2020/05/14

七音色の言葉を探して

文字もじおとすにはドうシたラいいとドシラとかなでてミたもののE響いいひびきにはらずA(C)ええかっこしい分章ぶんしょうかねない。ソラにかるにいろあかくだいたいいろにみどり、青藍せいらんむらき、ひかかがやく。おとのノートをくコードはあるかと深考しんこう辛航しんこう進行しんこうかさねてみるも、くも虚Cむなしいことていくtake

テイクツー退屈たいくつるかもシレないとnight夜二時よるにじらシつも、付焼刃つけやきば言葉ことばではたず、多少たしょうおもシろいろがミえるがするのだが、木肥きこえず、にじから惨事さんじなりそうだ。切迫感せっぱくかん金箔感きんぱくかんもない鈍色にびいろ文字もじ。たぶん駄文だぶん

ソレでもつづけてミ八日ようかって、十日とおかシたのか、ソレミシはEmin7イーマイナセブン曖昧あいまい気分きぶんのコードで、七音色なねいろにはおよばないが鈍色にびいろよりはシながシてソててミる価値かちがあるかもシレない。ソうおも低音ていおん七日なびかせ八日ようか日々ひびかせ八日ようか四句八句シくはっくつらてい句takeうちにひかるものがあるかもシレない。ソレをsagaすのだ。まだE響いいひびきにはらないかもソシレないが。あかつきまではまだ時間じかんがあり、とう眠気ねむけってい、ミりょくある言葉ことのはあおうとあいにいくと、シがして増紫ましるはずだ。


2020/05/12

Domino作曲(習作102)



習作102(4:56)
5拍子。ラストは4拍子。
最近4拍子以外の曲を作ることが多いのは、4拍子だと、どこかで聞いたようなフレーズなどを使いがちになるためです。

2020/05/10

柳瀬尚紀『フィネガン辛航紀』

ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳者である柳瀬尚紀さんの本『フィネガン辛航紀』が届いた。

最初に驚いた、というか自分の間違いに気づいたのは、書名が違っていたことだ。「辛航紀」は「しんこうき」と読む。僕はずっと「こうこうき」と読んでいた。「辛」ではなく「幸」という漢字で覚えていたのだ。ジョイスだけに「joy」とかけて、そして「航行」とかけて、「幸航紀」としたのだと思っていた。一つ違えば「幸」は「辛」となり、「辛」は「幸」となることを実感した。

文庫版『フィネガンズ・ウェイクⅠ』に大江健三郎さんの序文があり、そこで「『フィネガンズ・ウェイク』について書かれた最良というより唯一の本だと思う『フィネガン辛航紀』」という文章があった。そのため『フィネガン辛航紀』は読みたい本のひとつとなっていた。それにもかかわらず本のタイトルを間違えて覚えている。いい加減な読みをしている証拠を突きつけられて辛い。

正しい書名は『フィネガン辛航紀』ではあるが、中身を読むとたしかに『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳に四苦八苦している話は多いのだが、辛そうには見えない。むしろ幸せそうである。なんで「辛航紀」なんだろうと思った。

『フィネガン辛航紀』には「『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本」という副題がついている。そしてよく見るとその副題の下に英語が書かれていた。「Finnegans Wake, Translation in Progress」と。進行中の翻訳、つまり「辛航」は「進行」であった。奥付をみると、刊行は1992年8月。柳瀬さんが『フィネガンズ・ウェイク』を全訳されたのは1993年であるので、翻訳進行中に刊行されたものであった。ちなみにジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は途中雑誌に掲載されたことがあり、そこでのタイトルが「Work in Progress」である。

自分の勝手な想像であるが、翻訳完了後にその舞台裏の一端をみせてくれる本だと思っていたので、またもや「やられた」と思う。とはいっても柳瀬さんが意図してやっているわけではない。とはいっても予想を上回る内容である。

『フィネガンズ・ウェイク』は迷宮にたとえられる。迷宮にはアリアドネの糸があったほうがいい。柳瀬さんの翻訳の意図を頼りに、また迷宮探索をしてみたくなる。柳瀬さんが捜索して創作した跡をたどるだけでもおもしろい。一筋縄ではいかない可能性はあるけれども。また、深入りすると辛くなるかもしれないけれど。

まあそんなときには「幸開記」とでもして何かブログで公開してもおもしろいかもしれない。

2020/05/08

2020/05/06

Domino作曲まとめ(習作91~100)



