2017/04/23

意識と無意識の遊び

最近、『意識と無意識のあいだ』という本を読んで、マインドワンダリングという言葉を知った。カタカナでワンダリングと書かれると、驚きや不思議を表すwonderを思い浮かべる人がいるかもしれないが、マインドワンダリングのワンダリングはwander、「さまよう」とか「ふらふらと歩き回る」という意味である。つまり、マインドワンダリングは「さまよう心」「ぼんやりした心」を指す。

マインドフルネスという言葉が流行っている。書店に行くと、書名にマインドフルネスが使われている本をいくつか見かける。グーグル社員が実践しているということでメジャーになった感があるマインドフルネスは、「瞑想」と関連付けられて語られることが多い。

そのため、マインドワンダリングが「迷走」として語られることがある。「さまよう」「ふらふらと歩き回る」という意味から「迷走」と訳されてもおかしくはない。ただ、迷走という訳にしてしまうと、どこか否定的なニュアンスが込められてしまう。

マインドワンダリングは、「遊び」「ゆらぎ」のイメージである。

車のハンドルには「遊び」がある。ハンドルを少し切っただけではタイヤは曲がらないようになっている。たとえば、くしゃみなどをした拍子にハンドルに力が入り、それがタイヤまで伝わってしまうと事故を起こしてしまう可能性がある。また、遊びが少ないと、タイヤの方が何か衝撃を受けてちょっと方向がズレてしまうと、それがハンドルまで伝わってしまうため、ずっとハンドルに力を入れて固定させて置かなければならない。遊びは一種の柔軟性をもつ安全装置といえる。

しかし、遊びを大きくしてしまうと、今度は逆に曲がりたいときになかなか曲がれないということがおきてしまう。

車の例をさらに挙げるならば、ブレーキにも遊びがある。ちょっと足が当たったくらいで急ブレーキとなってしまっては危ない。逆に遊びが大きすぎてブレーキを踏んでもなかなか止まらないとなれば、さらに危ない。

マインドワンダリングには、このような側面がある。

一方では、安全装置として働く。脳、あるいは意識におけるマインドワンダリングが少なければ、「石頭」「頑固者」である。逆にマインドワンダリングが大きければ、「夢遊病」になる。

創造はマインドワンダリングから生まれるともいう。遊びからさまざまなことが生まれる。

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