2012/12/24

エレファントカシマシ『THE BEST 2007-2012 俺たちの明日』

いつも長い、文章ばかりの記事を書いているので、たまにはちょっとしたことも書いてみようかと。


エレカシのベストが発売されました!

初回限定盤2種類を含む3種類あり。

迷った挙げ句、初回限定盤Bを購入です(^^)

THE BEST 2007-2012 俺たちの明日(初回限定盤A)(DVD付)
THE BEST 2007-2012 俺たちの明日(初回限定盤A)(DVD付)

THE BEST 2007-2012 俺たちの明日(初回限定盤B)(DVD付)
THE BEST 2007-2012 俺たちの明日(初回限定盤B)(DVD付)

THE BEST 2007-2012 俺たちの明日
THE BEST 2007-2012 俺たちの明日


最近、音楽をあまり聞いておらず、久々にCDを買いました。

ラストの曲「ズレてる方がいい」が好きです。

映画『のぼうの城』の主題歌なんですね(^-^;)

そんなことすら知らないほどの、ファンです…。

ホントのファンには叱られそうですが。
オフィシャルサイト:http://www.elephantkashimashi.com/

2012/12/23

わもんな言葉21-サウンドチューニング

最近はないですが、カラオケに行ったことがあります。

曲に合わせて歌うのですが、私の場合、妙に高い声になります。

多分、キーが合っていないということでしょう。

元々が低い声なので、曲に合わせると高くなるのだと思っています。

カラオケの機械には、キーを上げたり下げたりする機能もついていますが、どのくらい上げたり下げたりすれば自分のキーに合うのかわからないので、触ったことはありません(^-^;)


音楽でキーというのは、その曲の基準音です。

基準となる音のことをキーといいます。

キーが合っていないというのは、先のカラオケの例でいうと、その曲の基準音と私の基準音が合っていないということになります。

ということは、人にもそれぞれ基準音があるということです。


最近、わもんで「サウンドチューニングトレーニング」ということをやっています。

実際に体験したことはまだありませんが、相手(話し手)の音に自分(聞き手)の音を合わせるトレーニングです。

相手のキーに、自分のキーを合わせるトレーニングです。


なぜ話し手のキーに合わせるのか?


ひとつの理由としては、ペーシングの効果と同じことがいえると思います。

キーを合わせることで、話し手は自分のペース、自分のキーで話すことができます。

話し手がキーを合わせようとすることは、冒頭のカラオケの例でいうと、その曲に自分の声を合わせようとすること。

話し手は、どこか無理をしてしまったり、「合っていないな」と違和感を感じたりしながら話すことになります。

ともすれば、自分の話に自信が持てなくなったりするかもしれません。

そのような話し手の心配事を取り除くようにすること、話し手が安心して話をするような環境を作ることが聞き手の役割です。


キーを話題にしたのでもうひとつ。

音楽、曲には、「キー」の他に「スケール」というものがあります。

「キー」は音ですので「ド」「レ」「ミ」など、西洋風にいうと「C」「D」「E」など、和風にいうと「ハ」「ニ」「ホ」などで表します。

「ド」の音は、西洋風では「C」、和風では「ハ」。


で、よく「ハ長調」とか「イ短調」とかあります。

西洋風にいうと、「Cメジャー」「Aマイナー」です。

ここでの「長調(メジャー)」「短調(マイナー)」が「スケール(音階)」です。

「メジャースケール」とか「マイナースケール」などといいます。


「長調」は楽しく明るい調子、「短調」は暗く思い調子、というような印象ですが、スケールというのは、どのような音階を使っているのかを表わします。

「ドレミファソラシド」というのはスケールのひとつで、「ド」を基準音(つまり「キー」)とした「音階(ここでは「メジャースケール」)」となります。

あまり詳しくはありませんし、言葉での説明も難しいですが、基準音の「ド」から1オクターブ高い(あるいは低い)「ド」の間でどのような音を使っているのか、というのが「スケール」です。

ピアノの鍵盤を思いうかべるとわかりやすいかもしれませんが、「ド」から1オクターブ高い「ド」まで、白い鍵盤と黒い鍵盤は合わせて12個あります。

このうちの白い鍵盤の音のみを使ったのが「Cメジャースケール」です。

スケールにもいろいろあります。


先の「サウンドチューニングトレーニング」がキーを合わせるトレーニングとすれば、(今のところ名前しか知らない)「サウンドウェーブチューニング」というトレーニングは、スケールも合わせるトレーニングのような気がします。

いや、「耳コピ」の方が近いかもしれません。


話し手の「キー」と「スケール」に合わせて、聞き手がハモると、話し手はさらに歌いやすく(話しやすく)なるのではないでしょうか。

ジャムセッションなどもできそうです。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2012/12/13

2012年の振り返りと2013年の目標設定

12月も中旬になり、2012年も終わりに近づいてきました。

現在、仕事では振り返りのためバタバタとしております。

今までの振り返りというものが、かなりアバウトなものであったことを痛感しております。

PDCAサイクルが大切だ、と頭ではわかっていて、人にもよく言うことがあるのですが、自分自身まだまだできていないということを再認識しています。


そんなこともあり、昨年末に1年の振り返りをブログに書いたことを思い出しました。

ちょっと早いですが、来年の目標や計画をしっかりと考え実行するという意味で、今年の振り返りを行ないたいと思います。


まずは、昨年末のブログ記事を確認。

昨年2011年から始めたこととして、大きく3つのことを書いています。


ひとつ目は「マラソン」について。

記事を書いた時点では、2つの目標があります(「目標」という言葉は出していませんが…)。

「フルマラソン完走」と「フルマラソン4時間切り」です。

フルマラソン完走については、評価を迷うところ。

昨年末の記事に書いているように、今年3月に初挑戦しましたが、リタイア…(「フルマラソン挑戦」参照)。

膝を悪くしてしまいました。

そして今から1ヵ月ほど前の11月に再挑戦し、歩きながらですが何とか完走(「フルマラソン感想」参照)。

今年のフルマラソン挑戦はこの2回ですので、当然「フルマラソン4時間切り」は達成ならず。

また、完走したといっても歩きながらですので「フルマラソン完走」は△としたいと思います。

来年2013年の目標は、「歩かずにフルマラソン完走」。

現在の状況で歩かずに完走できれば、おそらくは4時間半から5時間くらいのタイムになるかと思いますので、タイムとしては「4時間半切り」を目指します。


ふたつ目は「笑顔のコーチング」について。

目標として「笑顔のコーチングの実施」を挙げています。

こちらは達成。

10月8日に「笑顔のコーチング」を、様々な方々のご協力のもと開催することができました(HelloDreamのイベント報告ページを参照)。

今思えば、実施したことをブログに書いていないですね…。

実施すると決めたことは書いていました(「「笑顔のコーチング」開催への第1歩」参照)。

さて、来年も実施したいと思いますが、目標としてはどうするか。

数値的な目標としてパッと思いつくのは開催回数、そして、参加者の人数が思いつきます。

今年はデビューということで、笑顔のコーチングのファシリテータやわもん関係者のご協力により思っていたよりも多く、16名の方々にご参加いただくことができました。

現実的には今年ほどは集まらないと思うので(と、こんなことを書くと実際に集まらないよ、と、わもん関係者には言われそうです)、来年の目標は、年2回開催、参加者合計人数25人以上(延べ人数)としたいと思います。


そして3つ目は、「わもん」について。

今年はひとつの通過点として、わもん黒帯初段となりました。

これもブログに書いていませんね…。

それはともかく、今年は黒帯初段ならば、来年は2段へ、というのがすぐに思いつきます。

ただ、今の心徒塾のレベルからすると、早ければ年度内にいけるような気もします。

(他力本願が入っています。)

