2017/04/30

気楽に考える

1日1回はブログの投稿をしようと思っている。しかし、ネタがないときがある。

何でもいいので書こうとしているが、どこかに書いてあるようなことを書くのは気が引ける。何かで読んだ話、どこかで聞いた話は、ここに書かれていなくても読めるし聞ける。少なくとも何か新しいこと、特に自分の意見などを付けくわえた上で何かを書いていきたい。

ならば、今日の自分の経験したことを書けばいいのではないか。自分の体験、経験は他の人に書けないことである。

そう考えると、自分の生活がありふれたように感じてしまう。他の人が経験していないことを今日自分は経験したのか、何か新しいことをやってみたのかと。

こんなことを書いていると、こんなこともどこかで書かれているかもしれないと思う。しかし、同じようなことが書かれているかどうか確認することはしていない。全く同じ文章で書かれていることはないだろうと高をくくっている感じがする。

まあ、気楽に考えよう。

2017/04/29

証明するには余白が狭すぎる

生没年など詳細は不明だが、エジプトのアレクサンドリアのディオファントスという人が『算術』という書物を編纂した。西暦250年ごろではないかといわれている。

『算術』は、時代を越え、国を越える。全13巻あったという『算術』は、暗黒時代を生き延び、15世紀にヨーロッパへ渡る。全13巻のうち7巻は失われてしまい、6巻しか残っていない。

さらに時代を越え17世紀。1621年、フランスのバシェが『算術』のラテン語版を出版する。そして、アマチュア数学者フェルマーの愛読書となった。

『算術』には、今でいう「ピタゴラスの定理」についても掲載されていた。フェルマーは、その余白に書き込みをする。
ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である。
有名な「フェルマーの最終定理」についての記述である。

さらに書き加える。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

さらに時代を越え、国を越える。そして1994年、「フェルマーの最終定理」はワイルズによって証明された。

ピタゴラスの定理から別の定理を考えたフェルマーや、その定理を証明したワイルズはすごいと思う。また、ピタゴラスやディオファントスもすごい。生き延びた『算術』もすごい。フェルマーが提出してワイルズが証明するまで、約360年。そしてその間にも数々の人々が挑戦しているし、楕円曲線などの数学の別方面での研究も発達している。数々の積み重ねによってなされた物語である。

この物語において、私が思うファインプレイ賞は、フェルマーの長男クレマン・サミュエル・フェルマーである。父の死後、『算術』の書き込みや走り書きをまとめ、『P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』を出版した。いくつもの証明されていない定理(定義上、証明されていないものは「定理」とはいえない)が残っていた。それらは後に、次々と証明されていったが、最後まで証明できず残っていたのが「フェルマーの最終定理」である。最後まで証明できていなかったので「最終」とつけられている(ちなみに証明される前は「定理」ではなく、「フェルマーの最終予想」である)。

もし、父フェルマーの書き込みがある『算術』を捨ててしまったら、捨てないまでも思い出の品として飾ってあるだけだったなら、「フェルマーの最終定理」という名前はなかっただろうし、その定理の発見も遅くなっていたかもしれない。数学者でなくとも、数学に貢献できるという格好の例である。

歴史の表舞台に出ていなくとも、いい仕事をしている人はたくさんいる。証明するには余白が狭すぎる。

2017/04/28

読書の方法から聞き方を考える(2)

読むことと聞くことの相違点についても確認しておく。思いついたままに書いているので脈略がない。

まず媒体が異なる。読むときは文字を読み、聞くときは音声を聞く。音声と文字は1対1に対応しているわけではない。同じ発音でも違う言葉はあるし、同じ語を違った言い方で声に出すこともできる。

慣れのためかもしれないが、読むよりも聞く方が時間がかかる。読むときには、次の語が目に入ることが多いので、速く読もうと思えば速く読める。速読という技術もある。聞く方にも速聴があるではないかという人もいるかもしれないが、速聴は、機械で音声を速くする、あるいは、速くした音声が記録されたものを聞くことであり、自分のペースで聞くことではない。読むことは自分のペースで読むことができるが、聞くことは自分のペースでは聞くことができない。

「話す」「聞く」「読む」「書く」の4つについて、時間のかかる順に並べると、「書く>話す>聞く>読む」ではないかと思う。もっとも、書いているときにリアルタイムで読むでいると順序は異なってくる。

文字を読むのと音声を聞くのとでもっとも大きな違いは、再現性であるともいえる。音声を聞くときは一期一会である。まったく同じ音調、音圧で同じ音声を聞くことはできない。文字ならばもう一度同じものが読める。音声でも録音されていれば聞き返すことはできる。

文字や文章は、いわば完成されたものを読むことが多い。リアルタイムで書いているところを読んでいくことは少ない。音声は逆にリアルタイムで聞くことが多く、完成されたものを聞くことは少ない。

話を聞くときは、表情その他、非言語的な要素が役に立つ。電話では表情や姿は見えないが、音調や音圧も非言語要素である。話を聞くときには耳以外の感覚が役に立つ。しかし、文字の場合には書いている人の表情などを見ることは少ない。

文字や文章で非言語的な要素は何かを考えると、フォントや文体を思いつく。また、本であれば、著者の略歴やタイトル、目次なども、非言語的な要素ではないかもしれないが、内容を推測するのに役に立つ。

2017/04/27

読書の方法から聞き方を考える(1)

本を読むことと、話を聞くことには共通点がある。

ひとつは、どちらも情報のインプットとしての行為であることである。本を読むことも、話を聞くことも、何らかの知識や情報を得るための行為である。話すこと書くことがアウトプットとしての行為とすると、聞くこと読むことはインプットの行為であるといえる。

本を読む目的として、何らかの知識や情報を得ることが挙げられる。それは話を聞く目的にもなる。必要な情報や知識を得るためにだれかの話を聞くことがある。また、物語を楽しむために本を読むことがあり、話を聞くことがある。

理解を深めるための読書技術を述べた本に、M. J. アドラーとC. V. ドーレンが書いた『本を読む本』という本がある。そこには読書の段階として「初級読書」「点検読書」「分析読書」「シントピカル読書」という4つのレベルが紹介されている。

初級読書は、読み書きのできない子供が初歩の読み書きの技術を習得するための読書であり、ここでの問いは「その文は何を述べているか」である。点検読書とは系統立てて拾い読みをする技術で、「この本は何について書いたものであるか」を知る。分析読書は、いわゆる精読で、本をよくかんで消化すること、理解を深めることである。シントピカル読書は一つの主題について何冊もの本を相互に関連づけて読むことである。

これらの読書のレベルを「聞く」に応用できないだろうか。そのためには、読むことと聞くことの相違点についても確認しておかなければならない。

2017/04/26

なぜ読書をしなければいけないのか?

