2013/03/30

安藤忠雄「大阪を元気にする」講演会

3月29日(金)、安藤忠雄さんの講演会に行ってきました。
「大阪を元気にする!」という題の講演会です。



人が集まると何かが起こる。
何かが起こると元気になる。

世界の街のデザインや、日本、大阪の建築物、そして安藤さんの手がけたプロジェクト等を紹介しながら、人の集まる美しい街づくり、そして一人ひとりが理想を持ち、理想のためにどう生きるかというメッセージを持った講演会でした。


印象的だったのは、「これは、いいところです」という言葉。

例えば、大阪のオバちゃんはずうずうしいという話をしたときには、
「これは大阪のオバちゃんのいいところです。」


欠点と見えそうなところでも、「いいところ」と表現する。
短所が長所となることをあらためて感じました。


講演会終了後、少し歩いて帰りたくなりました。
講演会の中で「散歩ができる街」ということもおっしゃっていたためです。

講演会の会場は、京阪電車中之島駅近くの大阪国際会議場。


通勤で御堂筋線を利用しているので、中之島駅から御堂筋線淀屋橋駅まで、2駅くらいを堂島川沿いに歩きました。
整備された歩道や、川岸や橋がライトアップされていて散歩するにはちょうどいい感じです。







中之島界隈には、日銀や中之島公会堂などの味わい深い建築物も多数あります。
普段は足早に通り過ぎることが多いのですが、ゆっくりと歩いてみるのもいいかもしれません。

2013/03/20

わもんな言葉35-玄

先日、伊與田覺さんの『中庸に学ぶ』を読みました。

儒学の四書のうちのひとつ『中庸』について、伊與田さんが行った講演の講演録です。

その中の一節。
この「徳」には二つの面があります。一つは、目には見えないが、内にあって大きな働きをしている徳。木にたとえると根に相当するところの徳を「玄徳」といいます。他方、外に現れる徳。木にたとえると幹や枝、葉・花・実にあたる部分ですが、これを目に見えるから「明徳」というのです。

当然(?)のことながら、「玄」を思い出します。


わもん黒帯は「初段」から「七段」まであり、次は「名人」。

その後、「匠」「聖」「玄」と続きます。

この段位がいつどのように名付けられたか、由来は全く知らないのですが、「玄徳」と関係がありそうな気がします。


「玄徳」とは、「木にたとえると根に相当するところの徳」というのも、また面白いところ。


言葉は「言の葉」で、1枚の葉っぱに気をとられると全体が見えなくなる。

音を入り口に話を聞き、葉っぱのみならず根っこへ。

根っこの音が「本音(根)」。


「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。

学習理論でいうところの「無意識の有能」を思います。


「わもん入ってる」ことさえ忘れた心境。

意識せずとも話を深く聞ける心境。


「道は則ち高し、美し、約なり、近なり」とは、吉田松陰の『講孟箚記』の序の冒頭。

高く美しくもあり、簡単で身近なもの。


まだまだ私は「意識的な無能」段階かもしれませんが、「意識的な有能」そして「無意識の有能」へと学んでいきたいと思います。

「中庸」に学ぶ
「中庸」に学ぶ

わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/03/17

わもんな言葉34-年内名人

いつの間にできたのか、正確には思い出せませんが、わもん黒帯は「初段」から「七段」まであります。そして、黒帯七段の次が「名人」です。
その「名人」位を年内(2013年)に取る、という方が現れました!
まずはこちら、ヤブログ放送室「年内名人」をお聞きください。


