2011/12/29

2011年プライベートな3大ニュース

今年(2011年)もあと数日となりました。

昨年の今頃、「2010年プライベートな5大ニュース」と題して記事を書いたので、今年も同じように振り返ってみたいと思います。


プライベートでない出来事としては、今年一番の出来事はやはり3月11日の地震です。当日は仕事の休憩中。食事をしながら携帯でツイッターを眺めていると、何か揺れている。寝不足だったので、「体調がヤバいかも」と思っていたら、ツイッターのタイムラインが地震のツイート一色となりました。

東北で大きな地震が起こったことを知りました。

さらにその地震の揺れが大阪まで。ということは、相当の揺れ。職場に急いで戻りました。


職場はコールセンターです。お客様は全国にいます。
オペレーターの話では、話し中にお客様が揺れを感じ、「また後でかける」と電話を切ったお客様もいらっしゃったとのこと。
東京にもセンターがあり、東京のセンターは閉鎖。

約9か月前のことですが、物覚えが悪い自分でも、さすがにまだ覚えています。


話は変わって、自分自身のことについていうと、昨年は「5大ニュース」とタイトルにつけながら、今年は5つも思いつかない…。
ですが、今年はこれからも続けていくであろうことを始めた年でした。

  1. ランニングを開始
  2. 今年1月から、そろそろ身体がなまってきていると感じていたのでランニングをし始めました。スポーツジムに通ってランニングマシン上で走っています。外で走るのもいいのですが、距離感がなく、走る速さもどのくらいかわからないので、ランニングマシンで走ることは自分にとってとてもわかりやすく、また会費を払っているので「もったいないな」という気持ちも働き続けることができています。途中途中にマラソン大会に参加することも動機づけのひとつとなっていて、今年11月にはハーフマラソンを完走することができました。 来年は3月に既にフルマラソンのエントリーをしているため、まずはフルマラソン完走、そしてフルマラソンでの4時間切りを目指していきたいと思います。
  3. 「笑顔のコーチング」に参加
  4. 2月には、NPO法人ハロードリーム主催の「笑顔のコーチング」に参加。そして「笑顔のコーチングファシリテーター養成講座」も合わせて受講しました。そこでの学びや、他ファシリテーターの方々との出会いは、これからも大切にしていきたいと思っています。来年の目標は、「笑顔のコーチング」を実施することですね。
  5. 「心徒塾」に参加
  6. ツイッターから、やぶちゃんこと藪原秀樹さんのことを知り、「わもん」を知り、「心徒塾」に参加したのが今年9月。そこから何度か「心徒塾」に参加しています。 「わもん」とは「聞く修行」。 仕事柄、「聞く」ことには人一倍関心があります。しかし「わもん」は奥が深い。まだインストール中の段階です。 また、ここでも聞くことを究めたい方々と出会うことができました。

おそらく今年始めた3つのことは、来年も再来年もその後も続けていくことだと思っています。

自分自身の中では、今年は始まりの年です。


さて、来年はどんな年になるでしょうか?
楽しみです。
去年も同じことばで締めくくっています(^-^;)

2011/12/15

リスク管理

本日(12/14)、購読しているRSSを眺めていると、リスク管理に関する2つの記事がありました。ひとつは Coach's VIEW の「リスク管理と危機管理」という記事、もうひとつは、行動科学マネジメント研究所所長ブログの「リスク・マネジメントを徹底していますか?」という記事。

「リスク管理」と「危機管理」は異なる。

「Risk Prevention(危険の未然防御措置)」と「Risk Management」は異なる。

なるほど、と思ったと同時に、以前に勉強したことがあった情報セキュリティのことを思い出しました。


コールセンターでは、多くの情報を取り扱います。お客様の個人情報や、まだ公には発表されていない商品サービスの情報など。そのため、センターに情報セキュリティの担当を置いているのですが、その担当になったことがあるため情報セキュリティについての本などを何冊か読んだことがあります。

その中に、「リスク管理」のことも載っていました。セキュリティリスクをどのように取り扱うのか。

そこには、リスクへの対応として、確か4つのことが挙げられていました。

  • 管理策の採用
  • リスクの移転
  • リスクの回避
  • リスクの保有

ひとつ目の「管理策の採用」というのは、リスクを認識し、そのリスクに対して何らかの対策をするというもの。「リスクの移転」は、例えば保険に入るなど、リスクが顕在化し損害を被ったとしてもそれを他から補てんすることができるようにすること。「リスクの回避」は、例えば、個人情報の漏えいをなくすために個人情報自体を持たないようにすること。4つ目の「リスクの保有」は、認識しつつも何も対策をせずそのままそのリスクを保有すること。

リスクを評価し、その評価に応じて対策を立てろ、ということです。

リスクが顕在化したとき、どこが一番被害が大きいか。その基準や尺度は様々であると思いますが、重大なところから対策をしていくことが基本となります。


冒頭のひとつ目の Coach's VIEW の「リスク管理と危機管理」では、「リスク管理」をリスクが顕在化する前の話、「危機管理」をリスクが顕在化した後の話とした上で、リスク管理能力を高めるにはまずはリスクを共有化・言語化することを挙げています。行動科学マネジメント研究所所長ブログの「リスク・マネジメントを徹底していますか?」では、リスクを顕在化させないための管理策の深さを述べています。

どちらも、小さなことであっても「もし~が起こったら」を想定しておくことが大切であることが述べられています。

「想定外」というのは、認識が甘いことを言っているのかもしれません。

かといって、私にも「想定外」はたくさんあります。

「想定外」を減らすこと、これが「リスク管理」といえるのかもしれません。

2011/12/14

OK Go - This Too Shall Pass

ちょっとまとめておきたかったので作成。

You Tubeでおなじみの、OK Goのピタゴラスイッチ。
その関連動画やサイト。







自分も、小さなものでもいいので、いつか作ってみたい。

2011/12/11

広瀬一郎『10年後、仕事で差がつく戦略思考』

先日、社内でプレゼンテーションをする機会がありました。プレゼンのテーマは「自分自身の業務をPDCAサイクルを用いて説明する」というもの。

プレゼンの経験はほとんどないため、前日までは気が気でなりませんでした。

内容も中途半端ですし…。

内容はともかく、当日は臆せずプレゼンをすることができました。そこは、満足とまではいきませんが納得しています。

プレゼン前日に遅くまで練習に付き合っていただいた方もいます。本当にありがとうございます。


しかし、やはり内容には課題がたくさんありました。

「PDCA」というのは、「Plan-Do-Check-Action」の頭文字で、これをグルグルと回していくのがPDCAサイクルです。プレゼンのフィードバックとして、計画(P)をもっと明確にすべきとの言葉をいただきました。

計画(P)が曖昧であると、当然、実行(Do)も曖昧に。そして評価(Check)も曖昧になってしまいます。当然ながら改善(Action)もできない。

理解はしているのですが、使うことはできていません。


計画(P)の中には、目的・目標があります。私のプレゼン内容の場合、目標が曖昧でした。ここをもっと具体化しないと…。


話はちょっと変わって、本日、1冊の本を買いました。

広瀬一郎さんの『10年後、仕事で差がつく戦略思考』という本です。


たまたま本屋で見かけ、面白そうだな、と思って購入。今日一日で一通り読みました。

読み始めると、まるで今の自分に言われているかのような感じになりました。


PDCAサイクルという言葉は、この本の終わりの方に1回出ただけだと思うのですが、これは「PDCAサイクルをきちんと回せ」という本です。しかも今、自分が最も考えていた部分、最も浅はかな考えだった部分が、様々な事例を織り交ぜながら書かれていました。

自分が使っていた言葉の数々が、ものすごく浅はかに思えてきました。

先日のプレゼンでも、私は「SVはより戦略的に動かなければならない」とも発表していましたが、ものすごく上滑りした言葉に思えてきました(-_-;)。

  • 「戦略」と「責任論」はセット
  • 「戦略」は「決断」
  • 「決断」の「断」は「断つ」ということ

戦略的に動くということは、決断して動くということ。もちろん責任を伴って。

SVとしての責任。深く考えたことがありませんでした。

私以外にもSVはいるし、私はSVのうちの一人です、が、私の責任の範囲はどこか…。


先日のプレゼン後の質問のひとつに、「あなたの影響範囲はどこまで? どこまで責任を持っているの?」という質問がありました。

甘い部分を突かれています。


この本での言葉を借りると、「当事者意識」が薄い。そんな気がしてきました。


自分の責任範囲。きちんと押さえておかなければなりません。

2011/12/10

政治経済に強くなろう、という試み

しばらくブログを書いていませんでした。

どこかの記事で、「私は政治経済の話について弱い」ということを書きました。今でも弱いと思っています。

その理由のひとつは、新聞も読まないし、テレビも見ないからだと思います。

特に政治経済のニュースについては、ある程度の予備知識やそれがニュースとなる流れがあります。私は、その予備知識も少なければ、流れも知らないので、余計にニュースを見なくなったりします。

そこで、WEBで見たニュースの中から適当にピックアップして自分に解説してみる、ということを思い出したようにやることがあります。

本日は、以下のニュース。選んだ理由は、自分にとって難しそうだからです…。

NHKニュース「税制改正大綱 閣議決定へ」
税制改正大綱 閣議決定へ
12月9日 23時24分
来年度の税制改正で焦点になっていた自動車関連の税の扱いについて、政府・民主党は、車検の際にかかる「自動車重量税」の減税額を1500億円に増やすことで合意し、政府は来年度の税制改正大綱を10日未明に閣議決定することにしています。
車を購入するときにかかる「自動車取得税」と、車検の際の「自動車重量税」の取り扱いを巡って、廃止や見直しを求めていた民主党は、政府側が提示した自動車重量税の減税措置に難色を示し、調整は夜にもつれこんでいました。このため、断続的な協議の結果、政府側が民主党に譲歩し、「自動車重量税の」減税額を上積みすることを提案し、党側は9日夜、税制調査会の総会におよそ20人の議員が出席して対応を協議し、政府側の提案を了承しました。それによりますと、「自動車重量税」の減税額について当初、税収7000億円のうちおよそ1000億円分としていたのを500億円上積みし、1500億円とします。また、これに合わせて、財源確保のため、来年期限が切れるエコカー減税は期間を3年間延長するものの対象車を絞ることとし、業界活性化のため、今年度の第4次補正予算案で、新たに3000億円のエコカー補助金を盛り込むとしています。これで来年度の税制改正大綱が固まり、政府は、10日未明に臨時閣議を開いて決定することにしています。

