2013/01/30

齋藤孝さんの「マイ古典としたい名著50選」

齋藤孝さんの『古典力』には、「マイ古典としたい名著50選」として、50の古典が挙げられています。

この50点の作品のうち、私が読んだことのあるものを数えてみると、約10作品。

「約」としたのは、全部を読んだことはないが、抄訳なら読んだことはある、というのを含めているから。

これを10作品も読んでいるとするか、10作品しか読んでいないとするかは人それぞれでしょうが、私の中では結構読んでいるな、という感想です。


この50点を選んだ視点として、齋藤孝さんは以下のように述べています。
 古今東西の古典になじむきっかけとして、50点を選んで、私なりの紹介をしてみた。選ぶ視点としては、古典としての評価が高いもの、現代に生きる私たちにとって多くのヒントを含むもの、がんばれば読めるもの、できるだけ多様なもの、心身の芯を揺さぶり活性化させる力のあるもの、人に話すとちょっといい気分になり聞いた人にもお得感があるもの、を意識した。
詩集や童話などは今回は除外した。また、日本近代文学はあまりに名作が多くそれだけでいっぱいになってしまうので、選定の範囲外とした。この50点には、それぞれすぐれた解説書がでているので、それらを参照していただきたい。
(漢数字はアラビア数字で書いています。)


今後、これらの作品も読んでみたいとは思っています。

しかし、いつになるかは未定。

なので、意識づけの意味を込めて、読む読まないにかかわらず、この50点の作品について思い起こすことを書き留めていきたいと思いました。


読んだことのない作品が半数以上を占めていますので、あらすじや要点、読むべきポイントなどは書くことができません。

そのため独りよがりな文章になってしまうかと思いますが続けていけるようにがんばります。


50選の内容は以下
作品世界にどっぷり浸かる
カラマーゾフの兄弟
源氏物語
千夜一夜物語(アラビアンナイト)
百年の孤独
嵐が丘
ファウスト
ドン・キホーテ
たった一冊の本が、時代を、社会を変えた
方法序説
星界の報告
社会契約論
共産党宣言
種の起原
学問のすゝめ
生物から見た世界
精神分析入門
古代の世界は骨太!
旧約聖書・新約聖書(福音書)
古事記
オイディプス王
ギリシア・ローマ神話
史記
万葉集
論語
饗宴
書き手の感性や人となりを味わう
福翁自伝
フランクリン自伝
徒然草
枕草子
おくのほそ道
ゴッホの手紙
人間のおろかさ弱さを見つめる
阿Q正伝
罪と罰
変身
赤と黒
ブッダのことば
マクベス
社会の中の人間
監獄の誕生―監視と処罰
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
マネジメント
風姿花伝
君主論
悲しき熱帯
生きる覚悟、生の美学
きけ わだつみのこえ
平家物語
「いき」の構造
存在と時間
死に至る病
武士道
五輪書
ツァラトゥストラはこう言った
夜と霧

古典力 (岩波新書)
古典力 (岩波新書)

2013/01/29

わもんな言葉25-とんさき

岡山には「とんさき」という言葉があるそうです。

「尖がった先」を略して「とんさき」です。


ちなみに、Googleで検索すると、「がっさき」とも呼ばれる豚の内蔵のことがでてきました(^-^;)

ここでの意味は(もちろん!)違います。


「出る杭は打たれるけれども、出過ぎた杭は打つことができない」と、どなたの言葉かは知りませんが、いろいろなところで聞くことがあります。

何か突出したところは、その人ならではの強み。

強みは武器になります。

尖がった先もまた然り。


「一廉の人物」というのは、辞書でひくと、ある一つの方面ですぐれている人物のこと。

辞書でひいて、「ひとかど」という漢字を「一廉」と書くことを知りました。

「ひとかど」という言葉は、「とんさき」という言葉から連想したのですが、「ひとかど」は「一角」と思っていました(^-^;)


話はズレましたが、ちょっと考えてみてください。

他人と比べると、なかなか「とんさき」を見つけることができません。

たいていのことは、上には上がいる。

勉強にしろ、スポーツにしろ、1位をとれるのは1人だけ。


しかし、私たちは皆、過ぎ去った「過去」とまだ見ぬ「未来」の狭間にいます。

時代の最先端を過ごしています。

自分を省みると、最先端にいることがわかります。


今、ここ、自分が「とんさき」ではないか、と思うのです。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/01/28