先日ツイッターで、言 寺(@310_64)さんの漫画を読んだ。4月19日付けの「【なぜ読書をしなければいけないのか?】という記事を読んだので読書家の母に聞いてみた話」である。

リツイートやいいねの数を見ると、多くの人が共感、納得しているのではないかと思う。
「何故読書をしなければいけないのか…それは本を読んだ人にしかわからない」
「人類の多くが『本を読め』と言うのか、その答えが知りたいなら本を読みなさい」
非常にわかりやすくまとめてあり、私も納得している。

この漫画では読書を題材に取りあげているが、これは読書だけでなく他のことについてもいえる。

たとえば、なぜ勉強をしなければいけないのか。また、たとえば、なぜ仕事をしなければいけないのか。

誰かがその答えを持っているわけではない。答えは自分の中にある。

2017/04/24

格物知致

前回、「遊び」について書いたところで、松岡正剛さんの『知の編集術』のことを思い出した。遊びから編集が生まれたということを書いていたからである。

『知の編集術』では、遊びの本質は編集にあり、逆に編集の本質も遊びにあるという。

前回書いた「遊び」は、自動車のハンドルやブレーキについての「遊び」であった。この「遊び」が、どのような経緯で生み出されたのかは知らず、何かの遊びからヒントを得て作られたものなのかは知らない。ただ作ってみて試してみて、乗りやすいように使いやすいように工夫した試行錯誤の上で作られたものではあるだろう。

そして逆に、自動車のハンドルやブレーキの「遊び」から学べることもある。安全性と利便性を両立させるにはどうすればいいかを考えるには格好の材料であると思う。

自動車は人間が作ったもので、人間が考え出したものである。動物も遊ぶことはあるかもしれないが、人間がする遊びは人間が作ったものともいえる。大きくいえば、法律や社会も人間が作ったものである。

昨今、人工知能が話題となっている。学習するとはいえ人工知能も人間が作るものである。

人工知能の開発は、どこまで遊びを取り入れられるかにあると思う。人工知能ではないかもしれないが、今までも機械に「ファジー機能」などの「遊び」を組み込んできたが、まだ遊び足りない。

現在はディープラーニングの手法から「学習」の観点を取り込み人工知能が開発されつつある。安全性と利便性の両立を目指して試行錯誤されている。ここから何が学べるかということが、私にとっての人工知能の関心事である。

2017/04/23

意識と無意識の遊び

最近、『意識と無意識のあいだ』という本を読んで、マインドワンダリングという言葉を知った。カタカナでワンダリングと書かれると、驚きや不思議を表すwonderを思い浮かべる人がいるかもしれないが、マインドワンダリングのワンダリングはwander、「さまよう」とか「ふらふらと歩き回る」という意味である。つまり、マインドワンダリングは「さまよう心」「ぼんやりした心」を指す。

マインドフルネスという言葉が流行っている。書店に行くと、書名にマインドフルネスが使われている本をいくつか見かける。グーグル社員が実践しているということでメジャーになった感があるマインドフルネスは、「瞑想」と関連付けられて語られることが多い。

そのため、マインドワンダリングが「迷走」として語られることがある。「さまよう」「ふらふらと歩き回る」という意味から「迷走」と訳されてもおかしくはない。ただ、迷走という訳にしてしまうと、どこか否定的なニュアンスが込められてしまう。

マインドワンダリングは、「遊び」「ゆらぎ」のイメージである。

車のハンドルには「遊び」がある。ハンドルを少し切っただけではタイヤは曲がらないようになっている。たとえば、くしゃみなどをした拍子にハンドルに力が入り、それがタイヤまで伝わってしまうと事故を起こしてしまう可能性がある。また、遊びが少ないと、タイヤの方が何か衝撃を受けてちょっと方向がズレてしまうと、それがハンドルまで伝わってしまうため、ずっとハンドルに力を入れて固定させて置かなければならない。遊びは一種の柔軟性をもつ安全装置といえる。

しかし、遊びを大きくしてしまうと、今度は逆に曲がりたいときになかなか曲がれないということがおきてしまう。

車の例をさらに挙げるならば、ブレーキにも遊びがある。ちょっと足が当たったくらいで急ブレーキとなってしまっては危ない。逆に遊びが大きすぎてブレーキを踏んでもなかなか止まらないとなれば、さらに危ない。

マインドワンダリングには、このような側面がある。

一方では、安全装置として働く。脳、あるいは意識におけるマインドワンダリングが少なければ、「石頭」「頑固者」である。逆にマインドワンダリングが大きければ、「夢遊病」になる。

創造はマインドワンダリングから生まれるともいう。遊びからさまざまなことが生まれる。

2017/04/21

マイ古典となってしまっている本

英文学の古典として、14世紀イギリスの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)の『カンタベリー物語』というものがある。大学生のとき英文学の授業で、この『カンタベリー物語』を扱う講義があったので受講した。講師は外国人講師で、英語での講義である。

『カンタベリー物語』という名前は知っていた。しかし読んだことはなく、こんな機会でしか読まない可能性があると思い受講した。英文学講義の単位が必要であったためでもある。

英文学に興味がなかったにもかかわらず、なぜ『カンタベリ物語』のことを知っていたかというと、歌手スティング(Sting)のファンであったためである。

『カンタベリー物語』は、カンタベリーに巡礼にいく途中、ある旅館で居合わせた30人くらいの人が、退屈しのぎに集まって話をしていくという体裁の物語である。日本でいうと百物語のようなイメージであるが、『カンタベリー物語』は怪談ではない。『千一夜物語』といった方がわかりやすいかもしれない。

その話をしたうちのひとりが召喚人で、その召喚人の話が「Summoner's Tale」である。

スティングの本名がゴードン・マシュー・サムナーということで、本名のサムナーと召喚人の話(Summoner's Tale)をかけて、『Ten Summoner's Tales』というタイトルのアルバムを作った。映画『レオン』のエンディングテーマ「Shape of My Heart」が収録されているアルバムである。『Ten Summoner's Tales』(10の召喚人の話)というタイトルであるにもかかわらず、12曲が収録されている。1曲目と12曲目にそれぞれプロローグ、エピローグと付いているので、その2曲を除いて10曲という意味かもしれない。

そのようなわけで『カンタベリー物語』の名前だけは知っていたので、講義を受けてみようという気になった。

しかし、講義を受けてみても、わからない。テキストは古英語、講師はイギリス人講師で英語での講義。しかたなく(ズルして?)翻訳書を買ったものの、講義でどこの話をしているのかを探すのにも苦労した。

翻訳書がまだ手元に残っているので、いまパラパラとめくっていると、どうやら「バースの女房の話」の講義だったらしい。らしいというのは、覚えていないからである。ちなみに「召喚人の話」の内容も覚えていない。

