのは、角川文庫で歳時記が分冊で刊行されていて、それを合わせて一冊としたものだからである。この歳時記を買った理由は、大きさと価格が手ごろだったからである。
</p>
<p>
初めて歳時記を買い読んでみるも、少し使い方読み方に慣れない。どんな歳時記にも載っているのだろうが、例句が多く載っているのがうれしい。
</p>
<p>
「真夏日」「猛暑日」は、少なくともこの歳時記には載っていなかった。歳時記は基本的に季語の辞典であるので、当然載っていない語もある。「真夏日」「猛暑日」は季節を表しそうであるが、気象庁の定義上は季節は関係なく、関係あるのはその日の最高気温である。極端なことをいうと、真冬でも最高気温が30℃を越えれば真夏日となるのだろう。残暑厳しい暦の上での秋に真夏日は多いので、季語にしにくいのかもしれない。
</p>
<p>
歳時記で「立秋」を引くと、「暑さは厳しいころだが秋の気配を感じるというのが立秋で、それを感じさせる代表的なものが風である」とあった。今のこの暑さでも、風が吹くと涼しく感じる。
</p>
<p><br /></p>
<p>しばらくは、風を感じることを心がけようと思う。</p>
<p><br /></p>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4044004331&linkId=e34d57b48301fe8fa7dc4c22e0729f17" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe>
<div><br /></div>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-55528642540915120532020-08-03T23:00:00.012+09:002020-08-03T23:00:01.920+09:00続・頓珍漢仮説「とんちんかん」の意味をあらためて手元の辞書で引いてみると、以下のように書かれていた(『三省堂国語辞典』第五版)。
<div></div>
<blockquote>
<div>①つじつまのあわないこと(をする人)</div>
<div>②わけのわからないこと。</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
WEB
で語源を調べると、鍛冶屋の音が由来であることが書かれている。鉄を打つときの槌の音で、揃っていないズレた音を「トンチンカン」という擬音語で表したことから、ちぐはぐであるとか、辻褄の合わないというような意味となったらしい。
</div>
<div><br /></div>
<div>相槌がズレているということであろうか。</div>
<div><br /></div>
<div>
漢字で「頓珍漢」と書くが、これは当て字ということらしい。しかしこの漢字のために、頓珍漢が人(漢)を表すようになったのではないかとも思う。
</div>
<div><br /></div>
<div>
さて、『吾輩は猫である』で「頓珍漢(とんちんかん)」が使われているところは、3ヵ所あった。「頓珍漢」が含まれている文を抜き出してみる。文末につけた括弧つきの漢数字は、該当の文がある回(章)の数である。
</div>
<div>
<div></div>
<blockquote>
<div>
これで懸合をやった日にや頓珍漢なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔を一寸見上げた。<span
style="text-align: right;"
>(二)</span
>
</div>
<div>
<span style="text-align: right;"><br /></span>
</div>
<div>
是で考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的作用によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。<span
style="text-align: right;"
>(七)</span
>
</div>
<div><br /></div>
<div>
世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。<span style="text-align: right;"
>(九)</span
>
</div>
</blockquote>
<div><span style="text-align: right;"></span></div>
</div>
<div>
まず「頓珍漢」が現れるのは小説の第2回(第2章)で、越智東風が先生宅にやってきて、次回の朗読会に参加してほしいと依頼している場面である。2回目は、銭湯で裸体の人間を見て、衣裳哲学らしきものを考えている最中。3回目は泥棒逮捕の報告を受けたときの先生と迷亭の様子である。
</div>
<div><br /></div>
<div>
こじつけ感はあるが、名前の登場と頓珍漢の出現回をみると、なんだか符合しているように思える。
</div>
<div></div>
<blockquote>
<div>第1回 先生登場(名前はまだない)</div>
<div>第2回 寒月登場、東風登場、「頓珍漢」出現</div>
<div>第3回 苦沙弥先生(名前初出)</div>
<div>……</div>
<div>第7回 「頓珍漢」出現</div>
<div>……</div>
<div>第9回 珍野(姓初出)、「頓珍漢」出現</div>
<div>……</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
さらに言うと、これもこじつけ感があるが、第2回において、バルザックが小説中の人間の名をつけるために友人を連れて歩きまわったという逸話が書かれている。
</div>
<div><br /></div>
<div>
水島寒月は、漱石の弟子でもある寺田寅彦がモデルであるといわれている。『定本漱石全集』の注解には、明治38年2月13日付の寺田寅彦宛書簡に「時に続々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ」とあること、また寅彦には、明治34年2月に「寒月」(冬の季語)を詠んだ句が3句あることが書かれていた。
</div>
<div><br /></div>
<div>
越智東風のモデルについては『定本漱石全集』には書かれていない。私は勝手に「あちこち」から名付けたと思っている。越智東風は小説内で「おちとうふう」という読みの他に「おちこち」という読みもつけていてる。「あちこち」→「おちこち」→「越智東風」ではないだろうか。バルザックが登場人物の名前をつけるために友人とパリの街をあちこち歩き回った話を知っていた漱石は「あちこち」から名前をつけたのではないだろうか。
</div>
<div>
(もうひとつ、捨てがたい案に「おっちょこちょい」→「おちこち」がある。)
</div>
<div><br /></div>
<div>
そして、寒月の「かん」、東風から「とん」、あとは「珍」があれば「とんちんかん」になると第9回で「珍野」と姓を付けたと考えることはできないだろうか。
</div>
<div><br /></div>
<div>直接的な証拠はないが、否定する理由もないので、そう思っておく。</div>
<div><br /></div>
<iframe
