2017/02/28

引用

大学の授業で、サラ・パレツキーの『ガーディアン・エンジェル』を読んだ。原書である。教授も外国人教授で、授業も英語。試験としてのレポート提出も英語であった。

レポート提出後、教授はひとりひとりに対してコメントを言った。私のレポートについては「引用が多い」ということだった。

レポートの課題は、何でもいいので気づいたことを書けといった内容であったと思う。読書感想文ではいけないだろうことはわかったが、何でもいいといわれると、これも書きにくい。ましてや、すべて英語で書かなければならないとなると余計に書きにくい。

結局、『ガーディアン・エンジェル』の章題には、聖書の文句を基につけられているものが多いということに気づき、そんなことを書いた。聖書からの引用をふんだんに利用して。もちろん、文字数を稼ぐためである。

引用とは、自分の論を説明・証明するために他の文章や事例を引くことである。

私の書いたレポートで言いたかったことは「章題は聖書の文句を基につけられているものが多い」というだけで、その事例を延々と書き連ねた。レポート全体の3分の2くらいが引用部分だったと思う。一言でいえば、単なる事例集だ。聖書の抜き書きともいえ、引用部分がメインになっていた。

引用は、自分の意見なり何なりが軸にあり、それを補強説明するためにある。自分の論がメインで、引用はサブである。

WEB上では、引用なのか転載なのかわからないものも多い。無断転載で問題となることもある。引用ばかりだが上手く編集・構成されているものもある。

ガーディアン・エンジェルは、直訳すると守護天使である。いつもそばで見守ってくれる天使だろう。

ブログを書いていると、ときどき耳元で囁かれる。「引用が多い」と。

2017/02/27

継続は力なり

ここ数日、毎日ブログ投稿をしている。と自分自身でも半信半疑だったのだが、ひとまず1週間は続き、三日坊主はクリアできた。

今までは、別に毎日書かなくともいいと思っていた。思いついたときに思いついたよう書いて投稿していた。

それが、毎日書いてみよう、と変わったのは、池上彰さんと竹内政明さんの『書く力』を読んだからだ。

池上彰さんは、テレビのコメンテーターとして活躍されているようで、たくさんの著書を書店でも見かけるので名前は知っていた。ニュースなどの説明、解説がわかりやすいといわれている。一方、竹内政明さんのことは知らなかった。読売新聞のコラム「編集手帳」を2001年から担当している方で、池上さんによれば「読売新聞の一面を下から読ませる男」だという。

このブログは基本的にテーマを決めていない。書きたいように書いている。書きたいときに書いていた。1日に数回投稿したり、何ヶ月も放置していたりしていた。自分が思ったこと考えたことを書いていた。深くは考えていない。政治経済には疎く、社会的に大きな問題は取り扱っていない。かといって日記にはしたくない。

定期的にこのブログを読んでいる人は少ないにしろ、果たしてこのような文章を読みたい人がいるのだろうか、という思いがいつもあり、下書きのまま放置しているものもある。途中で投げ出しているものもある。

『書く力』は池上さんと竹内さんの対談で、「文章がどんどん書きたくなる」という帯がついていた。

読んでいくと、たしかに何か書きたくなった。自分にとって一番有効だと思ったのは、「小さな話から入って大きな話につなげる」ということである。身近な話は魅力的である、ということにも安心した。

池上さんや竹内さんほどの知識や文章力はない。深く考えてもいない。

それでも例示されていた「編集手帳」のような文章を書いてみたい。そう思った。

仕事で毎日コラムを書いていると、「ぜひ、これを書きたい」と思うような日は、一年のうち20日もあれば多いくらいです。「どうしても書きたいこと」なんてものは、そうそうはない。けれども、編集手帳を空欄にして新聞を出すわけにはいかない。締め切りの時刻は迫ってくる。起承転結なんて知ったことか。きのう見た映画でも、今日のお天気でも、とにかく肌で、目で、耳で、自分がわかっていることを書くしかないですよね。
『書く力』のなかで、竹内さんがこのように述べていた。

書きたいように書いていこう。毎日投稿しよう。書きたいことがたくさんあっても1日1回の投稿にして、ネタ切れの際のストックとしておこう。『書く力』を読み進めていくと、自分にとって少し頑張ればできる範囲のルールを作りはじめていた。