それでもなぜか手元に残している。大学を卒業してから引越を何度かして、そのたびにある程度の本を処分したりしているのだが、まだ残している。

『カンタベリー物語』は、本の内容は語れないけれど、自分のなかで古典になっている。

2017/04/20

遷ろうメタファー

村上春樹さんの本は、勧められたことは何度もあるが、未だに読んだことがない。

しかし、日経ビジネスオンラインで連載されている「イノベーション殺し[村上春樹を経営学者が読む]」を読んでいると、村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んでみたいと思うようになった。

日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、最初に読んだのは第3回目からであった。タイトルは「驚くほど鋭く、洞察のようなメタファー」である。

メタファーとは隠喩のことで、比喩表現のひとつである。

コラムのなかで、メタファーについて以下の説明がある。
 メタファーには2つの種類がある。1つは、馴染みのある喩えを用いて、馴染みのないことを説明するというメタファーである。未知のことを、既知のことで説明することによって、その本質を瞬時に理解させる。理解を促すためのメタファーなのである。
 もう1つのメタファーは、逆に、馴染みのない喩えで、馴染みのあることを説明するというメタファーである。既知のことでも、そぐわない喩えによって説明されることで、頭が刺激されて新しいアイデアが生まれる。一見すると違うものだと思っていた2つを結びつけることによって、いろいろなアイデアを次から次へと生み出すことができる。発見や学習を促すためのメタファーである。これを「認知的メタファー」という。
このメタファーの能力こそ、私が伸ばしたい能力であり、使っていきたい能力である。

言葉に興味を持つのも、この能力を知り、伸ばしたいためである。

私たちはしらずしらずのうちに、言葉をメタファーとして使っている。たとえば、「走る」という動詞は、最初は人間が右足左足を交互に蹴って走る動作を指していたかと思うが、列車や自動車が開発されると、それらも「走る」と使いはじめた。「道路が南北に走る」など、動かないものにまで「走る」という。視線を「走らせる」ためという説明をしたりする。メタファーがなければ、新しいコト・モノが発生するたびに、新しい言葉が必要になってくる。覚えきれず、効率が悪い。

そもそも概念自体もメタファー的である。形の違うコップを見て、両方ともコップと呼ぶ。この世の中に完全に同じというものはない。量産品であっても違うものである。それを同じものとみなす能力が人間にはある(人間だけではないかもしれない)。

「走る」の例は、コラムの引用文中にある1つ目のメタファーで、未知のことを既知のことで説明するメタファーである。もうひとつの、馴染みのない喩えで馴染みのあることを説明する「認知的メタファー」については、コラム中のグーグルの例がわかりやすい。「検索エンジン」とかけて「学術論文」と解く。その心は「どちらも引用数が大切だ」というものである。

理解や学習、発想や発見など、私が興味ある分野には「メタファー」が関わっている。数学が好きなのも、代数と幾何がつながっていたり、楕円曲線とフェルマーの最終定理がつながっていたり、違ったように見えるものの中につながりがあることを見るのが好きだからだ。

わもん研究所のロゴはミジンコのイメージであるが、「直感」と「ミジンコ」のつながりを見つけたいという思いがある。

村上春樹さんの最新作『騎士団長殺し』を読んてみたい理由はメタファーにある。

2017/04/19

人生で一番影響を受けた本

渡部昇一さんが亡くなったとのニュースがあった。

直接お会いしたことはないが、私は渡部昇一さんから影響を受けている。

本を通じて、である。


最初は『知的生活の方法』であった。

大学生になり本を少しずつ読みはじめたころ、大学生協の本屋で平積みになっていたのを見かけた。おもしろそうだと思い、著者紹介の欄を見ると、英語学が専門の教授であった。文学部の英米文学科に入学したが、文学には興味がなかったので、英語学を専攻しようかと思っていた矢先のころだったと思う。何かの縁かと思い購入した。

読んでみると、とてもおもしろい。渡部昇一さんの本を数冊読んでいて、ごちゃまぜになっているかもしれないが、本の読み方であるとか、語学の重要性であるとか、わかったふりをしないなどの心構えであるとか、情報の整理のしかたであるとか、読書を中心とした「知的生活」のアレコレが書いてあった。

『論語』を読みはじめたのも、シェイクスピアを読みはじめたのも、発想法や情報整理の本を読みはじめたのも、一番最初は『知的生活の方法』であった。

『知的生活の方法』が出版されたのは1976年で、私は1977年の早生まれであるため、同学年ということになる。私の生まれる前に、すでにこのような本が出版されていたことに驚いた。おそらく良書は他にもたくさんあると思うが、いろいろな本を読んでみたいと思った初めての経験であった。

その後、当然『続 知的生活の方法』に進み、『発想法』や『英語の語源』などに進んだ。2010年には『知的余生の方法』が出版され、まだ余生にはちょっと早いかもしれないが、と思いながら買った記憶がある。

どこまで「知的生活」が身についているのかは疑問のところもあるが、少なくとも読書の習慣だけは身についていると思う。この『知的生活の方法』に出会わなければ、今の自分はないと思っている。

著者の渡部昇一さんは亡くなったが、私の手元には本が残っている。言葉、文字に興味を持っているのも、このためだと思う。

渡部昇一さん、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

2017/04/18

学びて時に之を習う

以前、『論語』の冒頭の文を読んで、「学ぶ」と「習う」の違いは何だろうかと疑問に思ったことがある。
子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。
朋遠方自り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍らず。亦君子ならずや。
このブログでも過去に触れたことがあり(学而第一・1「子曰、学而時習之。~」)、結論としては変わらないが、以前は書いていなかったことがあったので補足しておきたい。

「学ぶ」と「習う」の漢字の意味、成り立ちについてである。漢和辞典を引いていなかった。

「学」と「習」の漢字について、解字としてそれぞれ以下の記載があった。
【学】
乂印は交差するさまを示す。先生が知恵を授け、弟子がそれを受けとって習うところに、伝授の交流が行われる。宀印は屋根のある家を示す。學は「両方の手+宀(やね)+子+音符爻」で、もと伝授の行われる場所、つまり学校のこと。
【習】
「羽+白」で、羽を重ねること、または鳥が何度も羽を動かす動作を繰り返すことを示す。この白は、自の変形で、「しろ」ではなく、替の下部と同じく動詞の記号である。
「学びて時に之を習う」は、先生(師匠)から学び、繰り返し復習するという意味がはっきり感じられる。

「学ぶ」と「習う」を合わせた「学習」の意味もまた、よくわかる。学ぶだけでは学習したことにはならない。

2017/04/17

4月前半に買った本

4月に入ってから少し本を買いすぎた。

4月上旬に買った本をまとめておく。まだ読んでいないものもあるので、読んだ感想ではない。買った動機をまとめておくことで、実際に読むときの指針としたい。


●羽生善治・NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』
 羽生さんの本はいくつか読んだことがある。コンピューター相手の将棋についての言及も多い。脳科学や人工知能への造詣も深いため、羽生さんが人工知能についてどのように考えているのか、感じているのかを知りたいと思った。羽生さんから見た、人工知能に対する期待と課題が書かれていた。