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さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-12003037380624260222020-08-02T23:00:00.001+09:002020-08-02T23:00:00.239+09:00頓珍漢仮説夏目漱石『吾輩は猫である』の登場人物の名前の由来のひとつに「とんちんかん」があるのではないか。越智東風の「とん」(「とうふう」と振仮名が振ってあるが、東を「とん」として)、珍野苦沙弥の「ちん」、水島寒月の「かん」で、「とんちんかん」となるのではないか。
<div><br /></div>
<div>
こんな頓珍漢なことを考えている。
<div><br /></div>
<div>
この3人の名前の由来について、どのように付けられたのかということは知らない。漱石自身がどこかに書いているとは聞いたことも読んだこともなく、また他の誰かが書いていたとも記憶にない。
</div>
<div><br /></div>
<div>
ただ、特定の人物ではないが、小説の人名について漱石自身が語っている「小説中の人名」という文章がある。明治41年10月21日付『国民新聞』に掲載されたもので、短い文章なので、以下に全文引用する(新仮名遣いに改めている)。
</div>
<div></div>
<blockquote>
<div> 小説中の人物の名は、却々うまく附けられないものだ。場合によると、あれもいかぬ、之れもいかぬで、二日も三日も、考えてみることもあるが、凝っては思案に能わぬで、大抵はいい加減に附けて了う。
</div>
<div> 恁ういう人物には恁ういう名でなければならぬというような、所謂据わりのいい名というものは、却々無いものだ。早い話が自分の子供の名を附ける場合でも、矢張これならばというような名は、容易に附けえられない。
</div>
<div> この頃は可成判りやすい名を附けるようにしている。源義経とか何の何雄とか、やかましい名は嫌いだ。三四郎とか与次郎とか普通の名の方がいい。
</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
明治41年(1908年)10月というと、『三四郎』が新聞連載中の頃で、三四郎という名が引用文中にも挙げられている。「この頃は可成(なるべく)判りやすい名を附けるようにしている」ということは、以前はいろいろと考えていたことを示していて、それこそ「二日も三日も、考えてみる」こともあったのだろう。
</div>
<div><br /></div>
<div>
『吾輩は猫である』の中で、名前のない猫の主人である先生は最初から登場しているが、苦沙弥先生という名前が出てくるのは第三回で、珍野という姓がわかるのは第九回である。水島寒月と越智東風は第二回に名前付きで登場している。珍野という姓が出てくる場面は、先生宛にいくつか郵便物が届き、それを読んでいる場面であるが、その郵便物の中に「大日本女子裁縫最高等大学院」からの書面があり、その校長の名が「縫田針作」であることがおもしろい。
</div>
<div><br /></div>
<div>
苦沙弥先生の姓を付けるにあたり、「ちん」をつければ、東風の「とん」と寒月の「かん」で「とんちんかん」になると、「珍野」という姓を付けたのではないかというのが、私の(まあ、どうでもいいような)仮説である。
</div><div><br /></div><div>(次回につづく)</div>
</div>
<div><br /></div>
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<div><br /></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-88276815304505984702020-08-01T23:33:00.004+09:002020-08-02T12:07:47.316+09:00ついでに頓珍漢『オデュセイア』での「ウーティス」から、「名無しの権兵衛」を連想し、『ついでにとんちんかん』のキャラクタである「七志野ゴンベエ」を思い出した(<a href="https://sanotomo3.blogspot.com/2020/07/blog-post_31.html" target="_blank">先日の記事</a>では「習志野権兵衛」と書いたが、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93" target="_blank">Wikipedia</a>
で「七志野ゴンベエ」ということを確認した)。
<div><br /></div>
<div>
そして、「とんちんかん」と「名無し」から、夏目漱石『吾輩は猫である』を連想する。そして、自分のなかにある、ある仮説を思い出す。
</div>
<div><br /></div>
<div>
『吾輩は猫である』の登場人物に、越智東風と水島寒月という人物がいるが、そこに苦沙弥先生を合わせると「とんちんかん」になる。越智東風、珍野苦沙弥、水島寒月という登場人物の名前の由来のひとつに「とんちんかん」があるのではないか、という仮説である。
</div>
<div><br /></div>
<div>
漫画『ついでにとんちんかん』では、怪盗とんちんかんという名前は、そのメンバの名前から取られたという設定になっていた。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93" target="_blank">Wikipedia</a>
でメンバのフルネームを確認すると、中東風(ちゅん・とんぷう)、発山珍平(はつやま・ちんぺい)、白井甘子(しらい・かんこ)であった(麻雀牌の白撥中でもあったのですね)。「とんぷう」「ちんぺい」「かんこ」の頭文字で「とんちんかん」となる。
</div>
<div><br /></div>
<div>
同様に、とはいえないが、越智東風の「東」、珍野苦沙弥の「珍」、水島寒月の「寒」で「とんちんかん」だと思ったことがあった。いつ思いついたのかは覚えていないし、ひょっとするとすでに誰かが言っているのを聞いたり読んだりしたのかもしれないが。
</div>
<div><br /></div>
<div>
この仮説が正しいかどうかなど、わかったところで何の足しにもならないけれど、せっかく思い出したことなので、どうにか検証できないかと考えてみる。とりあえず
Web で、「とんちんかん」と「吾輩は猫である」とか登場人物の名前で AND
検索してみるが、それらしき記述は見当たらなかった。
</div>
<div><br /></div>
<div>
そこでまずは、せっかく手元に『定本漱石全集』があるので、名前の由来がどこかに書いていないか探してみようと思う。おそらくはないだろうから、次は『吾輩は猫である』を読みなおして、登場人物の名前の初出箇所を確認することにしてみたい。猫に名前がないように、苦沙弥先生も最初は「主人」とだけで、固有名詞はなかったと思う。寒月と東風は同じくらいに初登場だったはず。
</div>
<div><br /></div>
<div>
そして、『吾輩は猫である』での「とんちんかん(頓珍漢)」の出現ヵ所の確認。何度か出て来たように覚えているが、どこで使われていたのかは覚えていない。
</div>
<div><br /></div>
<div>ひとまず今回は仮説検証の方向性のみ書いておく。</div>