しかし、3段となると予想がつかず…。

何となく、2段と3段の間のステップが、2013年の目標としてはいいような気がします。

2段でしたら、たしか白帯心徒塾開催が可能だったと思いますが、こちらも現状想定できず…。

なので、今のところは「黒帯2段」を目標に。


ひとまず、現時点での来年の目標は以下。
  • 4時間半以内でフルマラソンを完走している。
  • 笑顔のコーチングを2回以上開催している。
  • 延べ25人以上に笑顔のコーチングを広めている。
  • わもん黒帯2段になっている。
次に考えるのは、実行計画です。

2012/12/11

わもんな言葉20-教化より感化

「教化」と「感化」、それぞれを手元の国語辞典でひいてみると以下の意味が載っていました。
【教化】(名・他サ)教えて感化すること。
【感化】(名・他サ)知らず知らず・いい(悪い)ほうに変化させること。

見出し語とその意味の間には、(名・他サ)という略号があります。

「名」というのは「名詞」、「他サ」というのは、「他動詞・サ行変格活用動詞」という意味です。

「教化」「感化」という語は、名詞としても扱われますし、動詞「する」を伴って「教化する」「感化する」というように動詞としても取り扱われます。

「教化する」「感化する」はどちらも他動詞で、文を作るときには目的語を伴います。

例えば、「国民を教化する」「国民を感化する」というように、「~を」という目的語を伴います。


さて、「教化」「感化」ともに「教・化」「感・化」というように、「教」「感」それぞれに「化」(接尾辞?)をつけた語です。

これら「教」「感」は、動詞としては「教える(あるいは、教わる)」「感じる」となります。

「教化する」「感化する」と「教える(教わる)」「感じる」の関係を考えてみると興味深いことがわかります。


先に「国民を教化する」「国民を感化する」という例を挙げましたので、そこから考えてみましょう。

「国民を教化する」で「教える」のは誰でしょうか?

ここでは表示されていませんが、「教える」という行為をする人は「国民」ではありません。

「国民を教化する」というのは、誰かが「国民」を(に)教えて変化させる、という意味です。


では、「国民を教化する」の「教」を「教わる」と考えてみましょう。

そうすると、国民が教わって変化する、という意味になります。


同じように「国民を感化する」という例ならば、国民が感じて変化する、という意味になります。


構造的に対になるように解釈するならば、「国民を教化する」は「国民が教わって変化する」、「国民を感化する」は「国民が感じて変化する」。


「国民が教わって変化する」よりも「国民が感じて変化する」の方が、何となく国民の主体性が感じられます。

自ら変わった、という意味合いが強く感じられます。


「教化より感化」というのは、相手を変えようとするのではなく、自然に変わってもらうことです。


以下は、株式会社わもんのHPからの引用です。
わもんが目指しているもの
「人を動かす」から「人が動き出す」ことを目指しています。
徹底して聞きこむことで、相手の中にある答えを自然と見つけ出します。
そのとき、相手は自らの答えを理解納得して自ら動き出すようになる。
そして、究極は動き出すから走り出すへ。

わもん -聞けば叶う

2012/12/09

わもんな言葉19-他者理解は自己理解

今回は趣向を変えて、本の引用ではない「わもんな言葉」です。


心徒塾の帰りの電車の中で、やぶちゃんと常ちゃんと私の3人で話をしていたとき、「型」についての話題がでてきました。

話の聞き方について型がない、ということだけでなく、心徒塾の進行でのやり方にも型がない、という話です。


その際、最近ブログか何かで読んだ話を思い出しました。

「型のない人というのは『かたなし』で、型はあるけれどもその型にとらわれないのは『型破り』だ」

という内容。


家に帰ってからどこで読んだか確認すると、ブログには違いないけれども、ツイッターの内容でした。
Twitterブログ:週間リツイート(RT)ランキング(11月29日から12月5日)

先日、中村勘三郎さんがお亡くなりになり、その勘三郎さんのおっしゃっていた言葉のようです。

「守破離」という言葉を思い出します。


思うに「型」というものは、最初から存在していたわけではないと思います。

先人の方々が磨き上げてきたものが「型」ではないかと。

歌舞伎のことはよく知りませんが、歌舞伎の型は先人達の何らかの思いがあり芸を磨いてきた結果生まれたものという認識です。


ならば、「型」は守るだけではならなくなります。

磨き上げていた思いがあるならば、現在ある「型」をそのまま「型どおり」にするのではなく、現在ある「型」を磨き上げていくことが本当の「型」ではないかと。

そして、試行錯誤の過程にあるのが「型破り」ではないかと。


こんなことを考えているときに「枠」も同じだなあと思いました。

何らかの試行錯誤(あるいは1回のみかもしれませんが)の結果、「枠」ができる。


「型」ならば何らかの意図が含まれているように思いますが、「枠」はどうでしょうか。

何となく、「枠」と聞くと、形骸化しているように響きます。

そして、「枠」はなかなか気付かないものです。


では、「枠」に気付くにはどうすればいいか。


それには、「他者を理解すること」が一番だと思います。

自分と他者の違い、それが「枠」だと思います。

それを他者の「枠」ととるか、自分の「枠」ととるか。


わもん -聞けば叶う

2012/12/07

為政第二・12「子曰、君子不器」

久々の「論語」です。

書くたびに「久々の…」がついているような気がします(^-^;)

君子は器ならず

短い言葉だけに、いろいろと解釈できそうです。


加地伸行さんの『論語』(講談社学術文庫)の訳は、
教養人は一技・一芸の人ではない。〔大局を見ることのできる者である。〕
また、注として、
器物を「特殊の用に役立つのみ」とせず、技術的・実用的・日常的なこととし、君子はもっと精神的・内面的であれとする解釈がある。
とのこと。

齋藤孝さんの『現代語訳 論語』では、
君子は、何かを入れる器ものでない。(そんな固まったものではなく、もっと自在な存在だ。)

『漢字源』の「器」の項を見ると、用例として「君子不器」を挙げた上で、
こまごました実用にだけ役立つもの。
とありました。


この為政篇とは異なる公冶長篇にも「器」がでてきます。
子貢問いて曰く、賜や何如、と。
子曰く、女(なんじ)は器なり、と。
曰く、何の器ぞや、と。
曰く、瑚璉なり、と。
子貢が孔子に「私はどうでしょうか?」と問います。

すると孔子は「お前は器だ」と。


私の中では、「器」というのは「肩書き」とか「役割」のようなイメージです。

論語の中で似た言葉を探すと、「位(くらい)」です。

別の言葉でいうと「外見」。


というわけで、私は、加地伸行さんの『論語』(講談社学術文庫)の注にある解釈を取りたいと思います。

感覚だけで選んでいるので、この解釈が正しいのかどうかはわかりません。



日本語で読みたい『論語』と言える。『論語』を通読するには一番適していると思う。

2012/12/02

日々是好日

先日、「読書のすすめ」という本屋さんの店長、清水克衛さんの以下のブログ記事を読んで本を注文しました。
清水克衛の日々是好日「構え」

購入した本は、記事の中で紹介のある、森信三(著)『一生の羅針盤』です。

昨日、手元に届きました。

恥ずかしながら、森信三先生のことは最近になって知りました。

初めて名前を聞いたのは、『心徒塾』に参加してからなので、ここ1、2年のこと。

それまでにも聞いたことがあるのかもしれませんが、記憶にはありません。


最近になって森信三先生のことを耳にして、そうなってくると本屋さんへ行くと森信三先生の名前が書かれた本が目に飛び込んで来たり、と。

関心事のひとつになっていました。


そんな中に、冒頭のブログ記事。


まずは、「構え」という言葉に魅かれます。

似たような意味の言葉として「姿勢」とか「格好」という言葉がありますが、「構え」というと、何かしらに集中して待ち受けているような感じがして好きです。


そして、記事中の「一般書店には置かれていない本」。

「限定品」とかに弱いのかな(^-^;)。


値段も手ごろなので、森信三さんのことを知る最初の一歩となるか、と思い、購入。


で、手元に届いたのですが、実はまだ読んでおりません。

が、購入してよかったと思いました。


その理由は、この本には特別付録として森信三先生講話「肉声CD版」が付いていたからです。

CDの内容は、卒業を前にした中学生に向けた講話で、森信三先生73歳のときの肉声とのこと。

話をしている相手の中学生に向けた、力強く、芯が通った、それでいてやさしい感じの話し方。

これはいい。

既に4、5回聞いています。


内容は…耳が痛い(> <)

