2017/04/11

有標性と無標性

雑記である。我ながらわかりにくいことを書いている。


リンゴは赤い。しかし、すべてのリンゴが赤いわけではない。青リンゴというリンゴもある。

厳密にいえば、リンゴが赤いといっても、ひとつひとつのリンゴの色が同じというわけではないし、青リンゴも青いわけではない。この辺りは大まかに読んでほしい。


リンゴという概念を集合と考えると、青リンゴの集合はリンゴの集合に含まれる。ここで言いたいことは、青リンゴの集合の方に青リンゴと名前をつけていることである。

なぜ、青リンゴ以外の集合の方に「赤リンゴ」と名付けていないのか。


それは、赤いリンゴの方が一般的であり、青いリンゴの方が特殊だからである。そして、特殊な方に名前をつける。名前がついていることを、印(標)がついているとして「有標」とすると、印がついていない方は「無標」である。ここでは、青リンゴは有標、赤いリンゴは無標である。

赤いリンゴにはリンゴという名前がついているので有標ではないか、という人もいるかもしれない。有標・無標の区別は相対的なものであり、名前がついているから有標というわけではない。リンゴを有標とすると、無標としてはリンゴ以外のもの、たとえば果物、を想定するといいかもしれない。

全体のうち一般的なものや性質が無標、特殊なものが有標とする。概念や言葉はそのような性質をもっている。


たとえば、このブログ記事について、私が書きたいことを書いている。書きたいことを言葉にしている。書きたくないことは書かない。書いたとしても、書きたくないことを書きたかったから書いたといえる。どこまでも相対的である。

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙しなければならない」という。それでも、人間には、印をつける、名前をつけることの欲求なり、本能なりがあると思う。

発見や発明などは、無から有を生み出すともいう。それは、もともとあったけれど気づいていなかったものに印、名前をつけることからはじまったのだと思う。

何もないと思っていたところに何かがある。


こういうことをもっとわかりやすく表現したい。

ブログ アーカイブ