私がこの放送の中で「年内名人」という言葉を聞いたとき、まず思ったのは、
「アクセントの滝がひとつだ」ということです。


日本語にもアクセントはあります。
英語のような「強勢アクセント」「強弱アクセント」ではなく、
「ピッチアクセント」「高低アクセント」です。

試しに、以下の4つの単語を発音してみましょう。
わかりやすいように3文字の単語です。
カラス
タマゴ
オトコ(が)
オトナ(が)
最初の「カラス」は、「カ」の音が高く、「ラ」「ス」の音が低い頭高型と言われます。
次の「タマゴ」は、「タ」が低く、「マ」で高くなり、「ゴ」で低い中高型。
3つ目の「オトコ」は、「オ」は低く、「ト」「コ」で高く、その後に続く助詞では低くなる尾高型。
最後の「オトナ」は、最初は低く、「ト」「ナ」で高く、その後に続く助詞も高い平板型です。

先ほどの4つの単語の音の高低をまとめると以下のようになります。
頭高型:高低低
中高型:低高低
尾高型:低高高(低)
平板型:低高高(高)

で、「高」から「低」になるところ、音の高さが下がるところを「アクセントの滝」といいます。

ここで、アクセントの滝を「'」で表すとすると、
頭高型:例)カ'ラス
中高型:例)タマ'ゴ
尾高型:例)オトコ'(が)
平板型:例)オトナ(が)※何もつけない
となります。

ここで言いたい重要なことは
「日本語では、単語ひとつにつき、アクセントの滝はひとつ(あるいは、ない)」
ということです。

先に「『年内名人』はアクセントの滝がひとつだ」と言いました。
それは「『年内名人』でひとつの単語になっている」ということです。

ヤブログ放送室の中では、「年内名人」という言葉を「きれいな言葉」「美しい四文字熟語」と表現しています。

「年内名人」という言葉は、「年内」と「名人」を合わせた複合語でもあるので、アクセントの滝は「年内」にひとつ、「名人」にひとつあってもいいわけです。
現に、「年内」は「ね'んない」、「名人」は「めいじ'ん」です。
放送室の中でも、アクセントの滝がふたつのときもあります。

語形成の過程で、複合語から単語となるひとつの目安として、アクセントの滝が複数なのか、あるいはひとつ(あるいはゼロ)なのか、ということも言えるかとおもいます。そこから考えると、アクセントの滝がひとつである「年内名人(ねんないめいじ'ん)」はひとつの単語といってもいいでしょう。

2つの単語がひとつになる。
ここに、きれいさ、美しさがあるのではないか。


思えば、わもんでは「聞き手」と「話し手」がひとつになる「話聞一如」の状態を目指しています。

「全体は部分の総和以上である」というのはゲシュタルト心理学の基本テーゼですが、話し手と聞き手がひとつとなったとき、より大きな、より深い話ができるのではないかと思います。


そして「年内」と「名人」がひとつになったとき、これも、より大きな、より深い言葉に…。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/03/14

胡蝶効果

バタフライ効果」というものがあります。
通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことです。

さて、『荘子』の中でも有名な文章のひとつ。
斉物論篇にある「胡蝶の夢」です。
昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩みて志に適うか、周なることを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。
荘周(荘子)が蝶になった夢を見たときのこと。
蝶は楽しく飛びまわり、自分が荘周であることを知りません。
ところが、目を覚ますと自分は荘周。
果たして、荘周が蝶となった夢を見たのか、蝶が荘周となった夢を見たのか。

夢の中での蝶の羽ばたきは、荘周にどのような影響を与えたか。



荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)
荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

2013/03/12

わもんな言葉33-修身

儒学の四書のひとつである『大学』に八条目というものがあります。

「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の8つです。

「格物」から「修身」をまとめて「修己」、「斉家」から「平天下」をまとめて「治人」。

儒学は「修己治人」の学問だと言われます。

己を修め人を治める、です。


さて、先日(3/10)の「心徒塾」で、「修身」という言葉がでてきました。

冒頭の『大学』も頭に浮かびましたが、もうひとつ、昨年読んだ本も思い浮かびました。

『国民の修身』という本で、帯には「戦前の修身教科書を再現!」と書かれていました。


実はこの本、特に「修身」のことを知りたいと思い買った本ではありません。

監修者の渡部昇一さんの名前に魅かれて買った本です。


渡部昇一さんの『知的生活の方法』という本があり、この本は、私が本をよく読むようになったきっかけの本。

その中の最初にシェイクスピアの『ハムレット』の言葉が引かれています。
最後に、最も大切なる訓……己に対して忠実なれ、さすれば夜の昼に継ぐが如く、他人に対しても忠実ならん。(坪内逍遥訳『ハムレット』第一幕第三場より)