マイ古典

法事のため、実家に帰省してきました。

その行き帰りの車内で読んだ本が、齋藤孝さんの『古典力』です。


私の最近の読書傾向として、古典と呼ばれるものが増えてきているように思います。

今、主に読んでいる本は『孟子』。


本を読むこと自体は嫌いではないのですが、中高生の頃はほとんど本を読んでいません。

本をよく読み始めたのは、大学生になってしばらくしてからです。

今回は、本をよく読み始めたきっかけを書いてみたいと思います。


大学は文学部です。

せっかく文学部に入ったのだから、本は読んでおいた方がいいな、とは思いました。

が、それほど強くはありません。


読書が好きになったきっかけは、やはり「本」です。

きっかけとなった本は2冊あります。

1冊は渡部昇一さんの『知的生活の方法』。

もう1冊は京極夏彦さんの『塗仏の宴』。


時系列で並べると、まずは、たしか大学1回生の夏休みだったと思います。

関西の大学に入学し、1人暮らしを始めていました。

そこに、同じ高校から東京に出ていた友人数人が、夏休みの帰省のため、私の住んでいた部屋を訪れました。

宿代わりです。


そのときに、友人の1人が持っていた本が、京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』です。

分厚い、というのが第一印象。


その頃はまだ本をあまり読んでいませんでしたが、小学校の頃は図書館にあった(おそらく子供向けの)シャーロックホームズものなど、推理小説の類は読んでいました。

京極さんの本も、その友人に問うと「ミステリ」とのこと。

そのときに京極さんの刊行している本のタイトルをメモでもらった記憶があります。

しかし、そこでは、京極さんの本は読むことはありませんでした。

特に本好きになることもありませんでした。


しかし、本は読んでおいた方がいいかな、ということで、少しずつ本は読み始めました。

渡部昇一さんの『知的生活の方法』に出会ったのはこの頃だと思います。


明確な目的があって大学に入ったわけではなく、しかし勉強すること自体は嫌いではなかったので、大学で扱われている授業の本などは読んでいましたが、まぁ漫然と生活をしていたところに興味をひくタイトルでした。

自分の書斎を持って、本に囲まれて生活するのも悪くない。

むしろ、好ましく感じました。


そして、大学生協の本屋に度々行くようになりました。

度々行くようになった大学生協で、フランソワール・ガデ(だったと思う)『ソシュール言語学入門』という本を見つけ、言語学に興味を持ち始めました。


英語をもっと学んでみたかった、という考えがあり大学に行ったのですが、外国語学部に入学するような学力はなく、そして、国語は好きなのですが、点数はとれませんでした。

代わりに点数が取れたのは数学なので、数学が入試科目にある文学部を探し、その文学部に合格することができました。


そして「言語学」という学問を知り、「ことば」への興味が出てきます。


しばらくして、弟が東京からの帰りに、私の住んでいた部屋に立ち寄ったことがありました。

そこで、「重いから置いていく」と、1冊の本を置いて帰りました。

それが、京極夏彦さんの『塗仏の宴 宴の支度』です。


漢文調の少し固い文体はなんとなく好みで、取り扱っているテーマや薀蓄は面白く感じました。

以前に友人に薦められていたこともあり、他にも読んでみようという気になりました。


そして続いて読んだのが、その続きで『塗仏の宴 宴の始末』。

本屋に行くまで、『宴の支度』の方は、短編集と思っていました(^-^;)


これが、すごかった!

『宴の支度』で語られていた話が、あれよあれよという間につながり、解体され、再構築される。

度肝を抜かれました!