いつまで続くことやらまだ半信半疑ではある。信じるためには続けるしかない。

2017/02/26

天上の星を留めたる金の鋲


西田幾多郎『善の研究』を読んでいると以下の一節に出会った。
ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われて居るかも知れない。
注解がついており、ドイツの作家であるハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine, 1797-1856)が、その詩集『北海』に収められた詩「夜の船室にて」の一節を踏まえたものであろう、と書かれていた。
天上の星は固く留められている
金の鋲によって
憧れも、嘆息もむなしい
寝入ることこそ最善なり

現在の天文学的知識からいうと、夜空に見える星々は、たとえ隣り合っているように見えても実際には隣り合っておらず、何光年も離れていることになる。たまたま地球という惑星から見ると隣り合って見えるだけである。

宇宙ロケットの開発などは、現在の天文学・物理学などの科学知識を基になされていて、小惑星探査機「はやぶさ」などの活躍を見ると、これらの知見は誤ってはいないだろう。これからどのような発見があるのかということも気になるし、楽しみでもある。このような宇宙開発や研究調査にかかわっていれば現実味も増すだろう。

かかわりがないとは言わないが、薄い。どちらかといえば、金の鋲によって留められている星々の方が実感が湧く。科学的想像力の欠如と言われたらそうなのかもしれないが、天上に金の鋲で留められているという想像力も素敵なことだと思う。

昔に比べて、見える星の数が減ったように思う。数えたことはないので印象だけなのかもしれない。大気汚染のためなのかもしれないし、目が悪くなったからかもしれないし、曇り空の日が多いだけなのかもしれない。

あるいは、金の鋲が取れてしまったのかもしれない。再度、金の鋲で留めるすべを、まだ知らない。

憧れも、嘆息もむなしい。寝入ることこそ最善なり。

天上の星を留めたる金の鋲
ハイネも独り眠りにつける


2017/02/25

経営統合するか、しないか



先日2月24日の日本経済新聞朝刊1面に、森永製菓と森永乳業が2018年4月をメドに経営統合するという記事が出ていた。これを受けて両社は「経営統合に限らず様々な可能性について検討していることは事実だが、現在当社として決定した事実はない」とのコメントを発表しているので、決定なのかどうかは定かではない。


「火のないところに煙は立たない」といわれ、日経新聞も憶測で記事は書かないと思うので、経営統合の方向で進んでいくのかもしれない。

経営統合するという記事を見たとき、真っ先に思ったのは、キョロちゃんはどうなるだろうかということである。記事にはキョロちゃんの動向は載っていなかった。

日経の記事を読む限り、海外事業の拡大や研究開発の強化が理由に挙げられており、キョロちゃんのリストラの心配はなさそうだ。むしろ、キョロちゃんパッケージの乳飲料やキョロちゃんズの海外展開の期待が高まる。

新聞報道の数日前に、ITmediaの記事が掲載されていた。タイトルは「チョコボールが、いまも売れ続けている理由」である。「3つの要因が重なって、いまも売れ続けている」という。「おもちゃのカンヅメ」「味のブラッシュアップ」「キョロちゃん」の3つの要因である。

味に関しては「積年の課題」があるという。キャラメル味のキャラメルが歯にくっついてしまうので改良を重ねているが、まだ解決できていない。

くっつくか、くっつかないか。

2017/02/24

常識

以前から気になっていた、小林秀雄さんの『考えるヒント』を読みはじめた。有名でロングセラーな本であるため、いつでも読めると思い、また今度、また今度、と先延ばしになっていた。先日書店に行ったとき、また目についたので、やっと購入した。

小林秀雄さんのことはほとんど知らない。『考えるヒント』についても、エッセイ集であることくらいしか知らない。その『考えるヒント』の最初のエッセイのタイトルが「常識」である。

常識については持論がある。

常識という言葉は、「常識を知らないのか」とか「そんなことは常識だ」とか、知っていて当然のことを知らないときに使われることが多い。しかし考えてみてほしい。常識というのが、「いついかなるときでも誰もが知っている知識」だとすれば、知らない人がいることは常識ではない。だから「常識を知らないのか」と言われたら、「私が知らないということは、それは常識ではありません」と答えるようにしている。心の中で。