●夏目漱石『私の個人主義』
 夏目漱石について書かれている本や記事を読むと、必ずといっていいほど言及されている本。漱石の悩みや、それを克服するに至った「自己本位」「個人主義」について確認したく購入。表題を含む講演集。

●後藤武士『読むだけですっきりわかる世界史 古代編』
 『論語』や『孟子』をはじめとする、いわゆる諸子百家の本を読むとき、時代背景がわからないときがある。歴史に詳しくないので参考にしたく購入。中国の古代史がほしかったが、手頃なものがなく、どうせならば世界史もついでにという思いで買った。後日、古代編だけでなく全時代合わせた『読むだけですっきりわかる世界史』を本屋で見つけ、そちらの方がよかったかもと思う。

●西来路文朗・清水健一『素数はめぐる』
 素数には不思議な魅力がある。まだ証明されていないことも多い。素数に関する読み物は好きな部類である。本書は素数の逆数を小数表記にして得られる「循環小数」や「ダイヤル数」を中心に、素数の特徴や魅力を紹介している。

●斎藤祐馬『一生を賭ける仕事の見つけ方』
 自分自身のためでもあるが、どちらかというとセミナーやセッションなどで役立つ方法やツールの材料探しとして買った本。ミッションを見つけるというところだけでなく、ビジネスモデルをつくることやチームをつくることなど、個人における内部戦略と外部戦略の両方をバランスよく扱っている。

●佐藤優『この世界を知るための教養』
 政治経済系の本で、この著者をよく見かけていたので試しに読んでみようと思い購入。国際政治の話が中心。この本自体は現在の国際情勢中心だが、これまでの歴史や文化、宗教や科学技術の大まかな流れをつかんでおくことが重要であると感じた。

●倉島保美『論理が伝わる世界標準の「議論の技術」』
 未読。議論というよりは、文章表現の技術として学びたいと思い購入。

●西来路文朗・清水健一『素数が奏でる物語』
 先述の『素数はめぐる』の著者の第1作目。素数について、わかっていること、わかっていないことが一望できる。証明など細かく読んでいないが、どのような経緯で素数が研究されてきたのかという流れがわかる。

●ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上・下)』
 タイトルの「ファスト」と「スロー」は、「速い思考」と「遅い思考」を表現している。単純にいうと、「速い思考」は認知や直感など無意識の思考、「遅い思考」は計算や論理など意識的な思考ともいえる。まだ途中までしか読んでいない。認知バイアスなどについて書かれている本や記事によく引用・言及されている本。

●平井孝志『本質思考 MIT式課題設定&問題解決』
 モデルとダイナミズムを把握することが本質を捉えることになる。本質がわからない状態で問題解決をしようとしても場当たり的な対処となる。本質を捉えるためにモデルやダイナミズムを把握する、その考え方やヒントになる本。

●山田英二『ビジネスモデル思考』
 以前この著者の本を読んだことがある。その本は、ビジネスモデルを事例を交えながら紹介し、そこから学べることは何か、その学びをどう活かすかの視点から書かれていた本であった。その著者が書いた本であったため購入。ブックオフ店舗で見つけた。

●久恒啓一『実践! 仕事力を高める図解の技術』
 同じくブックオフ。資料作成やファシリテーショングラフィックの参考にしたい。

2017/04/16

孟子に申し上げる

ときどき『孟子』を読んでいる。『論語』に代表される儒学の書で、四書のひとつに数えられるものである。

『論語』は孔子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的短いものが多いので読みやすい。『孟子』は孟子の言葉を集めたもので、その言葉は比較的長く、たとえ話や昔話(引用)が多い。そのため、おもしろいと思うときもあれば、そこまで言う必要はないのではないかと思うときもある。

たとえば、滕文公章句下に、公都子(孟子の門人)が問い、孟子が答えるやりとりがある。公都子の質問は以下である。
世間の人たちはみな、先生をたいへん議論好きだと申しています。失礼ですが、なぜなのでしょう。
現在読んでいるのは岩波文庫版で、訳もこれに依る。

孟子の回答は以下のようにはじまる。
自分とて、なにも議論が好きなのではないが、このご時勢では黙ってばかりもおられず、やむをえず議論しているまでだ。
ここで終わっても、会話としては通用する。

しかし、孟子の言葉は終わらない。
いったい、この世に人間があってから、随分久しい年月がたっているが、その間、治まったり乱れたり、くり返してばかりいるのだ。
そして、まずは堯のことを述べ、禹のことを述べ、紂のことを述べ、文王・武王のことを述べ……と世の中が治まったり、乱れたりした事例を挙げていく。周の時代になり、周が衰え、先王の道もだんだん行われなくなる。そして、また楊朱や墨翟の説がまかり通っているから自分は努力しているのである、と。

かなり端折ったが、この章は、岩波文庫版の上巻pp.252-260に掲載されている。原文と書き下し文を除くと、4ページから5ページ分くらいであろう。

公都子の質問は2行である。

それに対する孟子の回答は、4、5ページ。

もっとも4ページから5ページ分の孟子の回答を、公都子が黙って聞いていたかどうかはわからない。もしかすると、ところどころ公都子が相槌やちょっとした質問などをして進んでいった対話なのかもしれない。

ただ、議論好きだととられてもしかたがないようにも思う。

「夫子、敢えて問う。何ぞ弁を好むや?」


2017/04/15

逃げるは恥だが役に立つ

最近、SNS上で以下の動画(を含む記事)をよく見かける。2歳児のトロッコ問題の解答案である。



トロッコ問題とは、倫理上の思考実験である。

以下はGIZMODE「ついに思考実験「トロッコ問題」に決着。2歳児が出した衝撃の答えとは…」にあったトロッコ問題の概要である。
線路を走っているトロッコが制御不能に。このままでは、線路上で作業中の5人がトロッコに轢き殺されてしまう。
そしてあなたは、線路の分岐器の近くにいる。トロッコの進路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員が。
5人を助けるために、1人を犠牲にしていいのか? それとも運命としてそのまま見過ごすべきなのか。

Wikipedia「トロッコ問題」を見ると、派生問題も載っていた。

トロッコ問題とは異なるが、これと似た問題として、漫画『金田一少年の事件簿』に「○○○○○○(カタカナ6文字)の板」というのがあったなと思っていたら、先のWikipedia「トロッコ問題」の関連項目に載っていた。

カルネアデスの板」である。この項に『金田一少年の事件簿』のことも言及されていて、こんなことまで書かれているのかと少し驚いた。

トロッコ問題について、いつだれが最初に考えたのかは調べていないが、最近取り上げられている(ように見える)のは、人工知能(AI)あるいはロボットの技術が進んできたからではないかと思っている。人工知能に倫理観を学習させることができるのか、あるいは、トラブルがあった場合に人工知能がどのような判断をするのか、などということが議論研究されているように思う。

