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以下の動画を参考に作ったものです。
つまりは“G”です。
新聞広告ではなく、A4コピー用紙で代用。
最後の方は紙が分厚くなって折りづらかったです。
次回作る場合は、薄手の黒い折り紙で作りたいと思います。
(おそらく、作りません。)
生産性を上げる方法の本を読むより、『レモン汁かける時、従来図の左のようにして絞っていた人は図の右のように皮を下に向けてレモン汁を絞った方が皮を伝ってレモンの風味が倍増する』というこのツイートが与える知識の方が今後の生活にとっての有益性は高いと思います pic.twitter.com/QlamWc7h3C
— 蒼式(あおしき) (@Type_AO) 2016年11月29日
「し」は「する」の変化形で「仕」は当て字、「くさ」は種類のことを意味するために「仕種」と書くようです。「し」は「する」の変化形で「仕」は当て字であることは想像がついていたが、「くさ」は種類のことを意味するというのは初耳であった。「種」を「くさ」と読むことは稀であると思うが、なくはない。たとえば、名古屋には「千種(ちくさ)」というところがある。
くさ 【種▽】
一 [2] ( 名 )
①(「草」とも書く)何かを生ずる原因・材料。たね。多く「ぐさ」と濁り,複合語として用いる。 「質-」 「語り-」 「お笑い-」
②種類。たぐい。 「唐土・高麗と尽したる舞ども-多かり/源氏 紅葉賀」
二 ( 接尾 )
助数詞。物の種類を数えるのに用いる。 「三-ある中に,梅花ははなやかに今めかしう/源氏 梅枝」
「くせ」はその発音からも想像できるように「臭い」からきているというのだ。
いわゆるクサミのあるクサからきており、母音交替でクサがクセ となった。
「におい」に二つの漢字が存在しているのは皆さんもご存じであろう。
「匂い」と「臭い」である。
その二つの違いについては、人が好感を持てるものが「匂い」、逆に嫌悪感を抱くものが「臭い」である。
「くせ」についてはもちろん「くさい」というくらいだから後者の嫌悪感のほうで間違いない。
つまり他者からみて好ましくない点が「くせ」ということになる。
この大会は、速さを競うだけではなく、時には立ち止まり、小布施を見て、楽しみながら走る見に(ミニ)マラソンです。 「土手を行く 野道を駆ける 路地を走る」というコンセプトでコースをめぐりながら、小布施の町の人とランナーのみなさん、 ボランティアのご縁をつなぐ「縁走=えんそう」を楽しみましょう。
年間に町人口の100倍、120万人をお迎えする小布施町のONの道、おもての道ではなく、土手や野道、路地といった、OFFの道、 ふだん着の小布施に浸りながら走る21.0975キロです。
鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。その後、その車いすの男性が事前に連絡をしていなかった、などと、いわゆる「炎上」した。今は下火になっている。
階段の搭乗タラップの写真を見せられ、歩けますか?と聞かれ、歩けませんと返答したら「乗れません」の一言。バニラ・エア側からこの状況を書いたものは見ていないので一概にはいえないかもしれないが、断る前、禁止する前に、バニラ・エア側から手を差し伸べるような一言、たとえば「どのような手助けが必要ですか」というような言葉がけがあれば、良かったのではないかと思う。
ハムレット (中略)――墓掘りになって何年になる?しばらく後、墓掘りは、30年墓掘りをやってきたことを言う。
墓掘り ほかでもねえ、この稼業を始めたのは先代の王ハムレット様がフォーティンブラス王をやっつけなすったその日からで。
ハムレット とすると何年になる?