来年度の税制改正のなかでの「自動車重量税」の減税を巡って、政府と民主党の意見が違っていた。そこで政府は減税額を大きすることで民主党と合意した。という記事です。

まずは、政府と民主党がどのような意見だったのか? それすら私は知りませんので、さかのぼる必要がありそうです。

同じNHKニュースから、最近の2つの記事を見つけました。
NHKニュース「“自動車税” 結論出ず調整へ」
NHKニュース「税制改正 自動車税など調整難航」

この2つの記事をみると、

民主党は

  • 「自動車取得税」と「自動車重量税」について、廃止か抜本的な見直しを求めている。
  • その理由は、自動車業界の活性化などのため。

一方、政府は、

  • 「自動車取得税」と「自動車重量税」を廃止すると、約9000億円の税収減となる。
  • その税収減分の財源確保が難しいため、「自動車取得税」と「自動車重量税」を廃止に反対。


ということで意見が分かれていたようです。

そこで政府は、「自動車重量税」の減税を提案。その提案額が約1,000億円でしたが、それでは民主党がYesと言わず、本日(12/9)に減税額を約1,500億円として提示して民主党と合意、という流れ。

まぁ、流れはわかりましたが、まだまだ深読みする必要はありそうです。

例えば、民主党側の意見として、自動車業界の活性化のために、という理由がありますが、自動車業界を活性化することにどんな意味があるのか?

当然のことながら自動車産業は自動車の輸出国である日本にとって大切な産業ではあります。が、自動車産業を活性化することでどういう状態を目指しているのか? ということが私にはわかりません。

また、政府側の財源確保の問題。これも、日本は火の車の状態(言い過ぎ?)なので大きな問題。収入が減ることは大きな痛手です。

現段階では、税制改正の大綱を決めるための妥協案というのが私の感想で、日本の産業のシステム的な改革が必要な気がしますが、それを論理的に説得力を持って説明することができません。こういうことを上手く説明できる力がほしいです。

2011/11/20

自分らしさ

いろいろなものに囚われている。

この記事を書くにあたって、最初は今まで通り「ですます」調で書いていたのけれど、何だか落ち着かなくなり思ったように書いてみる。「ですます」調で書こうとしたのも、今までそうだったから。

「今までそうだったから」「こんなこと書くと気分を害する人も中にはいるかも」「こんなことしていいのかな」「前にやったけど失敗したし」…。

いろいろなことに囚われている。

僕がすごいと思う人は、自由闊達に生きている人。もちろんその人もいろいろと考えて行動しているのかもしれないが、そうは見えない人。

そんな人がすごいと思う。

僕はなかなか自分に自信が持てない。自信がないわけではないのだけれど、「たぶんできる」とか「おそらく大丈夫」とか。

絶対的な自信はない。

だから、自信が持てるようなものを探している。

いつも何かを探している。

何かを究めてみたいと思うが、いろいろなものに手を出してどれも中途半端になってしまうことが多い。

自分のことを普通の人とは思ったことはない。むしろ普通の人とは違っているような気がする。かといって何か並外れたものを持っているということはないような気がする。

自分の気持ちは、内へ内へと沈んでいく。かといって沈みきることはなく、どこかで割り切っている。そしてこんな風にして外に出そうとする。

外に出したいとも思う。

けれど外に出し切ることはない。

「自分らしさ」と「自分勝手」は違う。「自分らしさ」とは何だろうか?

こんなことを書いている自分が自分らしいとも思っている。


これを読んでいる人は、どんな気持ちで読んでいるのだろうか? 読んで、喜んだり楽しくなったりする人はいないと思う。それならば書かなければいいとも思うが、そんなに読む人はほとんどいないからいいだろうという気にもなる。

何だろう。落ち着かない。ざわざわしている。けれどそれが普通になっている。特に何もしていないときは心がざわついている。こうやって考えている時は。

何かをしているときは、このようなことはない。何か行動をしているときは、落ち着いている。考えているときにざわつき始める。

まとまらない考え。こんなときざわつく。

ことばは入れ物。たぶんざわつきを押し込めようとこうやってことばを書いているのだろう。しかし、ざわつきはことばに押し込められてもなおざわついている。この文章を読んでいる人はたぶんこのざわつきを感じるのだろう。

だから、この記事を喜んだりする人はいないと思っている。

だったら、楽しかったこと、うれしかったことを書けばいいのだが、それはそれで今の自分を偽っているような気がしてならず、どうにもやりきれない。

いろいろと複雑に絡み合っていて、もつれた糸をほぐそうとしてさらに絡まってしまったような気がしてならない。だったら考えるのを止めればいいのではないか? そういわれてもなかなかやめられない。むずかしい。

しばらく思うままに言葉を出していこうと思う。

と書いた矢先に、言葉を考えてしまう。


「自動筆記」という文学のジャンルがあったと思うが、PC上でそれをやるには僕には難しいようだ。ローマ字変換の際に手が止まってしまう。

思考のスピードに言葉はついていけない。最近スパコンのニュースをネット上で見かけたが、人間の思考のスピードとコンピュータの処理速度は次元が違うように思う。証拠はないが。

コンピュータの速さは、並列処理が可能だとしても、それは直線がいくつも並行しているもの。思考の速度はそれとは違って、ネットワーク状。


昔、といってもそれほど昔ではないが、複雑系という概念が流行ったときがあった。いまもあるのだろうが、そんなに頻繁には聞かない。

僕は複雑系の考え方が好きだ。深くは知らないけれど、単純なルールから生まれる複雑さ。


自分に自信が持てたというときは、この単純なルールがわかったときだと思う。

2011/11/14

鏡になる

昨日、今日の心徒塾でのキーワードのひとつ「鏡になる」。

コーチングではよく「鏡になる」という表現が出てきます。

わもんでは「完全沈黙」ということばで表現します。


私たちは、誰かが話をしているのを聞くとき、自分自身の考えや思いも一緒に考えています。

「そこは賛成だ/反対だ」「私もそう思う」「それは違うんじゃないの」「こうすればいいのに」などなど。

頭の中ではいろいろなことを考えながら聞いています。


何かの本で、話すスピードと聞くスピードは違うということを読んだ記憶があります。

話すスピードはいくら早口でもたかがしれています。聞き取れないスピードで話す方は(おそらく)いません。

しかし、聞くスピードは、「速聴」などの手法もあるように、かなりのスピードで聞くことができます。

話すスピードと聞くスピードの違い、このギャップがあるため、いろいろなことを考えながら聞くことができるのです。


「完全沈黙」とは、自分の内から湧き上がる考えをわきに置いて聞くことです。

「完全沈黙」は水面に例えることができます。

自分の考えが出てきたときは、水面に波風が起こります。湖面が揺れます。

「完全沈黙」では、凪のようにピタッと止めるのです。


波風の立っていない水面は、話し手の姿を映しだします。鏡の状態です。

話し手は、そこに映る自分の姿を見ながら話すことで、客観的な視点を手に入れることができます。


朝起きて出かける前、鏡を見てから出かけることが多いでしょう。

寝癖はついていないか、化粧ののりはいいか、これから出かけるときにふさわしい格好か、など。

その鏡が凸凹だったらどうでしょう。

おそらくそれはもはや鏡ではありません。


波風の立った水面も、凸凹の鏡のようなもの。光は乱反射し、水面に自分の姿が映ることはありません。


「相手が本音を話してくれない」「言いたいことがあったら言ってくれればいいのに」

ひょっとすると、鏡が凸凹なので見ようとしていないのかもしれません。

わもんでいう「聞き手未熟」の状態です。


しかし、完全沈黙は、ムズカしい…。

ムズカしいからこそ、挑戦のし甲斐もあります。

2011/11/12

腑に落ちる

納得した気持ちを表わすことばに「腑に落ちる」というものがあります。逆に納得できないことは「腑に落ちない」。

この「腑」というのは「五臓六腑」の「腑」です。

さて、「腑」とは何だろう?

手元の国語辞典を引くと、「こころ」とのみ書いてありました。

では、「五臓六腑」とは?