習作91から100をまとめたページです。


習作91(3:46)


習作92(4:57)


習作93(4:17)


習作94(4:30)


習作95(4:41)


習作96(4:02)


習作97(4:04)


習作98(4:47)


習作99(5:51)


習作100(4:13)


■これまでの作曲分(あるいは最新曲)はタグ「Domino」で投稿記事を見つけることができます。もしくは、ページ「Works」もあります。

(これまでのまとめ記事リンク)
習作51~60
習作61~70
習作71~80
習作81~90
・習作91~100(今回)

Domino作曲(習作100)



習作100(4:13)
5拍子の曲。

2020/05/05

誇張の夢

『荘子』斉物論篇のなかに「胡蝶の夢」という話がある。中学か高校の漢文の授業で習った(と記憶している)ので、知っている人も多いだろう。
昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩みて志に適うか、周なることを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。
荘子(荘周)が蝶になった夢の話だが、荘子が蝶になった夢を見ているのか、それとも蝶が荘周となった夢を見ているのか、という話である。

この蝶々の羽ばたきでバタフライ効果が起きないかと、まあしょうもないことを考えたのだが、ふと思い出してブログを検索してみると以前にも同じことを考えていたようだ(参照:胡蝶効果)。

相変わらずしょうもないことを考えているなあと、我ながら思う。

ただ今回書こうとしたことは、以前より少し成長したと見え、もう1歩だけ話が進む。

ギリシア神話で、プシュケーの話があったなあ、と。

エロースとプシュケーの話で有名だが、古代ギリシア語ではプシュケーは「魂」という意味があり、また「蝶」という意味もある。

魂が羽ばたいたら、バタフライ効果が期待できそうだなあ、と。

2020/05/03

「ものの本」と「ぬらりひょん」

前回に引き続き、柳瀬尚紀さんの本『辞書はジョイスフル』の「まえがき」より。

この「まえがき」に、柳瀬さんの辞書に関するエピソードがいくつか載っていた。そのひとつに「ものの本」についてのエピソードがある。

柳瀬さんは子供のころ、「ものの本」という本があると思っていたという。『ものの本』にあこがれ、どんな本か、誰が書いたのか、いつごろ書かれたのか、どんなことが書いてあるのかということを期待していたらしい。ところが、百科事典をひらいても、『ものの本』は載っていない。そして、普通の国語辞典で「ものの本」を見つけたとき、《一瞬、躍り上がり、しかしつぎの瞬間には、がっくりした》ということだ。

また、この本(『ものの本』ではなく、『辞書はジョイスフル』)の解説で、荒川洋治さんは、「ものの本」を漢字で「物の本」と書くことを知り愕然としたことを書いている。《「もの」が「物」だとすると、この言葉の内容がうすれてしまう気がするのだが、……》。

僕の方はといえば、「ものの本」の意味や漢字での書き方をしっかりと認識していたわけでもなく、なんとなくそうだろうと思っていたことであるので、がっくりもせず愕然ともしなかった。ただ、「ものの本」のイメージと、僕にとっての柳瀬さんのイメージが重なっているように感じた。

はっきりとはしていなかったものの、柳瀬さんや荒川さんの話を聞いて、僕は「ものの本」の「もの」は「もののけ」の「もの」と同じと思っていることを認識した。「もののけ」は漢字で書くと「物の怪」となる。だから「物の本」と書くことを知っても、違和感はない。ただ、「もののけ」の「もの」も、「ものの本」の「もの」も、物体、物質としての「物」ではないので、「物の本」「物の怪」と書くよりは、ひらがなの「もの」の方がいいかもしれないとは感じる。

ところで唐突に話が変わるのだが、僕にとって柳瀬さんは「ぬらりひょん」のような存在である。容貌や性格のことではない。僕は柳瀬さんに会ったことはないし、ぬらりひょんにも会ったことはない。「ぬらりひょん」と聞くと僕は水木しげるさんの描いた「ぬらりひょん」を思い浮かべてしまうが、その「ぬらりひょん」のイメージは柳瀬さんとは重ならない。僕にとっては、「ぬらりひょん」という言葉の語感が、柳瀬さんのイメージに近いのである。