「人間として最低守らねばならぬ具体的なこと」として次の3つが挙げられています。
  1. 人に出会ったら必ず自分の方から挨拶をすること
  2. 親に呼ばれたら必ず「はい」ということ
  3. 履物をうちで必ず揃えて脱げること
できているか、できていないか、と問われれば、できていません…。

禅語の「照顧脚下」あるいは「看脚下」という言葉を思い出しました。

2012/11/19

わもんな言葉18-在り方

坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』に「通人」についての記述がありました。

「通人」とは、もともとは遊里の言葉だったようで、今ではあまり聞くことはない言葉ですが、「事情通」とか、「通なはからい」とかで使われる「通」と同じ意味で、「通な人」のことです。

少し長くなりますが、以下引用します。
 情については、「情がわかる」といういい方をしない。そのような語法があっても理解はできるが、「事情がよくわかっている」とかのばあいを除いて、つまり対象化できる場合を除いては、「わかる」とはいわない。それは「通じる」ものである。事情のばあいでも、「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」のほうが日本語らしい表現である。「通じる」というのは、「わかる」というのに近いが同じではない。「英語がわかる」というのと「英語に通じている」というのとでは、相当にニュアンスが違う。「通訳」とか「通辞」は、このニュアンスをうまく表わしているいい言葉である。
分析して理屈がわかっていて、原理からの演繹ができても、「通じている」とはいえない。細かいニュアンスや裏の意味や雰囲気まで知っているのでなくては、「通じている」とはいえない。ヘーゲルをもじっていえば、「わかっているからといって通じているとはいえない」のである。しかも頭でわかるのではなくて、心でわかる(あえてこの言葉を使うが、本当は心が通じ合うというべきであろう)のでなくてはならない。そのようなわかり方である。いいかえれば、その世界の言葉が全面的にわかることである。わかるは訳なのだ。
たしかに「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」という方が、より深く理解している表現です。

その世界の言葉が全面的にわかっている人が「通人」。

「わかる」は「分ける」ことからはじまると考えると、分けた後につなげて道をつけているのが「通じている」という状態なのではないかと思います。


これは、「聞く」ことにも当てはまるのではないか、と感じました。

「相手がわかる」聞き方より、「相手に通じる」聞き方。

「わもん」での聞き方に「通じ」ます。


「わもん」での聞き方の説明で、よく「地下水脈でつながっている」という言葉を使うことがあります。

「つながっている」と「通じている」もつながります。


先の『「分ける」こと「わかる」こと』の引用には、続きがあります。
 ここまでくれば、じつは、もう「わかり方」などといったものではなくて、「ふるまい方」のできるのが通人であり、わけしりなのである。「わきまえ」もそうである。原意は「分ける」かも知れないが、「わきまえている」といえば、わかっているとか知っているというだけでなくて、「ふるまいかた」についていわれていると考えたほうがいいのである。
「わかり方」ではなく「ふるまい方」ができるのが「通人」。

相手の話を聞くとき、「わかり方」「聞き方」ができるだけでなく、その「在り方」でいられる人が、わもん通な人です。



シューマンのマーケティング

クラシック音楽はほとんど聴きません。

シューマンについても、名前は知っていますが、どのような曲を作った人なのかは知りません。

しかし、奥泉光さんの『シューマンの指』を読んで、聴いてみたくなりました。


『シューマンの指』はそのタイトルからもわかるように、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンを題材としたミステリです。

シューマンの人物像よりは、シューマンの音楽が中心として書かれています。

シューマンの音楽を知らないのでその良し悪しはわかりませんが、『シューマンの指』を読むと、シューマンの音楽をより深く知ることができるのではないかと思いました。


中でも特に印象に残っているのは、登場人物である永嶺修人の台詞です。
「シューマンは、変ないい方だけど、彼自身が一つの楽器なんだ。分かるかな? 音楽は、彼の軀というか、意識とか心とか魂なんかもぜんぶ含んだ、シューマンという人のなかで鳴っている。だから、彼がピアノを弾いたとしても、それはシューマンのなかで鳴っている音楽の、ほんの一部分でしかないんだ」

おそらくは、音楽に限らず、小説とか、絵画とか、映画とか、何かを表現しているもの、表現しようとしているもの全てに当てはまることではないかと思います。

小説など、いわゆる作品といわれるものでなくとも、ちょっとしたしぐさや何気なく言った言葉は、その人の人物像の一部分です。

それらに「奥行き」が感じられるかどうか。

シューマンがピアノを弾いているのを聴いたとして、シューマンのなかで鳴っている音楽が聴けるかどうか。


表現する人の表現力もさることながら、その表現を見る人の読解力。

それらは技巧として現れるかもしれませんし、現れないかもしれません。


私は、文芸・音楽・芸術と呼ばれるものに関心はあるものの、まだまだ読解力不足。


では、読解力を高めるにはどうすればいいか? と考えてみると、私の中から出てきた答えは、良いものに触れること。


そう考えると、「古典」といわれるものは、長い間多くの人の目や耳にさらされ残っているものなので、まずはそこから、という気になります。


で、善は急げ、というわけで(?)、シューマンのCDを購入してみようとAmazonで検索してみたら、こんなものがありました。



術中にはまった気がしますが、購入を決めました(^-^;)


2012/11/11

切磋琢磨

中国の古典『大学』より「切磋琢磨」についての引用です。
詩に云う、「彼の淇の澳を瞻るに、菉(緑)竹猗々たり。有斐しき君子は、切るが如く磋くが如く、琢つが如く磨るが如し。瑟たり僴たり、赫たり喧たり。有斐しき君子は、終に諠るべからず」と。切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に諠るべからずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能わざるを道うなり。

『詩経』の衛風淇奥編の武公の徳をほめた歌の一節を引用し、解釈をしています。

『詩経』には「あの淇の川のくまを見れば、緑の竹が美しく茂っている。〔その竹のようにすばらしい〕才能ゆたかな君子は、〔まるで細工師が〕切りこんだうえにやすりをかけ、たたいたうえにすり磨くように、〔どこまでも〕修養をする。慎しみ深くみやびやかで、はれやかに輝かしい。ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」とうたわれている。「切りこんだうえにやすりをかけるよう」というのは、人について学ぶことを言ったのである。「たたいたうえにすり磨くよう」というのは、自ら反省して修養することである。「慎しみ深くみやびやか」というのは、内に省みて恐れかしこむことである。「はれやかに輝かしい」というのは、気高く礼儀正しいありさまである。「ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」というのは、盛んな徳をそなえて最高の善におちつく人は、民衆にとって忘れることができないというのである。


「切磋琢磨」とは、国語辞典では次のように書いてあります。
①知識や徳をみがくこと。
②友だちなどがおたがいにはげましあって努力し、向上すること。
『三省堂国語辞典 第五版』より

「知識や徳をみがくこと」という意味と、「(友だちなどが)おたがいにはげましあって努力し、向上すること」という意味があります。

この2つ目の意味はどこから来たのでしょうか?