この本を読んだ頃は、『大学』も読んでおらず、「修身」という言葉も知りませんでしたが、「己に対して忠実なれ」という言葉は頭に残りました。


そして、本日、「修身」という言葉を聞き、「己に対して忠実なれ」という言葉も頭に浮かんだ次第。


『国民の修身』の「修身」とは、今でいう道徳のようなもの。

「修身」は「身を修める」と書きます。

身を修める「修身」、己を修める「修己」、そして「己に対して忠実なれ」

『大学』の八条目の中の、「誠意(意を誠にす)」「正心(心を正す)」にもつながります。


自分の中の不安、疑問は「二人羽織」を通すと増幅されます。

先日の心徒塾では、そのことをまざまざと体験しました。


不安、疑問は、己に対して忠実でないときに湧き上がります。

己に対する不安、疑問です。


己に対して忠実なること、「自己わもん」へとつながります。

国民の修身
国民の修身

大学・中庸 (岩波文庫)
大学・中庸 (岩波文庫)

わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/03/05

電子書籍の名称を考える

本間先生のfacebookでのシェアで、インタビュー記事を読みました。

BOOKSCANという「蔵書を電子書籍化+廃棄処分する」サービスを提供している会社のインタビュー記事です(インタビュー記事はこちら)。

その中で、以下の言葉。
本間正人氏: いまメールって言えば電子メールのことですよね。「電子メール」とか「Eメール」って言わないじゃないですか。それで、手紙って言ったら紙じゃないですか。それと同じ様に、僕たちは、ひょっとすると電子書籍を「ブック」と言い、紙の本は「本」と言う時代が来る。いや、もう来年くらいからそう言ってるかもしれない。

―― わざわざ「電子」と言わない時代がくるんですね。

本間正人氏: 「電子書籍」なんて言わないで「ブック」って言ったら電子書籍で、「本」って言ったら紙の本みたいに。「ライス」と「ご飯」の使い分けとかね、日本人そういうカタカナをうまく使うっていう伝統があって。これひょっとすると「ブック」って言ったら電子書籍になるんじゃないかなっていう気が非常にしました。

たしかに、「メール」や「ケータイ」「スマホ」など、そうですね。

普及し始めて短くなるか、短くなって加速度的に普及していくか、どちらが先かとはなかなか言えないですが、普及するものは「複合語」から「単語」になっていくのだと思います。


そこで、「電子書籍」を単語化するとどうなるか、を想像してみたいと思います。


まずは、冒頭のインタビュー記事を読んでいく中での思い付き。
本間正人氏: そうです。だからね、電子書籍の1つの方向性はね、もっとグラフィックなものだと思うんです。いままでの本作りが、文字情報中心のものだったわけですよ。活版印刷技術で、活字を置いてる時代には、図版を入れるっていうのは大変な作業だったわけですよ。でもいまはもうコンピューターで何だってできるわけじゃないですか。だからね、もっと圧倒的にグラフィックなものになりますよ。