かといって、自分が知っていることが常識であるかどうかはわからない。自分にとっての常識が、相手にとっても常識であるかどうかもわからないし、世界中の誰もが知っていることがあるのかと問われれば確認のしようもないわけで、常識の中身はわかっていない。だから基本的に「常識」という言葉は使わないようにしている。

以上は私の持論である。小林秀雄さんが書いているわけではない。

極端な例(屁理屈ともいう)を挙げてみたが、私も常識というのが「いついかなるときでも誰もが知っている知識」とは思っていない。誰かが「常識」という言葉を使ったとき、そこにはその人の常識の範囲がある。それは私が使ったときも同じである。

小林秀雄さんはエッセイの中で以下のように述べた。

常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。

そんなことは常識だ。

2017/02/23

時間と空間を超える

パソコンに保存されているファイルを整理していると、昔書いたものがみつかった。先日の記事「小田原市は神奈川県にある(前編後編)」は、昔書いたものを再構成したものである。

他にもいくつか見つかった。せっかくなので公開してみる。よくミステリーを読んでいたので、ミステリーに関するものが多い。雑文の感が否めない。

以下に記載するのは、おそらく鮎川哲也さんの短編集『五つの時計』を読んだあとに書いたものと思われる。

----------

本格推理小説でしばしばみられる「密室」と「アリバイ」は言葉としては2つにわかれているが、考え方としては、同一のものであるといえる。

ミステリー読者にとって非常になじみのあるこれら2つの言葉は説明をしなくともどのようなことかというのはわかっていると思うが、「密室」というのは、ある部屋があり、その中に他殺と思われる死体があるが、その部屋に犯人の出入りした痕跡がない、あるいは出入りできないといった状況を作り出したことであり、一方、「アリバイ」というのは、反抗時刻と思われている時間帯、疑わしい容疑者が他の行動をとっていたという状況を作り出すことである。

時間と空間。この違いが言葉の違いと考えてもよさそうだ。

しかし、時間と空間は切っても切れない関係にある。密室とアリバイのトリックを見ると容易に理解できるだろう。

本物の密室、あるいは完全なアリバイではミステリーとしてあまり成功すると思えない。不可能に見えるが、実は可能である、それを解くのが作者、探偵、読者の楽しみである。

アリバイに「時間の檻」という言葉を使うと、密室には「空間の檻」と付けたくなるが、合わせると「時空の檻」ということになる。

アリバイは時間のことだけで成り立っているわけではない。犯行時刻に他の「場所」にいた、というのも十分条件として挙げられるし、密室の場合も、その「時間」には部屋に入れなかったというのもある。

推理作家はこの「時空の歪み」を上手く創り出そうと日々頭を働かせる。

----------

ファイルの作成日時を確認すると、2009年2月22日だった。もっと前に書いた記憶があるので、手書きの文章を打ち直したのかもしれない。

時を経たものなので何かひねりを加えたかったが、思いつかなかった。

2017/02/22

ただDADAこねくり回して

RADWINPSに「DADA」という曲がある。ドラムが印象的でテンポがいい。歌詞には言葉遊びが多く、意味を考えると重くなりがちだが、皮肉めいたユーモアが感じられる。MVは言葉が氾濫していて見ていて飽きない。



竹内政明さんの『「編集手帳」の文章術』を読んだ。第1章は「私の『文章十戎』」として、文章を書くとき言い聞かせている10のルールを挙げていた。第1戎は「「ダ」文を用いるなかれ」である。頭のなかで「DADA」が流れた。

「ダ」文というのは、文末を「…だ」とした文のこと。竹内さんは「編集手帳(読売新聞の1面コラム)」では「…だ」を使わず、「…である」と書くという。「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性もある。読者の読む速度をコントロールし、少しでも丁寧に活字を追ってもらう意図もあって「…である」を採用しているようだ。

「DADA」が流れる。テンポがいい。歌詞には「簡単に命を断ち切らないで」というメッセージが込められている。

「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性がある。

「DADA」が流れる。
どうなってんだ どうなってるんだ あんたもう黙っておくんな
どうなろうが なんだって言うんだ そんなこった知ったこっちゃ
ないんだこっちゃ なんだっていいんだ エンヤコラ やんのかこら
ハッケヨイで さぁさぁノコッタ