何の傍証もなく、私見ではありますが、『論語』での孔子と子貢のやりとり(学而第一・15「子貢曰、貧而無諂、~」)から付加された意味のように思います。

子貢の問いが孔子を引き立たせ、孔子の応えが子貢に気付きを与える。

「切磋琢磨」とはこのことをいうのですね。


2012/11/06

フルマラソン感想

11月4日(日)に「第16回大阪・淀川市民マラソン」に参加しました。

前回はハーフマラソンに参加し、今回はフルマラソンに参加です。


フルマラソンは2回目の挑戦で、1回目の挑戦ではリタイア…。

リベンジです。


結果は、「一応」完走。

「一応」と書いたのは、途中歩いてしまい、全て走ったとは言えないからです…。

しかし、結果には納得しております。


昨年1月から少しずつ走りはじめ、大会にも少しずつエントリーしてきました。

最初は10km、次に10マイル(約16km)と大会に出場し、順調に走りきることができました。

そして昨年の「第15回大阪・淀川市民マラソン」がハーフマラソン初出場で初完走です。


しかし、その時期から、走る度に膝が痛くなるようになってきました。

昨年「大阪・淀川市民マラソン」に参加したときの記事(「『大阪・淀川市民マラソン大会』参加」参照)でも、膝の痛みのことが書いてあります。


今年3月に、初のフルマラソンに挑戦したのですが、膝の痛みでリタイア(「フルマラソン挑戦」参照)。

また、その後のハーフマラソンでも膝の痛みでリタイア…(「『第2回淀川国際ハーフマラソン』参加」参照)。

しばらく大会に出るのは控えていました。

普段の練習のときならば、痛くなりそうになったときに走るのを止めるのですが、大会途中で痛くなった場合、足を引きずらなければならなくなるまで我慢して走ろうとするので、悪化してしまうのではないかと思ったからです。

(充分、悪化していたのかもしれませんが…)


しかし、今回の2回目のフルマラソンに向けてしっかりと調整ができていた、というわけではありません。

10月初旬に風邪を引いてしまいしばらく走らず、また仕事も忙しくなってきたためサボり気味になってしまい、10月中に走ったのは友人と走った1回のみ。

友人と一緒に走ったのは10月中旬だったのですが、7kmほど走ったところで膝の痛み。

その後、本番を迎え、不安要素が大きい中、参加しました。


結果的には、膝の痛みは出ませんでした。

しかし、20kmを超えたあたりでふくらはぎや太ももの筋肉が張ってきて、そのうち力も入れづらくなり、歩いては走り、歩いては走り(と、言葉では書きますが、実際は「歩いて歩いて歩いて走り」くらいです)を繰り返し、何とかゴールです。


なので、胸を張って「完走した!」とは言えませんが、膝の痛みが出ず、歩きながらもゴールできたことはうれしく思います。

歩いてしまったのは、自分の体力・筋力不足によるもので、これが今の実力であると思えるような内容でしたので納得しています。


次なる目標は、「歩かずに完走」です。

2012/10/31

堂々巡り

最近ブログを書いていないな、と思い書こうとするも、特に書きたいことがあるわけでもなく適当に筆を進めていこうと思っていたら、パソコンで書くなら「筆を進める」というのは表現としてどうなのだろうかと思い初めて時間が立ってしまっている間も頭の中ではぐるぐると色々な言葉が動きはじめ、ひとつの文章が長くなっているなと思ったところで、どうせならば句読点なしでひとつブログを書いてみようとしたら、読点は既に使われていて、少しがっかりした気持ちになったが、まだ句点は使っていないので行けるところまで行ってみようとしたら、また言葉が気になって、このブログはどこに行こうとしているのだろうかと考えはじめてしまったが、そんなことを考えてもあまり意味がないと思われるので、その点は思考を中断して別の道を考えようとしたが、道はどこにあるのかと書いたところ、「道」という漢字を変換するときに「未知」という漢字が出てきて、「道」は「未知」なのか、と新たな発見をしたように思われるが、単なるダジャレであり、特に奥行きが感じられないと少しがっかりしてしまったが、まだ句点は使っていないと気を取り直してキーボードを打っているという、あまりわけのわからないことを書いていると、以前読んだ本の中に、たしかシュルレアリスム関係の本だったと思うが、「自動筆記」という手法のことを思い出しながら、これは自動筆記なのかと考えてみるものの、キーボードを打つ手はそれほど速いわけでもなく、それ以上に頭の中で考えていることは早いと思うので、自動筆記とは言えないなと思いつつも、まだまだ言葉は続いていくような気がして、なかなか面白いと自分では思うものの、他の人が読んだならば、「何だ、この変な記事は?」となるのが目に見えていて、いや実際には見えないけれど、何となく自分が何をしているのかわからなくなっている、とはいうものの、普段する行動を自分がすべて自覚して意識してやっているのかと問われれば、惰性で動いているときも多々あるだろうと思われて、もう少し「今、ここ、自分」に集中すべきではないかとも思い、こうやって変な文章を書いているのは、果たして集中しているのかどうかわからないような気持ちが湧きあがってきたところで、そろそろ10月が終わり、11月に入る時間になってきたので、どこで終わりにしようか考えたが、さっき行けるところまで行ってみようと言ったわりには、ここが終点とは思われず、またオチもなくつまらない記事になりそうだ、と思う今日この頃。

2012/10/26

わもんな言葉17―声なき声

井筒 俊彦さんの『意識と本質』は、「本質」をどのように捉えているかという問題から、東洋哲学を共時的に構造化してみようという試みで、東洋哲学のみならず西洋哲学も含めて、様々な「本質論」が取り上げられています。

その中で、「わもん」の考え方に近いと感じたのは、「禅」ではなく、「芭蕉の本質論」でした。

もちろん「禅」も、あるいは私が今まで少し触れてきた「儒教」(『意識と本質』の中では、「宋代の理学」「孔子の正名論」として取り上げられています)も重なる部分は多々ありますが、「芭蕉の本質論」での「物に入りて、その微の顕われる」という箇所が、「わもん」における聞き方・在り方に非常に似ていると感じました。

以下はその一節。
そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。一瞬の、ひらめく存在開示。人がものに出合う。異常な緊張の極点としてのこの出合いの瞬間、人とものとの間に一つの実存的磁場が現成し、その場の中心に人の「……の意識」は消え、ものの「本情」が自己を開示する。芭蕉はこの実存的出来事を、「物に入りて、その微の顕われ」ることとして描いている。「物に入る」とは、ものが「……の意識」の対象ではなくなること、つまりこの出来事が、人の側においては、二極分裂的意識主体の消去であることを指し、「その微が顕われる」とはものの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕わすことを指す。

「本情」というのは、『意識と本質』での言葉を借りると、「個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的『本質』」「事物の存在深層に隠れた『本質』」です。

事物の奥に隠れひそんでいた「本情」、変わることのない普遍的本質がちらっと光ることを「物の見えたる光」と表現しています。

その瞬間は、自分が事物を見ているというような「……の意識」は消えています。


この出来事を「物に入りて、その微が顕われる」と表現し、自分と事物という二極分裂はなく、自分の側から見れば(言葉では二極分裂してしまっていますがご了承ください)「物に入る」ということになります。

換言すると、自分と事物の境界がなくなり一体化する、ということです。

そのとき事物の「微」すなわち「本情」が顕われます。

自分と事物の境界はありませんので、自分が「本情」を感じます。


最近、「わもん」での聞き方の際に、よく「重心を相手におく」という言い方がなされます。

先に引用した芭蕉の本質論では、対象を事物として説明していますが、対象を話し手の「話」「言葉」と置き換えると「わもん」の聞き方に似ています。

相手の言葉をしっかりと聞いていると、その「本情」がちらっと光る。

この出来事が、聞き手である自分においては二極分裂的意識主体の消去であることを指し、相手の側では普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで聞こえない「声なき声」が自らを顕わすことを指します。