「五臓」は、「肝臓・心臓・脾臓(ひぞう)・肺臓・腎臓」の5つ。

「六腑」は、「胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦」の6つ。

この中で、よくわからないものが「三焦(さんしょう)」です。


とりあえず、Wikipedia「三焦」の項をみると、
三焦(さんしょう)とは、伝統中国医学における六腑の一つ。大腸・胃・小腸・胆・膀胱は実体が理解できる腑であるが、三焦は、働きだけがあってカタチがないと記されているが実体はリンパ管である。
鳩尾(みぞおち)より上の胸部にある上焦(じょうしょう)、その下に続くへそあたりまでにある中焦(ちゅうしょう)、へそから下の下腹部にある下焦(かしょう)からなる。焦とは、躯幹の胸椎第一から仙骨第五までを二十一に輪切りにして個々を焦という単位を用い一焦から二十一焦までを数えた。躯幹を三等分し、上焦は呼吸や循環に関わる機能、中焦は食物の消化吸収作用、下焦は排泄に係わる。上、中、下焦は人の生理機能を部位別に分けるための表現であり、それら部位別の機能の説明は各種存在する。あわせて三焦という概念のものではない。古典の文献には上、中、下焦あわせてという説明はない。後世の医人の単純な思い違いが伝わったにすぎない。三焦の腑を理解するためにはこれをふまえて入る。 なお、古くは「焦」の代わりに「にくづき」のついた「膲」が用いられることもあり、この字が肌肉(きにく)の紋理(きめ、あや)を表す 三焦の原は免疫抗体作用と食作用を言ったもので別名守邪の神といわれていた 鍼灸の臨床上では、脈診などで三焦に異常があると認めたときには、三焦経や三焦に関わる五行穴、三焦経の募穴である石門穴、兪穴の三焦兪穴などに施術するので、決して幽霊ではない。


なぜこのようなことを書いたのかというと、本日(11/12)参加した心徒塾で、「ストンを落ちる」ということを何度か聞いたためです。そのストンと落ちるのはどうやらお腹のあたりのようで、「臍下丹田が笑う」と表現された方もいました。

私の場合、この「ストンと落ちる」という感覚がわかりません。

納得することはいろいろとあるのですが、どうも「ストンと落ちる」というのが今一つ。

表現としてはなんとなくわかるのですが…。


で、思いついた表現が「腑に落ちる」です。

そして「腑」って何だろう?と。


「心徒塾」とは聞く修行の場。よりよく聞くことを「深く」聞くと表現します。

奥底にある思いを深く聞く。

何となくですが、私の場合、「ストンと落ちる」というよりは、「ゆっくり沈んでいく」感覚の方がしっくりくるような気がしてきました。


禅の悟りには、2種類あるようです。ひとつは「頓悟」。もうひとつは「漸悟」。「頓悟」は、悟るときには一気に悟る。「漸悟」は、徐々に悟りに達していく。「ストンと落ちる」のは「頓悟」、「ゆっくり沈んでいく」のは「漸悟」と比べることができるのかもしれません。

2011/11/06

『大阪・淀川市民マラソン大会』参加


本日、『大阪・淀川市民マラソン大会』に参加してきました。

ハーフマラソンの部です。


マラソンの大会のときにはいつも思うのですが、朝が早いですね。

本日の『大阪・淀川市民マラソン大会』は、前日受付もありましたが、当日の受付は7時~8時半。仕事の朝出勤のときより早い時間です。

自宅を出るのが遅くなり、スタート地点にある会場本部には8時15分くらいに到着。ちょっと焦りました。


しかし、人が多い。

当日もらったパンフレット(?)には、参加者の一覧が載っていました。人数は載っていませんでしたが、ハーフマラソン男子の部をみると、ゼッケン番号が10001~14603までありましたので、4603人の受付。他にもフルマラソン男子・女子、ハーフマラソン女子、また、ペアや団体もありましたので、15000人くらいのエントリがあったのではないかと思います。

それに加え、応援の方々もいます。


天気は、雨こそ降ってはいませんでしたが、河川敷の芝生やグランドは湿っていました。参加者の方々は準備がよく、レジャーシートなどを持参されている方も多くいました。私はコンビニのレジ袋…。

ハーフマラソンは大会に出るのも、ハーフマラソンの距離を走るのも初めてです。ただ、先日10マイルの大会に出て、筋肉痛にはなりましたが自分なりに頑張って走ることができたので、今回も大丈夫と思い、とりあえず目標タイムを2時間15分としました。


さて、結果ですが、記録的には思っていたよりよかったものの、あまり納得のいく走りができませんでした。不完全燃焼です。(走り始めたばかりなのに、「納得のいく走り」とはちょっとエラそう…)


参加者も多く、スタートからしばらくは周りのペースに合わせてしか走れませんでした。道がそれほど広くはなく、人波に流れていくような走りです。

1kmくらいからは自分のペースで走れるくらいになりました。今まで前半に飛ばし過ぎて後半バテバテの状態が続いていたので、そして、ハーフマラソンの挑戦は初めてのことでもあるので、やや抑え気味に走っていたつもりです。

しかし、3kmあたりで、右ひざに痛みを感じました。

「これはちょっとヤバいかも」と思ったので、心持ちペースを落として走り続けます。

痛みはひかず、途中止まって屈伸運動。

走っていると、右ひざ・右足が意識を失ったようになるときもありました…。


折り返し地点に差し掛かった際、欲が出てしまいました。

折り返し地点にあった電光表示版の時間が、1時間2分くらいだったためです。

半分の距離を1時間2分くらいならば、「がんばったら2時間切れるかも!?」と思ってしまいました。


15kmくらいまでは、痛いながらも何とか走っていましたが、右足の力が抜けてこけそうになったので、2回目の屈伸運動。しかし、屈伸運動すらツラい…。


それ以降は、足を引きずるように走っていました。そうなると今度は左足に負担をかけるということになるので、左足の筋肉が悲鳴を上げます。


何とか完走はしようと思い、目標を「歩かずに完走すること」に切り替え。時計を見ず(というか見る余裕がなかった)走り続けました。

で、何とかゴール…。


タイムは、2時間9分と、当初の目標よりもいい結果でしたが、ひざが痛いだけで、あまり疲れも感じず。ひざをかばって走るのに疲れた、という感じです。

あとで思えば、準備運動が足りなかったように思います。次はしっかりと準備運動をして臨んでみます。


今回のコースの中で、普段は通行禁止の『淀川大堰』を渡りました。淀川を歩いて(走って)渡ること自体初めての経験です。

電車では通勤で淀川を渡るのですが、風景に障害物が多くあります。しかし、走って渡ったときは、視界を遮るものがなく、「淀川の上にいる」という感覚を強く持ちました。携帯電話かデジカメを持っていたら、写真を撮っていたと思います。

また、コース沿いには、足元の悪い中たくさんの方が応援されていました。私を応援する人はいなかったと思いますが、「頑張れ~」とか「あと○km!」というような声を聞くたびに、もうちょっと頑張って走っていこうという気になりました。


今回の大会テーマは「キラッと輝くおもてなし!」。

私が応援された気になったということは、おもてなしの心があったからだと思います。

2011/11/03

直指人心

ことばには、それを発する人の思いや考え方、経験、感情など、様々なものが入り混じっています。

しかし、ことばとして表現されるのは氷山の一角。

話し手が伝えたいことが、圧縮されたり、単純化されたり、パッケージ化されたりして、その一部がことばとして表現されます。


そんなことばから、そのことばの背景や裏側にあるもの、それらを感じること、それが深い聞き方であると考えています。

同じ言葉でも、声の調子やピッチ、高さ、抑揚、アクセントなどで違いがあります。


私は「言葉は入れ物」と考えています。「枠」といえるかもしれませんし、「袋」と表現してもいいです。


例えば、お菓子。

ほとんどのお菓子はパッケージに入れられて売られています。

そのパッケージをみると、そのお菓子がチョコレートなのか飴なのかクッキーなのか、だいたいわかります。どんな材料が使われているのか、どんな味なのか、いつどこで作られているのか、なども書いてあります。中身の写真や絵なども載っています。

しかし、実際の本当の中身は、予想はつきますが、開けてみるまでわかりません。想像通りのものかもしれませんし、思っていたものと違っていたということもあります。


ことばというのは、お菓子のパッケージみたいなものです。

思いや考え方、経験や感情、それらを包み込んで、ことばとして表現されます。


話し手の思っている中身と聞き手の思っている中身は違うかもしれません。ひょっとすると中身を入れずにパッケージだけ、ということもあるかもしれません。


私たちはことばを使って意思疎通を図ることがほとんどです。ひとつの事柄を表現するのにも、たくさんのことばを使います。

そうやってできるだけ近い思いをことばによって共有していきます。


逆に考えると、言葉は伝えたいことを包み、中身を見えなくしてしまうとも言えます。


話し手としてはできるだけ自分の思いを伝えられるように、聞き手としてはできるだけ相手の思いを感じられるように。

ことばを探してしまいます。


禅の言葉で「直指人心」という言葉があります。

「直ちに人の心を指せ」、言葉という媒体を通してではなく、直に心に触れる。


今は、この感覚を探しています。

本音の言葉は胸にこたえる

先日、仕事上でミスをしてしまいました。

詳細は書けませんが、報告を怠ってしまったことです。

その相手からの言葉が胸に突き刺さりました。

簡単にいえば、「信頼できなくなった」という言葉。

キツい、です。


信頼を築くには時間がかかりますが、壊れるのは一瞬。

身に染みてわかりました。


しかし、「信頼できなくなった」というのは、それまでは信頼してもらっていたこと。

そして、そう言ってくれるのは、何も私をつぶそうとして言っているわけではないこと。

あらためて感じました。


感情に任せて言うならば、思ったときにその場で言うと思います。

しかし、時間もとっていただき、周りには聞こえないように言ってくれたということは、考えて「言った方がいい」と思い言ってくれたことです。


考えた上で「信頼できなくなった」と言うことは勇気、覚悟が必要です。

その覚悟に応えるだけの覚悟を、私も示さなければなりません。


まだ、甘えがあった。覚悟が足りなかった。


それを今後、どう表現していくかが課題です。


時間はかかるかもしれませんが、信頼の回復に向けて、覚悟を持って臨みます。

2011/10/31

学而第一・16「子曰、不患人之不己知。~」

久々に論語について。学而第一の最後です。
子曰く、人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う。

他の人に自分のことをわかってもらえないと心配するな。自分が他人のことを知らないことを心配しなさい。

この言葉と似た言葉が、論語の他の個所にもでてきます(憲問第十四・30、衛霊公第十五・19)。それだけ重要な言葉として扱われていたのではないかと思います。

自分のことをわかってもらうためには、言葉を使ったり、身体で表現したり、言動で現す必要があります。それらの言動は自分の一部。自分の全てを伝えようとするとなかなか難しい。