昔、シャーロックホームズなどの推理小説をいくつか読んだだけですが、「日本のミステリはものすごく進んでいる」と感じました。


こういった経験があり、本を読むことが好きになり、本を読んでいます。

特に好きだと感じる本は、何となく知的好奇心をかられるような本です。

「何となく」というところが大事で、次に何か読んでみよう、調べてみよう、と思わせてくれる本が好みです。


齋藤孝さんの『古典力』を読んで、古典の読み方として「我田引水読み」や、「さかのぼり読み」などが出てきたとき、「その通り!」と、えらそうに思ってしまいました。

古典力 (岩波新書)
古典力 (岩波新書)

2013/01/22

野村萬斎『狂言サイボーグ』

単行本が出たとき買うのを少し迷った本で、このたび文庫版で発行されていた、野村萬斎さんの『狂言サイボーグ』を読みました。

正直なところ、狂言の面白さはわかりません。

1度テレビで見たことがあるのですが、面白いというより感心してしまいます。

特に、声の出し方や身体の使い方に目がいってしまいます。


『狂言サイボーグ』を読んで面白いというか、興味を持ったところは、言葉の使い方です。

何となく、私と似ている感じがしました。

もちろん知識量・経験量は全く及びませんが…。


『狂言サイボーグ』は、日経で連載していた狂言についてのエッセイと、「ござる乃座」のパンフレットに書かれた文章を集めて一冊にしたもので、エッセイの方はそのほとんどに「狂言と○○」というタイトルがついています。

私と似ていると感じたのは、エッセイの締めくくりを言葉遊びのようにしてまとめている部分。


たとえば、「狂言と「首・肩」」というタイトルのエッセイの締めくくりは、
しかし、現実の世の中は首が座らず、首を傾げたくなるような、アンバランスな出来事が多い今日この頃である。
「狂言と「手」」の締めくくりは、
手を使えば手の込んだ演技ができる。だがそれを観客が見る時、手法を感じさせずに厚手な演技ができる所に、役者の手腕たるセンスが問われるのである。
など。

「首」「手」というテーマに沿って、「首」や「手」という言葉を使った慣用句であるとか、あるいは単語・熟語などをふんだんに取り入れて文章を締めくくっているところです。

こういうことを書いてしまうと、この記事をどう締めくくろうか迷ってしまいますが…。


さて、この『狂言サイボーグ』というタイトルは、文庫版あとがきによると、
そもそもこの本のタイトルを「狂言サイボーグ」にしたのは、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」よろしく、自分の意思とは関係なく半分機械を埋め込まれ、プログラミングされた人間としての、多少の悲哀を込めたものだった。
ということです。

幼い頃から自分の意思と無関係に狂言をプログラミングされたちょっとした哀しみが表現されています。

しかし一方で、
人体は一種のハードウエアのようなものだ。知識ではなく身体で「型」や「カマエ」といったソフトウエアを体得させた精巧なコンピュータを持っていれば、実はそれだけ個性を発揮する力にもなる。自分の意思とは関係なく、幼い頃から狂言をたたき込まれたことが、私の身体を気に入ったコンピュータにしてくれている。
とも書いています。


「型」や「カマエ」などは堅苦しい感じがしますが、ソフトウエアですので、実は柔らかいのかもしれません。

狂言サイボーグ (文春文庫)
狂言サイボーグ (文春文庫)

2013/01/20

わもんな言葉24-聴和

吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。

『論語』の中で有名な言葉のひとつです。

孔子が晩年に自分の振り返った言葉であるとも言われています。


この章句より、年齢を表わす言葉が生まれています。

15歳を「志学」、30歳を「而立」、40歳を「不惑」、50歳を「知命」、60歳を「耳順」、70歳を「従心」。


先日、「聴和坐」に参加したことなどから、『論語』とわもんについて考えています。

『論語』をわもん的に解釈してみるとどうか、というようなことです。


今までの「わもんな言葉」は、わもんでの言葉や考え方をもととして、本の引用等、別の言葉で書いてきたのに対して、今回は逆。

別の言葉をわもん的に解釈してみようという試みです。


学に志し、自立し、迷わなくなり、天命を知り、人のことばを聞けるようになり、そして心のおもむくままに実行しても道を踏み外すことはなくなった。

年齢は別として、わもんとの関連を考えてみると、聞き方の過程のようにも聞こえました。

生き方と聞き方。

共通項は多々あるかと思います。


孔子が学問に志したように、この人の話を聞くと決める。

そして話し手の話に一点集中する。

惑わず迷わず、心の湖面を揺らさず、完全沈黙。

その人の命を聞くことで、そうしてやっと、その人の話が本当に聞ける。

そうなると自分が思うこと、なすことすべてが、話し手につながっていく。


このような境地を「聴和」と呼んでも差支えがなさそうな気がします。


論語 (岩波文庫)
論語 (岩波文庫)

わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/01/15

わもんな言葉23-聴和坐

先日、「聴和坐」という、本間先生&やぶちゃんのコラボ勉強会に参加してきました。

申し込み時点では、「聴和坐」という名前だけがホームページに出ていただけで、どんなことをするのか、何をするのか、ということは載っていませんでしたが、予定が空いていたこともあり、すぐに申し込みをしました。

本間先生とやぶちゃんがそろっていれば、面白くないわけがない、というのが大きな理由ですが、「聴和坐」という名前にも魅かれて。


「聴和坐」の名前を聞いて(見て)思ったことは、当然のことながら「調和」という言葉の「ちょう」を、「聴く」の「聴」とかけている、ということ。

「調和」と「聞く」。

最近、『論語』をはじめとする儒教の四書を読んでいて、その四書のひとつ『中庸』が頭に残っていましたし、わもん黒帯二段の試験(?)として、1:Nの二人羽織わもんというものがあり、ファシリテーション・場づくりのことも考えていました。

そんなときに「調和」という言葉が目に入ります。

その場の調和を取れるようになれば、その場の中庸を取れるようになれば、ファシリテーションは上手くいくかも、と感じます。


また、「聴和坐(ちょうわざ)」から「超技」も思いつきます。

技を超えるもの。


「技を超えるもの」というのは、技でないわけではありません。

「超スピード」というのは、ものすごく速いスピードというような意味で、スピードの一種。

ならば、「超技」というのは「ものすごい技」です。


さらには、「聴和坐」の「わ」は「話」とも置き換えられる、というのもありました。


これらのことから「聴和坐」は、ファシリテーションのものすごい技を体感できるのではないか。

スーパーファシリテーションの勉強会だ、と勝手に想像。

その後、「聴和坐」の概要が公開され、上記想像は変更となりましたけれども(笑)



しかし、当たらずとも遠からず(?)、実際に参加した「聴和坐」のなかで、このような名前になった理由が述べられました。

そして後半には、「バタフライ効果」という言葉が出てきて、「蝶」の「業」、「バタフライミッション」という言葉が誕生!


「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスで台風となる」

現在の社会は複雑になっています。

複雑系においては、無視できるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となるかもしれません。


ひとりひとりの羽ばたきが大きな力となるかもしれない。

個人の働きが、個人を超えて、地球全体への働きとなるかもしれない。


「聴和坐」は自分の想像を「超えた」勉強会。


私自身にとっては、英語を学校で習い始めたときから、もともと「言葉」に興味があり、大学では「言語学」を勉強し、そのかたわらで「複雑系」のことにも興味を持っていた時期があり本をいろいろと読み漁っていました。

そのころに『論語』も読みはじめています。

そして、仕事上で「コーチング」のことを知り、本間先生の本を読み、本間先生のツイッターから「笑顔のコーチング」のことを知り、「笑顔のコーチング」で「切磋琢磨」という言葉の語源が『大学』という書物にあることをしり、四書五経に興味を持ち、最近では『孟子』を読んでいたりしています。

また本間先生のツイッターからやぶちゃんのことを知り、「わもん」も知りました。

今まで興味を持っていたことが次々とつながっていき、ハーモニー(調和)となっていったような、そんな感じがしました。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/01/09

わもんな言葉22-黒帯

最近ずっと気になっていた本を読みました。

オイゲン・ヘンゲル述『日本の弓術』です。
日本の弓術 (岩波文庫)
日本の弓術 (岩波文庫)

通っていた高校には弓道部があり、弓道場もありましたが、私は弓道部員ではありませんでしたし、弓を引いたこともありません。

なぜ気になっていたかといえば、おそらく、最近読んでいる『論語』や『孟子』の影響ではないかと思っています。

『孟子』公孫丑篇には次のような言葉があります。
仁者は射るが如し。射る者は己を正しくして後に発つ。発って中らざるも、己に勝てる者を怨みず、諸を己に反み求むるのみ。
矢が的に当たらず、自分に勝った者を怨むことなく、自分自身を省みるということです。