<div><br /></div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=400092821X&linkId=46cbe5312d045f475046a1dbe0c403f3" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><div><br /></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-60356119270055936512020-07-31T23:01:00.002+09:002020-08-02T12:08:29.914+09:00ウーティス発見伝<div>
『英語遊び』を読んで、もう一つ。予想(というより希望か)はしていたけれども、思いがけず出くわしたもの。「ウーティス」についてである。
</div>
<div><br /></div>
<div>
ホメロスの『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスの冒険譚のひとつに、キュプロクス挿話がある。キュプロクス(一つ目の巨人)の住む島に流れついたときの話で、オデュッセウス(とその仲間)はキュプロクスのひとりポリュペーモスに捕まるが、うまく逃げだした話である。
</div>
<div><br /></div>
<div>
話の詳細は省くが、オデュッセウスはポリュペーモスに名前を聞かれ、「ウーティス」と答える。そしてポリュペーモスの一つ目を突き逃げ出す。やられたポリュペーモスは叫び狂う。仲間のキュプロクスたちから「誰にやられた?」と問われたとき「ウーティスにやられた」と答える。しかし「ウーティス」というのは、英語で
Nobody
という意味で、「ウーティスにやられた」というのは「誰にもやられていない」という意味となる。なので、仲間のキュプロクスたちの助けが得られなかった。
</div>
<div><br /></div>
<div>
この話を読んだとき、おもしろいと思ったのだが、この「ウーティス」を日本語に訳すのはむずかしいと思った。訳注を読んでやっと「おもしろい」と思えたのだ。英語だったら「ノーバディ」という名前はちょっと苦しいかもしれないが、「ノーマン」とすればいいだろう。しかし日本語ではどうか。「名無しの権兵衛」(『ついでにとんちんかん』という漫画に習志野権兵衛というキャラクタがいたと思う)とか「笹内(刺さない)という苗字はどうか」とか考えたが、これといったアイデアは浮かばなかった。
</div>
<div><br /></div>
<div>
しかし、柳瀬さんの書いた本を読んだとき、柳瀬さんなら訳せるのではないかと思った。というより「もう訳しているはずだ」と勝手に思った。訳すというよりは「もう考えているはず」の方が適切かもしれない。
</div>
<div><br /></div>
<div>
完訳とはならなかったが、柳瀬さんはジョイスの『ユリシーズ』を訳していた。ユリシーズは、オデュッセウスの英語名である。柳瀬さんが『オデュッセイア』を知らないはずはない。読んでいないとしても、キュプロクス挿話やウーティスの話は有名であるので知っているはずだ。そして知っているならば、考えていないわけがない。
</div>
<div><br /></div>
<div>
ただ、柳瀬さんがギリシア語を知っていたかどうかは知らないが、「翻訳は実践である」という柳瀬さんが「ウーティス」のところだけ取り出して「こう訳すことができる」と述べることはないだろうとも思っていた。このようにいうときは、ホメロスの『オデュッセイア』を全訳すると決めたときか、まったくの余談としていうかのどちらかであろうと。
</div>
<div><br /></div>
<div>
そして、『英語遊び』のなかで「ウーティス」に出会った。柳瀬さんは「想像をたくましくして」3通りの訳(訳というよりは、翻訳の方向性みたいなもの)を示していた。どれも、なるほど面白いと思えるものだ。
</div>
<div><br /></div>
<div>
しかしそれよりも、驚いたことがある。柳瀬さんが書いている次の文である。
</div>
<div>
<blockquote>
名前といえば、話は飛ぶが――というより、話を故意に古代ギリシアへもっていくと、名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた英雄がいる。ホメロスの大叙事詩『オデュッセイア』の主人公、オデュッセウスだ。
</blockquote>
</div>
<div>名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた?!</div>
<div><br /></div>
<div>
私はずっと、オデュッセウスはとっさの機知により「ウーティス」と名乗ったと思っていたが、どうやら、名前を聞かれたオデュッセウスは「名乗るほどの者ではありません」というという意味で「ウーティス」といい、ポリュペーモスが「そうか、ウーティスか」と勘違いをしたということらしい。機知が身を助けたと思っていたが、偶然助かったと考えられるのか……。
</div>
<div><br /></div>
<div>
ジョイスの『ユリシーズ』第12章は「キュプロクス挿話」と呼ばれていて、柳瀬さんが語り手は犬ではないかという「発犬」をしたことは有名である(『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』参照)。「ウーティス」がオデュッセウスの機知ではなく、ポリュペーモスの勘違いであることを知ったとき、私のなかで「発犬伝」とつながった。だから「キュプロクス挿話」なのだと。(この辺りを書いていると、どんどん長くなりそうなので、今日はこれくらいに)
</div>
<div><br /></div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4309405363&linkId=c79f973e89df0c0c15af954eaf00b6a9" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4004304296&linkId=4c8acf6db8e81e653c3d98fa08e70fac" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><div><br /></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-86954992211923988002020-07-30T23:25:00.001+09:002020-07-30T23:25:59.421+09:00語呂つきシェイクスピア柳瀬尚紀『英語遊び』のなかに、シェイクスピア作品についての言及があった。
<div>
<blockquote>
英語圏の最大の語呂つきは、いうまでもなくシェイクスピアだろう。語呂つきの元締めのごときこの大物は、おびただしい数の語呂つきを世に送った。
</blockquote>
</div>
<div>
ここでは、2つの例を挙げている。ひとつは『ロミオとジュリエット』のマーキュシオの例、もうひとつは『十二夜』のサー・トービー・ベルチの例である。柳瀬の訳ではなく、小田島雄志訳が掲載されている。
</div>
<div><br /></div>
<div>
幸い手元には、松岡和子訳のシェイクスピア全集(ちくま文庫)があるので、該当の個所を比べてみたい。以下に引用する英文と小田島訳は、柳瀬の『英語遊び』からの孫引きである。
</div>
<div><br /></div>
<div>
まずは『ロミオとジュリエット』。第3幕第1場で、マーキュシオはティボルトに剣で刺される。そのときのマーキュシオの台詞である。
</div>
<div>
<blockquote>
……ask for me to-morrow, and you shall find me a grave man.