読書とは格闘技であると誰かが言った。戦う気はない。

ただ駄々をこねて駄文を書いただけだ。

2017/02/21

小田原市は神奈川県にある(後編)


なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。
北村薫さんの「織部の霊」を読んだとき、その理由がわかった。

(前編はこちら

北村薫さんの短編「織部の霊」(『空飛ぶ馬』所収)の話の内容以下のようなものである。

文学部教授の加茂先生は、子どもの頃に、見たことのない人物の夢を何度も見ていた。その人物は、古田織部正重然。焼き物の「織部」の名の由来となっている人物である。その古田織部の切腹のシーンを夢で何度も見ていた。古田織部の肖像画は、加茂先生の叔父の別荘にあったのだが、その肖像画を見る前から夢に出ていた。そして夢を見ていた頃は、古田織部が切腹したという事実も知らない。それなのに古田織部の切腹シーンが夢に出てくる。それがなぜなのか、という話である。

探偵役の落語家、五代目春桜亭円紫がその話を聞いただけで、ひとつの解答を出す。ここから先はネタバレになってしまうので書かないが、ヒントにはなってしまう可能性があるので、未読の方にはご了承いただきたい。

話を戻すと、なぜ小田原市の位置を間違って覚えていたか。

それは地図帳のためである。

小学生のときか中学生のときか忘れてしまったが、社会の授業の副教材として地図帳を持っていた。世界地図と日本地図がさまざまな縮尺で載っていた。当然、小田原も載っていた。

「織部の霊」を読んだとき、地図帳のページが頭に浮かんだ。小田原が、このブログ記事の冒頭の地図ように、ページの右上にあった。下の方に目をやると伊豆半島があり、駿河湾も載っていた。そして気がついた。伊豆半島と房総半島を混同していた、と。

おそらく別のページにも小田原は載っていたのだと思うが、「織部の霊」を読んだときに浮かんだ地図は上記のような地図で、小田原より右の地図はなく、切れていた。伊豆半島を房総半島と、駿河湾を東京湾と勘違いしていたのだろう。きちんと地名を覚えていればこんなことはなかったのだろうが、地図帳で見たイメージだけが残っていたみたいだ。小田原市をはじめ、関東地方や静岡県のことを知らなくとも何の支障もなかったため、確認することもなかった。

自分とあまり関係のないところはしっかりと確認もしていないことを反省しつつも、地図帳のイメージが記憶のどこかに残っていたことに驚いた。

ひょっとすると、覚えようとせずとも、見たこと、聞いたこと、今まで経験してきたことはすべてどこかに記憶されているのかもしれない。ただ思い出せないことが多く、無意識下に留まっているだけなのかもしれない。新幹線でのアルバイトで小田原駅に停まったとき、認識にほころびが生じた。そして「織部の霊」を読んだとき、そのほころびを修正した。そう考えることもできる。

ちなみに「織部の霊」を読んだとき、もうひとつほころびを修正したところがある。

織部は地名でなく人名である、と。

2017/02/20

小田原市は神奈川県にある(前編)


大学生の頃まで、小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいた。アルバイトがきっかけで、あらためて小田原は東京よりも西にあることを知った。

愛媛で生まれ育ち、大学入学をきっかけに大阪で一人暮らしをはじめた。関東に親類縁者はおらず、小田原には行ったことがない。小田原という地名は、鎌倉時代の北条氏の拠点だということで知っていた。しかし場所ははっきりと覚えておらず、小田原は東京の向こう側、太平洋に面したあたりにあるというイメージだった。間違って覚えていても、小田原に縁もゆかりもなかったため、何の支障もなかった。

大学生のときに、新大阪-東京間を往復する間にワゴン販売をするアルバイトをしたことがある。新大阪で新幹線に乗り東京まで行き、東京からまた新幹線で戻ってくる。ひかり号に乗ることが多かった。

小田原駅に停車するひかり号に乗ったとき、「ここが小田原?」と不思議に思った。同じバイト仲間に「小田原はもっと(東京よりも)向こうじゃなかった?」と聞くと、怪訝な顔をされた。