柳瀬さんの著作で最初に読んだものは『日本語は天才である』で(並行して、棋士の羽生さんとの対談本を読んだので、どちらが先だったかは覚えていない)、この本を読んで柳瀬さんの凄さを知り、柳瀬さんの他の著作も読んでみたくなった。それ以前にも、翻訳不可能と言われていた『フィネガンズ・ウェイク』を日本語に翻訳したという話や『ユリシーズ』を翻訳しているという話は聞いてはいたが、そのときは『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』というジェイムズ・ジョイスの作品があるとか、柳瀬尚紀という翻訳家がいるということを知っただけで、それを翻訳した、している、というのはどれほど凄いことなのかについてはまったく知らなかった。そんななかで『日本語は天才である』を読んで、もう少し柳瀬さんがどんなことを思って翻訳をしているのだろうかということを知りたくなったのだ。なので柳瀬さんの著作を探すのと同時に、翻訳した本も確認した。といっても著者紹介を読んだだけなのだが。

すると、すでに僕の手元にある本のなかに柳瀬さんが翻訳したものがいくつも見つかった。

たとえば、ボルヘスの『幻獣辞典』であったり、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』だったり、ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だったり……。いつの間にか近くにいたのに、僕は気づいていなかった。ぬらりとひょんなところから出てきた感じがしたので、僕にとって、柳瀬さんのイメージは「ぬらりひょん」という言葉となった。

国語辞典によると、「ものの本」というのは「(その方面のことが書いてある)本」という意味が書いてあった。ぬらりひょんのような意味である。思えば、「ものの本」と「ぬらりひょん」と、なんだか語感が近くないだろうか。

こんなぬらりひょんなことを考えながら、本を読む。ぬらりひょんな文章を書く。

平和、まったき平和。

2020/05/02

至高作語

柳瀬尚紀さんの『辞書はジョイスフル』の「まえがき」に、つぎの文章がある。
 しかしともかくこんなふうに、年がら年中、辞書のなかをさまよいながら、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず……。
 ありゃりゃりゃ、なんじゃ、これ!?
 わかりました。『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』の訳語が飛び込んできたのです。
 順に、かすみそめつき(霞初月)、きさらぎ(如月)、やよひ(弥生)、うづき(卯月)、あやめづき(菖蒲月)、とこなつづき(常夏月)、たなばたづき(七夕月)、そのいろつき(其色月)、きくさきづき(菊開月)、しぐれづき(時雨月)、ねづき(子月)、しはす(師走)のジョイス語ヤナセ語変装。
 なにしろ上のような訳語をつくるために七年半、年がら年中、辞書のなかをさまよっていたのだから、どうやら本書は、『フィネガンズ・ウェイク』翻訳作業と辞書のことから書き始めるのがよさそうだ。
ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は読んだ(「読んだ」といっても字面を追った程度)が、『フィネガンズ・ウェイク』の原文は読んだことがなく、《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》の原文はどんなものだろうと思っていたら、『辞書はジョイスフル』の別の箇所に記載されていた。
 今度は、『フィネガンズ・ウェイク』から、やさしい原文を引こう。こういうふうに形容詞が並ぶところがある。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible mournful sorrowful frightful appalling
 なんのことはない、まともな英語が十一個。数十か国語どころか、大学受験生程度の英語のボキャブラリーがあれば、読むことは読める。
 順に、血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い、怒り狂った、ぎくりとさせる、おっそろしい、哀悼の、悲痛の、おっかない、度肝を抜くような。
 ところが、これもまた、このまっとうな英語もまた、ジョイス語のひとつの姿なのである。
 つぎの英語を見ていただく。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible horrible mournful sorrowful frightful appalling
 これは、かのクークラックスクラン、3K団が、順に、一月、二月、三月……につける形容詞だ。
 ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる。
 つまり、ジョイスの《bloody gloomy hideous fearful…》という原文の裏には、January February March April…が、ひびいているわけだ。
《bloody gloomy hideous fearful…》をふつうに訳すと「血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い…」となるのだが、「January February March April…が、ひびいている」ので、柳瀬は《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》と訳したということである。よくもまあこんなところまで考えるなあと、いい意味で感心する。

しかし「ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる」というのはどうだろうか。『辞書はジョイスフル』にはジョイスの徹底ぶりを示すエピソードも書かれていて、そんなジョイスが書き落としをするだろうか、という疑問が浮かぶ。ひょっとすると故意に11個にしたのではないか、と。

