2020/03/16

猫だまし的な特技

「特技はなに?」「得意なことは?」と聞かれると困ってしまう。ぱっと思い浮かぶものがない。自信をもって「こんなことができます」とか「こんなことが得意です」というものが出てこない。いや、出てはくるのだが、そのあとの会話の展開につながらないようなことなので言っても仕方がないような気がして言わないだけだ。

特技とか得意なことを聞くのは、その人のことをもっと知りたいということが主な動機であろう。あるいはもっと会話を続けたいので、その糸口を探しているということもあると思う。また、特技とか得意なことというのは、他人ができない、あるいは他の人よりも上手くできると思われるものであるが、自分をアピールすることでもある。

相撲で「猫だまし」という技がある。小柄な力士である舞の海が使っていたもので、立ち会い後ぶつかり合う前に、相手の目の前でパンと手を合わせる。相手が驚いている隙きを狙う技、意表を突くような技である。この「猫だまし」は技ではあるかもしれないが、決まり手にはならない。舞の海が得意技を聞かれても「猫だましです」とは言わないだろう。

僕が「特技はなに?」と聞かれてぱっと思い浮かぶものは、猫だまし的な特技である。猫だまし的なコミュニケーションをする場合には役に立つのかもしれないが、特技を聞かれるときはコミュニケーションが浅いときで、お互いに様子見であることが大半である。猫だましは通用しない。

そんな猫だまし的な僕の特技をいくつか紹介したい。


ダブル指パッチン
指パッチンができる人は多い。中指を弾く人が多いと思うが、あるとき薬指を弾いている人を見た。本人に確認はしていないので、そう見えただけかもしれない。ただ「薬指でも指パッチンができるんだ」と思い、何度かやってみるとできた。ならば、と薬指で指パッチンをした直後に、連続で中指でも指パッチンをすることができるのではと思い練習した。結果、指パッチンの音をパッチンと表現するとすると、片手の一回の動作で薬指と中指を使ってパッパッチンと鳴らせるようになった。ダブル指パッチンと聞くと両手を使っての2連打と思われるかもしれないが、僕は両手を使って4連打の音を鳴らすことができる。


口笛を吸う
基本的には口笛は吹くものだ。唇で空気の流れを調整して音を出す。ならば吸うときにも音を出せるのではないかと思い試してみた。鳴らすことはできた。ただ口笛を吹いたときの音と吸ったときの音では響きが違う。音も吸っている感じで、音の大きさも明らかに違う。また、調子のいいとき悪いときもあって安定しておらず、さり気なく口笛を吸うことはできない。だからまだ特技とは言えないかもしれない。

同様の原理で、吸いながら話すこともできるのではないかと思い試してみた。声らしきものは出る。明石家さんまさんの引き笑いのような声である。息を吸うときにも口笛や声を出すことができたら、延々と音を出し続けることができると思うが、切り替えが難しい。


いつでもゲップ
呼吸で吸った空気は気管を通り肺に送られ、酸素を取り込んだあと気管を通って出ていく。口から入ってくるものは空気の他に、食べ物飲み物があるが、こちらは食道を通り胃に送られる。空気が食道側に入ったときに「こっちは違うよ」と出るのがゲップである。だから意識的に食道側に空気を送り込めばゲップが出る。正確には、空気は食道までいっておらず、喉の奥の方に送り込む感じである。ゲップが出そうで出ないときに役に立ちそうだが、出そうで出ないゲップのもとと意識的に送り込んだ空気は違うので、ゲップは出るものの出そうで出ない方は出ない。また、人前ですることは憚られる。

食道に行くべきものが気管側に行ったらどうなるか、と考えてみたが、今まで経験がないことで、おおごとになりそうなので、しようとは思わない。

ちなみに、空気はお尻からも出る。お尻から空気を入れることができれば、いつでもおならができる。四つん這いで腕は立てず膝を立て、お尻を上に突き出した状態でおならをするとたまに空気が入ってきて連続おならができることがあるが、意識して空気を入れることはできない。


以上、特技といえば特技かもしれないが、自信をもって「これが特技です」とは言い切れないものを紹介した。「特技はなんですか?」という期待に沿うことができそうにもないものである。

期待(気体)にはハイ(肺)で応えたい。

2020/03/15

「思う」ことより「思い出す」こと

文章を読むことは好きなのだが、文章を書くことは苦手である。「いま、ブログをかいているじゃないか」と言われるかもしれないが、ブログを書こうと思ったきっかけは、文章が苦手だからなるべくアウトプットを心がけて少しでも書くことに慣れようとしているからである。未だに慣れたとは言い切れない。

第一、何を書こうかと毎回悩む。訴えたい主義主張でもあれば書きやすいのかもしれないが、特に何かを伝えたいということは思いつかない。何かヒントはないかと手近な本に手を伸ばす。おもしろくて読みふける。結局何も書かずに時間が経つ。