</blockquote>
</div>
<div>『英語遊び』にある小田島訳は以下。</div>
<div>
<blockquote>
ためしに明日、おれを訪ねてみろ、はからずも墓に眠る変わりはてたおれの姿をみとめるだろう。
</blockquote>
</div>
<div>松岡訳は次のようになっている。</div>
<div>
<blockquote>明日、俺に会いにきてみろ、はかなく墓に納まってるよ。</blockquote>
</div>
<div>
grave
が「大真面目な、おごそかな」という意味であると同時に「墓」の意味でもあることをつかったマーキュシオの台詞であるが、小田島も松岡も、語彙は異なるものの「はからずも」「はかなく」と「墓」と掛けた言葉を使っている。
</div>
<div><br /></div>
<div>
『十二夜』はマライアとトービーの会話。第1幕第3場より(人名の太字は筆者)。英語の説明は省略。
</div>
<div></div>
<blockquote>
<div>
<b>Maria</b> By my troth, Sir Toby, you must come in earlier o'
nights: your cousin, my lady, takes great exceptions to your ill hours.
</div>
<div><b>Sir Toby</b> Why, let her except, before excepted.</div>
<div>
<b>Maria</b> Ay, but you must confine within the modest of
order.
</div>
<div>
<b>Sir Toby</b> Confine! I'll confine myself no finer than I am:
these clothes are good enough to drink in; and so be these boots too: an
they be not, let them hang themselves in their own straps.
</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>小田島訳は以下(人名の太字は筆者)。</div>
<div><b></b></div>
<blockquote>
<div>
<b>マライア </b>それより、ねえ、サー・トービー、毎晩もっと早くお帰りにならなくては。あなたの姪のお嬢様も、あんまり遅いんでご機嫌が悪いわよ。
</div>
<div>
<b>トービー </b>こっちはキリスト紀元以来のいい機嫌なんだ、いいかげんにしろと言いたいな。
</div>
<div>
<b>マライア </b>でも限度ってものがあるわ、それを越えないようご自分に言いふくめることね。
</div>
<div>
<b>トービー </b>いいふくめる? おれの服はいい服だぜ、ふくいくたる酒を注ぎこむこのふくよかな腹を包むにゃ不服はない。靴だってそうさ、この靴がおれにキュークツな思いをさせるなら、屈辱を感じててめえの靴紐で首を締めればいいんだ。
</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
マ「ご機嫌が悪い」、ト「紀元以来のいい機嫌」、マ「言いふくめる」、ト「いい服……ふくいくたる……ふくよかな……不服はない。靴だってそうさ……キュークツ……屈辱……靴紐」と語呂つく。
</div>
<div><br /></div>
<div>松岡は次のように訳している。</div>
<div>
<div><b></b></div>
<blockquote>
<div>
<b>マライア </b>それよりね、サー・トービー、夜はもっと早くお帰りにならなきゃ。あんまり遅いんで、お嬢様はおかんむりですよ。
</div>
<div><b>トービー </b>へん、何がおかんむりだ、早帰りなんざ無理だ。</div>
<div>
<b>マライア </b>だけど、限度ってものがあります。少しは身をつつしんでいだかかなきゃ。
</div>
<div>
<b>トービー </b>身をつつしむ? これ以上いい服に身を包むなんざごめんだね。酒飲みの土手っ腹包むにゃこれで十分。靴だってそうだ、この靴が理屈こねて俺を退屈させるようなら、てめえの靴紐で首くくれってんだ。
</div>
</blockquote>
<div>
こちらは、マ「おかんむり」、ト「無理」、マ「身をつつしんで」、ト「身を包む……土手っ腹包む……。靴……理屈……退屈……靴紐」と語呂つく。引用して気づいたが、「つつしんでいだかかなきゃ」は「つつしんでいただかなきゃ」の誤植だろうか。
</div>
<div><br /></div>
<div>松岡は「訳者あとがき」で次のように書いている。</div>
<div>
<blockquote>
翻訳の過程で、自分でも思いがけないほどノッたのは、磊落さの化身、サー・トービーの台詞。彼一流の言葉遊びを訳すのはひと苦労だったけれど、ファイトの湧く楽しい作業だった。</blockquote>
<div>
『十二夜』には、このブログで引用したところ以外にも、言葉遊びはまだまだありそうだ。もちろん『十二夜』以外にも。
語呂つくシェイクスピアも楽しみたい。
</div>
<div> </div>
</div>
<div></div>
</div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4309405363&linkId=04b3317dcd0296dc0e2bf52e588e5bbe" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4480033025&linkId=922981e16615cef698add4b427d87382" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4480033068&linkId=f443d6143564c8922258a364fb0f3d13" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><br />さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-33733523297386202592020-07-29T20:54:00.000+09:002020-07-29T20:54:06.413+09:00苦労す稚句にチクチク弄す昨日「<a href="https://sanotomo3.blogspot.com/2020/07/blog-post_28.html" target="_blank">ああ苦労す知句</a>」とつけた記事の最後に、自作のアクロスティック(ああ苦労す稚句ともいえる)を載せている。清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」にあった「柳瀬買い」という語句をつかった、柳瀬尚紀さん、清水義範さんへのオマージュのつもりである。
<div><br /></div>
<div>
ところが、柳瀬さんの『英語遊び』を読み、清水義範さんの文庫解説を読むと、アクロスティックではないが、「柳瀬買い」が使われていた。「使われていた」と書いたけれども、使ったのはこちら(私)である。(以下の引用文の太字部分は、実際は太字ではなく傍点がふってある。)
</div>
<div></div>
<blockquote>
<div> こういう怪人を見て、こういう怪書を読んでしまえば、私がかつて『船が洲を上へ行く』という短編の中にこっそりとしのばせておいた言葉遊びを、もう一度やりたくなるのである。
</div>
<div>
「英語に弱い人間にはこの世は<b>やな世界</b>だけれど、こんなに楽しい文庫本が出てしまったからには、だんぜん<b>柳瀬買い</b>である」
</div>
<div></div>
</blockquote>
<div>