ジョイスの原文にないのは、8月の形容詞にあたるhorribleで、ヤナセ語訳でいえば「怖の色づき」である。もしジョイスが故意にhorribleを抜いて11個の形容詞を並べたとすれば、どのような理由が考えられるだろうか。

ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』で該当の箇所の一文を探す。『辞書はジョイスフル』の「まえがき」で、『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』のなかにあることがわかるので、比較的探しやすかった。該当する文は以下の文である。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は総ルビであるが、以下の引用ではルビは省略している(このブログの冒頭の『辞書はジョイスフル』の引用でもルビを省略している)。
七魘が去った、暗陰鬱殪毆悍釁、もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず。
「七魘」には「しちよう」とルビがふってある。ここでの「魘」の漢字は小さくて見にくいだろうが、「厭」の下に「鬼」と書いた漢字で、「おさえつけられた感じで、うなされる。恐ろしい夢を見ておびえる」という意味の漢字である。「七魘」はそのルビから「七曜」を思い起こさせ、つぎの「暗陰鬱殪毆悍釁」には、「月火水木金土日」のひびきが感じられる。「暗陰鬱殪毆悍釁」には「あんいんうつえいおうかんきん」とルビが打たれており、各漢字の第1音を並べると「あいうえおかき」となるような、そして7つの「魘」となるような漢字を選んだのであろう。同様に「十二憑き」は「十二月」で、「血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…」と続いている。

私の一人勝手な解釈だが、暗陰鬱殪毆悍釁という七魘が去った、もはや血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…という十二憑きはない、ということで、曜日が去り、もはや月日もないとも読めるので、日月などの時間概念がない《永遠》が現れたという読みも可能ではないだろうか。とすると、horribleがないということは、パンドラの匣ではないが、《永遠》のなかにhorribleが残っているのではないか。horribleはヤナセ語訳では「怖の色づき」だが、「畏怖の念」という意味もあるだろう。《永遠》の千年王国にも「畏怖の念」はあるだろう。

もし「畏怖の念」を表すために「年」から抜いたとしたら、if……と、よくもまあこんなことを考えるなあ、と自分に呆れる。

と、こんな誤訳をしながら、ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』を読んでいる。

さきほどヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』から一文を引用したが、その一文には(もちろん)続きがある。
平和、まったき平和。

サロメの漢字(2)

(前回はこちら:サロメの漢字(1)

「サロメ」を漢字で「撒羅米」と書くと知り、私が思っている「サロメ」のイメージとは少し違うなと思い、どのような経緯で「撒羅米」という漢字を当てたのかを調べたことを書いたのが前回の内容である。

今回は、「撒羅米」からのイメージ、そして、私が当て字をするならどのような漢字にするのか、ということについて書いてみたい。これは、私の思う「サロメ」とはどのようなイメージであるのかということになり、私の思う「サロメ」と言えばオスカー・ワイルドの『サロメ』であるので、『サロメ』を読んだ私の感想ともなるかもしれない。とはいっても、思いついたままに書いていくので、たぶんうだうだした文章になるだろう。


さて、前回書いたことだが、「サロメ」を「撒羅米」と書くのは中国語の聖書でのサロメの表記から採ったもののようである。聖書に名前が出てくるサロメは、ワイルドの『サロメ』の主人公とは別人であるので、中国語では「サロメ」という名前ならばどれも「撒羅米」と書くということを知った。なので、ヘロデ王の前で踊りを踊って、ヨカナーンの首を欲したサロメをイメージしての漢字の当て字ではなく、中国語の発音と表記の関係で「サロメ」を「撒羅米」と書くようだ。

そんなことを知る前に私が「撒羅米」の漢字を見たときに思ったことは、サロメのメはなんで「米」なのだろうということだった。

手元の漢和辞典から「撒」「羅」「米」の主な意味を挙げると、それぞれ以下の意味があった。
【撒】
①まく、まき散らす。
②(俗語)「撒手」とは、手を振りちぎること。また、見切りをつけてほったらかすこと。