そんななかで本棚を眺めるといまの状態そのものずばりのタイトルが本棚に並んでいた。近藤勝重『書くことが思いつかない人のための文章教室』である。以前にも読んだものだが、あまり内容を覚えていない。あらためて読み直した。

そこに、「「思う」ことより「思い出す」こと」という小見出しがあった。書くことが浮かんでこないときのひとつの方法である。
「思う」は「ぼくはこう思う」という言い方があるとおり、胸の中での一つの判断にすぎません。一方、「思い出す」は「夏がくれば思い出す」という「夏の思い出」の歌詞じゃありませんが、主として記憶にある体験を頭に思い浮かべることです。そうしてテーマに合う事柄を思い出せば、それとかかわるデータもいもづる式にいろいろ浮かんできたりするものです。
本を読むことが多いので、その感想をブログに書こうとすることもあるが、書こうとすると粗筋や要約となったり、説明だけで終わってしまったり、あとあとブログを読み返してみると自分の感想が書かれていなかったということがある。感想が書かれていても「おもしろかった」とか、その程度であることもしばしば。

「思う」より「思い出す」こと、というのは、僕にとってはいい方法かもしれない。文章の書き方の本には「自分の経験体験はその人独自のことだから独自の内容となるので、それを他人にわかるように書いたものがいい文章である」というようなことがよく書かれている。「思う」ことを書こうとすると、一般的なことだったり、いろいろな考え方などを列挙したりして、あまり自分のことを書くことがない。独自性もおもしろみもない。しかし「思い出す」のであれば、すらすらと書くことはまだできないけれど、少なくとも書く糸口を見つけることができそうな気がする。

「思うより、思い出すことか」とあらためて納得したが、以前に読んだときにも同様に「そうか、なるほど」と思っていたことを思い出しながら読んでいた。なので再読したときの感想は「なんで自分が大事と思ったことを忘れていたのだろう」というのが正直なところである。読んだことは覚えている。納得したことも覚えている。しかし身につけてはいなかった。

ふと小林秀雄の言葉を思い出した。
「思い出さなければいけないのだろう」

さて何に書かれていたのだろうかと、調べてみると「無常ということ」のなかでの言葉であった。
思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。
読んだことは覚えていて、納得したことも覚えているが、身についていたとは言えない。しかし、記憶の片隅には残っていて、一応糸口だけは思い出すことはできた。

2020/03/12

パンデミックとパニック

3月11日、最近話題となっている新型コロナウイルス(COVID-19)について、世界保健機構(World Health Organization:WHO)が「パンデミックと言える」と表明した。

パンデミック(pandemic)という言葉はあまり好きではない。言葉の上で、パニック(panic)を連想してしまうからだ。

パンデミックはギリシア語の「pandemia」が語源で、「pan(全て)」+「demos(人々)」を意味する。一方、パニックはギリシア神話の牧神パン(pan、パーンとも)に由来する言葉である。Wikipedeiaの「パーン(ギリシア神話)」の項には、
実際には古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられたものだが、ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パーン神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。

パーンがテューポーンに襲われた際に上半身が山羊、下半身が魚の姿になって逃げたエピソードは有名であるが、この姿は低きは海底から高きは山の頂上まで(山羊は高山動物であるため)世界のあらゆるところに到達できるとされ、「全て」を意味する接頭語 Pan(汎)の語源となったともいわれている。
とあり、パンデミックとパニックは無関係であるとは言い切れないが、パンデミックとパニックを直接結びつける必要はない。

それでも連想してしまうのは、たとえば最近ではトイレットペーパーの買い占めなど、パニックを思わせるような現象が起こるからであろう。

パニックという言葉は、牧神パンに由来すると先に書いたが、その由来にも諸説ある。よく聞くのは、古代ギリシアでは家畜が突然騒ぎはじめたりする現象を、牧神パンの仕業と考えられていたため、それをパニックと呼んだというものである。他にも、ギリシア神話でオリュンポスに怪物テュポーンが現れたとき神々が逃げまわった。牧神パンは魚に変身して川に逃げ込もうとしたが慌てていたため、下半身は魚になったが、上半身はヤギとなった(その姿が山羊座に描かれている)。このような慌てぶりをパニックと呼んだという。

牧神パンは半獣神としてもイメージされている。ヤギと人の姿を混合した神である。半人半獣の精霊サテュロスとも同一視されることが多い。

そういえば、ウイルスも生物なのか無生物なのか曖昧な存在である。生物の定義としては、自己増殖、代謝、外界との隔離の3つがよく挙げられるが、ウイルスは外界との隔離はなく(わかりやすくいえば細胞壁がなく、細胞という構造を持たない)、宿主がなければ、代謝して自己増殖(複製)することもない。

こんなことを考えていると、ウイルスとパニックは案外似ているのかもしれないとも思う。とすると、パンデミックからパニックを連想するのも不思議ではないのかもしれない。

そんなことを思った。

2020/03/05

万城目学『悟浄出立』

万城目学さんの作品は読んだことがなかったが、本のタイトルに惹かれて『悟浄出立』を読んだ。中島敦(作品として「山月記」が有名)に「わが西遊記」と銘打たれた「悟浄出世」「悟浄歎異」という短編があり、『悟浄出立』はこれらを意識して書かれているのではと興味を持った。