もともと「船が洲を上に行く」で使われていた箇所も、「やな世界」という言葉を文字って「柳瀬買い」と書いていて、清水さんが文庫解説を書いているのは知っていたので、解説のなかで「柳瀬買い」を使うことは予想できたはずなのに、予想しなかった自分が悪い。いや、悪くはないが、決まりが悪い。
</div>
<div><br /></div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4480021396&linkId=f1ff2e8a1c430cd1b16819d2cd25a904" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4309405363&linkId=e8c1aef8d8a37109a9293267afea6460" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4062632594&linkId=863aef2dd807785084180805e8002572" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe>
<div><br /></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-62742536867275171812020-07-28T23:40:00.001+09:002020-07-28T23:41:30.378+09:00ああ苦労す知句ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』の巻頭に次の詩がある。柳瀬尚紀による訳も続けて引用する(ちくま文庫『シルヴィーとブルーノ』より)。<div></div>
<blockquote>
<div>Is all our Life, then, but a dream</div>
<div>Seen faintly in the golden gleam</div>
<div>Athwart Time's dark resistless stream ?</div>
<div><br /></div>
<div>Bowed to the earth with bitter woe,</div>
<div>Or laughing at some raree-show,</div>
<div>We flutter idly to and fro.</div>
<div><br /></div>
<div>Man's little Day in haste we spend,</div>
<div>And, from its merry noontide, send</div>
<div>No glance to meet the silent end.</div>
<div><br /></div>
<div>あらゆるわれらの人生は、すると夢にすぎないか</div>
<div>一条の金色の光の中にかすかに見えるのみか</div>
<div>残忍な時の暗流をよぎって</div>
<div><br /></div>
<div>暴虐なる憂いに頭をたれ、あるいは</div>
<div>浮かれ気分で覗き眼鏡に笑いはしゃぎ</div>
<div>漫然とわれらうろつくのみ</div>
<div><br /></div>
<div>慌しく人の短き日を過ごし</div>
<div>いとも陽気な真昼から、われら</div>
<div>ざわめきの絶える終わりを一瞥もせず</div>
</blockquote>
<div>この詩はアクロスティック(acrostic)になっているという。各行の最初の文字を順に並べると
Isa Bowman となる。Isa Bowman
はキャロルのガールフレンド(少女友達)の名前である。さらに正確には double
acrostic となっていて、各連の最初の三文字をあわせても Isa Bowman
となる。各行の最初の文字を太字に、各連の最初の三文字を赤文字にしたものを以下に挙げる。
</div>
<div>
<div><b></b></div>
<blockquote>
<div>
<font color="#ff0000"><b>I</b>s a</font>ll our Life, then, but a dream
</div>
<div><b>S</b>een faintly in the golden gleam</div>
<div><b>A</b>thwart Time's dark resistless stream ?</div>
<div><br /></div>
<div>
<font color="#ff0000"><b>B</b>ow</font>ed to the earth with bitter woe,
</div>
<div><b>O</b>r laughing at some raree-show,</div>
<div><b>W</b>e flutter idly to and fro.</div>
<div><br /></div>
<div>
<font color="#ff0000"><b>M</b>an</font>'s little Day in haste we spend,
</div>
<div><b>A</b>nd, from its merry noontide, send</div>
<div><b>N</b>o glance to meet the silent end.</div>
</blockquote>
<div>
柳瀬は Isa Bowman
を「アイザ・ボウマン」と読み(正確な読みはわからないらしい。「アイサ」かもしれないし「イサ」かもしれない)、各行の冒頭を「ア・イ・ザ/ボ・ウ・マ・ン/ア・イ・ザ」となるように訳している。
</div>
<div><br /></div>
<div>
さらに柳瀬は、「こう翻訳した本人が、いまひとつ気に入らない」として、『英語遊び』のなかで「総ひらがな方式」での訳を挙げている。
</div>
<div></div>
<blockquote>
<div>ありとあらゆるわれらのじんせ</div>
<div>いはするとはかなきゆめにすぎ</div>
<div>ざるかときのあんりゆうにうす</div>
<div>ぼんやりひかるがみえるのみか</div>
<div>うれいごとにこうべをたれはた</div>
<div>またのぞきめがねにたわむれあ</div>
<div>んいにひびをおくるわれらなり</div>
<div>あわただしくもひをすごしつつ</div>
<div>いちべつすらあたえることをせ</div>
<div>ざるなりおわりなるちんもくに</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
漢字交じりの文で書くと、「ありとあらゆるわれらの人生は、すると、はかなき夢にすぎざるか、時の暗流にうすぼんやり光るが見えるのみか、憂いごとに頭をたれ、はたまた覗き眼鏡にたわむれ、安易に日々を送るわれらなり、あわただしくも日を過ごしつつ、一瞥すら与えることをせざるなり、終わりなる沈黙に」となる。
</div>
<div><br /></div>
<div>こんなものを見せられると、何かつくってみたくなる。「やなせなおき」でつくってみる。</div>
<div></div>
<blockquote>
<div>やなせかいとひらがなでかくとや</div>
<div>なせかいとよみがちなのであとで</div>
<div>せいかくにかんじをかかなければ</div>
<div>なおきまりわるくぼくのこころは</div>
<div>おれそうになるもののかんじをか</div>
<div>きあらわすならやなせかいである</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
まったく詩的ではなく、私的な文章となった。「やなせかいと平仮名で書くと、嫌な世界と読みがちなので、あとで正確に漢字を書かなければ、なおきまり悪く、僕のこころは折れそうになるものの、感じを書き表すなら柳瀬買いである。」
</div>
<div><br /></div>
<div>