墓掘り ご存じねえんで? どんな馬鹿でも知ってまさあ。王子のハムレット様がお生まれになった日だ――ほれ、気が狂ってイギリスに送られなすった。
墓掘り (中略)あっしはここでガキの時分から三十年墓掘りやってんだ。おそらくは「約30年」ということだろうが、このやり取りから、ハムレットは30歳前後であると思われる。ハムレットが生まれた日は、先王ハムレットがノルウェイ王フォーティンブラスを破った日であり、そこから30年墓掘りをやってきたからである。
ホレイショー 何ものだ、こんな真夜中我がもの顔で、亡霊が消えた後、マーセラスに「国王そっくりだろう?」と問われ、ホレイショーは答える。
しかも、その見事な甲冑は
亡き国王が出陣のときお召しになったものではないか?
天に賭けて命じる、答えろ。
ホレイショー 生き写しだ。ホレイショーが先王ハムレットとノルウェイ王フォーティンブラスの闘いを見ていたとすれば、その闘いの日にハムレットが生まれているので、ホレイショーはハムレットよりも年上ということになる。しかも戦場で見たということであれば、ホレイショーの幼少期ということはないであろう。仮にホレイショーが15歳のときに闘いを見たとすると、ホレイショーはハムレットより15歳年上、つまり45歳前後ということになる。20歳のときに見たとすれば、50歳前後。ハムレットと同年代とするには、年が離れている。
あの甲冑は
野望に駆られたノルウェイ王と闘われたときのもの。
あの険しい顔つきは、怒号飛び交う談判で
橇に乗ったポーランド兵を打ちのめされたときそのままだ。
不思議だ。
ハムレット (中略)父上は――父上の姿が見えるようだ――文字通りに読むと、ホレイショーは「一度」国王を見たことがある。もしそれが、フォーティンブラスとの闘いのときであれば、30年前に一度見ただけである。
ホレイショー 殿下、どこに?
ハムレット 心の目にだ、ホレイショー。
ホレイショー 一度お目にかかったことがあります。立派な国王でした。
ホレイショー (中略)殿下、あれは一体?ホレイショーはまるで、この国(デンマーク)のしきたりを知らないような口ぶりである。
ハムレット 国王が徹夜で祝宴を張り
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。
王が葡萄酒を飲み干すごとに
ああやって太鼓やラッパではやし立て、
見事な飲みっぷりを讃えるわけだ。
ホレイショー そういうしきたりですか?
ハムレット ああ、そうだ。
だが、この国に生まれ
ここの習慣が染み込んでいる俺でさえ、あんなしきたりは
守るより破るほうが名誉だと思う。
ハムレット (中略)それにしても、ホレイショー、なんでウィッテンバーグからここへ?ハムレットは、ホレイショーがデンマークにいることを知らなかったようだ。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,音と意味とイメージがどのようにつながっているかということは『深読みシェイクスピア』を読んでいただくこととして、私はこの部分を読んで、ソクラテスの「洞窟の比喩」を思い出した。
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生はたかが歩く影、哀れな訳者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない。
――松岡和子訳『マクベス』
もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。マクベスは夫人と共謀し、国王ダンカンを暗殺し王位を得る。そしてその地位を守るため罪を重ねていく。冒頭の「トゥモロウ・スピーチ」は、夫人が亡くなったという知らせを受けた直後の独白である。そしてその後、バーナムの森が動き戦いがはじまり、その戦いでマクベスは殺される。
ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である。有名な「フェルマーの最終定理」についての記述である。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。
【なぜ読書をしなければいけないのか?】という記事を読んだので読書家の母に聞いてみた話 pic.twitter.com/xzTxIdfs5y
— 言 寺 (@310_64) 2017年4月19日
「何故読書をしなければいけないのか…それは本を読んだ人にしかわからない」
「人類の多くが『本を読め』と言うのか、その答えが知りたいなら本を読みなさい」非常にわかりやすくまとめてあり、私も納得している。