心の矢印を自分に向ける、ですね。


『日本の弓術』では日本の弓術(弓道)について、以下のように述べています。
弓を射る「術」とは、…(中略)…純粋に精神的な鍛練に起原が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。
このことを本の中では「射手の自分自身との対決」と表現していますが、この自分自身との対決の本質について、さらに、
射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中ててしかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に深いのである。

オイゲン・ヘンゲル氏は日本滞在中に阿波先生のもとで弓道を学びました。

その体験をもととして、ドイツで行なった講演の日本語訳が『日本の弓術』です。

中島敦の短編「名人伝」も思い出しました。


『日本の弓術』の中で私が非常にグサッときた言葉が、阿波先生がヘンゲル氏を戒めた言葉です。
「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」

いろいろなところでスキルを求めがちです。

もっと上手くするにはどうすればいいか。

効率的に行うにはどうすればいいか。

いい方法はないだろうか。

大半のものごとは「あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする」でもいいかもしれません。

テストを例にとると、合格すればいい、ということならば、スキル(技)は有効だと思いますし、技巧家でもいいと思います。

しかし、真剣に取り組むようなことならば、技巧家で止まりたくはありません。


『日本の弓術』に所収されている小町谷操三さんの「ヘリゲル君と弓」には、阿波先生の「射道について」という放送の要旨があり、そこには「養由基は柳の葉を百歩の外から射抜くこと百発百中であったのに反し、孔子の射は百発成功であった」という話がありました。

そして、「百発百中は凡射であり、百発成功は聖射である」とも。


さて、わもん黒帯は初段から七段まであり、そのあと「名人」「匠」「聖」「玄」とあります。

百発成功が「聖」射であるならば、「玄」はどれほどなのか。

『論語』の言葉を借りれば、
之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。
之を瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。
です。

わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2013/01/03

「押し入れ」と「引き出し」

一軒家ならばあるかと思いますが、マンションなどでは「押し入れ」があまりありません。

収納については何かと気になりますし、マンションでもクローゼットならあるところも多いので、「押入れ」というのは和室や日本家屋にふさわしいような気がします。

「押し入れ」という名前がなくなってきているのかもしれません。

一方、「引き出し」は身の周りにたくさんあります。

箪笥の引き出し、机の引き出しなど。


「押し入れ」は家に付随しているものであるのに対して、「引き出し」は主に家具などに付随しているものであるように思います。


なぜ急にこんなことを書いているのかというと…、

思い付きです。


コーチング(coaching)について説明されるとき、よく引き合いに出されるものがティーチング(teaching)です。

ティーチングは「教える」、コーチングは「引き出す」。

力の向きが逆です。

ならば、「引き出す」の逆は、「押し入る」でもいいのではないか?

で、「引き出し」と「押し入れ」(^-^;)


しかし、「押し入る」と「教える」というのは、音が似ていませんか?

ひらがらにすると、「おしいる」と「おしえる」。


というわけで、「押し入れ」と「引き出し」の違いが、ティーチングとコーチングの違いに結び付かないかなと考えてみるわけであります。


さて、「押し入れ」と「引き出し」の違いは何かと考えると、ひとつは冒頭のように、「押し入れ」は主に家や部屋などに付随するものであるのに対して、「引き出し」は主に家具などに付随するものであるということ。

「押し入れ」の方が大きなものが入りそうです。


また別の違いをいうと、「押し入れ」は、今は使わないけれども時が来れば必要になるものを入れていることが多いイメージですが、「引き出し」は、頻繁に使うようなものを入れているイメージがあります。


これらから「教える」「引き出す」に(無理矢理)結び付けてみると、「教える」は、体系的な知識であるとか、共通の知識と相性がよく、「引き出す」は、ちょっとした知識や工夫、その人個人の考え方などと相性がいいように思います。


儒学の四書のひとつである『中庸』の冒頭に以下のような文があります。
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を脩むるをこれ教と謂う。
脇道にそれないようにするのが「教(おしえ)」とするならば、道を選ぶことが「引き出すこと」にあたるかもしれません。

クローゼット(closet)も、閉じる(close)から来ている言葉だと思いますし、外側から囲っていくのが「ティーチング」、内側から築いていく(気付いていく?)のが「コーチング」。


と、まあ言葉遊びみたいになりますが、なかなか面白いと思うのは私だけでしょうか?