トロッコ問題は、解決すべき問題というわけではなく、議論をするための出発点である。道徳的な観点から人間を知ることにつながっている。人工知能の研究からも様々な知見が得られると思う。

『金田一少年の事件簿』のなかで、主人公の金田一は「カルネアデスの板」の状況に置かれたらどうするかと問われた。手元に漫画がなく間違って記憶しているかもしれないが、「2人とも助かる方法を考える」という回答だったと思う。トロッコ問題でいうと、6人(5人+1人)とも助かる方法を考える、という回答である。思考実験の前提を無視した回答である。

しかし、現実問題としてトロッコ問題が発生した場合、分岐器を動かす(動かさない)以外のこともできるであろう。そして、トロッコ問題が現実に起きないような仕組みも考えることができる。

トロッコ問題の回避策を考えるほうが容易い。

2017/04/14

本の読み方

1本、2本、3本、……と、棒状のものを数えるときに助数詞「本」を使う。通常「ほん」と発音するが、ときどき「ぽん」「ぼん」と発音する。

1~10までの発音を列挙すると、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん、ごほん、ろっぽん、ななほん、はっぽん(はちほん)、きゅうほん、じゅっぽん、となる。

「ぽん」となるときは規則性が見られる。「ぽん」と読むときは、1本、6本、8本、10本のときで、「ぽん」の前に促音便の「っ」がある。促音「っ」の後では「ぽん」と読むといえそうである。

「ぼん」と読むときは、ここでは3本のときだけである。撥音「ん」の後で「ぼん」になるかといえば、そうではない。4本は「よんほん」で、「ん」の後だが「ぼん」にはならない。

アルクのサイトによると、以下の記述があった。
次に3と4の問題です。3と4はどちらも撥音で終わりますが、助数詞の読みはしばしば異なります。「3本」、「4本」のほか「3匹」、「4匹」などがそうです。助数詞以外でも「300」と「400」は/byaku/と/hyaku/になります。これは「さん」が漢語でもともと「さん」であったのに対し、「よん」が和語でもとは「よ」であったため撥音がなかったことに起因すると考えられます。
もともとは「よほん」だったが、「よ」が「よん」に変わっても「ほん」はそのままだったという。可能性はある。

ただ、「本(ほん)」を「ぽん」や「ぼん」と発音するのは、発音のしやすさからではないかと思われる。「よ→よん」に変わったあとに発音のしやすさから「ぼん」に変わってもいいのではないか、とも思う。もともとの言い方を残すならば、3本も「さんほん」と、1本も「いちほん」と発音すればよかったのではないか、とも思う。

また、助数詞ではないが、「文庫本、中古本、新刊本」は「ぼん」と読む。新刊本は「ん」の後なので「ぼん」になるといえるが、文庫本、中古本は「ほん」のままである。もっとも助数詞としての使い方ではないので、助数詞とは異なるルールが働いているのかもしれない。

2017/04/13

ことごとくキリギリス

なんのはずみか知らないが、「ことごとく」という漢字は「キリギリス」の漢字に似ていた、と思った。別に「ことごとく」という漢字はどのような漢字だったかと考えていたわけではない。

理由はわからないが、思ってしまっては気になってしまうので、スマホで「ことごとく」を変換してみた。「尽く」と「悉く」が出てくる。「キリギリス」に似た方は「悉く」の方であると確認した。

一方、「キリギリス」の方はスマホの文字変換では出てこない。スマホのブラウザを立ち上げ、検索ワードに「キリギリス 漢字」と入力した。検索結果に「蟋蟀」と「螽斯」が出てきた。「悉く」に似ているのは「蟋蟀」の方である。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。

ところが、検索結果のいくつかには、この「蟋蟀」という漢字は「コオロギ」とも読むことが書かれていた。そういわれてみれば、「蟋蟀」は「コオロギ」と読むような気がしてきた。

検索の結果で出てきたサイトを少しずつ見ていくと、次の記事に出会った。NIKKEI STYLEの「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」という記事である。
つまり、古くはコオロギのことをキリギリスと呼び、キリギリスのことをハタオリと呼んでいたというのだ。
記事ではこのあと、ハタオリの鳴き声から、ハタオリがキリギリスという名に変わったのではないかと推理し、以下のように結んでいる。
現在のコオロギのことを指していたキリギリスという言葉がハタオリの呼び名に移行したとすると、コオロギのことを指す言葉がなくなってしまうことになる。そこで奈良時代には鳴く虫の総称を意味した「コオロギ」という言葉がコオロギを指す代わりの言葉になり、呼び名が「キリギリス→コオロギ」と変化したという推理が成り立ちそうだ。

「コオロギ」という言葉は、奈良時代には鳴く虫を総称していたという。

「コオロギ」は漢字で「蟋蟀」と書く。「蟋蟀」の「蟋」という漢字は、虫偏に「悉く」と書く。ことごとくの虫が「蟋」である。

「キリギリス」の漢字には「蟋蟀」と「螽斯」がある。「キリギリス」を漢字で書くことがあれば、用途によって使い分けることが望ましい。

2017/04/12

αにしてω

ジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』を読んだ。

アイデアの出し方や発想法などの本を読むのが好きである。ヤングの『アイデアのつくり方』は、発想法関係の本にしばしば参考文献として載っていたり、本文中に言及されていたりした本である。読みたいと思ってはいたが、なかなか読めずにいた。

文量もそれほどなく、簡潔に書かれているので読みやすい。目新しいことはあまりなかったが、アイデアのつくり方の原理原則が書かれているので、何か行き詰まりを感じたときに読むのがよさそうな気がする。

私にとって一番印象に残ったところは、「二、三の追記」として書かれていた以下の箇所である。
さらにもう一つ私がもう少し詳細に説明すべきだったことは言葉である。私たちは言葉がそれ自身アイデアであるということを忘れがちである。言葉は人事不省に陥っているアイデアだといってもいいと思う。言葉をマスターするとアイデアはよく息を吹きかえしてくるものである。
言葉に興味を持っている私としては、とても勇気づけられた。

花村太郎『思考のための文章読本』を読んだあとだったことも印象に残った理由かもしれない。『思考のための文章読本』にはいくつかの思考法が載っていて、その中に「単語の思考」というものがある。そこに書かれていた内容と同じことをヤングも書いていたのだと感じたからである。
単語は思考の出発する点であり、思考の手がかり、素材であるとともに、思考の面的、立体的広がりを要約したり象徴したりするタイトルやキーワードというありかたにおいては、思考の終点でもある。

言葉は、いい意味でも悪い意味でも、枠をつくる。モヤモヤとした考えを形づくる。構造を与える。また逆に包装され、ブラックボックスのように内容が見えなくなる可能性もある。単語においては、一語でいろいろな意味を持つ。あるいは、いろいろな意味を連れてくる。