メタファーには2つの種類がある。1つは、馴染みのある喩えを用いて、馴染みのないことを説明するというメタファーである。未知のことを、既知のことで説明することによって、その本質を瞬時に理解させる。理解を促すためのメタファーなのである。このメタファーの能力こそ、私が伸ばしたい能力であり、使っていきたい能力である。
もう1つのメタファーは、逆に、馴染みのない喩えで、馴染みのあることを説明するというメタファーである。既知のことでも、そぐわない喩えによって説明されることで、頭が刺激されて新しいアイデアが生まれる。一見すると違うものだと思っていた2つを結びつけることによって、いろいろなアイデアを次から次へと生み出すことができる。発見や学習を促すためのメタファーである。これを「認知的メタファー」という。
子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。このブログでも過去に触れたことがあり(学而第一・1「子曰、学而時習之。~」)、結論としては変わらないが、以前は書いていなかったことがあったので補足しておきたい。
朋遠方自り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍らず。亦君子ならずや。
【学】
乂印は交差するさまを示す。先生が知恵を授け、弟子がそれを受けとって習うところに、伝授の交流が行われる。宀印は屋根のある家を示す。學は「両方の手+宀(やね)+子+音符爻」で、もと伝授の行われる場所、つまり学校のこと。
【習】「学びて時に之を習う」は、先生(師匠)から学び、繰り返し復習するという意味がはっきり感じられる。
「羽+白」で、羽を重ねること、または鳥が何度も羽を動かす動作を繰り返すことを示す。この白は、自の変形で、「しろ」ではなく、替の下部と同じく動詞の記号である。
世間の人たちはみな、先生をたいへん議論好きだと申しています。失礼ですが、なぜなのでしょう。現在読んでいるのは岩波文庫版で、訳もこれに依る。
自分とて、なにも議論が好きなのではないが、このご時勢では黙ってばかりもおられず、やむをえず議論しているまでだ。ここで終わっても、会話としては通用する。
いったい、この世に人間があってから、随分久しい年月がたっているが、その間、治まったり乱れたり、くり返してばかりいるのだ。そして、まずは堯のことを述べ、禹のことを述べ、紂のことを述べ、文王・武王のことを述べ……と世の中が治まったり、乱れたりした事例を挙げていく。周の時代になり、周が衰え、先王の道もだんだん行われなくなる。そして、また楊朱や墨翟の説がまかり通っているから自分は努力しているのである、と。
線路を走っているトロッコが制御不能に。このままでは、線路上で作業中の5人がトロッコに轢き殺されてしまう。
そしてあなたは、線路の分岐器の近くにいる。トロッコの進路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員が。
5人を助けるために、1人を犠牲にしていいのか? それとも運命としてそのまま見過ごすべきなのか。
次に3と4の問題です。3と4はどちらも撥音で終わりますが、助数詞の読みはしばしば異なります。「3本」、「4本」のほか「3匹」、「4匹」などがそうです。助数詞以外でも「300」と「400」は/byaku/と/hyaku/になります。これは「さん」が漢語でもともと「さん」であったのに対し、「よん」が和語でもとは「よ」であったため撥音がなかったことに起因すると考えられます。もともとは「よほん」だったが、「よ」が「よん」に変わっても「ほん」はそのままだったという。可能性はある。
つまり、古くはコオロギのことをキリギリスと呼び、キリギリスのことをハタオリと呼んでいたというのだ。記事ではこのあと、ハタオリの鳴き声から、ハタオリがキリギリスという名に変わったのではないかと推理し、以下のように結んでいる。
現在のコオロギのことを指していたキリギリスという言葉がハタオリの呼び名に移行したとすると、コオロギのことを指す言葉がなくなってしまうことになる。そこで奈良時代には鳴く虫の総称を意味した「コオロギ」という言葉がコオロギを指す代わりの言葉になり、呼び名が「キリギリス→コオロギ」と変化したという推理が成り立ちそうだ。
さらにもう一つ私がもう少し詳細に説明すべきだったことは言葉である。私たちは言葉がそれ自身アイデアであるということを忘れがちである。言葉は人事不省に陥っているアイデアだといってもいいと思う。言葉をマスターするとアイデアはよく息を吹きかえしてくるものである。言葉に興味を持っている私としては、とても勇気づけられた。