芭蕉はこの「物の見えたる光」を俳句という詩的言語に結晶させます。

「わもん」では「声なき声」を、言語的あるいは非言語的な表現として結晶させていくことではないかと思います。



2012/10/24

巨視的視点と微視的視点

10枚のコインがあります。この10枚のコインを投げて、表が5枚、裏が5枚となる確率を求めなさい。ただし、どのコインも2分の1の確率で表がでるものとします。
数学(とはいっても高校で習った範囲)の分野のなかで、確率は嫌いでした…。

順列とか組み合わせとか…、考え方はわかるのですが、公式を覚えることができず、公式を導くのに時間がかかったり、すべての場合分けを考えたりなど、問題を解くのに時間がかかってしまうからです。

計算も得意な方ではないので、よく間違います。

それでも数学が嫌いではなかったのは、問題から式を作ることが好きだったからです。


好き嫌いはさておき、冒頭の確率の問題では、組み合わせ(C)を使います。

公式は、WEB検索して確認(^-^;)
nCr = n!/(r!*(n-r)!)
ブログ内で分数の表記の方法がわからないので、とりあえず上記のように書いておきます。

上記のC(Combination)の公式は、n個の中からr個を選ぶ組み合わせの数を出す公式ですので、確率を出すわけではありません。

冒頭の問題で言えば、10枚の中から(表になった)5枚を選ぶ組み合わせの総数です。

計算すると、
105
= 10!/(5!*(10-5)!)
= (10×9×8×7×…×1)/((5×4×3×2×1)×(5×4×3×2×1))
= (10×9×8×7×6)/(5×4×3×2×1)
= 252
252通りある、ということになります。

すべての場合分けの総数は2^10通り(「表」と「裏」という2つの状態になるコインが10枚ある)つまり、1024通りあるので、「表が5枚、裏が5枚」となる確率は252/1024(≒25%)となります。

もし、「全てのコインが表になる確率」ならば、1/1024(≒0.1%)です。


ここで、10枚のコインにそれぞれ名前をつけましょう。

10枚のコインを、コインA、コインB、…、コインJとして、問題を「コインA、B、C、D、Eが表になる確率は?」とすると、この答えは1/1024となります。


ひとつひとつのコインの状態を微視的に確認すると、その状態は1通りですが、10枚のコインとしてこのうちの5枚というように巨視的に確認すると確率は累乗的に上がります。


仕事上で、「全体を見ろ」とか「俯瞰的に」とか「全体最適」とか言われるのは、こういったことと関係するのかもしれません。

2012/10/23

「わかる」は「わける」

遅ればせながら、最近、井筒俊彦さんの『意識と本質』という本を読んでいます(何に遅れているか、ということは聞かないでください…)。

内容を一言でいうならば、「東洋哲学での本質論入門」とも言えるかと。

哲学書の類はあまり読んだことがなく、哲学用語にもあまりなじみがなく、文章は難しく感じるのですが、この本の中で説明される「禅」の説明は、今までよりも「禅」について深く理解できたように思います。

もちろん「禅」は理解するものではなく、実戦することであることは理解しているつもりです…。


言葉・言語に興味がある私にとって、言葉を嫌う(といっては語弊があるかもしれませんが)「禅」は相容れないものかもしれませんが、その思想・考え方(これらの言葉も「禅」にとっては語弊がある)はとても興味がある分野です。


この『意識と本質』をもとに、これから、自分の理解したこと、そして自分自身の言語観を書いていきたいと思いますが、おそらくひとつの記事ではまとまらないと思います。

その点、ご容赦ください。


「わかる」は「わける」

「『わかる』は『わける』」という言葉は、『意識と本質』の中には出てきませんが、この現実世界と言葉の関係については考察されています。
経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんど本能的とでもいっていいいような内的性向が人間、誰にでもある。これを本質追求とか本質探求とかいうと、ことごとしくなって、何か特別なことでもあるかのように響くけれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中に、それの最も基礎的な部分としてそれは組み込まれている。
引用部分だけ読むとあまり内容がわからないかもしれませんが、簡単にいうと、「人間だれしも本質を捉えようとする傾向がある」ということです。

では、「本質」とは何か?

「本質」を一言で簡単にいうことはできませんが、ここでは単純に「コトバ」「名前」だとしておきましょう。


たとえば、「花」を見るとき、視線の先には「花」があります。

その花は桜かもしれませんし、チューリップかもしれません。

しかし「花」と呼びます。

そしてその花は、他にどこにもない固有の花。

「人」でも同じです。

だれ一人同じ人はいないのに、「人」と呼びます。

「花」を花たらしめているもの、「人」を人たらしめているものは何か?

これが「花」の「本質」、「人」の「本質」ではないか、ということです。


プラトンの「イデア論」を思い起こさせます。


「イデア論」はさておき、日常的意識、表層意識では「本質」認知が基礎にあります。

「花」を見るというとき、それが「花」と呼ばれるものであることを前もって知らなければ、言葉を換えると、「花」の「本質」を漠然とでも認知していなければ、それを「花」と呼ぶことはできません。


コトバというものは、この世界に印をつけたものです。

「本質」についた印が「コトバ」ということもできますし、「コトバ」が「本質」を指し示しているともいうことができます。

コトバ・言語には、この経験的世界を分節するという作用があります。


思考が先か、言語が先かというのは、にわとりと卵の関係のような気がしますが、私たちは言語によって、この世界を理解しようとしています。

有名な説としては「サピア・ウォーフの仮説」でしょうか。

日本では虹は何色と尋ねられれば七色と答える方が大半でしょうが、例えば英語ならば六色とすることもあるようです。

しかし、虹を光のスペクトルと考えるとこれは色の連続体です。

どこからどこまでが「赤」で、ここからは「黄色」で、という明確な境界線があるわけではありません。


言語には、分節する作用、境界線・枠組を作る作用があります。

そして、そうすることで世界を理解しようとしているのです。

「わかる」ことは「わける」ことです。

「理解」の「解」という漢字にも「わける」という意味があります。


言語の分節作用については、まだまだ上手く説明できたとは思えませんが、これらのことは私も普段から(いつもいつもではないですが)考えていたことです。

「本質」については考えたことはありませんでしたが。

このようなことを上手く説明できる言葉がほしいと常々思います。


『意識と本質』では、この「本質」把握を前提として、東洋哲学の本質論を共時的に分類・紹介しようとしています。


書いているうちに、何を書いているのかわからなくなってきました…。

まだまだ理解は足りないようです…。

時間も時間ですし、今日はこの辺で。


2012/10/07

わもんな言葉16―絶対点

言葉、言語というのは、コミュニケーションのひとつの手段です。

自分の思っていること・感じていること・考えていることを相手に伝える、とても便利な道具です。

言葉があることで、人類はさまざまなことを成し遂げています。


旧約聖書の「バベルの塔」の話。

人間が共通の言語を持っていたころ、天に届く塔を作ろうとしていました。

それを見た神は、塔を破壊し、言語をバラバラにした、と。


本当の話か作り話かはさておき、言語、言葉の力がとてつもないことを表現しています。


しかし、言葉もひとつの道具。

コミュニケーションをとるため、協力体制をつくるためなど、ひとつの道具です。


今、読んでいる小関智弘さんの『職人学』という本の中に、興味深い記述がありました。

鏨(たがね)で鉄板を削(はつ)る仕事について、です。

鉄板に引いた線に沿って、左手で鏨を握り、右手でハンマーを振って鏨の頭を叩き切り進めていく仕事です。

ハンマーが正確に鏨の頭に当らないと、ハンマーで自分の左手を打ってしまいます。

ハンマーで左手を打つのが怖いので、目はどうしても鏨の頭を見てしまいます。

すると、先輩職人から「どこを見てハンマーを振っているんだ。鏨の先を見ろ」と罵声が飛びます。

先輩職人に理由をたずねると「俺も、そう教えられた」と。


小関さんはここで、「理屈ではなかったが、理にかなっていた」として次のように書いています。
鏨で削る仕事というのは、鏨の刃で正確に罫引き線のとおりに鉄板を切る仕事である。だから刃先が罫引き線どおりに切り進んでいるかどうかを、目で確かめながらハンマーを振る必要がある。左手を打たないようにハンマーを振るのが仕事ではない。