同様に他人の言動から他人のことを全て知るのは難しい。

どちらも難しいことですが、他人の言動からその人のことを知ろうとする方が、自分のためにもなり、その人のためにもなるかと思います。

2011/10/30

笑声

オペレーターのモニタリングでの評価項目の中に、次のようなものがあります。

「声に笑顔が感じられたか?」

「笑顔」ならぬ「笑声」というもの。

かなり主観的な評価項目だと思います。

なので、オペレーターからときどき
「どんな話し方をすれば笑顔が感じられるか?」
という質問を受けることがあります。
そんなときはいつもこう返します。
「実際に笑顔で話してみて」

モニタリングは、顔が見えないところで行いますが、SVならば、オペレーターの顔は見える。

笑顔で電話対応をしているかどうか、というのもひとつの着眼点ですね。

笑顔を増やすためにも、自分も笑顔で(^-^)

観察する

松波晴人『ビジネスマンのための「行動観察」入門』(講談社現代新書)

「観察」という言葉を聞くと、シャーロック・ホームズを思い出します。ホームズとワトソンが「見る(see)」と「観察する(observe)」について話をしているからです。(引用は Camden House より)
… “You see, but you do not observe. The distinction is clear. For example, you have frequently seen the steps which lead up from the hall to this room.”
“Frequently.”
“How often?”
“Well, some hundreds of times.”
“Then how many are there?”
“How many? I don’t know.”
“Quite so! You have not observed. And yet you have seen.
-- A Scandal in Bohemia

ホームズはワトソンに、「見ているけれど観察していない」と言います。その例としてホームズはワトソンに問いかけます。(以下、意訳)
「キミはこの部屋に上がる階段を何度も見てるよね?」
「何度も見てるね」
「何回くらい見ている?」
「そうだね、数百回は見てるんじゃないかな?」
「何段ある?」
「何段? 知らないよ」
「そこだよ! 見てはいるけど、観察していないんだ」

あるいは、小宮一慶『ビジネスマンのための「発見力」養成講座(ディスカヴァ―携書)には、セブンイレブンのロゴの話が載っています。

ところで、セブン‐イレブンのロゴが「7-ELEVEn」と、最後が n で、小文字なのをご存じでしたか?

「観察力」「発見力」の話を聞くと、「目の付けどころが違う」と思ってしまいます。視点が違うのです。

では、このような異なる視点を持つにはどうしたらいいのか? ホームズや小宮さんの例は、階段やロゴというモノが対象でしたが、人間の「行動観察」ができるようになるにはどうすればいいか?

松波さんは、「大きく2つ重要なことがあります」と言います。

ひとつは「自分の価値観から自由になること」。もうひとつは「人間についての知見を持つこと」。

どちらも、自分一人では気付きにくいことです。

2011/10/29

夢の日ウィーク

本日(10月29日)、『夢の日2011 笑顔のコーチングファシリテーター大集合 in京都』に参加しました。

11月1日は「夢の日」。

忙しい日常の中、「夢の日」というキーワードで、ふと忘れかけていた夢を思い出す日があってもいいのでは、という思いから始まった日です。

そして、本日(10月29日)から11月6日までを「夢の日ウィーク」として、NPO法人『HelloDream』では全国各地でイベントを行っていきます(詳しくはコチラ)。

その皮切りが『夢の日2011 笑顔のコーチングファシリテーター大集合 in京都』。


実は(!?)、私は「笑顔のコーチングファシリテーター」なのです!!

とはいっても、笑顔のコーチングの開催実績はなし。部活でいうところの幽霊部員。

他の笑顔のファシリテーターの方々もあまり知らず、そんな状態でしたが、このような機会はあまりない機会だ、と思い参加した次第です。


結果として、参加してよかった、と思います。


まずは、HelloDream代表の小巻亜矢さんのお話。

HelloDreamの活動についての概説や、小巻さん自身の活動のお話など。HelloDreamの活動については、ホームページや笑顔のコーチングで本間先生が話されていたことなどで知ってはいましたが、小巻さん自身の口から話を聞くと、さらに強い思いが込められているのに気づきます。

自己紹介では、持ち時間1分であるところ、皆さん思いが強く、伸びました。かといって、「話が長いな…」と思うこともなく。

また、近く笑顔のコーチングを開催される方の予行演習。ちょっと緊張されていたようではありましたが、一番大切な「笑顔」を忘れることなく実施されていました。


何よりも、いろいろな方々とお話しできたこと。


今年2月に「笑顔のコーチングファシリテーター養成講座」を一緒に受講されていた方々と再会したこと、メーリングリストで名前だけ知っていた方々のお顔を拝見したこと。

さまざまなつながりができました。


夢の日イベントの今年のテーマは「つなぐ」。

笑顔のコーチングファシリテーターのつながりを始めとして、夢の日ウィークは続きます。


また、ちょっと別の話ではありますが、本日京都に行くということで、京都で仕事をしている友人とも本日会ってきました。

高校のときの友人で、会うのは高校卒業以来となるので十数年ぶり。

ここにもつながっています。

2011/10/24

何故、昔から僕たちの感情の中心は、脳のどこかではなくて心と決まっているのだろう?

Why does tradition locate our emotional center at the heart and not somewhere in the brain?
(何故、昔から僕たちの感情の中心は、脳のどこかではなくて心と決まっているのだろう?)

高校生のときに買ったCD、Sting 『…NOTHING LIKE THE SUN』のジャケット内に書かれていた言葉です。

この言葉を読んだときの感想は全く覚えていないのですが、いつも頭の片隅に残っている言葉です。

素敵な言葉として残っています。

心に残っていると言った方がいいのかな。

親知らずが痛い

先日から、親知らずが痛みはじめました。

炎症を起こしているような感じです。

じんじんとした痛みが続いています。倦怠感がつきまとっています。


私は、4本全ての親知らずが生えていて、左上の親知らずを2年前に抜きました。親知らずとその隣の奥歯の間に虫歯ができて、その虫歯の治療の際に抜きました。

そのとき、歯医者さんに「他の親知らずはどうする?」と尋ねられ、いっそのこと抜いてしまおうと思ったのですが、下の親知らずを抜く際の説明を聞いて止めました。


私の下の親知らずは、横向きに生えています。肉眼でも見えます。

横向きに生えている親知らずは抜きにくいようです。

私の受けた説明では、
  • 歯茎を切らなければならないこと
  • 親知らずを割って取り出さなければならないこと
この2つのことを覚えています。

長期的な治療になるということで、また、その当時は左上の親知らずの虫歯だけで他の親知らずは特に何もなかったので抜歯することはありませんでした。


しかし、今、痛い…。我慢できない痛みではないですが、気になってしまいます。


ちょっとWEBで親知らずのことを調べてみたところ、All Aboutに以下の記事がありました。
親知らずの生え方と抜歯の難易度

私の場合は、難易度2と3の間ぐらいではないかと思われます。

画像処理がへたくそですが、だいたいこんな感じです。
上の図で、親知らずの頭が出ているような状態。


しかし、ずっと気にしておくわけにもいきませんので、まずは歯医者に行ってみようと思います(-_-;)

2011/10/19

龍安寺の石庭

突然ですが、最近、禅に興味を持っています。思えば子どもの頃から禅の要素に触れてきたのでは、と感じ始めました。

今、読んでいる本のひとつに、プレジデント別冊『禅的シンプルライフ』があります。

この本の中に「禅の庭」という記事があり、「枯山水」を代表する庭である「龍安寺の石庭」の紹介がありました。

「枯山水」というのは、水を使わず水の流れを表現したような庭。龍安寺の石庭は、白い砂利を敷き詰め、そこに波のような紋様を描き水を表現していると言われています。

Wikipedia「龍安寺」で、龍安寺は禅宗の一派である臨済宗妙心寺派の寺であることを、今、知りました。

神社とかお寺とか、それほど興味はないのですが(ちょっとはあります)、小学校か中学校の歴史の授業で「枯山水」という言葉を習ってから、龍安寺の石庭は見てみたいと思っていた場所です。

中学校の修学旅行が京阪神方面で、グループで京都を自由に観光する時間がありました。自由にといっても思いつきで行動していいわけではなく、事前に計画を立てて先生に提出しておかなければならなかったのですが、その際に「(他はどこにいってもいいので)龍安寺にだけは行ってみたい」と主張したことを思い出しました。結局その希望はかなわなかったのですが…。

せっかく今、関西にいるので、近いうちに龍安寺には行ってみたいと思います。

2011/10/16

10マイルもの道を走るのは容易じゃない

本日(10/16)、『大阪長居国際マラソン』に参加してきました。タイトルには「マラソン」とありますが、フルマラソンの部はなく、10マイルと10kmの2種目。参加したのは10マイルの方です。


1マイル=1.6kmとすると、10マイルは16km。

今年に入ってから、週2回くらい走ってはいますが、最長12kmくらいしか走ったことはなく、16kmにぶっつけ本番でのぞみました。

普段はスポーツジムのランニングマシン上で、大体11km/hで1時間走っています。1kmあたりに直すと、約5分30秒のペースです。ならば、1kmあたり6分(=10km/h)で走ると、16kmは1時間36分。これならばいけるかも、と考え、目標は1時間35分以内に完走することとして臨みました。もちろん、完走することの方が優先度の高い目標です。

長居陸上競技場をスタートして、長居公園の周りをぐるっとまわり、長居陸上競技場に戻ってくるのを5回繰り返す周回コースです。


しかし、疲れました…。

1周目は「なかなか調子がいいな」と思って、自分よりちょっと早めかな、という人の後ろについて走っていましたが、2周目・3周目になると、その人が少しずつペースを上げてきて(あるいは私がだんだん疲れてきて)ついていけなくなりました。4周目からは前を見て走る余裕がなくなり、前方に走っている人の足の動きを見て走っていました。