なお「柳瀬買い」は、清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」より拝借した。「船が洲を上へ行く」が収録されている短編集『私は作中の人物である』(講談社文庫)の解説を柳瀬さんが書いていることは知っていたが、柳瀬さんの『英語遊び』(河出文庫)の解説を清水さんが書いていることに驚いた。以下は「船が洲を上へ行く」からの引用である(本文は総ルビで書かれているがここでは省略している)。</div><div><blockquote>この錯品のように是論から書くのではなく、原文にそう胃う意身の多汁性があるのを、こちらの孤島歯に置き帰ていくんだからモノ凄い。多駄田だ、驚学する秤りである。柳瀬買いである。</blockquote></div>
<div><br /></div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4480021396&linkId=f1ff2e8a1c430cd1b16819d2cd25a904" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4309405363&linkId=e8c1aef8d8a37109a9293267afea6460" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4062632594&linkId=863aef2dd807785084180805e8002572" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe>
<div></div>
</div>
<div></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-89979695363391673432020-07-27T21:06:00.002+09:002020-07-27T21:06:59.430+09:00購入本ブックオフで本を購入。読んでいない本もある中、新たに購入するのはどうだろうかと後ろめたい気もするが、背に腹は変えられぬと、よくわからない理屈をつける。<div><br /></div><div>本はたいてい背を向けて書店に並んでいるものだ。</div><div><br /></div><div><div>●清水義範『私は作中の人物である』(講談社文庫)</div><div>●井上ひさし『私家版 日本語文法』(新潮文庫)</div><div>●正岡子規『歌よみに与ふる書』(岩波文庫)</div><div>●正岡子規『墨汁一滴』(岩波文庫)</div><div>●正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫)</div><div>●三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)</div><div>●ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』(評論社)</div><div><br /></div><div><div>●清水義範『私は作中の人物である』(講談社文庫)</div><div>柳瀬さんの『翻訳は実践である』に、清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」への賛辞が載っていた。短編集『私は作中の人物である』の文庫版解説として書かれた文章である。そのため、機会あれば「船が洲を上へ行く」を読んでみたいと思っていたので、『私は作中の人物である』を見つけたとき、すぐに手に取った。</div><div><br /></div><div>●井上ひさし『私家版 日本語文法』(新潮文庫)</div><div>ブックオフに行くたびに目が留まっていたもの。読んではみたいが、どうしても読みたいというわけでもなく、自分ルールの「迷ったときは第1版第1刷なら買い」で外れることが多かった。今回も自分ルールに外れてはいたが、今回買った他の本も含め「機会あれば」というものばかりであったので、この際買っとけと思い購入。言葉、特に文法関係は好きな分野。</div><div><br /></div><div>●正岡子規『歌よみに与ふる書』『墨汁一滴』『病牀六尺』(岩波文庫)</div><div>少し前に、正岡子規の『仰臥漫録』(岩波文庫)を買った。まだ少ししか読めていないが、『仰臥漫録』は子規の日々をつづった記録といった内容で、死を前にした病床でのことであることを思えば俳句にかける情熱というか、そのようなものを感じる。ただ、俳句の良し悪しとか、まだいま一つわかっていないので、子規の歌論みたいなものはないかと『歌よみに与ふる書』を読んでみようと思った。『墨汁一滴』『病牀六尺』は『仰臥漫録』と同じ系統の本であろうと思うが、ここで出会ったのも何かの縁と思い購入。こちらは読書欲より収集欲の方が強い。</div><div><br /></div><div>●三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)</div><div>WEB上で、最新の『ビブリア古書堂の事件手帖』で、横溝正史が題材として取り上げられているという記事を見た。それが頭に残っていたのか、ブックオフで見かけたときに、読んでみようと思って手に取った。本の物語の物語を味わってみたい。</div><div><br /></div><div>●ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』(評論社)</div></div><div>ティム・バートン監督が映画化したことで知っている人も多い作品。ダールについてはかなり前に『あなたに似た人』を読んだことがあるけれど、内容は思い出せない。「奇妙な味」の短編集といった記憶。柳瀬尚紀訳ということで購入。<br /><br /></div></div>さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-86445618238418023142020-07-26T22:50:00.000+09:002020-07-28T23:42:33.010+09:00独知の噬臍『広辞苑を読む』のまえがきで、柳瀬さんが「広辞苑を信じるあまり、間違った文章を活字にしてしまったことがある」と書いていました。
<div></div>
<blockquote>
<div> ジョイスの『ユリシーズ』に出てくる agenbite of inwit
という中世英語について書いたときだった。
</div>
<div> この妙な英語は、「内-知の再-噛(あるいは噬)」とも分解できる言い回しで、意味は「良心の呵責」。現代英語の感覚からは、一瞬、「おや?」もしくは「はて?」と思わせるような、忘れられた言葉である。その「おや?」「はて?」を翻訳するために、拙訳『ユリシーズ①-③』(河出書房新社)では、「独知の噬臍」という訳語を用いた。
</div>
<div> その訳語について、こう書いてしまったのだ。</div>
<div>
<blockquote> 独知? 『広辞苑』にも『大辞林』にも、これはある。忘れられた言葉、西周の訳語である。<br />
<div style="text-align: right;">
(『翻訳は実践である』あとがき・河出文庫)
</div>
</blockquote>
</div>
</blockquote>
<blockquote>
<div> 初版から第五版にいたるまで、広辞苑に「独知」の項目はない。</div>
<div> 大辞林、大辞泉にはある。『翻訳は実践である』の読者各位にここでお詫び申し上げたい。
</div>
</blockquote>
<div></div>
<div>
「誰に指摘されたのでもなく自分でこの失錯を見つけ」た柳瀬さんは「独知の噬臍」を感じたのでしょうか、自分の誤りを認め、それを詫びています。「独知」の項目が『広辞苑』にあろうとなかろうと、他に載っている辞書があり、西周がつくった
conscience
の訳語があり、現在は使われていない、ということには変わりありません。こんな細かいところにまで気を使わなくともいいのではないかと思ったところで、「翻訳は細部に宿る」という柳瀬さんがどこかに書いていた言葉を思い出しました。