言葉にも当てはまるように思います。

誰かに何かを話すとき、あるいは誰かの話を聞くとき、それは、自分の思いや考えを伝えたい、あるいは相手の思いや考えを理解したいときです。

言葉を正確に伝える、あるいは逆に、言葉を一字一句間違わないように覚えるためではありません。

言葉そのものよりも、言葉のもとにあるものに焦点をあてていきます。


「わもん」では、そこを「絶対点」と呼んでいます。


『職人学』の先の引用にはその続きがあります。
それができるようになるまで、わたしは何回も左手を腫れあがらせなければならなかったが、やがてほんとうに、先輩職人の言うとおり、鏨の先を見ているほうが、ハンマーは正確に鏨の頭を打つのだと実感できるようになった。

話を聞くことも、絶対点に焦点を当ててしっかり聞けるようになるまでには、何度も失敗するかもしれません。

しかし、絶対点に焦点を当てて聞いている方が、言葉もしっかり聞けるようになるのではないかと思います。


2012/09/26

本間先生とやぶちゃんのコラボから「わもん」についてイメージしたこと

本間先生(@learnologist)&やぶちゃん(@wamonyabuchan)の面白コラボ企画。


Video streaming by Ustream

やぶちゃんのこの聞き方、そして本間先生のこの解説。

目指すところです。


この動画を見て思いついた「わもん」のイメージは、物理学あるいは数学でのイメージ。


先日の高知での「わもん」ライブでも説明がありましたが、「わもん」での聞き方のポイントとしてやぶちゃんは3つのことを挙げています。

「音」「波長」「重心」。


この3つを物理学あるいは数学に例えて説明してみようと思います。


まずは「音」。

物理的に音を記述するとすると、これは波になります。

とても複雑な波。

横軸に時間(?)、縦軸に周波数(音量?)をとると、グラフの形は複雑な波の形で表されます。


しかし、どんなに複雑な波でも、たしか単純な波の和に変換することができます。

「フーリエ変換」という名前だったと思います。


ここでの単純な波というのは、sin(サイン)やcos(コサイン)で表される周期関数のこと。

どんなに複雑な波も、単純な波の和。


複雑な波の場合は、単純な波も数多くあり、その中にはクセの波、話し方の波など、普段でもいつも現れるような波もありますが、それらの波を省き、本質の波を見極めます。


そして、波の運動というのは円の運動でもあります。

円には中心があります。


物理的、数学的なイメージでは、「音」を聞くというのは観察し記述すること。

グラフをとり、波形を描きます。

次にフーリエ変換によりその波を周期関数に分解・分析します。

その周期関数(「波長」)の中で、もともとの複雑な波に影響力のある周期関数の中心が「重心」


物理学も、数学も、わもんも、まだまだ中途半端な知識であり、使いこなすこともできていませんが、このようなイメージの連鎖が頭をよぎりました。

2012/09/22

話し手の「ものさし」を取り込む

先日、電話窓口の仕事でモニタリングをしていたとき、このままだとクレームになりそうな気がしたため、保留にさせて、オペレーターにオペレーションの指示をしたことがありました。

電話窓口でのモニタリングというのは、お客様とオペレーターの電話での会話を聞き、その様子をチェックすることです。

普段は会話の流れをあまり止めたくはないため、電話対応終了後にフィードバックをするのですが、今回はちょっとお客様の雰囲気が悪くなり始めたために、対話の途中に手を出しました。

お客様がイライラしはじめたにも関わらず同じような調子で対応していたためです。


クレームになり始めた理由は、お客様の言っていることをオペレーターがわかっていなかったため。

いや、わかってはいるのですが、お客様の言っていることとオペレーターが言っていることが少しずれているためです。


かなり簡略していうと、お客様が「登録をそのままにしておいてほしい」と言ったことに対して、オペレーターの答えは「わかりました。何もしないということですね」というもので、「いや、そうじゃなくて」と、そこから少しずつ話がずれていきました。

そして、私が指示したのは「『わかりました。そのままにしておきます』と言って」というものです。

「登録をそのままにしておいてほしい」と言われ、「何もしません」と答えるのと、「そのままにしておきます」と答えるのとでは、文字で書くと違いがよくわかると思います。

しかし、会話のなかではなかなか気付きません。

実際、そのオペレーターも電話が終わった後に話したとき、「私はそう言っていた」と言い、なぜ途中で電話を保留にさせられてオペレーションを訂正されたのかわかっていませんでした。

たとえば、話し手の「ムカつく」という言葉を受けて「腹が立つのですね」と返したり、話し手が「好き」と言ったのに「愛している」と言いかえたりしたとき、話し手の伝えたかったニュアンスからはずれてしまうことがあります。すると話し手は、自分の言いたいことが伝わらないと思い、話を深めていく気持ちをなくしたり、いらだったりします。
上記は、書籍『わもん』に「話し手の『ものさし』を取り込む」という章に書かれていることです。

先日のケースは、この現場を目の当たりにした状況です。


間違ってはいないけれども、ずれている。

たぶん、私自身もあると思います。


蝶の羽ばたきが嵐を起こすバタフライ効果と言われる現象は、会話のなかでも起こりうるもの。

ちょっとしたずれが、のちのち大きくなることは多々あります。


先日の出来事の際、オペレーターに途中で止めた理由などをひととおり説明はしましたが、オペレーターはまだちょっと不納得な様子でした。

私もまだまだ修行が必要ですね…。

2012/09/17

「語感」と「五感」

先日、黒川伊保子さんの『いい男は「や行」でねぎらう いい女は「は行」で癒す』という新書本を買いました。

書店でたまたま見かけたものですが、タイトルからは、おそらく、音声的な言葉による恋愛術みたいな内容だと想像できます。

購入の決め手となったのは、帯に書かれていた言葉。

『脳をくすぐる「言葉の感触」』

恋愛術の類の本はほとんど買ったことはありませんが、なかなか面白そうだと思いました。


読んでみると、タイトルからの印象は逆だったようです。

恋愛術、あるいは男女の機微(?)を題材とした音とイメージの入門書といった内容。

すべてを読んだわけではありませんが、こういうタイトルの方が売れるのですかね?