2017/04/11

有標性と無標性

雑記である。我ながらわかりにくいことを書いている。


リンゴは赤い。しかし、すべてのリンゴが赤いわけではない。青リンゴというリンゴもある。

厳密にいえば、リンゴが赤いといっても、ひとつひとつのリンゴの色が同じというわけではないし、青リンゴも青いわけではない。この辺りは大まかに読んでほしい。


リンゴという概念を集合と考えると、青リンゴの集合はリンゴの集合に含まれる。ここで言いたいことは、青リンゴの集合の方に青リンゴと名前をつけていることである。

なぜ、青リンゴ以外の集合の方に「赤リンゴ」と名付けていないのか。


それは、赤いリンゴの方が一般的であり、青いリンゴの方が特殊だからである。そして、特殊な方に名前をつける。名前がついていることを、印(標)がついているとして「有標」とすると、印がついていない方は「無標」である。ここでは、青リンゴは有標、赤いリンゴは無標である。

赤いリンゴにはリンゴという名前がついているので有標ではないか、という人もいるかもしれない。有標・無標の区別は相対的なものであり、名前がついているから有標というわけではない。リンゴを有標とすると、無標としてはリンゴ以外のもの、たとえば果物、を想定するといいかもしれない。

全体のうち一般的なものや性質が無標、特殊なものが有標とする。概念や言葉はそのような性質をもっている。


たとえば、このブログ記事について、私が書きたいことを書いている。書きたいことを言葉にしている。書きたくないことは書かない。書いたとしても、書きたくないことを書きたかったから書いたといえる。どこまでも相対的である。

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙しなければならない」という。それでも、人間には、印をつける、名前をつけることの欲求なり、本能なりがあると思う。

発見や発明などは、無から有を生み出すともいう。それは、もともとあったけれど気づいていなかったものに印、名前をつけることからはじまったのだと思う。

何もないと思っていたところに何かがある。


こういうことをもっとわかりやすく表現したい。

2017/04/10

目標と習慣

ここ最近、毎日ブログを投稿している。約2ヶ月間続いた。三日坊主となることが多いので我ながら珍しく思う。

続けられている大きな要因は、〆切を設けたことにあると思う。

それまでは書いたらすぐに投稿していた。投稿する時間はバラバラで、1日に数本投稿するときもあれば、全く投稿しない日が続くこともあった。

現在は、朝8時に投稿するようにしている。たとえば、今日は4月9日だが、今書いているのは明日10日の朝8時に投稿する分である。書き終わったときにすぐに公開ではなく、公開の予約として翌日8時に設定する。そして翌朝に投稿されているかどうかを確認する。

ブログを書くのは、だいたい夜の時間帯である。書く時間帯は以前とあまり変わっていない。

以前は、どこかに出かけていたり、お酒を飲んでいたりすると、「今日は書かなくてもいいか」となっていた。しかし、〆切を設け、翌朝までに書けばいいとしたことで、「今日は出かけるから先に書いておこう」とか、「少し書き溜めしておこう」など、先の予定を考えて書くようになった。

ブログの内容も、大して緊急を要するものではなく、季節的なことや時期的なことも書くかもしれないが、数日ズレても何の問題もない。

短い文章でポンポンと出していくならば、ツイッターやフェイスブックを使う。ここに書くものはある程度の文量を必要とする、というか、ダラダラと考えながら書くことが多いので、「翌朝までに書けばいい」と、少し考える余裕もある。

何が何でも1日1本書くぞとなると固くなる。

かといって、目標がなければ書かなくなる。

今のところ、このやり方が自分には合っている。ブログだけでなく、他にも応用したい。

2017/04/09

山崎富治『ほうれんそうが会社を強くする』

山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』が届いた。Amazonで出品されていた中古本である。

まだ通読はしていないが、目次を見るだけでおもしろそうな本だと思う。

4章で構成されていて、章題は以下である。

1章 “ほうれんそう”は、組織活性化の最良の栄養源
2章 “ほうれんそう”は、こうすれば立派に育つ
3章 “ほうれんそう”を育てる8大栄養素
4章 “ほうれんそう”を枯らす8大病原菌

報連相を「する側」からではなく、「育てる」側から書かれていることがわかる。

ここ数日、このブログで「ホウレンソウの育て方」について、いくつか記事を書いてきた。「報告・連絡・相談」のスキルを上げようという自己スキルアップの観点から書かれた本が多いが、「報告・連絡・相談」がしやすい文化を育てようという観点からの本が少ない(見たことがない)という理由からである。

「報告・連絡・相談」を「報連相」とした元祖の本は、育てる側からの観点で書かれたものであったことは驚きである。

私自身の場合は、言葉遊びから「育てる」側から考えてみようというのが最初のきっかけであった。しかし、本書は経営の側から出てきたものであるので、説得力がありそうである。

そして、言葉遊びの観点もしっかり含まれている。

たとえば、「“ほうれんそう”は“賛成”土壌には育たない」という見出しがある。ほうれん草は酸性土壌では育たず、アルカリ性の土壌で育つ。それを踏まえて、“賛成”土壌、つまりイエスマンばかりの会社では、報連相は育たないという。

他にも、「ほうれんそうのゴマあえ」というのもあった。これは、「ほうれんそう運動」が広まっていき、新聞に取り上げられたところに書かれていたこととして紹介されていた。「サラリーマンが出世したかったら、“ほうれんそうのゴマあえ”を欠かさないことだね」とある会社役員が言ったという。報告・連絡・相談に、ちょっぴりゴマすりが必要という意味である。こちらは「する側」からの観点であるが、上手く料理している。

いずれにせよ、しばらくこのブログで書いてきた「ホウレンソウの育て方」は、山崎さんの本を前提として書いていく必要が出てきた。まずは通読してから今後発展させられるかどうかを検討したい。

2017/04/08

深海のミジンコ

「深海のミジンコ」というタイトルで小説を書きたいと思ったことがある。1~2年前になると思うが、まだ書けていない。

最近あまり聞かなくなったが、わもんの学びのなかで、直感のことをミジンコといっていた。なぜミジンコなのかはわからない。

直感のことをミジンコといった提唱者(?)であるやぶちゃんの話では、直感(ミジンコ)は水深数千mのところからものすごいスピードで上がってきて、水面に顔を出した途端にまた潜っていくので、瞬時につかまえなければ逃げられてしまうという。

ともかく、そんな話を聞いているときに思いついたのが、冒頭の「深海のミジンコ」というフレーズである。

その材料にならないだろうかと思い、ミジンコや深海に関する本をいくつか読んだ。そのひとつに『超ディープな深海生物学』という本がある。

読み進めるうち、目が止まった。息をのんで驚き、胸が高鳴った。

深海にミジンコがいた。

日本海溝の水深6,000m付近で奇妙な生物が見つかり、採集された。ツリガネボヤというホヤの一種であるらしい。正確な種名を調べるため、そのツリガネボヤを解剖したところ、体内からケンミジンコが採集されたということである。