あらためて考え直すと、箱根駅伝で小田原中継所があるくらいは知っていて、小田原が神奈川県にあるという知識はあった。大阪からみれば、神奈川県は東京よりも手前にあることも知っていた。新幹線の路線図を見ても、間違いなく「小田原、新横浜、東京」の順だった(バイトをしていたときはまだ品川には停まっていなかったと思う)。なぜ小田原市は東京よりも東、茨城県あたりにあると思い込んでいたのか。その理由はわからなかった。別に知る必要性もなかった。

しばらくたってから、北村薫さんの『空飛ぶ馬』を読んだ。その中の「織部の霊」を読んだとき、小田原は東京より向こうにあると思い込んでいた理由がわかった。

(続きは後編にて)


2017/02/19

根掘り葉掘りで実を結ぶ

NHK、Eテレで「ねほりんぱほりん」という番組がある。ゲストの話し手はブタの人形、聞き手はモグラの人形で、「根掘り葉掘り」赤裸々な話を聞き出すトーク番組だ。残念ながらTVは見ないので持っておらず見たことはないが、facebookやtwitterで番組の広告や感想の投稿を見かけ、結構人気があるようだ。タイトルの「ねほりんぱほりん」は、「根掘り葉掘り」という慣用句からつけたタイトルだろう。

「根掘り葉掘り(聞く)」とは「徹底的に、事細かに、しつこく(聞く)」という意味で使われる。“「葉掘り」は「根元から枝葉に至る隅々まで」といった意味合いから、「根掘り」に語調を合わせ添加したものである”と「語源由来辞典」に載っていた。「根掘り葉掘り」という言葉に「しつこい」というネガティブな印象があるのは、余計な枝葉の部分まで掘っているからだろう。

一方で「根も葉もない」という慣用句もある。「根も葉もない噂」のように「根拠がない、理由がない」という意味合いで使われている。こちらは「故事ことわざ辞典」を見ると、“根も葉もなければ植物が育つはずないことからや、「根拠」を「根」で表したため語呂合わせで「葉」が加わったともいわれる”とある。語呂合わせの可能性もあるが、植物が育つには「根」と「葉」が必要であることも示している。

以前から「言葉は『葉』である」と思い、そこから連想して「根」は「音」ではないかとも書いたことがあるが、最近「根」は「心根(こころね)」ではないかとも思いはじめた。植物が育つには「根」と「葉」が必要ならば、人間が育つには「心根」と「言葉」が必要ではないかと。根も葉もなしに生きていくのは困難かもしれない。根と葉があれば実を結ぶかもしれない。

「ねほりんぱほりん」の聞き手役がモグラの人形であるのは、掘っていくイメージからだろう。本音、心根を掘っていく。ときには枝葉を掘るかもしれない。そして、人気番組として実を結んだのではないか。

番組を見てもいないので、根も葉もない戯言として。

2017/02/14

義理チョコで本命を仕留める

2月14日、バレンタインデー。

この時期になると思い出すキャッチコピーがある。

「一目で義理とわかるチョコ」

有楽製菓株式会社の看板商品「ブラックサンダー」のキャッチコピーである。


ブラックサンダーは標準小売価格30円(税抜き)。バレンタインデーに買ったり、もらったり、あげたりする類のものではなく、特別感はあまりない。

そこをうまくついたキャッチコピーだと思う。七五調でリズムもいいし、ユーモアもある。


よく知っていてお世話になっているMさんという人がいる。

Mさんのキャッチコピーは「G・N・N」。「義理・人情・浪花節」である。

義理チョコの「義理」という意味ではない。


そのMさんが、先日「仕留める」という言葉をつかった。

相手の話を聞いて、その奥底にある思いを言葉にするという意味で、核心を突くというような意味である。


奥底にある思いや、商品・サービスの本質などは、見えないし聞こえない。触れもしない。

しかし、ある。

それが見えたとき、聞こえたとき、それはひとつの「発見」「創造」だと思う。


「一目で義理とわかるチョコ」というキャッチコピーは、ブラックサンダーの核心を突いている。顧客の心も突いた。

キャッチコピーがしとめた本命の例だ。

ブログ アーカイブ