【羅】
①あみ。目のつらなるあみ。
②鳥をあみで捕らえる。
③つらねる。つらなる。
④うすもの。目のすいたうすい絹織物。うすぎぬ。

【米】
①穀物の小さなつぶ。コメ・アワ・キビなどにいい、また、菱や、ハスの実などにもいう。
②こめ。よね。いね。イネの実のもみがらを取り去った粒。
③小さいつぶ状のもの。
(他、メートルやアメリカなどの意味も記載されていた)
ワイルドの『サロメ』においてサロメがヘロデ王の前で踊ったのは、「七つのヴェールの踊り」ということは書かれている。どのような踊りであるのかは書かれていないが、ヴェールを脱ぎながらの踊りであると言われている。「羅」には「うすぎぬ」という意味があり、「撒」は「撒き散らす」ことであるので、ヴェールをとって投げ捨てるような情景を思い描くこともできなくはないが、「米」がよくわからなかった。今となっては意味はなさそうであることがわかったが、「撒羅米」の漢字から、アメノウズメやウケモチノカミを思い描いた。ワイルドの『サロメ』では、最後にサロメは殺される。殺されたときにウケモチノカミが穀物を生み出したように、サロメが何か生み出したのではないかと想像した。サロメが殺されるのは、ワイルドの創作である。だから、「撒羅米」という当て字にした理由を知ることで、ワイルドが描いていたサロメ像、ワイルドが『サロメ』を書いた意図のようなものにつながるのではないかと思ったのだ。

「七つのヴェールの踊り」は、シュメール神話の「イナンナの冥界下り」と結び付けられて考えられていることもある。シュメール神話はヘレニズムと関係している。ヘレニズムとヘブライズムが交錯した時代、場所が、まさしく『サロメ』の舞台となっている。ヨカナーンにヘブライズムを、サロメにヘレニズムを代表させて『サロメ』が書かれているという読みも可能だ。ヨカナーンは首を切られ、サロメは殺される。生きているのはヘロデ王であり、サロメの母のヘレディアである。ニーチェが「神は死んだ」ということを言ったようだが、ニーチェはワイルドと同時代の人である。ヘブライズムの一神教の神も、ヘレニズムの多神教の神も死んでしまった悲劇をワイルドは『サロメ』として書いたのかもしれない。検証などをしたわけではないので、ただの印象ということになるが、私にはサロメがイエスと重なっているところがあるように思える。イエスが罪を背負って死んだように、サロメも罪を背負って死んだ。イエスによって救われる人々がいるのと同じように、サロメによって救われる人々もいるのではないだろうか。ワイルドは救済の物語を書いたのではないか、とも。

だいぶ話が逸れてしまった。

話をもとに戻して、もし私が「サロメ」に当て字をするなら、どんな漢字を当てるかについて考えてみたい。といってもこれがピッタリというものがパッと思い浮かぶわけはなく、漢和辞典の力を借りる。

「サ」は「紗」が良さげな漢字である。「紗」は、「羅」と同じように、ヴェールにつながる。「縒」も捨てがたい。「彩りの鮮やかなさま」であるとか、「いりまじる」というという意味があり、色とりどりのヴェールを身に着けている様子や、さまざまな人たちのいろいろなサロメ像があることにつながる。ちなみにカタカナの「サ」は、「散」の左上部分から作られているようだ(Wikipedia調べ)。

「ロ」はひとまず「侶」を選ぶ。ヴェールつながりで「絽」もアリかも。熱を感じさせる「炉」もおもしろい。『サロメ』のなかで「バビロンの娘」とヨカナーンに揶揄されているところがあるので、バベルの塔をイメージして「楼」とするのはひねりが加わっているような気がする。

「メ」は最初に思いついた「女」がいいだろう。若さを感じさせる「芽」もアリ。

紗侶女、紗絽芽、……。

日本での名前に見えるような漢字はないかなど、漢字の意味以外のところも考える。新しく名前をつけている、命名しているような気持ちになる。ちなみに、サロメは、ヘブライ語で「平和」を意味する言葉(シャローム)からつけられた名前らしい(Wikipedia調べ)。

初めに言葉ありき。

2020/05/01

サロメの漢字(1)

平野啓一郎訳のオスカー・ワイルド『サロメ』を読んでいて、その解説の中で、サロメを漢字で「撒羅米」と書くことを知った。解説は田中裕介によるもので、そのなかで『サロメ』の先行の訳者である日夏耿之介の次の文章を引用している。
女主人公は、風にも得耐ふまじき娉婷たる美女。これ原本テキストを正確に讀みて解釋せる撒羅米の姿態也(近代映畫によりて印象さるるが如き太りじしの女人たるべからず)。
従来の訳では「〈運命の女〉としてのサロメ像」「〈新しい女〉としてのサロメ像」の印象が強いが、平野訳は「〈少女〉としてのサロメ像」を言葉に表したものである。ただ従来の訳者も「〈少女〉としてのサロメ像」を読み取ってはいた。このような文脈のなかで引用された文章である。

