2017/03/16

可能と存在

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を読んでいると、興味深い表現があった。
「つまりね、《○○が可能である》と式で表現するために、∃を使って《○○を満たす数が存在する》と言い換えているんだね」
「何かが《可能》だというのを、数の《存在》に置き換えて表す……」

記号「∃」は、論理記号のひとつで「存在記号(existential quantifier)」と呼ばれている。

ここでは記号のことは置いといて、「可能」と「存在」について、思いつくことを書いていきたい。

特に言葉と意味について。

日本語で「可能」を表現するとき、冒頭の引用のように「○○が可能である」とも言うが、「○○することができる」とか「○○できる」という表現をすることがある。「できる」を漢字で書くと「出来る」、「出て来る」である。何もなかったところから「出で来る」。

可能表現ではないが、「作品ができた」というような表現もある。これは「(もともとはなかったが)作品が出て来た」という意味合いにも受け取れる。

では、例えば「逆上がりができる」なんかはどうだろうか。「(今、実際には逆上がりをしていないが、)逆上がりをする能力を持っている」という意味合いに取れる。目には見えないかもしれないが、その萌芽があることを「可能性」と呼んだりする。「逆上がりをすることができる」というのも、ほとんど同じ意味を有している。


面白いのは、日本語での可能表現では「が」がでてくることである。「私は逆上がりする」という表現を可能表現にすると「私は逆上がりできる」という表現になる。「私が逆上がりをする」とは言えるが、「私が逆上がりができる」とは言えない。

「話す」という動詞の派生語で、「話せる」という可能動詞がある。「英語を話す」など、「話す」は目的語に「を」を使う。これが「話せる」ならば、「英語を話せる」とも言えるし、「英語が話せる」とも言える。実際には今現在、英語を話してはいないが、「英語を話す能力がある」「英語を話す可能性がある」ということである。

何かが可能であることを、可能性があると存在に置き換えて表すことは、数学や論理学に限ったことではない。言葉の上でもそのようなことが言えそうである。

英語でも、助動詞canを使った言い方と、イディオムとしてbe able toを使った言い方がある。be動詞を使っている分、be able toは存在に近い気がする。

日本語での助動詞「れる、られる」は可能の機能も持っている。確証はないが、動詞「ある」から助動詞「れる、られる」が発達したと考えることもできると思う。

だから、どうした?と問われると、思いつきで書いているだけであり、何の役に立つのか、ここからどのような結論が得られるかはまだ考えることができていない。

ただ、可能性は存在していると思う。

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