意味のまとまりを持った言葉を単語とすると、単語には当然意味があります。

例えば「りんご」という言葉には、「りんご」という意味があります。

実物のりんごを半分に切ったとしても、りんごではありますが、単語は「り」「ん」「ご」と3つに分けるとりんごの意味はありません。

「り」という言葉は「りんごの『り』」ということはできるかもしれませんが、3つに切った実物のりんごのひとつを「り」ということはありません。


しかし、「り」という言葉(音)には、その音から感じられるイメージのようなものがある。

それを『いい男は「や行」でねぎらう いい女は「は行」で癒す』では「語感」と呼んでいます。


そういえば、ツイッターでフォローしている方に「語感分析」をしている方がいたのを思い出しました。
@TOPAZ284(語感分析士・小松輝幸)
語感分析士育成会
Sapphire(サファイア)というソフトウェアが公開されていますが、会員制のようです。


視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の5つを「五感」と呼びますが、それらは独立しているものではありません。

聴覚の例でいうと、音には「やわらかい音」や「固い音」、「大きい音」「小さい音」など、触覚や視覚など表現と同じ単語を使ったりします。


私が言葉に興味を持つのは、人間の認識が表現されたものが言葉だと思っているからです。

「五感」と「語感」の関係は興味があります。



2012/09/16

わもん1周年

9月12日に公開されたヤブログ放送室のお題は『書籍わもん1周年』でした。

書籍『わもん―聞けば叶う』が発行されてから1年がたちます。

そして、私が心徒塾に初めて参加してからも1年が過ぎました。


2011年9月10日が書籍『わもん』の初版第1刷の発行日。

そして、その日第17回心徒塾に初参加。

それから1年たち…、いつの間にか「わもん」に漬かっております。


もともと仕事上の関係でコーチングには興味があり、コーチング界では有名な方のお一人、本間正人先生(@learnologist)をツイッターでフォローしていました。その本間先生のつぶやきから、やぶちゃん(@wamonyabuchan)のことを知りました。

いつのことなのか、はっきりと覚えていませんが、togetterでの最初のまとめ(聞き方のコツ《修行編》)を見ると、少なくとも2010年11月には知っていたようです。

初めてリツイートをしたつぶやきを確認すると、2010年11月2日のものでした。

同じころに株式会社わもんのホームページや、ヤブログ(現やぶちゃんねる)に興味を持ち始めています。


そして、ヤブログ放送室にお題のリクエスト。

リクエストしたお題は『電話での聞き方』です。

こんなことをつぶやいているので、このころ頻繁にはヤブログを確認していなかったようです(^-^;)



このように振り返ってみると、わもんに興味を持ってから、ずいぶんと潜伏期間があります。

半年くらいは、心徒塾に行こうか行くまいか迷っていたということですね。


心徒塾」の開催は2011年1月からで、当時は「白帯心徒塾」は名前もなく、やぶちゃんに会うには「心徒塾」の他は、「わもん塾」か、「講演会」か、「プライベートわもん」か、でした。

わもん塾」が一番いいかなと思いつつも、大阪での開催は見当たらず、はたまた「講演会」については都合のいい日時のものはなく、そして「プライベートわもん」は気が引け…。

心徒塾」に参加しようと思ったのは、迷った挙句というのもありますが、書籍『わもん』の発刊というのも大きな理由でした。

「行けば買える」と。


まあ、そうしたことがきっかけで心徒塾に参加し、結果、今も(毎回ではないですが、)心徒塾に出入りしています。


以下、これまでに参加したわもん関係のイベント(?)のまとめです。

2011年
09/10 第17回心徒塾
09/11 第18回心徒塾
10/09 第20回心徒塾
11/03 第1回白帯心徒塾
11/12 第21回心徒塾
11/13 第22回心徒塾
2012年
01/06 第1回わもん塾大阪
02/03 日比谷カレッジ
02/11 第27回心徒塾
02/12 第28回心徒塾
04/08 第32回心徒塾
05/13 第34回心徒塾
06/09 第35回心徒塾
06/10 第36回心徒塾
07/08 第38回心徒塾
08/05 第40回心徒塾
08/11 夏の文屋座
09/09 第42回心徒塾
1年365日のうち18日のみと考えると少ないですが、日々修行です。

2012/09/13

2012/09/12

わもんな言葉15―話すわもん

「人は“ひらがな”で話を聞いている」

西任暁子さんの『「ひらがな」で話す技術』に書かれている言葉です。

なるほど、と思いました。


文字は別として、音声での言語表現は物理的にみると音の連続です。

横軸に時間、縦軸に周波数をとってグラフに表しても、単語の切れ目や文節の切れ目がどこにあるのか、そのグラフを見ただけではわかりません。

グラフから言葉の意味を読むことはできません。


そうやって耳に入ってくる音の連続を私たちは「ことば」として聞いています。

アクセントや抑揚など、単語や意味のまとまりを示す目印はあるにしても、かなり不思議ですごいことです。


このことをわかりやすく表現した言葉が、冒頭の「人は“ひらがな”で話を聞いている」という表現だと私は認識しています。


「人は“ひらがな”で話を聞いている」ならば、わかりやすい話し方は「“ひらがな”で話す」こと。

『「ひらがな」で話す技術』は、わかりやすく話すための方法について書かれた本です。


この本を読んだとき、「話すわもん」を思いうかべました。


「わもん」は漢字で書くと、「話す」と「聞く」で「話聞」。

「わもん」は「聞く修行」といい、「聞く」に重点を置いていますが、「わもん」の提唱者やぶちゃんは、「わもん」には「話すわもん」と「聞くわもん」がある、といいます。



『「ひらがな」で話す技術』では、「はじめに」の中で、西任さんは次のように言います。
大切なのは、自分の話が「相手にどう聞こえているのか」を徹底的に考え抜くこと。「音」で聞いている相手の頭の中がどういう状態なのか、常に想像することなのです。

おもしろいと思ったのは、『「ひらがな」で話す技術』の最終章が「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というタイトルだったことです。

わもん日めくりカレンダーに「心の矢印を自分に向ける」という言葉があります。

「聞くとき」と「話すとき」では心の矢印の方向が逆。

言い換えると、聞き手と話し手の心の矢印の方向は同じ。

聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(→→)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。


【追記】
ここまで書いて公開しましたが、心の矢印について誤解されてしまう可能性がありますので追記します。

わもん日めくりカレンダーの「心の矢印を自分に向ける」というのは、話を聞くときに、話し手を責めたり、否定したり、誰かのせいにせず、自分に向けることを指します。

一方、『「ひらがな」で話す技術』の「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というのは、相手目線で話すという意味で「心の矢印」という言葉を使っています。

「『聞くとき』と『話すとき』では心の矢印の方向が逆」と書きましたが、話すときには聞き手を責めたり、否定したりする、という意味ではないことを付け加えておきます。

最後の文章は、矢印の方向を変えて、
聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(↓↓)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。
とした方が、「深い話」ともイメージが合致します。


2012/09/04

わもんな言葉14―聞き手未熟

『論語』の中で有名なもののひとつに、次の言葉があります。
「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う」

人が自分のことをわかってもらえないことを心配するな。

自分が人のことを知らないことを心配しなさい。

というような意味です。


「わもん」でいう「聞き手未熟」と同じようなことを指しています。


「聞き手未熟」とは、書籍『わもん』から引用すると、
「わもん」において、会話がうまく運ばない、話し手が話をしてくれない場合に、その理由や原因は聞き手にあるという真理。思うように話を聞けないとき、話し手の性格や態度、話を聞く環境などのせいにしていると、「わもん力」は磨かれないとする考え方。「わもん」上達のためには、心の矢印を自分に向け、聞けない原因を自分自身のなかに求めることが必要であると心得る姿勢。
です。


冒頭の『論語』の言葉は、『論語』の中でも特に重要視されている言葉ではないかと思います。

その理由は、何度も出てくる言葉だからです。


『論語』は、(人によっては別の篇立てをする方もいらっしゃいますが、)20篇から成り立ち、その篇の最初の2字(あるいは3字)をとって篇名としています。

冒頭に挙げたのは「学而篇」の言葉。

同様な言葉が他の篇にも現れます。
「位なきを患えず。立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず。知る可きを為さんことを求む」(里仁篇)
「人の己を知らざるを患えず。其の不能を患うるのみ」(憲問篇)
「君子は能くする無きを病む。人の己を知らざるを病まず」(衛霊公篇)
『論語』の成立過程は詳らかになっていませんが、同じような言葉が頻繁に現れてくるのは、『論語』にかかわる多くの人が、この言葉は大切であると認識してきた結果であると思います。