私は、日夏耿之介の訳した『サロメ』を読んだことがないだけでなく、日夏の名前もこの解説で初めて知ったくらい(なにかの本で読んだことはあるかもしれないが覚えていない)であるので、ネットを中心で調べたことであるが、書こうとしていることは、どういった意図があって「サロメ」に「撒羅米」という漢字を当てたのかということである。もし私がサロメに漢字を当てるならば、「撒」「羅」はともかく、「米」ではなく「女」とするだろう。

ネット検索でいろいろと調べていたところ、日夏耿之介が訳した作品は『院曲サロメ』と題されており、独特の訳となっているようである。

さらに検索していくなかで、興味深いものを見つけた。「出版・読書メモランダム」というブログ内の「古本夜話64 典文社印刷所と蘭台山房『院曲サロメ』」という記事である。日夏耿之介『院曲撒羅米』(昭和52年、東出版)の巻頭に「院曲撒羅米小引」があり、そこに人名の当て字についての記載があった。
日夏による「院曲撒羅米小引」が巻頭に置かれ、そのうちのふたつは次のような文言である。
一、曲中人物ノ宛字ハ漢訳聖書上海美華書館同治四年本中ノ文字ヲ多ク採リ用ヒタリ。美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ。
一、コノ訳書ヲモテ院曲撒羅米ノワガ定本タラシム。コレ訳詩大鴉ト共ニ拙訳詩曲類中何トナクタダ最モ自ラ愛玩暗喜スルモノ也。
どうやら、中国語の聖書から採ったようである。「美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ」というのは、ワイルドの『サロメ』にオリエンタリズムの傾向があることを言っているのだと思う。

ところで、ワイルドの『サロメ』は、新約聖書「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」に記載される「ヨハネの斬首」のエピソード(そしてそれらを題材とした先行作品)をもとに作られたことは有名であるが、この新約聖書のエピソードの中ではサロメの名は出てこないことも知られている。では、サロメの漢字はどこからとったかというと、「ヨハネの斬首」のエピソードのサロメ(ヘロディアの娘)とは別の「サロメ」が登場するところからであろう。

「マルコによる福音書」15章40節や16章1節に(別人の)サロメが登場する。イエスが十字架に磔となり死んでしまったときの記述である(引用は15章40節、新共同訳より)。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
Wikisourceで中国語版の聖書の該当の箇所をみると、「撒羅米」の漢字が見つかった。中国語では「マルコ」は「馬可」と書くようだ。

このサロメを別人としているのは、Wikipediaに「サロメ(イエスの弟子)」の項目があるように、一般的に別人とされているというだけで、私がさまざまな文献を当たったわけではないのだが、日夏もおそらくは別人であることを知っていただろうから、単に「サロメ」は「撒羅米」と書くというだけでその字を当てたという可能性が高い。ワイルドの『サロメ』では最後サロメは死ぬ。最後サロメが死ぬのはワイルドの創案であるが。

ただ、冒頭に触れた光文社古典新訳文庫版の田中の「解説」に、最終的には劇の形式をとる『サロメ』の、ワイルドの最初の構想が書かれていた。ヨハネの断首後もサロメが生きていてイエスに出会い、最後イエスから離れ、氷上を歩いている途中に氷が割れ、サロメが氷で首が切断されるということが構想として考えられていたらしい。もしかすると、ワイルドは別人とされているイエスの弟子であるサロメを、ヘロディアの娘と同一人物として作品を作ろうとしたのではないか、日夏はそこまで考えて撒羅米としたのではないか、という可能性もなくはないかもしれないが、可能性は少ないだろう。

というわけで、当初の私の疑問である「どういった意図があって「サロメ」に「撒羅米」という漢字を当てたのか?」ということは、「なぜ中国語で『サロメ』を『撒羅米』と書くのか?」という疑問になってしまい、おそらくは中国語の発音と表記の問題となり、これ以上は私の範囲を越えてしまいそうである(私の範囲がどこからどこまでなのかは自分でもわからないが……)。

つらつらと書いていると、思いの外、長くなってしまった。今回はここまでとして、次回は「撒羅米」という漢字からの印象、そして、もし私ならばどのような漢字を当てるのかについて書こうと思う。

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