この記述を見つけたあとでケンミジンコについて確認したところ、ミジンコという名でイメージする姿(ダフニア)とは違ってはいたが。


また別の日だが、WEBでミジンコを検索しているとおもしろい研究を見つけた。

「ミジンコは空を飛ぶか」というようなタイトルだったと思う。

ミジンコが鳥のように飛ぶのではなく、渡り鳥の水鳥にくっついて飛んでいく。DNA解析でミジンコの分布を調べるというような研究だった。


フレーズが浮かぶ。

「ミジンコは空も飛ぶし、深海にもいる。もしかすると、君の目の前にもいるかもしれない。ただ気づいていないだけなのかもしれない。直感も同じで気づいていないだけかもしれない。」


しかし、小説はまだ書けていない。


2017/04/07

文化と風土

Wikipediaの「報・連・相」の項の脚注に、以下の記事へのリンクがあった。

日系パワハラ│多分、報・連・相の意味は間違って伝えられてるよ

昨日のブログ記事で、山崎富治さんの『ほうれんそうが会社を強くする』という本(未読)について言及した。どうやらこの本は、書店のビジネス書コーナーによくあるような「報連相のコツ」など、報連相を「する側」から書いたものではなさそうである。

「風通しのよい会社の条件」であるとか、「上の人間が聞いて不快になりそうな情報は、なるべく伝えないようにしようという土壌がいつのまにかできているとしたら、この土壌には"ほうれんそう"は育たない。」という文章を読むと、報連相を育てることに主眼をおいているようである。

畑でほうれん草を育てるように、文化で報連相を育てることはできないか。

ここでの文化は「企業文化」としてもいい。

企業文化を耕して、報連相を成長しやすくするにはどうすればいいか。


畑を耕すのは、土をやわらかくして、ほうれん草が成長しやすくするためである。畑を耕す意味として、土と空気を混ぜるという意味もある。

風と土で「風土」である。「企業文化」は「企業風土」ともいえる。企業には「社風」もある。風通しをよくするにはつながらないだろうか。

こんな連想をしている。

2017/04/06

アイデアの種

ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか。思いつきから考えていることは重々承知であるが、まだしつこく考えている。

Wikipediaに「報・連・相」の項があったので読んでみた。現時点(2017年4月6日時点)での記述によると、もともと山崎種二さんが提唱し、その次男である山崎富治さんの本『ほうれんそうが会社を強くする』がベストセラーとなり広まったという。

当然のことながら、「報告・連絡・相談」を略して「報連相」としたのは、「ほうれん草」を意識したものであろう。未読であるが、『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルからもそのことが想像できる。その理由は2点ある。

ひとつは、「ほうれんそう」と平仮名表記にしていることである。「報連相」でも「報・連・草」でも、あるいはもっと直接に「報告・連絡・相談」でもよかったはずだが、敢えて平仮名にしている。音として読めば「ほうれん草」と「報連相」をかけているなと思うことはできるが、漢字で「報連相」と書かれているとその表記だけで「ほうれん草」を思い起こすことは難しい。思い起こしたとすれば漢字を読んだわけであり、ひと手間かかる。

もうひとつは、「ほうれんそう」に続いて「会社を強くする」としていることである。ほうれん草は緑黄色野菜として栄養価が高いイメージがある。漫画でポパイがほうれん草の缶詰を食べて、力こぶを出したりすることも思い浮かぶ。鉄分が豊富で、特に貧血気味の人は「ほうれん草を食べなさい」と言われることも多いだろう。ほうれん草には身体を強くするイメージがある。そのイメージで『ほうれんそうが会社を強くする』というタイトルをつけたと思われる。

興味があったので、『ほうれんそうが会社を強くする』をAmazonで検索してみると、新品はなかった。絶版となったようである。中古本はあり、表紙の画像を見たところ、思いっきり「ほうれん草」のイラストが載っていた(この記事の末にリンクあり)。しかも、イラストのほうれん草の葉が、働く人をかたどっている。

Wikipediaに戻り、あらためて「報・連・相」の項を読むと、「報連相の誤解」という箇所があった。
「上司の状況判断に必要な、部下からの自発的な情報伝達」を習慣的に行わせるためのしつけとして捉えられているが、そもそも、提唱者の山崎の著書では、管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、生え抜きでない社員や末端社員であっても容易に報告・連絡・相談が行える風通しの良い職場環境をつくるための手段して報連相を勧めているのであって、部下の努力目標ではない。

考えていたことが載っていたので、嬉しいことではある。しかし、「ほうれん草を育てるように、報連相を育てることはできないか」と考えていたことが、「報連相」が広まったときから既に述べられていたことは、少し残念な気もする。

もともとアイデアの種は蒔かれていたようである。

2017/04/05

植木の名人の話

孟子の「助長」の話を書いたので、似たような話も書いておこう。

柳宗元の「種樹郭橐駝伝」での話である。原典は読んだことはないが、松本肇『故事成語の知恵』(日経プレミアムシリーズ)と、森三樹三郎『老子・荘子』に概要が載っていた。孫引きのようなものである。

「橐駝(たくだ)」とは「駱駝(らくだ)」のことらしい。植木屋の郭さんは背中が曲がっていて駱駝に似ているところから、駱駝の郭さんと呼ばれていた。郭さんは植木の名人で、その植えた木は枯れず、よく茂り、よく実をつけたので人気があった。

あるとき柳宗元が郭さんに植木の秘訣を尋ねたところ、次のように答えた。

「秘訣というのはありません。ただ樹木の自然の性にしたがっているだけです」と。

植木というものは、木の根が広がり、土が平均にゆきわたり、古土が落ちず、木が倒れないくらいに土を固めておくことが必要とされる。その条件を整えさえすれば、あとは動かしたり揺すったりする必要はない。木の求めるようにするだけで、余計なことをしないだけだという。

木の成長を早めたり、よく実をつけさせたりすることはできず、成長を妨害しないようにするだけである。木は自然に成長する。

しかし、他の植木屋を見ていると、心配しすぎている。爪で引っかいて枯れていないか調べたり、根を揺すって土に隙間がないか確かめたり。木を大事にしているようだが、かえって危害を加えている、と。

『孟子』のたとえでも、この植木の名人の話でも、環境を整えることは大切ではあるが、作物(植木)自体には何もしていない。直接引っぱったり、揺すったりすることはしていない。

植物を育てるのと人を育てるのではやり方は違うかもしれないが、その育てる対象の特徴・性格を知り、それに合わせた環境を整えることは共通していると思う。

2017/04/04

心に忘るることなかれ、助けて長ぜしむることなかれ

『孟子』公孫丑上に以下の話が載っている。「助長」の語源ともいわれている話である。(小林勝人訳『孟子(上)』岩波文庫より)

