人の世は住みにくい。住みにくいと悟ったときに「詩が生れて、画が出来る」。
少し唐突な感じでしたので、少し補足が入ります。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。人の世は住みにくい。住みにくさが高じると引っ越したくなる。しかしどこに引っ越したとしても、人がいるところは人の世であるからやはり住みにくい。住みにくいところを少しでも住みやすくするために、詩人や画家が生まれる。だからこそ詩や画がある。といいます。ここでは「詩」と「画」を挙げていますが、芸術全般のことです。芸術家の方々は、人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする。芸術の存在意義のようなことを述べています。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
のちのち触れると思うので、「人でなしの国」についても少し触れておきたいと思います。引用では「人でなし」に傍点が振ってありますが、ここでは太字としています。太字にしてある「人の世」も原文では傍点です。
普通「人でなし」というと「人情がない人」というような意味に使われます。「人でなし」と言っておきながら、「人」に対して言います。人ではないものに「人でなし」とはあまり言わないですね。しかし漱石は「人でなしの国」というのを「人ではないものの国」という意味にも使っています。具体例を挙げれば、引用部分冒頭にある「神」や「鬼」も「人でなし」です。人の世を作ったのは唯の人で、その唯の人が作った人の世が住みにくいからといって、「人でなしの国」は猶住みにくいだろう。「神」の国はどうだかわかりませんが、「鬼」の国は住みにくいでしょう。通常の「人でなし」の国も住みにくいでしょう。「人でなしの国」には、通常の「人でなしの国」と「人ではないものの国」という二重の意味が込められています。
前回の「兎角に」という当て字についての話も、このような漱石の言葉遣いから推測したものです。漱石は言葉遊びのようなものを多用する傾向があります。漱石は小説を書くごとにより深くなっていくと言われていますが、初期のころは「ユーモア」や「諧謔」といった要素が強く出ていました。最初の小説である『吾輩は猫である』が滑稽味のある小説であることはご存知かと思います。『草枕』も初期の小説で、言葉遊びの要素が散見されます。
さて、芸術の存在意義を述べたあと、語り手はさらに考えを進めていきます。次に入ると長くなりそうですので、引用とちょっとした言い訳を述べた上で次回に回したいと思います。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。言い訳というのは、※印をつけた「キュウ鏘」「尺ケン」について、「キュウ」「ケン」は本来漢字で書かれています。ただこの漢字が(私の)パソコンでは打てない漢字だったため、カタカナにしています。『草枕』には難しい漢字・漢語が使われているので今後もこのようなことがあると思いますがご了承ください。ちなみに「キュウ鏘」というのは「美しい玉の触れ合って発する妙なる音。詩歌の美しい調べのたとえ」、「尺ケン」というのは「一尺四寸ほどのわずかな絹の画布」です。漢字は、実際の書籍でご確認ください。
≪…美しい玉の触れ合って発する妙なる音。≫を、句碑の記事から拾ってきます。
返信削除句碑の本句取りから、
銭(数)の川を 隔てて 膠鏘音
(がま口の 閉じ開けごとに 膠鏘(きゅうそう)音)
月日をそろばん(4、1)のパチパチ(8,8)から漱石忌(12,9)へ
8,8と隔て弾き漱石忌
8月8日は、そろばんの日でがま口の日・・・