「聞き手未熟」に即していえば、「人が話をしてくれないことのを憂うな。自分が聞くことができないことを憂いなさい」とでも言えるでしょうか。


私見ですが、「わもん」と「儒教」(「儒学」といった方がいいかもしれません)とは相性がいいように思います。

『論語』は、儒教における四書のひとつ。

そして儒教は、己を修め人を治める「修己治人」の教えだといわれています。


「わもん」とは、「聞く修行」。

話をただただ聞くことを修行と位置づけ、自分自身の聞き方、在り方、生き方を見つめます。

聞くことは、自分自身の修養です。


話し手は「聞いてくれてありがとう」

聞き手は「話してくれてありがとう」


自分自身の「聞く力」、「わもん力」を高めることで、周りの人を輝かせていくことを目指しています。



2012/08/30

未来へ念を残す

先日、「念」という漢字をたくさん見ました。

「残念」「無念」「念を入れる」「念を押す」「記念」など。

普段ならば別に気に留めることもなかったのでしょうが、twitterやfacebookを見たときに、ほぼ毎回「念」という漢字が出てきて、「念」とは何だろうか、と疑問に思いました。


特に、「残念」と「無念」を同時に見たとき。

念が残るのが「残念」なのに、念が無いのに「無念」とはなぜ?


あとあとWEB上で確認してみると、同じような疑問を持つ人はやはりいるようです。

Yahoo!知恵袋「無念と残念は同じ意味?」

なるほど、「無念」の意味には2種類あるようです。

ひとつは「無念無想」のように「無心」というような意味。

もうひとつは、正念を失った、あるいは念願がかなうことがなくなったという意味で「無念」という意味。


試しに手元の国語辞典で「無念」をひくと、
  1. 〔文〕何もよけいなことを考えないようす。
  2. ひどい目にあって、くやしがるようす。「残念」を強めた言い方。
と、たしかに2つの意味が載っていました。

何だか正反対の意味ですね…。


しかし、言葉には正反対のような意味を持つ語は結構あると思います。

パッと思いつく語は英語のwant。

もともと「欠乏」を表わす語ですが、「欲望」も表します。

欠けているから欲しいというわけです。


また、「~のために」という語句。

「彼のために」と言ったとき、文脈によって、「彼のために(命をかけた)」とか、「彼のために(迷惑をこうむった)」とか、目的を表わしたり、原因を表わしたりします。


目標を定めることが動機づけともなります。

残念と思うことは、達成したときの喜びにつながるのかもしれません。


「念」とは「今の心」と書きます。

今の心も過ぎ去ってしまえば過去の心。

「今・ここ・自分」に集中することが、「念」。

念を残すというのは、過去から今に残すのではなく、今から未来へ残すものだと思いました。

2012/08/29

福島散策記(7)-古関裕而記念館

福島散策記(6)より。

これが、福島散策記の最後です。

岩谷観音をあとにして、次は信夫文知摺に行こうと思っていましたが、行って帰ってくると結構な時間になりそうだったことと、信夫山に自転車で登ろうとしたり、岩谷観音を見る(探す)ために階段を3往復したりと身体が疲れてきたこともあり、岩谷観音から近い、古関裕而記念館へ行ってきました。

恥ずかしながら、古関裕而のことは、この記念館に行くまで知りませんでした…。

駅でもらった観光ガイドを読んで作曲家であることは知りましたが、作った曲なども知ることもなく…。

全く予備知識なく行ってきました。


が、古関裕而記念館の館内で流れている音楽は、知っている!

例えば、「オリンピック・マーチ」


また例えば、「スポーツショウ行進曲」


他にも、「六甲おろし」ですとか、NHKの高校野球の歌(すみません、タイトル覚えておりません…)など、私はタイトルを知らない曲や、タイトルを見ても曲は出てこないのですが、聞いたことがある曲などを作曲された方のようです。

ここは、古関裕而(と作曲した曲)のことを知っている人にはたまらなく面白いところだと思います。


古関裕而記念館の隣には福島市音楽堂。
古関裕而記念館もそうでしたが、建物がいいですね。


今回、福島を訪れるにあたり、どこに行くかも決めず、駅の観光ガイドのみを頼りにいろいろと足を運んでみました。

書店でガイドブックとかを買ったとしたら、今回訪れた場所は、おそらくは大きくは載っていないところではないかと思います。

ガイドブックも見ていないのでわかりませんが、福島県といえばイメージとして、会津若松とか喜多方ラーメンとか猪苗代湖とか、「福島市」自体大きく載っていないのではないか、と。

ですが、予備知識なしに訪れ、いろいろと見て回るのもなかなか楽しいものでした。


今、住んでいるところや、実家の近くとかにも、それほど有名でなくとも楽しいところがあるのではないか、という気がします。


あ、あと付け加えることとして、今回訪れた場所は全て入場無料だったり一般開放されていたりしていて、お金はかかっておりません。

レンタサイクルも無料でしたし。

思いがけず、福島への旅費だけで、お金のかからない旅行となりました(笑)

2012/08/27

福島散策記(6)-岩谷観音

福島散策記(5)より。

さて、やっと岩谷観音の入口までたどり着きました。

また階段をのぼります。

まずは長命成願地蔵尊。

その上に岩谷観音があります。

ここ岩谷観音には、西国三十三観音をはじめとする磨崖仏群があります。

壮観です。







鐘楼もありました。

さらに上に行くと観音寺裏参道。
さすがに裏参道は行きませんでした。

社はありませんが、古峰神社。
福島稲荷神社の境内にあった古峯神社と何かかかわりがあるのですかね?

古峰神社にベンチがあり、そこからは福島市の市街地が一望できます。

ズームすると、福島競馬場のオーロラビジョンも見えました。

岩谷観音の磨崖仏を細かく見てみたい気持ちもありましたが、少し雲行きがあやしくなり始めました。

彫られた文字は判読できないものが多くありました。

しかし、何百年の風雨に耐え、こうした仏様が残っているのは、決して信心深くはない私ですが、敬虔な気持ちになります。


福島散策記(7)へ続く。

2012/08/24

福島散策記(5)-信夫山の麓

福島散策記(4)より。

お昼になったので昼食に「円盤餃子」を食べたいと思って福島駅周辺をウロウロするもよくわからず、結局昼食はドトール…。

もう少し調べておいた方がよかったです…。


気を取り直して、午後から向かったのは「信夫山

麓に駒山公園や護国神社などがあります。


まずは護国神社にお参り。
おみくじは引かず。

護国神社の前には、菅原道真を祀る信夫山天満宮。

神牛もいました。

駒山公園

ここも駒山公園に入るのですかね。

これらは信夫山の入り口なのですが、
実は疲れていました(^-^;)

信夫山公園は山の上にありそう…。

ままチャリではきつい山道です。


信夫山公園はあきらめ、次に向かったのは「岩谷観音

途中の道は水路が整備され、涼しげな感じです。

この辺りかな、と自転車をおりて階段を登った先は、「観音寺」
もう少しのようです。

階段を降りて少し先に進むと、また階段を発見したので登ってみると、今度は「成田山」

そのまま山道を行けば、目的の「岩谷観音」に行けるような看板があったのですが、階段の下の方に自転車を止めているので、もう一度降ります…。

自転車に乗りもう少し行くと…、
看板、出てました…。

少し疲れつつも岩谷観音に到着です。


福島散策記(6)へ続く。

ブログ アーカイブ