</div>
<div><br /></div>
<div>
「翻訳は細部に宿る」と『翻訳は実践である』のなかで言っていたかもしれないとも思い、また、上記「独知」の個所も確認して書き込みでもしておこうと思い、『翻訳は実践である』をひっぱり出してきました。
</div>
<div><br /></div>
<div>まずは「独知」のところからと「あとがき」を見ようとしたところ、無い。</div>
<div><br /></div>
<div>目次を見ても「あとがき」はありません。</div>
<div><br /></div>
<div>
ただ、冒頭で引用した独知のくだりはどこかで読んだ記憶がある。「あとがき」ではなく、『翻訳は実践である』の別の個所だろうと、本の後ろの方から探しはじめてみました。
</div>
<div><br /></div>
<div>
引用文の該当の個所は、『翻訳は実践である』所収の「再び、翻訳とは実践である」という文章のなかにありました。河出文庫の『翻訳は実践である』の付記によると、「再び、翻訳とは実践である」の初出は、メタローグという会社から1996年10月に出版された『翻訳家になる!』という本で、初出時のタイトル「翻訳は実践である」を改題したものであることが書かれています。
</div>
<div><br /></div>
<div>
『翻訳は実践である』は、もともと1984年5月に白揚社より単行本として刊行されたもので、文庫化にあたり、「再び、翻訳は実践である」など、雑誌等に掲載されていたいくつかの文章が加えられています。純粋な(?)「あとがき」ではありませんが、柳瀬さんは『翻訳は実践である』のあとがきを念頭において「(再び、)翻訳は実践である」という文章を書いたといえなくもありません。
</div>
<div><br /></div>
<div>
柳瀬さんは勘違いで「あとがき」と記したのでしょうか。それとも意図的でしょうか。
</div>
<div><br /></div>
<div>「再び、翻訳は実践である」を読み直したところ、次の一節がありました。</div>
<div>
<blockquote> 翻訳は実践である、と、これまでさまざまな場所で何度か書いてきた。また、そういう姿勢を貫いてきたつもりだ。いま、それをこう言い換えてもいいかもしれない。翻訳は実力である、と。ここで実力とは、読解力や表現力のみならず、集中力や注意力や視力までもふくめたものだ。あるいは、努力(という実は筆者の好かない言葉)をふくめてもいい。
</blockquote>
</div>
<div>
いま、このブログに書いていることは翻訳ではありませんが、自分自身のまだ言葉になっていないところを、自分の知っている他の人にも伝わる言葉で表そうとしていると考えると、広い意味で翻訳と考えることができます。そして、書いていることが実践であり、実力です。
</div>
<div><br /></div>
<div>
『翻訳は実践である』の「あとがき」を確かめるのも実力で、『広辞苑』に「独知」の項目がなく、『大辞林』『大辞泉』には「独知」の項目があることを確認していないのも実力です。
</div><div><br /></div><div>ちなみに「翻訳は細部に宿る」という言葉は、『翻訳はいかにすべきか』で見つけました。</div>
<div><br /></div>
<iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4166600818&linkId=a4aac3c546a9a01a85c1e5324cdd5580" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4309404952&linkId=f4f1c093177781246bff4f1e5eb649c5" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe frameborder="0" marginheight="0" marginwidth="0" scrolling="no" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4839810168&linkId=82a666faa89b1cd14744d818edd261ff" style="height: 240px; width: 120px;"></iframe><iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=sanotomo3-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4004306523&linkId=3bf0e2e454e8648c3cf2fabd28b8a5aa"></iframe><div><br /></div>
さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-59736207310420752562020-07-25T22:43:00.001+09:002020-07-25T22:43:39.471+09:002020/7/25購入本立て続けに本を買っている。読書欲もあるのだが、どちらかというと収集欲・所有欲の方が強く、特にここ数年は文庫・新書本を中心に柳瀬尚紀さんの著書・翻訳書を集めている。
<div><br /></div>
<div>
今回は、有効期限切れとなりそうなポイントを利用しての購入。Amazon
マーケットプレイスでの中古本で、柳瀬さん関連の本ばかり。当然ながら未読。
</div>
<div><br /></div>
<div>●柳瀬尚紀『英語遊び』河出文庫</div>
<div>●筒井康隆・柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』河出文庫</div>
<div>●柳瀬尚紀『広辞苑を読む』文春新書</div>
<div>●ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』ちくま文庫</div>
<div><br /></div>
<div>
購入動機は、柳瀬さんの本だからというのが一番強いが、それだけでは少し味気ないので、それぞれについて思うところを書いておこう。
</div>
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<div>●柳瀬尚紀『英語遊び』河出文庫</div>
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柳瀬さんは、ルイス・キャロルの翻訳を中心に、数々の英語の言葉遊びを、日本語の言葉遊びに翻訳している。この『英語遊び』は、おそらく、それまでに柳瀬さんが翻訳してきた英語の言葉遊び、そして日本語の言葉遊びの集成のようなものではないかと思っている。日本語の天才ぶりを読みたい。
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<div><br /></div>
<div>●筒井康隆・柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』河出文庫</div>
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ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳を総ルビとしたのは、筒井康隆さんの助言であった(と、どこかに書いてあったと記憶している)。この対談中のことであるかのかどうかは不明。筒井さんの本は『文学部唯野教授』を読んだことがあるだけ。いろいろな文学理論がユーモアをふんだんに織り交ぜて書かれており、おもしろかった。『ロートレック荘事件』は読んでみたい本に入れているが、まだ手にしていない。実験的な小説をよく書いているという印象がある。筒井さんと柳瀬さんがどのようなことを話題に、どのような話をしているのかに興味がある。