単語は思考の出発する点であり、思考の手がかり、素材であるとともに、思考の面的、立体的広がりを要約したり象徴したりするタイトルやキーワードというありかたにおいては、思考の終点でもある。
「上司の状況判断に必要な、部下からの自発的な情報伝達」を習慣的に行わせるためのしつけとして捉えられているが、そもそも、提唱者の山崎の著書では、管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、生え抜きでない社員や末端社員であっても容易に報告・連絡・相談が行える風通しの良い職場環境をつくるための手段して報連相を勧めているのであって、部下の努力目標ではない。
むかし宋の国のある百姓が、苗の成長がおくれているのを心配して、なんとか早めたいものと一本一本引っぱってやった。グッタリ疲れきって家にかえるなり、『ああ、今日は疲れたわい。苗をみんな引きのばしてやったものだから』と家のものに話したので、息子が〔変に思って〕いそいで田圃へかけつけて見たら、苗はすっかり枯れていたとのことだ。世間にはこうした馬鹿げたことをするものが少なくない。
浩然の気を養うなどとは無益なことだとして〔告子のように〕見向きもしないのは、田圃の草取りをしないようなものだし、また浩然の気を養うことは大切だと知っていても〔北宮黝や孟施舎のように〕早く早くとあせって助長しようとするのは、苗を引っぱるようなものだ。こういうことは無益なばかりか、かえって害になるばかりだ。
工場が本格稼働したのは2008年はじめ。「光、温度、湿度、空調、溶液など栽培環境の各要素をどう組み合わせるかというノウハウが重要。ハードだけそろえても、うまくいかない」。スプレッドの稲田信二社長に黒字化できたわけを聞くと、真っ先にそう答えた。
物に本末あり。事に終始あり。先後する所を知れば則ち道に近し。木に本末があるように、物に本末がある。
本記事におけるシンギュラリティとは、コンピュータ・テクノロジーが指数関数的に進化を遂げ続けた結果、2045年頃にその未来を人間が予測できなくなるとする仮説のことである。
人工知能が自らを規定しているプログラムを自身で改良するようになると、永続的に指数関数的な進化を遂げる。この結果、ある時点で人間の知能を超えて、それ以降の発明などはすべて人間ではなく人工知能が担うようになる。つまり、人工知能が人間の最後の発明になるという、仮説である。
【問題】
①答えさせるために出す、題。
②解決すべきことがら。
③議論の材料(となることがら)。
④世間の注目を集めていることがら。
⑤事情。ことがら。
⑥めんどうな事件。もめごと。
【課題】
①やるようにと相手にあたえる問題。
②解決すべき問題。
③〔スケートで〕コンパルソリー。
「つまりね、《○○が可能である》と式で表現するために、∃を使って《○○を満たす数が存在する》と言い換えているんだね」
「何かが《可能》だというのを、数の《存在》に置き換えて表す……」
本書(引用注:遠藤雅義『英会話イメージトレース体得法』)では、日本語は「ドライバーズビュー」であり、英語は「バードビュー」であると主張されており、イラストで分かりやすく提示されているのですが、この説明(およびイラスト)を目にしたとき、「うわ、そういうことか!」と激しく腑に落ちました。もうひとつのブログ記事は、STUDY HACKER「英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」」である。
結論から言うと、日本語は「自分をカメラにして世界を眺める」言語です。(中略)
一方、まるで幽体離脱のように「自分を外から眺めながら話す」言語、それが英語なのです。
実は文法というのは人間の感覚が世界を感じた結果が言葉の中に反映される「現象」なのです。
文法は人間の「感覚」そのものでできているのです。文法というのはルールではなく、一種の心理学のようなものだと考えましょう。
つまり、この世界で自分の周りに起きることを、「感覚がどのように捉えているのか」。文法が表しているのはそれです。
『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬
『(ら)れる』のコーチング論(2)
わもんな言葉69-人が走り出す「言語の中の『離我』を捉えようという試み」という言葉があった。
文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安――この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。