文庫版の『悟浄出立』には「序」と「著者解題」がついている。2014年の単行本刊行の際には載っていなかったようだ。本のタイトルに惹かれ、「序」を軽く立ち読みすると、「悟浄出立」を書いたきっかけがあった。現代文のテストで出題された文章がおもしろかったこと、のちにそれが中島敦の「悟浄歎異」であると知ったこと、読み切り短編を書くにあたり「永遠に読めないあの話の続きを、自分で書いてみたら?」とふと思いついたこと、など。

私も中島敦の短編集を読み、「悟浄出世」「悟浄歎異」を読んだとき、中島敦が「わが西遊記」を完成させていたとしたらどんな本になっていただろうかと想像した。とはいっても、中島敦の作品を深く読んでいるわけでもなく、ストーリーなど具体的にはまったく想像できず、きっとおもしろい作品になっていただろうなという程度のことであった。

万城目さんは実行した。
「悟浄歎異」のラスト付近で、沙悟浄が、今の自分は悟空からまだ多くを学ばねばならぬ、猪八戒を知るのはその次だ、と述懐するシーンがある。沙悟浄が悟空と三蔵法師を考察する話は、中島敦がすでに書いた。自然、私が書くべきは「沙悟浄が猪八戒を考察する話」に決まった。
「そんな述懐シーン、あったっけ!?」というのが私の正直な感想である。しっかりとは読めていないことを(あらためて)認識した。

『悟浄出立』は、「悟浄出立」「趙雲西航」「虞姫寂静」「法家孤憤」「父司馬遷」の5編が所収された短編集で、文庫化にあたり、著者による「序」と「著者解題」が収められている。このうち『西遊記』を題材にした短編は表題作である「悟浄出立」のみであったが、他4編の短編も中国古典を題材にしておりおもしろく読めた。

それぞれの短編について簡単に触れておく。

「悟浄出立」
『西遊記』を題材に書かれたもの。『西遊記』は、三蔵法師が孫悟空、猪八戒、沙悟浄とともに仏典を求めて天竺を目指していく話で有名である。『西遊記』については、小学生のときに読んだきりである(もちろん子ども向けに編集されたもので原典ではない)。中島敦が『西遊記』を題材に「悟浄出世」「悟浄歎異」という短編を書いているが、タイトルからもわかるように、沙悟浄が主人公である。万城目さんの「悟浄出立」もそれを踏襲し、沙悟浄の一人称視点で書かれている。内容は先に「序」から引用した部分にも書いてあるように、沙悟浄が猪八戒を考察する話。

「趙雲西航」
『三国志』が題材。三国志といえば、劉備、関羽、張飛、孔明など有名どころが多数いる。趙雲も有名であるが、性格や特徴などはあまりはっきりとはしていない(もちろん私の読みが浅い可能性が高い)。その趙雲視点で書かれた短編。

「虞姫寂静」
高校の漢文の授業で「四面楚歌」の故事を読んだ。『史記』の一場面。「項羽と劉邦」での一場面といったほうが通りがいいかもしれない。項羽の側にいる虞という女性の視点で描かれている。個人的には『悟浄出立』のなかではこの短編が一番好きな短編。

「法家孤憤」
こちらも原典は『史記』。「刺客列伝」に出てくる荊軻のことを、同じ発音ではあるが漢字が異なる京科という名前の男の視点から書く。『史記』は読んだことがないが、荊軻についてはどこかで読んだ記憶がある。タイトルの「法家」は諸子百家の法家。法により国を治めようという考え方。韓非子が有名。

「父司馬遷」
『史記』を書いた司馬遷の逸話が題材。中島敦の短編「李陵」でも取り扱われている。李陵を擁護した罪で司馬遷は腐刑(男性器を切り取る刑)にあう。その後の様子を司馬遷の娘、栄の視点で描いた短編。栄が実在の人物であるかどうかは知らない。栄の次の科白が力強い。
「いつまで、愚図愚図めそめそしたフリを続けるつもりなんですか? 何が天道か、見失ってしまった? 何、情けないことを言っているのですか。どうしてそんな簡単なことがわからないの? 書くことじゃない。書くこと、それだけが司馬遷――、あなたが命を捧げるべき相手、従うべき天道じゃないッ」

『悟浄出立』に収められている5編について、万城目さんは「序」で「沙悟浄と同じく、主役の周囲にいる人物を中央に置き、その視点でもって主役を観察し、ひるがえって自己を掘り下げる、という心の動きを描いた。」と書いている。私は、読書、特に小説を読むことは、自分とは別の誰かを観察し、ひるがえって自己を掘り下げることが肝心だと思っている。そういう読み方をしたいと思っている。


【書誌情報】
万城目学『悟浄出立』
2014年(平成26年)7月 新潮社
2017年(平成29年)1月 新潮文庫

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