5周目には、太ももが痛くなり、そしてそのうちふくらはぎが痛くなり、足が重くなっていくのがわかります…。

思えば、前回10kmの大会に参加したときも、ふくらはぎが痛くなりました。普段は全く痛くならないところです(太ももはよく筋肉痛を起こします)。ふくらはぎの筋肉が痛くなってくると、無理をしている証拠と思っています。

さらに私の場合、ふくらはぎに力を入れすぎると足をつります(今までの経験で足をつったことが2、3回あるのですが、そのすべてがふくらはぎに「自分で」力を入れて足をつりました…)。完走が必要条件(?)ですので、「やばいかも」という不安が頭をよぎりました。

なんとかゴールできたのですが、足はガクガク。これから筋肉痛が待っているかと思います…。

このブログ記事を書く参考に、以前の10kmの大会のときのブログ記事(「淀川国際ハーフマラソンに参加」)を見てみると、何だか似たようなことを書いています…。


今日のペースでは、次のハーフマラソン(「ハーフマラソンに挑戦」参照)の完走は難しいです。もう少しペースを抑えて走らなければなりません。どうも、身体に走るペースが身についていません。日ごろ、ランニングマシンにペースを任せてしまっているのが原因かもしれません。今日は周回コースだったので、1kmとかの表示がなく、ペースがわかりづらかったのかもしれません。

あ、記録ですが、手元の時計では1時間32分でしたので、ここはOK (^-^)


3週間後には、ハーフマラソンに挑戦です。先ほど紹介した記事(「淀川国際ハーフマラソンに参加」)は2011年3月20日のものですが、そこには「来年はハーフに挑戦してみようと改めて思いました。」との言葉。半年早くハーフに挑戦です。


(下の本は、本文とは何の関係もありません。この記事のタイトルとは多少関係あり。)

2011/10/11

禅の四聖句

坐禅したこともないですが、禅に興味があります。

おかしな言い方ですが、禅の考え方が好きです。禅者に言わせれば、「野狐禅」です。


禅の根本義と言われるものに「四聖句」というものがあります。4つの聖句です。その4つの聖句とは、「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」。禅宗を確立した初祖達磨大師の残した言葉とされています。


ひとつめの「不立文字(ふりゅうもんじ)」。文字を立てない、ということですが、文字や言葉を否定しているわけではありません。「釈迦の悟り」を伝えるものは文字や言葉では言い表せない。体験するしかない。言葉や文字は、補足にはなるかもしれないが、伝えたいものは釈迦の言葉や文字ではない。体感、経験が必要であることをいいます。

「教外別伝(きょうげべつでん)」の「教」は、お経・経典の「きょう」ともいえるかもしれません。経典のように言葉や文字で伝えるのではなく、以心伝心で、直接の体験として、師から弟子へ伝えていく。

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊は言われた、「私には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くに解くことのできぬ覚りの心、そのすがたが無相であるがゆえに、肉眼では見ることができないような不思議な真実在というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう」。
(岩波文庫『無門関』より)

「世尊拈花」あるいは「拈華微笑」といわれるエピソードですが、このとき、釈迦から摩訶迦葉に微妙の法が伝わりました。摩訶迦葉を1祖とすると、達磨大師は28祖です。

「直指人心(じきしにんしん)」は、「直ちに人の心を指せ」。単純にいうと、「自分を見つめろ」。自分の心をただただ見つめなさい、と言っています。

そして「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」。「性」は「心」ともいえるでしょう。心を見つめると仏に成る。「悉有仏性」。自分の中の仏性を見つけ、見つめることで、あなたが仏である。


最後の「見性成仏」は、禅宗も仏教であるから仏様としていますが、自分自身を見つめることで、(この言い方は本当の自分が別にあるようで嫌なのですが、)「本来の自己」になれる、とも言い換えることができるかと思います。

禅では、「坐禅」、「ただただ坐れ」といいますが、坐ることは目的ではなく手段なのです。

2011/10/09

言葉に思いをのせて

先月に引き続き、今月も心徒塾に参加しました。

心徒塾という場は、不思議な空間です。「聞く達人・聞き方の黒帯を目指す修行の場」なのですが、修行からイメージされる厳しさとか忍耐とかは感じることなく、楽しく過ごせる時間です。かといって、単に楽しくおしゃべりをする空間ではなく、真剣な場。どちらか一方に偏った場は日常的にもあるのですが、どちらも体感できる場はあまりありません。

そこでの修行のひとつにある「朗読稽古」。言葉で言ってしまえば、同じフレーズを全員が一人ずつ順番に音読するという単純なものです。しかし、深い。

音読するだけならば簡単にできるのですが、「朗読稽古」では、例えば筆者の思いであるとか、感情であるとか、あるいは情景や状況のイメージなど、それらを言葉に乗せて音読する。表現力を鍛えるという意味もあり、文章やその行間からの思いを読み取る力を鍛える意味があります。

本日の「朗読稽古」では、私の文章の読み方の癖(?)に気が付きました。

まずひとつは、イメージに空白があること。

日頃は、なるべく先入観を捨てて物事を見たり聞いたりするように努めていて、それはそれで間違ったことではないと思っています。そして何かしらの文章を読むとき、例えばある風景の描写の文章を読んだとき、私の頭の中のイメージには言葉に描かれているものしか描かれていません。それが言葉を具体化したイメージだと思っていました。

しかし、そのイメージには空白部分が多くあります。朗読稽古中の他の方々の感想を聞いて、そのことに気が付きました。

そしてもうひとつは、ひとつめのこととも関係があるのかもしれませんが、静止画であること。

あるひとつの文章があり、そして文章が続くとき、スライドが切り替わるように場面が頭の中のイメージが変わっているような気がしました。ひとつ目の「空白部分が多い」ということと合わせて考えると、時間的な空白があるとも言えます。動画ではなく静止画です。

朗読稽古の前に、朗読稽古のポイントを一人ずつ発表したのですが、そのときに私の語った言葉は「言葉は入れ物。その入れ物に思いを載せて音読する」といったこと。

これらをひっくるめて考えると、文章の書き手は何らかの思いを込めて文章を書いていますが、私のイメージの中では文章に載せてある思いがなく言葉の器だけになっているのではないのか? そこに自分の思いを載せて音読するならまだしも、何も載せずにそのイメージを伝えようとしているのではないのか? 


以前にTEDで、ポール・ブルーム「喜びの根源」というプレゼンを見ました。そこではなぜ贋作より本物を好むことについての考えの発表があり、来歴を感じたいという趣旨のことが述べられていました。



茶碗も、例えば「織田信長が使っていた茶碗」となると、箔がつきます。価値もつきます。

言葉も、その人がどのように使っているのか、使ってきたのか、どのような思いが込められているのか。

言葉も器。その言葉に価値観や思いや感情を載せる。

そのような言葉が、本物として感じられるのではないのか、と感じます。


2011/10/08

「ジブン手帳」の交点

先日、手帳のことについて記事を書き(「来年の手帳に求めること」参照)、この記事がきっかけで、本日、「ジブン手帳」の佐久間さんとお会いしました。

このブログは更新通知をtwitterとfacebookに送っています。おそらくは「手帳」というキーワード検索から佐久間さんの目にとまり、「ジブン手帳」の紹介のツイートをいただきました。そこから数回のやりとりがあり、本日お会いした次第です。

@sanotomo3 はじめまして。手帳のことについてつぶやかれてfb見ましたが凄くこの手帳に通じるものがありまして。sanotomo3さんから見てこの手帳いかがでしょうか? http://t.co/9DTAAW2q http://t.co/kKtnqGaNWed Sep 28 17:43:20 via ついっぷる/twipple


こちらは佐久間さんが昨年作った手帳(2011年の手帳)のプレゼン資料


「面白そうな手帳だな」と思い、近くの書店をのぞいてみましたが実物はありませんでした。2012年版の発売はもう少し先のようです。

手帳は人それぞれ使い方も違えばこだわりどころも違います。私は手帳を新しくする時期になるとあれこれ毎年迷うのですが、最後の決め手となるのはやはり実際に手に取ってみたときの印象・感覚です。実物を手に取って見たい、と思いました。amazonでは2011年版は販売されていましたが、今さら2011年版を買う気にはなれません。

そんな折に、佐久間さんが大阪に来るというお話があり、私もちょうど予定が開いていたので、「実物が見れるチャンス」とばかりにお会いすることに。2011年版ジブン手帳と、まだ製本前の2012年版の「ジブン手帳」を見せていただきました♪

お会いして感じたのは、やはり、「手帳へのこだわり」です。

私自身は手帳に関して、もちろん使いやすさなどは考えますが、最終的には印象や感覚で使っています。こんな手帳あったらいいな、とか、もうちょっとこうなっていれば、など考えることはありますが、市販品はやはり市販品で私個人のために販売しているわけではありませんから、まあ仕方がない、と考えて使っています。

しかし、佐久間さんはそういったことを「仕方がない」と考えるのではなく、何とか形にしようと考えます。そして昨年「ジブン手帳」の発売までこぎつけました。

お話の中で一番、「こだわっているな~」と感心したのは、「日の出・日の入」の話。

「ジブン手帳」はバーチカルタイプの手帳で24時間のメモリがあります。(画像はfacebookページ「ジブン手帳」より)
写真は2011年版のものですが、時刻の目盛り軸で太い線と細い線があるのがあるのがわかると思います。

なんと、太い線から細い線に変わっているところが「日の出」、逆に細い線から細い線に変わっているところが「日の入」。つまり、毎日違う!
上の写真は2011年5月のページ、下の写真は2011年12月のページです。
違いがわかりますかね。

当然(?)、「そこまでこだわらなくても…」という声はありそうですが、佐久間さん曰く、「人間がよりよく活動できる時間帯は日の出、日の入に関係している。」「日の出、日の入の移り変わりで季節の移り変わりも味わってほしい。」