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<div><br /></div>
<div>●柳瀬尚紀『広辞苑を読む』文春新書</div>
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柳瀬さんに、辞書を読む楽しさを書いた『辞書はジョイスフル』という本がある。『広辞苑を読む』は、その『広辞苑』版のようなものではないかと思う。柳瀬さんの本やエッセイの内容は、そのときに実践中の翻訳から具体例を取り出してくることが多いので、『広辞苑を読む』もその執筆中に取り組んでいる翻訳の内容となっているだろう。『辞書はジョイスフル』ではタイトルが示すとおりジョイス(『フィネガンズ・ウェイク』だったと思う)の翻訳での出来事が書かれていた。『広辞苑を読む』ではどうだろうか。
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<div>●ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』ちくま文庫</div>
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『日本語は天才である』で、天才と思ったきっかけのひとつとして、『シルヴィーとブルーノ』の翻訳での出来事が描かれていた。EVIL
を逆から読むと LIVE
となることが物語のなかに埋め込まれていて、それをどのように翻訳したかという出来事である。このことから、そしてキャロルという作家から、『シルヴィーとブルーノ』にはいろいろな言葉遊びが織り込まれていることは想像できる。『シルヴィーとブルーノ』の原文は手元にないが、英語の言葉遊びをどのように翻訳しているのか、言葉遊びをどのように物語の中に織り込んでいるのかを中心に読んでいきたい。
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さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6132466899757737587.post-45124771546804376552020-07-24T22:49:00.000+09:002020-07-28T23:43:04.051+09:00滑稽的美感<div>
夏目漱石『吾輩は猫である』のなかに「滑稽的美感」という言葉が出てきます。出てくるのは次に引用する箇所で、通称「アンドレア・デル・サルト事件」の真相を述べたあとの迷亭のセリフです。(ここでは読みやすいよう一部表記変更して引用しています。)
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<blockquote>
「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑発するのは面白い。先達てある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったらそ学生が又馬鹿に記憶の善い男で日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが皆熱心にそれを傾聴して居った。それからまだ面白い話がある。先達て或る文学者の居る席でハリソンの歴史小説セオファーノの話が出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬまでは鬼気人を襲う様だと評したら僕の向こうに坐って居る知らんと云った事のない先生がそうそうあそこは実に名文だといった。それで僕はこの男も矢張僕同様この小説を読んで居らないという事を知った」
</blockquote>
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定本漱石全集の第1巻『吾輩は猫である』では「滑稽的美感」についての注解があり、そこには次のように書かれていました。
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<blockquote>
<b>滑稽的美感</b>
おどけたなかに感動させる味わいがあること。『文学論』第二編第三章「fに伴う幻惑」において、「文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれて存する事あり」と述べた内容が、「滑稽的美感」の説明に相当する。談話『滑稽文学』に「滑稽と云うものは唯駄洒落と嘲笑ばかりではあるまいと思う。深い同情もなければならぬ。読む人に美感をも与えなければならぬ」ともいっている。
</blockquote>
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そこで『文学論』を読みはじめたのですが、どうも六づかしい。漱石は『文学論』において、文学的内容の形式を(F+f)という公式で表しています。第二編第三章の章題「fに伴う幻惑」のfとはこの公式(F+f)のfのことです。Fは
Focus(焦点)(あるいは、Fact(事実))、fは
feeling(情緒)ではないかと考えられています。第二編第三章は「f其物の性質の細目に亘りて」論及するとして章を割いていますが、この章だけを読んだだけではよくわかりませんでした。
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北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のなかで、テレビのNG集について言及されていたところがありました。
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<div>
<blockquote>
《確かに面白いけれど、人の失敗を見物するのは、いい趣味ではない。高みから笑う感じになるから》と書きました。しかし、個々の番組を見ると、そうともいえない。これは、テレビという、映画や舞台よりも身近な媒体が開発した、特殊な分野だ――と思えたのです。
</blockquote>
</div>
<span></span>
<div>
「《いい趣味》ではないが、しかし、親しみの笑いです」といいます。しかし、NGは「本来、見られない筈のもの」です。見る側にとっては、見られない筈のものであればあるほど、見たくなるものですが、見られる側にとっては見せたくないものです。NGは芸ではありません。北村さんは続けます。
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<div>
<blockquote>
商品として見せるからには、芸でなければなりません。NGは違う。となれば、それを芸にするのは、番組を製作する人間です。いかに構成するかが勝負でしょう。いい間違いや、台詞に詰まった場面を、だらだら並べても仕方がない。こういった番組にこそ、心地よい機知と愛情が不可欠なのです。
</blockquote>
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親しみの笑い。心地よい機知と愛情。これが「滑稽的美感」ではないかと感じました。
</div>
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<div>
迷亭は、ただ冗談をいって笑っているだけではない。迷亭の冗談を真に受けて写生する苦沙弥先生や、演説する学生、知ったかぶりをする文学者の先生を、あざ笑うのではなく、親しみを込めて笑っているのです。「滑稽なことをしているが、それは美徳だ」と笑っているように思えます。
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<div><br /></div>
<div>迷亭は美学者です。「滑稽的美学者」と呼んでもいいかもしれません。</div>
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さのともhttp://www.blogger.com/profile/04443248537443118598noreply@blogger.com0