むかし宋の国のある百姓が、苗の成長がおくれているのを心配して、なんとか早めたいものと一本一本引っぱってやった。グッタリ疲れきって家にかえるなり、『ああ、今日は疲れたわい。苗をみんな引きのばしてやったものだから』と家のものに話したので、息子が〔変に思って〕いそいで田圃へかけつけて見たら、苗はすっかり枯れていたとのことだ。世間にはこうした馬鹿げたことをするものが少なくない。

この話が、実際にあった話であるのか、それとも作り話であるのかはわからないが、『孟子』の中ではたとえ話として出てくる。もしかすると、『孟子』のたとえ話のために、「助長」に否定的な意味が付されたのかもしれない。

孟子は「浩然の気」を養うことを説明するために、上記のたとえ話を挙げた。先ほどの引用箇所の続きは以下である。

浩然の気を養うなどとは無益なことだとして〔告子のように〕見向きもしないのは、田圃の草取りをしないようなものだし、また浩然の気を養うことは大切だと知っていても〔北宮黝や孟施舎のように〕早く早くとあせって助長しようとするのは、苗を引っぱるようなものだ。こういうことは無益なばかりか、かえって害になるばかりだ。

「浩然の気」とは何かということはさておき、作物の育て方については当たり前のことを言っている。

無益なこととして見向きもせず、草取りもしないようでは作物は育たないし、早く早くとあせって苗を引っぱるようなことをしては作物にとって害になってしまう。目をかけて育てるが無理をしてはいけないということである。

心に忘るることなかれ。
助けて長ぜしむることなかれ。

これは人の育て方でもいえる。

2017/04/03

【メモ】ホウレンソウ関連記事

最近、ほうれん草のことについて考えていたので、ほうれん草や野菜関連の記事が目に止まった。メモとして書いているので、大したことは書いていない。


ひとつはGIZMODEの「ホウレンソウが人間の心臓になっちゃう!?」という記事である。

ほうれん草の葉脈を血管として利用し、心臓組織の修復に役立てようという技術で、実用化にはまだ至っていないが実験は成功したとのこと。

食べるのではないほうれん草の活用法のひとつとしてリンクを残しておく。


もうひとつは、日経ビジネスONLINEの「最強の植物工場は「手づくり」で完成させた」という記事である。こちらはほうれん草ではなく、植物工場の記事である。

畑で栽培ではなく、工場でレタスを栽培する。従来の植物工場はコストがかかり黒字化できないことが多かったが、この記事で紹介されている工場では黒字化できたということである。

 工場が本格稼働したのは2008年はじめ。「光、温度、湿度、空調、溶液など栽培環境の各要素をどう組み合わせるかというノウハウが重要。ハードだけそろえても、うまくいかない」。スプレッドの稲田信二社長に黒字化できたわけを聞くと、真っ先にそう答えた。

安定的に育てるためには、環境を整えることが大切である。その難しさと具体例が載っている。

2017/04/02

文化とあり方

ほうれん草が畑で育つならば、報連相は文化で育つのではないか。これをもう少し掘り下げていきたい。

畑を耕すことで、ほうれん草が成長しやすくなる。土をやわらかくすることで、芽が出やすく根が伸びやすくなる。

ここからいくつかの疑問が出てくる。文化を耕すとはどういうことか。土にあたるもの(あるいは、こと)は何か。報連相における芽や根は何に当たるか。

考えなくてもいいような疑問ではあるが、考えてみたい。

そもそも、文化とは何かということも考えておこう。


手元の国語辞典で「文化」を引くと、以下の意味が載っていた。

①ひらけない状態から、技術が進み生活が便利になり、また程度が高くなる状態。
②進歩・向上をはかる、人間の精神的ないとなみ(によって作り出されたもの)。
③その社会で受けつがれる、生活・行動のあり方。

報連相が大切だと言われているのは、主にビジネスシーンである。そこで、報連相を育てる畑としての文化を「企業文化」としよう。そうすると、文化の③の意味が一番近いように思う。つまり「社会」ではなく、「その会社で受けつがれる、生活・行動のあり方」である。「生活」というのはしっくりこないので「活動」としよう。

文化は一朝一夕でできるものではない。企業文化も同じである。

畑もまた最初から存在していたわけではない。開拓開墾して畑ができる。

畑を作ったらそれで終わりではない。毎年ほうれん草を育てるならば、種を蒔く前には畑を耕す。

企業文化も報連相を定期的に育てていくならば、耕すことは必要であろう。

文化を耕すとはどういうことか。これが次の疑問である。

2017/04/01

畑を耕すこと

ほうれん草を育てるために必要なものには、どのようなものがあるだろうか。ほうれん草を育てようとすると、何を準備するだろうか。

ほうれん草の種は必要だろう。種を蒔くための場所も必要である。他にも、肥料であるとか、鋤や鍬などの道具類も準備した方がいい。

プランターや土、肥料を用意して庭やベランダで栽培することもできるとは思うが、ここでは畑でほうれん草を育てることを考えてみたい。


種を蒔く前には、畑を耕す。鋤や鍬で畑を掘り返す。余談ではあるが、掘り返すという文字を打ったとき、「耕す」は「田(た)・返す」から来ているのではないかと想像した。方言で、ひっくり返すことを「かやす」という。


さて、なぜ畑を耕すのだろうか。


もっとも大きな理由は、土をやわらかくするためであろう。種を蒔くといっても畑の表面にぱらぱらと蒔くわけではなく、土中に種を埋める。土が固いとやりにくい。また、種から芽が出る、根が生えるときに土が固いと成長しにくい。やわらかい土の中に植えることで芽や根が伸びやすくなる。土中に石などの障害物があれば、掘り返すことで見つけやすく取り除きやすくなるだろう。

他の理由として、土と空気と混ぜるということもあるかもしれない。土と空気を混ぜるのでやわらかくなるともいえる。植物の根にも多少の空気は必要であろう。また適度な水分を保つためにも空気が混ざっていた方がよさそうだ。

他にも、雑草の繁殖を防ぐためであるとか、肥料をまいたあとに混ぜるためであるとか、様々な理由があるだろう。


なぜこのようなことに拘っているのかというと、ほうれん草と報連相を関連づけたいためである。

ほうれん草がよく育つように畑を耕す。報連相がよく育つように「畑を耕す」に相当することは何かを探りたい。

きっかけとなるのは言葉である。


「耕す」を英語でいうと、「cultivate」という。cultivateはラテン語のcolereから来ている。このラテン語colereから派生したcultivateとは別の英単語がある。「culture」である。「耕す」ことと「カルチャー(文化)」は同語源の言葉である。ちなみに「農業」を英語でいうと「agriculture」である。

畑を耕すことは、文化といえる。文化という土壌で、報連相が育つと考えてみたい。

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