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2019/05/01

感想的実践

 不思議な死体? いったいどのような死体なのですか?
「探偵は尋ねた。あまりにも、警部の表情が面白かったからだ」
躰のいろいろな部分が、なかったのです。
「警部は言った。自分の顔が面白いなどとはまったく気づいていない」
このような文章で、森博嗣『実験的経験』は、はじまっている。地の文を括弧の中に入れて、会話文を括弧の外に出すという「独自のルール」である。しかし、このルールでずっと書かれているわけではない。
」あ、もしかして、先生……「
」何?「
」私、わかっちゃいましたよ「
今度は鍵括弧が逆である。そして、それを「こともなげ」に言ってのける。
いや、さきほどまでと同じです。たまたま地の文がないと変に感じるだけです。この場合は、語らない地の文を括弧で括っているだけのことで、空集合という集合みたいなものです。


世の中にはルールがある。明文化されているものもあれば、明文化されていないものもある。ルールという言葉が強すぎるとしたら、パターンと言ってもいい。常識とか習慣、癖などと言ってもいい。意識しているものもあれば、無意識に従っているものもある。

「変だな」「おかしい」「違和感を感じる」と思うところで、なんらかのルールの存在に気づく。「違和感」だけで「感じる」という意味が含まれているのに「違和感を感じる」と書くのはおかしいのではないか。

「おかしい、という言葉には、変だという意味の他に、面白いという意味もありますね」

いきなり、何ですか?

「おかしい、というところには、怪しいところ、そして、面白いところがあります。おかしいを漢字で書くと、可笑しいと書きますね。おかしなところには、どこか、ルールを逸脱しているというか、常識では考えられないというか。そこは、遊び、余裕のあるところです」

車のハンドルの遊びみたいなものですね。

「そうそう。グレーゾーンとも言えます。白でもなく、黒でもない、白黒つかない灰色のところです」

白黒で思い出しましたが、余白とか空白はなんで白なんですかね。意味としてはグレーゾーンに近いと思いますが。

「さあ。無と有の間ですかね。あるいは、有限と微小の間」

間は「かん」と読んだ方がいいですかね?

「パンとは読めないですね」

(空白)

突飛なものは大衆には望まれていません。それなのに、突飛なものを見せたい、というのが創作の基本的衝動です。このギャップを埋めるために歩み寄り、ぎりぎりの妥協の線として提示することも、創作者の使命の一つであって、これは、デザイン、アートを問わず、常に、そして暗黙のうちに掲げられる、ほとんど唯一の共通テーマであると思われます。逆にいえば、この挑戦を避けること、忘れることは、すなわち創作の堕落であり、惰性への隷属であり、芸術から生産への没落、「求められるものを与えるのだ」という偽善としての背信といえるものでしょう。

「この上に書いているところは引用ですよね。もとに戻したのですね」

「そうですね。引用は、引用符をつけたり、段を下げてなされることが多いです」

「引用で思い出しましたが、陰陽は、陰と陽という順番ですね。白黒とは逆ですね」


2017/03/06

実験的経験的体験

「森博嗣さんの小説にね、『実験的経験』って本があるんですよ」

「あ、読んだことあります。あれって小説ですかね?」

「ボクが読んだのは文庫本だけどね、そのオビには『小説を飛び越えた新しい小説のカタチ』とか『超小説』とか書かれているから、小説だね」

「超小説? 小説を超えちゃったら小説ではないのでは?」

「いや。たとえば『超スピード』は、とてつもなく速いという意味だろう。程度の差があるだけで、スピードはスピードだよ」

「超小説も程度の差ということですね」

「『サラダうどん』はうどんの一種で、『うどんサラダ』はサラダの一種だからね。『超小説』も小説の一種だよ」

「なんか、本題から外れていっていませんか?」

そもそも本題から外したのはキミだろうとボクは思ったが口には出さなかった。代わりにちょっとした疑問が湧いた。

「キミの名は?」

「いきなり話が飛びますね。映画の話ですか?」

「いやいや、映画の話をするなら二重括弧で括るよ。『君の名は?』って」

「そんなこと、会話ではわかりませんよ。二重括弧とか、カタカナと漢字の違いとか」

(わかっているじゃないか……。)

(また本筋から逸れていますよ……。)

「……キミは心が読めるのかい?」

「心は読めませんが、文字は読めます」

だったら話が早い。普通に書けばいいということだ。

「まあ、そうですけど……。それだと会話をはじめた意味がなくなってしまうのではないですか?」

また話がズレていく。そもそもキミは「本題から外れる」とか「本筋から逸れる」と言うが、ボクが書こうとしている本題や本筋が何なのかわかっているのか? それならば、会話をはじめた意味もわかるのではないか?

「だから、こうしてつきあっているんじゃないですか」

そうだね。読んでくれてありがとう。

2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

2017/03/02

スイッチ・バック


所用があり、大分県の中津に向かった。新幹線で西へ行き小倉駅で降り、日豊本線に乗り換える。ホームで特急ソニックを待った。

列車が到着し、車内へ入ると、「あれっ?」と思った。

ホームに向かって右方向から列車が来たので、左方向に向かうと思っていた。しかし、座席はすべて右方向を前にしている。思っていたのと前後が逆である。座席の下には、回転させることができるペダルがついており、座席が固定されているわけではなさそうだ。他の乗客は平然としている。博多行きのソニック号に間違えて乗ってしまったかとも思い、出入り口の電光掲示板を確認したが、間違えてはいない。この電車で大丈夫だと自分に言い聞かせ、席に座った。

列車が動き出した。前を向いて座っていた。

「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「少し違うな」と思い直した。こういう進行方向が変わることを何というのだろうか。

スイッチ・バックという言葉を知ったのは、森博嗣さんの『今はもうない』を読んだときである。森さんの小説には大抵英語のタイトルも併記されている。『今はもうない』の英語のタイトルが『SWITCH BACK』であった。

スイッチ・バックとは「困難な登坂を克服するために、一度、水平に後退してから上り直すやり方」である(『今はもうない』より)。小倉駅で進行方向が変わったが、坂道を上るためではないため、スイッチ・バックとは言えないだろう。

そんなことを考えていると中津に着いた。19時ごろである。

中津での用事を終え、そのまま中津で1泊。翌日は岡山で所用があり、中津から小倉へ向かい、小倉駅で新幹線に乗り換えた。前日とは逆を辿ったことになる。

新幹線のホームに着いてから「しまった!」と思った。

降りたソニック号の発車まで見ていれば、乗客が座席を一斉に回転させているところを見ることができたかもしれない。今回は下り列車でなく、上り列車である。上り列車だからといってスイッチ・バックではないが、ブログのネタになるかもしれなかったのに。

そんなことを考えていると岡山に着いた。午前10時過ぎである。

岡山での用事を終え、名古屋へ向かう新幹線の中で、中津で撮影したマンホールの写真をfacebookに投稿した。大分の友人より「大分?」とのコメントが入る。

大分にいたが、今はもういない。中津へ行って1泊してすぐに帰った。観光はしていない。

また「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「これは違う」と思い直した。

行ってすぐに帰ることは知っている。「トンボ返り」である。

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