1日1日を大切にしている気持ちが伝わってきます。

その他、2011年版からの改善点や、「ジブン手帳」の使い方、「ジブン手帳」の販売方法や流通のことなど、様々なお話を聞くことができました。全く見知らぬ人に会うということもあり不安もありましたが、自分の好きなことを語り、実行している佐久間さんは人当たりもよく、非常に楽しい時間を過ごすことができました。

私は、来年の手帳を「ジブン手帳」にすることを決めました。

「ジブン手帳」の昨年版(2011年版)からの改善点に、方眼目盛りの交点のことがありました。方眼の点線の罫線について、その縦横の交わり部分で昨年版は、ちょっとズレてしまっていたようです。大げさに書くと下図のような感じです。
2012年版では、このズレがないようにしたい、ということも話されていました。

身の回りには様々な製品がありますが、それらの製品の製作者の方々と直接お話しできる機会はそうそうありません。佐久間さんのように、私もこういった人との出会いの交点も大切にしたいと感じた次第です。

「ジブン手帳プレゼン」
twitterアカウント:@jibun_techo
Facebookページ:「ジブン手帳

2011/10/01

音をたてずに食べる

独りで外食。

注文をすませ、食事がくるまで本を読もうと『無関門を読む』のページをめくると、「照顧脚下」という文字がありました。

禅の道場の玄関の札に「照顧脚下」と書かれているとのこと。「脚下を照らして顧みよ」つまりは「履物をきちんとそろえて上がれ」ということになります。

そのあとに、次の言葉が続きます。
それはいちおうそれでよいのですが、「照顧脚下」はただそれだけのことではありません。
摂心(集中坐禅会)に参加した始めは「たくあんをかむ音をたてるな」と先輩に怒られるので、たいていの人がかまずに飲み込んでしまいます。しかし、「脚下を照顧せよ」というのも、「たくあんの音をたてるな」というのも、禅では単なるお作法の教えではありません。それはまず第一に、ともすれば外に飛びがちの私どもの心を内に摂める、そこで自己にとって返すという大切な修行の用心を示す教えの一つなのです。
この部分を読んで、ちょっと試してみようと思いました。

これからくる食事を食べるとき、なるべく音を出さずに食べてみよう、と。

ちょうど、注文した料理が運ばれてきました。注文したのは「青椒肉絲定食」です。

たくあんほどは音が出ませんが、ピーマン・たけのこも噛めば音がなります。かといって、噛まずに飲み込むわけにもいかず、ゆっくりと力を入れながら音をなるべくたてないように噛んでいきます。

音を出さずに噛むのは難しい。

ゆっくり徐々に力を入れながら噛み、また徐々に力を入れながら噛み、と何度か繰り返して、飲み込めそうになったら飲み込みます。

自然と口の中に意識が集中します。箸いっぱいにとって食べることはせず、少量をつまんで口の中に入れます。ゆっくりと何度も噛むことで食べ物の味がいつもよりもわかったような気がしました。

思えば、私は食事には結構無関心で、お腹が膨れれば何でもいい、といった感じで食事をとっています。食事をファストフードですませることもよくあります。しかも毎日のように行って、同じものを食べることもしばしば。ちょっと反省しつつ、ゆっくりと食べました。

数年前、「スローフード」という言葉が流行ったときがありましたが、なかなかいいものですね。

ゆっくりと味わいながら食べる。

「音をたてないように食べる」ことは、礼儀作法のひとつなのかもしれませんが、食事をありがたく味わいつつ食べることができるという優れた点があることに今さらながら気が付きました。

2011/09/30

無門関

大道無門 千差有路
透得此関 乾坤独歩
禅の公案集『無門関』の序文にある無門慧開禅師の頌(じゅ)です。

「大道に入る門は無く、到るところが道なれば、無門の関を透過して、あとは天下の一人旅。」(西村恵信訳)

門無き道の無門関。

この関をくぐり抜ければ、自他一如の大自在の旅のはじまりです。

さて、この関の有りや、無しや。

2011/09/27

来年の手帳に求めること

みなさんは来年(2012年)の手帳をもう買いましたか?
私はまだです。

最近、職場でも、ツイッターでも、ブログでも、来年の手帳を買ったという人が散見されます。来年のカレンダーや手帳が発売になったということも聞きます。

私の今年の手帳は昨年までと違い、ちょっと小さめ(A6サイズ)を使っています。しかし、ちょっとスペースが狭く感じるので、来年はA5サイズの手帳を買おうと思っています。

来年の手帳を買うにあたり、手帳の種類と自分のこだわりポイントをまとめていきたいと思います。

ちなみに、私は仕事用とプライベート用で2つの手帳を持っています。本当はひとつにまとめたいのですが、コールセンターという仕事上、社外に情報を持ち出すことは基本禁止であるため、2つに分けています。プライベート用の手帳はあまりスケジュール用としては用いておらず、専らメモ帳として利用していますし、バインダー式なので、リフィルの検討ということになります。

ここでは仕事上の手帳を念頭に置いています。


■手帳の大きさ

手帳の大きさで主なものは、以下の大きさです。
  • A6サイズ・・・文庫本サイズ
  • B6サイズ・・・A6サイズよりは大き目。B5の半分。
  • バイブルサイズ・・・バインダー式の手帳で多くみられるサイズ。
  • A5サイズ・・・ソフトカバーの単行本とかで見られるサイズ。A6の倍。
  • B5サイズ・・・大学ノートがこのサイズ。
  • A4サイズ・・・書類やコピー用紙はこのサイズが主流。
上の方ほど小さく、下にいくほど大きくなります。

閉じた状態のサイズなので、広げると当然、倍の面積になります。冒頭にも書きましたが、私は今年はA6サイズの手帳を使っていて小さく感じたので、来年の手帳はもっと大きなものを買う予定です。昨年までA5サイズを使っていたので、A5サイズに戻そうと思っています。

大きさは、「持ち運びの利便性」、「書く量の大きさ」、「書く文字の大きさ」、「(普段使う)机の広さ」を考慮して決めます。

私の場合は、コールセンター勤務なので、手帳をそれほど持ち運ぶことがありません。持ち運ぶときは、始業と終業時と会議室への移動くらいです。そして私の場合、文字が大きいので、狭いスペースに書くのはちょっと神経を使います(ちょっと大げさ)。

そのため、卓上用の大きい手帳でもいいのですが、普段座る席(自分の席はありません。SV席と呼んでいるところに座ります)の机がちょっと狭い。狭いというよりは、いろいろなモノが多く狭くなっています。業務用のPCに、CMS(Call Management System)のPC、個人用のノートPC、内線用電話、業務用の電話・・・機器があり過ぎて狭いのです。そして、現在は手帳のほかにノートを使っていて(手帳が小さく書き込みができないため別途ノートを導入)、そのノートがB5サイズです。そのノートを広げるとちょっと邪魔。

私の場合は、A5サイズ(広げてA4サイズ)がベターかと思っています。


■手帳の形態

形態と言っていいかどうかわかりませんが、以下のような種類があります。
  • バインダー式
  • リング式
  • 製本式
バインダー式は、順番の差し替えができるという点が優れています。また、中身(リフィル)を入れ替えればいいので、初期費用はちょっと高くなるかもしれませんが、長い目でみれば経済的でもあるかもしれません。しかし、中央の留め具(リング)が書き込みをする上で結構邪魔になります。私は右利きですので、左側のページに書き込みをするときにリングが手に当たって書きにくいと感じます。「バインダー式なので、書いた後に挟めばいいのでは」という意見もあるかと思いますが、私の手帳の使い方はスケジュール管理とToDoリストが主な使い方ですので、頻繁に「書いて綴じる」という作業は面倒です。

リング式の利点は、半分に折れる(A5サイズの手帳ならば、A5の大きさで机の上に置いて書ける)という点かと思います。書いたものを机の上に置きっぱなしで業務ができればいいのですが、これもコールセンターならではのことで、顧客情報をはじめとする個人情報については不必要な人に見せてはならないというルールがあります。私の場合は顧客情報については手帳に書き込みをすることはありませんが、オペレーターさんの情報を書き込んでいることがあり、机の上に広げっぱなしにすることははばかられます。どんな手帳でもそうですが、リング式の手帳で半分に折って使っていると、手帳を一度持ち上げてから閉じなければならないのでひと手間かかってしまいます。また、普通に広げたまま使うと、先ほどのバインダー式と同じように、左ページが書きにくいということがあります。

そのため、製本式の手帳を選ぶのですが、閉じたり開けたりを頻繁に行うので、「しおり付」も私にとっては購入ポイントのひとつです。


■スケジュール帳の様式

私の場合、手帳の主な用途は「スケジュール管理」と「ToDoリスト」であると先に述べました。そのスケジュール部分の様式についても数種類あります。
  • 見開き1日
  • 見開き2日(1ページ1日)
  • 見開き1週間
  • 見開き1カ月
もっと細かく分類することもできますが、手帳を開いたときにどれくらいの期間になるかを元に分類すると上記の分類が主なものかと思います。当然のことながら、期間が長くなればそれだけ1日について書くスペースも狭くなります。時間管理を考えると、見開き1週間が適度かと思いますが、これは使う人や使い方によって異なってきます。私の場合は、見開き1日がスペースとしては欲しいところですが、そうなると手帳が分厚くなってしまい、これもちょっと使いづらいので、見開き1週間を使います。