電子書籍(E-book)からの思い付きで「e-本(えほん)」

ちょっと普及しそうにありません…。


ちょっとひねって、電子書籍になればたくさん本を持ち歩けるようになるので、「bookself」

「本棚(bookshelf)」と「自分の本」という意味をかけてみました。

うーん、優良可でいえば可。

どちらかといえば、電子書籍のデバイスの商品名にありそうですね。


単純に「電子書籍」を短縮して「電書」

…ボツ。

もう少し、電子書籍の特徴もふくませたネーミングがいいな…。


電子書籍の特徴といえば、「物理的な制約が(ほとんど)ない」「劣化しない」…。

「軽書」

携える書の「携書」はディスカバーの書籍にありますね…。


内容的に深いものは「深書」とか。

ダジャレになってきた…。


電子書籍の方向性とすれば、記事の中にもあるように、グラフィック(図版)が多くなり、動画や音なども入りそうです。

文字の大きさやフォントを変えることができたりもするでしょう。

五感をつかうので、「語巻」とか…いまいち。


うーん、やはり本間先生も言うように、「ブック」がいいのかもしれません…。


そうでなければ、「テキスト」

ただ「テキスト」には既に教科書というような意味もあるのでふさわしくないかもしれません。


テキストとブックと合わせて「テック」

テクニカル、あるいはテクノロジーの意味もふくませて…。

そういえば組版ソフトに「TeX」というのがありますが、未だに「テック」と呼ぶのか「テックス」あるいは「テフ」と呼ぶのか知りません…。

「ブックス(BoX)」「ベックス(BeX)」

登録商標の類ならあり、かも。


「ブクスト」

ちょっと言いにくい。


「メール」や「ケータイ」の法則(?)からならば、やはりカタカナで3モーラ(拍)あたりの語がいいですね。

「ショセキ」なんかは書き言葉としては妥当。


だんだんと独り言に近づいてきたので、この辺で…。

2013/03/04

わもんな言葉32-エンドポイント

3/3(日)、長居公園での「第35回 大阪42.195kmフルマラソン大会」に参加しました。

自身としては、3回目のフルマラソン大会出場です。

初めてフルマラソンに挑戦したのは、昨年のこの大会。

初めての挑戦での結果は、リタイアでした…。(「フルマラソン挑戦」参照)


今回の目標は「歩かず走り続けて完走」

2回目のフルマラソンでゴールすることはできたのですが、かなりの距離を歩いていました。(「フルマラソン感想」参照)

そこで今回は「走り続けて完走すること」が目標。

そして、走り続けることができれば、4時間半は切れるだろう、と。


が、結果は…、途中で欲が出てしまいました…。

完走はしたものの途中歩いてしまっています。

しかし、自分の現在の力を出し切った感はありますので、結果には納得しております。


さて、長居公園での、このフルマラソンは、1周2,813mを15周する周回コース。

給水所は1か所ですが、周回コースなので15回あります。


1周目、快調に走ります。

しかし、少しペースが速い。

キロ5分30秒くらいで走っていました。

2週目・3周目…と、「もう少しペースを落とそう、キロ6分くらいで走ろう」と思いつつも、「このままでもいけるかも」と別の声が聞こえてきます。

給水を小まめに取りつつ、キロ5分45秒~50秒くらいで走っていました。


そんな調子で8周くらい走っていましたが、太ももの筋肉がかなり張ってきました。

ちょっとペースは落ちたものの、まだ走れる感はありました。


で、残り4周となったところで時計を見ると、3時間5分という表示。

「1周15分で走れば、サブ4目前!」

悪魔の声(?)に乗ってしまいました…。

ペースを上げます。


残り3周というところの途中で、膝がきました…。

無理して走ると痛くなるやつです。

ここでは素直に歩きに切り替え。


そして歩いたり走ったりしながら、ラストの1周は走ってゴール。

歩かなければ…という感はありますが、まあそこは今の実力か、とも思います。


「エンドポイントに向かっていかにハンドリングするか」

今回のエンドポイントは「歩かずに走り続ける」ということだったのに、そこに「悪魔のささやき」が入り込んだ結果、ちょっと無茶してしまいました。


「直感」と「悪魔のささやき」の区別をつけることができていなかった、ということです。


区別をつけるには、いかに自分のことを信じ切れるか。

「いけるかも」ではなく、「いける」と思ったならば、いってもいいのかもしれませんが…、う~ん、難しい。

まだまだ修行が足りません。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う