また、見開き1週間でも、月初めには見開き1カ月のページがあったりするものが大半です。

また、その他の分類としては、時間のメモリがあるものないものとか、バーチカルタイプだとか、左ページに日付、右ページはメモ帳というように様々なタイプが存在します。

現在、私は仕事上はバーチカルタイプが使いやすいかな、と自分では思っています。


■その他もろもろ

今までは分類上から、どれが自分にとって使いやすいかということを書いてきましたが、その他にも細かいところでこだわりたいところがあります。
  • 土日祝も平日と同じスペースであること
  • 土曜日も窓口はオープンしていますし、日曜祝日もオープンするときがあります。仕事用の手帳の中には「平日のスペース充実」と、土日の欄が狭くなっているものもありますが、どの日も同じスペースのものがいいです。
  • 巻末等の情報ページはなるべく少ないもの
  • 基本的に室内勤務で近くにPCがあるため、調べ物はPC利用でOKです。
  • カードを挟めるポケットがほしい
  • 業務上使用する、数種類のカードがあるため、ポケットが欲しいところ。
  • ペンホルダーもついていてほしい
  • 基本的にペンは胸ポケットにさしていますが、ときどきないときがあります。
  • 自由スペース(メモ欄・メモページ)が豊富
  • 思いついたときに日記のように書くときがあるので、メモスペースが広い方がいいです。
  • ノートが挟める
  • メモ欄が狭いとき用。
  • 時間の目盛りがある場合は窓口オープン時間を含んでいる
  • 窓口のオープン時間は、現在の業務では10時から21時です。朝から出勤して夕方までの勤務のときや、昼から出勤して夜までの勤務のときがあるので、アフター5欄が狭い(あるいは、ない)のは困ります。また、時間は24時間表記の方が好みです。

PCでのスケジュール管理も併用していますが、一覧性・速攻性に欠けることと、自分好みにカスタマイズできない(業務上決まったスケジュールソフトを使用しなければならない)ことから、今のところ紙ベースの手帳の方がスケジュール管理には適しています。


ところで、プライベート用の手帳はバインダー式なのですが、理想のスケジュールのリフィルとして、左ページがメモ欄で右ページが1週間のスケジュールになっているリフィルを探しています。理由はまん中のリングが邪魔で左ページが書きにくいから。

左ページに日付入りで右ページがメモ欄のリフィルはたくさんあるのですが、逆は見たことがありません。もしご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。

来年の手帳選びはこれからです。

2011/09/23

言葉に表すこと

職場のコールセンターには女性が多いのですが、髪型が変わったとかにあまり気付きません。「印象が変わったな」という感覚です。ロングヘアの女性がショートヘアになっていたときも、「印象が変わったな」という気持ち。髪を切ったと聞いて、「あ~!」と驚きました。

そんなときは、「印象が変わったね」と言ったらいいのでは、というアドバイスを受けたことは、以前このブログのどこかで書いた記憶があります。なので、できるだけ気付いたことは口に出すようにしています。自分で気付いた限りを言葉にしようとしています。もちろん、人が聞きたくなさそうなことは避けていますが。

先日、いつもと印象が違っている人がいたので、観察して言葉に出してみました。
「今日は、メガネをかけてるね。」

「見ればわかるやん。」と一蹴されてしまいました…。難しい…。


話は変わって、私は、人の名前を覚えるのが苦手です。(余談ですが、私のブログ記事には、「話は変わって」という言葉が多く出てきているような気がします。)人の顔を見て、ときどき、その人の名前が出てこないときがあります。しかし逆に、名前を見て顔を思い浮かべることは、顔を見て名前を思い浮かべるよりは簡単なような気がします。

何かを見て、聞いて、それらを言葉にすることが苦手です。言葉から物事をイメージする方が、物事を言葉にするより楽な気がします。書き手より読み手の方が多いのはそのためですかね?

言語と思考というか、意味と形式というか、その関係性に興味を持っています。言語学や認知科学などに興味を持つのはそのためだと思います。

2011/09/20

物語の力

本日(9/19)、1日かけて京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』を読み返しました。

最近、「禅」への興味が再燃してきたためです。

もちろん以前より言葉としては知っていましたが、「禅」について、特に学ぼうとかやってみようと思ったことはありませんでした。

私にとって「禅」に興味を持ったきっかけが、京極さんの『鉄鼠の檻』です。


興味を持っているといっても、禅の考え方に魅かれているだけで、座禅等したことはありません。

「不立文字」が特徴のひとつである「禅」を言葉で知ろうとする、いわゆる野狐禅の類です。

禅は体感するものである、体現するものであるのですが、思考の枠組みにしようとしています。


話はかわって、物語の力について。

京極さんの小説は、ときどき小難しいことを書いていますが、知的な感じがします。勉強している気になります。

特に『鉄鼠の檻』を含む「京極堂シリーズ」は、妖怪談義やら、科学や宗教や、特に認識の在り方がテーマ(薀蓄?)になっていることが多く、それらが上手く物語とマッチしていて好きです。

科学や宗教、認識論などは私の興味があるところ。しかし、専門的な書物やら何やらを読んだりすることは少し苦痛なところです。

しかし、物語の枠組みをあてることで、自然に読める。面白くてためになる、といった感じ。

最近私が読んだものの中では、結城浩さんの「数学ガールシリーズ」もこの分野に入っています。


「ストーリー・シンキング」というような言葉も、最近ではないかもしれませんが、よく聞かれるようになりました。

物語は記憶の定着を支えているのですかね。

以下は、TEDで見つけた映像ですが、これも物語の力を表わしているように思います。
ポール・ブルーム「喜びの根源」


ひとつひとつの知識を学んでいくより、物語としていくつかの知識をまとめて読んだ方が、学習の定着率がいいような気がするのは私だけでしょうか?

私は何かを覚えたりするとき、何かと何か、いろいろなものを関連付けて覚えていく方が性にあっているような気がします。

こうやってブログを書いているのも、自分自身についての物語を書こうとしています。

上手くいっているかいないかはわかりませんが…。


2011/09/18

イライラは戻ってくる

久々に、仕事でちょっとイライラしてしまいました。

できるだけ、表には出さないように努めてはいましたが、絶対に出てしまっています。

相手の方、ごめんなさい。

イライラしても何の得にもならないのは頭ではわかっているのですが…。

イライラは、必ず自分に返ってきます。大きくなって。


今日は、朝9時半から夜9時半の1日仕事でした。昨日は休み。

まずは、出社後すぐに、一昨日のミスに気が付きました。やるべきことをやっていなかった自分自身のミス。言い訳できません。

起きてしまったミスは元に戻すことはできませんので、同じミスを繰り返さないようにしなければ、と考えます。

まずは今日やるべきことの洗い出し。Todoリストを作るように次々洗い出していきます。

そして、それらをこなしていきます。終わったらチェック。

窓口への電話が落ち着いていたこともあり、自分自身の今日やらなければならないと思っていたことはできました。


夜9時半前。帰る準備を始めようとしたときです。

Aさんの仕事が終わっていないことを知りました。

10時には終わりそうにないと言います。


手伝いました。というより、奪ってしまいました。イライラがにじみ出ていたと思います…。


イライラの矛先は、最初はAさんに向かっていました。

「時間通りに終わりそうにないなら、もっと早く言ってほしい」と。

しかし、矛先は次第に自分の方に向かってきます。

Aさんの残っていた仕事の半分は私が指示したものです。奪い取ってしまったのはもともと私の指示した仕事。

「頼まなければよかった。」「頼むときに確認すればよかった。」と、イライラの矛先は自分に向かってきました。

そして、「何で自分は確認しなかったのだ。」「途中で様子を見ることも、見る余裕もあっただろう」と、過去の自分がイライラの対象に。


さらには、Aさんも、きまりが悪そうな、不機嫌そうな雰囲気に。Aさんからのイライラが伝わってきます。


自分が発したイライラは、自分の分とAさんの分とが合わさって大きくなって返ってきました。


自戒を込めて、まずはこの場に書き記しておきます。


そして、来週Aさんと会ったときには、謝りたいと思います。

2011/09/14

心徒塾に参加して―場を整えること

先日、「わもん」の黒帯を目指す道場である「心徒塾」に参加しました。

「わもん」というのは、いわば「和製コーチング」。ただひたすら相手の話を聴くことで、 問題解決の糸口を導き出していきます。話し手に対して「絶対尊敬」を贈り、聞き手が「完全沈黙」して話を聞くとき、話し手の心の奥底にある「声なき声」が聞こえてくる。無意識下にある思いが意識にあがってくる。そういったコミュニケーションの在り方、それが「わもん」です。

「コーチング」との比較でいうと、「コーチング」は「コミュニケーションの方法」、「わもん」は「コミュニケーションの在り方」という表現が私にはしっくりきます。

「心徒塾」は、その「わもん」の黒帯(達人)を目指すところです。「わもん」のことを頭だけで知っているだけで、実際にそのような聞き方ができているのかどうかもわからない私ですが、いきなり「聴くことを究める場」に参加しました。

実際、コールセンターに勤めている関係で、話を聞くことに自信がないわけでもありません。しかし、本当に聞くことができているのだろうか、という問いに自信を持って答えることはできません。「上には上がいるだろう」。「上はどんなものか知ってみたい、体感してみたい」。そんな思いで参加しました。ちょうど長めの休みをいただいたので、1日7時間の2日間の参加です。

まず、すごいなと思ったことは、「場づくり」です。

私は初参加。参加者の誰とも面識はありません。心徒塾の参加者は、当然のことながら「わもん」を実践されている方々で、「わもん」の達人を目指す場ということは、お互いに面識がある。(実際には私のほかに心徒塾初参加の方もいらっしゃいましたが、心徒塾の主催者である藪原秀樹さん(やぶちゃん)とは面識があるようでした。)そして心徒塾の参加人数は最大8人。互いに面識のある少人数の集団の中に、見知らぬ私が飛び込んでくるわけです。

私としては、場に溶け込めるかどうか、不安でした。完全にアウェーの状況です。

初めての場所。初めての人。初めての「わもん」。

落ち着きませんでした。

しかし、その不安は次第に消え去っていきました。

この状態を、心徒塾では「場が整う」と表現していましたが、確かに「場が整った」と思いました。


その「場が整う」ための手法はどんなものだったのか、といま思い返してみると、やぶちゃんの働きが大きかったと思います。

例えば、私の紹介。

やぶちゃんは私と面識がなく、私の方はやぶちゃんのことをツイッター上やHP上で知ってはいましたが、やぶちゃんは私のことをほとんど知りません。塾の開催場所に一番乗りだったのですが、そこで、「どこかでお会いしましたか?」「誰かの紹介ですか?」等、様々な質問を投げかけてきます。私はそれに答えるかたちで、わもんややぶちゃんのこと知ったきっかけを話します。また、いきなり心徒塾に参加したことも切り口のひとつとなり、参加の理由など、実にいろいろな質問を投げかけてくるのです。

実際にどういう意図があったのかはわかりませんが、私に関する情報を集めていたのだと思います。

そしてそれらの情報を上手く使って、他の方々に私を紹介してくれました。1度だけでなく、参加者が来る度に同じ話になることもありましたが、新しく来る度に何度も紹介してくれました。

おそらくは、私の不安を感じとり、私の不安を少しでも取り除いていくために、少しでも早く場に溶け込めるように、といったはからいであったと思います。

また、他の方々にも、私というちょっとした異分子を溶け込ませるためのことであったと思います。


「場づくり」「場を整える」ためには、情報の共有が不可欠です。会議であっても何であっても、人が集まり話をするときは、共通の目的やそれぞれの参加者の情報など、共有化しているものが必要です。前提があって話は進んでいきます。見知らぬ人の前では、なかなか本来の自分を出せません。

場の整え方の一例を感じることができました。

「わもん」について―株式会社わもん

2011/09/08

ペットボトルのふた

奇妙なキャップのペットボトルを発見したので買ってみました。

伊藤園の「お~いお茶 深蒸し茶」です。

緑色のキャップに緑茶の粉末が入っています。

緑色のキャップをあけると内フタが下に落ちて、粉末が水に落ちます。

そしてキャップを閉めて振って、緑色のキャップをとって飲む。

緑色のキャップはこんな形をしています。

お茶の味は普通の味でした。

まあ、私は味オンチですので、味がわかる人には違いがわかるのかもしれません(^-^;)

で、キャップの構造ですが、白い方のキャップもとって確認。

内フタがペットボトルの中に残っています。

緑色のキャップの円柱形の胴体に緑茶の粉末が入っていて、緑色のキャップをあけると内フタが落ちて中身が出てくる。なるほど。

品名は「ナチュラルミネラルウォーター」で、原材料名は「水(鉱水)」。お茶じゃないのか~、と思ったら、その下にもうひとつ品名が。

お茶以外にも使えるペットボトルのふたですね。すでに他の商品でも使われているのかも。

デジカメを買って、試してみたかったので、今回は写真をふんだんに使った構成としてみました(^-^;)

2011/09/05

違った視点

TEDとは、Technology、Entertainment、Designの3分野の人々が集まったカンファレンスです。

その中で、興味深いテーマの講演がありました。
Daniel Tammet: Different ways of knowing
(ダニエル・タメット:異なる認識の仕方)


ダニエル・タメットさんは、「高機能自閉症のサヴァン」とのこと。

また「共感覚」と呼ばれる症状も持っているとのこと。

上の映像内では、数字や文字に、色や形、感情が入り混じっていると言っています。


映像内にある3つの問題。
  • What is 64 x 75?
  • The Icelandic word 'hnugginn' means __?
  • "The hare limped trembling through the frozen grass"
ひとつ目は、掛け算の問題。ふたつ目は、アイスランド語の「hnugginn」とはどんな意味? 3つ目はジョン・キーツの詩の引用とのことですが、なぜ「hare(野うさぎ)」を使ったのか? 「rabbit(うさぎ)」を使わなかった理由は? という問題です。

ダニエル・タメットさんの回答は映像を見てほしいのですが(日本語の字幕も用意されています。)、感心してしまいます。


何かを知覚するとき、その知覚の仕方は人それぞれでしょうが、その知覚のプロセスを言語化できる人はあまりいません。

私たちの理解の仕方は、「分ける」ことが基本となっていると思います。

「分ける」ことが「わかる」ことにつながっています。

しかし、私は、自分自身の知覚のプロセスを理解していない。


そんな中で、ダニエル・タメットさんは知覚、認識に対して言語化していこうとしています。


自分とは違った視点で物事を見ている人や、そのような話を聞くことは好きです。


英語の「want」は、「ほしい」を意味しますが、「欠乏」も意味します。

私には欠けている視点を、私は欲します。

2011/09/01

思わず持ち帰ったチラシ 5円玉付

現在、マンション(集合住宅)に住んでいます。

1階入口には集合ポストがあり、帰りに覗き込み、不要なビラやチラシは集合ポスト近くに設置してあるゴミ箱へ。

そんな中、本日ポストに入っていたチラシを、思わず部屋まで持ち帰ってしまいました。
(有)黒門 小雀弥
「こがらや」と読むようです。

「小雀弥」は手打ちそば・うどんのお店で、ポストに入っていたチラシは出前のお品書き。

特徴は、「5円玉」です。

残念なのは、ホームページが見れなかったこと。

チラシには「公式ホームページより簡単出前注文」と書かれていましたが、URLを入力してもサイトが見つかりませんでした。。。

ちなみに「5円玉 チラシ」で検索すると、以下のブログ記事を発見。
ちょっと笑える話@むろみん
「小雀弥(こがらや)のチラシには、五円玉がついてた!」
記事の日付は2009年7月29日ですので、前々からこのようなチラシを配っていたのですね。

TVでも紹介されている有名店のようです。(ぐるなび大阪版

手に取って注目されるまでは成功ですが、ホームページが開かないことはマイナスポイント。

ちょっと残念です。

キーワードは「笑顔」

本日、私の勤めているコールセンターで長くオペレーターをされている方々を囲んでのちょっとしたパーティーがありました。

簡単に書くと、日頃の感謝と、今後もよろしく、というものです。

そのパーティの中でのスライドショーを見て、あらためて「笑顔」はいいな、と感じました。


スライドショーは、自分が目指す姿・なりたい姿を書いたボードを掲げたオペレーターの写真が、音楽とともに次々と流れるもの。

その「目指す姿・なりたい姿」の中で多かった内容は、
  • お客さまに笑顔を伝えていきたい。
  • 笑顔を忘れない。
  • いつも笑顔で。
など、文言は異なるかもしれませんが、キーワードとして「笑顔」がたくさん出たように思います。

コールセンターですので、電話対応が仕事です。

お客さまには顔は見えません。

電話対応で顔は見えないですが、声で笑顔が伝えられるし、伝わる。

スライドショーでは、「笑声」という表現をされている方もいました。

オペレーターの皆さんが笑顔を大切に思い、そして自分の目指す姿・なりたい姿に、「笑顔」というキーワードを挙げていることをうれしく思ったのと同時に、自分も「笑顔」を忘れないようにしたいと改めて感じました。


WEB上で、最近、「笑顔」というキーワードで目に留まったものがいくつかあります。

ひとつ目は、キリン「生茶」のキャラクターであるパンダ先生による期間限定のブログ(期間限定なのでリンクが切れる可能性あり)。
生茶パンダ先生ブログ「笑顔の力」

パンダ先生自体もかわいいので自然と笑みがこぼれますが、その中の言葉、
誰かにつられて笑う
そうして笑顔が広がるって
素敵なことなのちゃ。

笑顔は広がる。

そして、ツイッター上での次のツイート。

笑いは肯定です。人は心の底から笑う時、あるがままの自分を肯定しています。反対に、自分のことを深刻に考えている時は、なかなか笑うことができません。そんな時は、鏡に映った自分とにらめっこしてみてはどうでしょう?less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply


笑いは肯定です。人は心の底から笑う時、あるがままの自分を肯定しています。反対に、自分のことを深刻に考えている時は、なかなか笑うことができません。そんな時は、鏡に映った自分とにらめっこしてみてはどうでしょう?


以前にブログにも書いたことがあります(「【拡散希望】笑顔(^-^)」)が、実は、私はNPO法人ハロードリームの「笑顔のファシリテーター」のひとりでもあります。(笑顔のコーチング実施の実績はありません。)


自分を肯定し、そしてオペレーターの自己肯定も促していく。

そうして、職場にも、お客さまにも笑顔を広げていく。

これは、私の目指す姿・なりたい姿のひとつです。

2011/08/28

「ニューメキシコの月」

 テーブルの上には一枚の写真がある。どことなく幻想的な風景写真。画面の下を横切る平原。残りの大部分を占める漆黒の空。その空をひっかくようにたなびく白い雲。平原にはひらべったい小屋と教会、無数の十字架が小さく埋もれている。そして、中空にはぽつんと丸く白い月が浮かんでいる。写真の隅っこにタイトルが書かれていた。
エルナンデスの月の出。ニューメキシコ州、一九四一年。

恩田陸さんの短編「ニューメキシコの月」(『象と耳鳴り』所収)の冒頭部分です。

久しぶりに読み直してみて、そういえば、この「エルナンデスの月の出」という写真をまだ見ていないな、と思い出しました。

最初に読んだときも、次に読んだときも見てみたいと思いつつ探していなかったのです…。


写真には詳しくなく、「エルナンデスの月の出」も、アメリカの写真家アンセル・アダムス(Ansel Adams)の名前も、恩田陸さんのこの短編から知りました。

WEB検索をすると、「エルナンデスの月の出」は、現在「山口県立美術館」にある、とのこと。

意外と近くにあったのですね。

山口県立美術館のHPでは、所蔵品検索ができました。「エルナンデスの月の出」も画像あり。(ここに貼っていいのかちょっと微妙なので、画像は貼っておりません。)

恩田陸さんの描写から私が想像していたものよりもいい写真です。

構図がいいのですかね?

私が想像していた風景は、もう少し平原や月の位置が上にずれたような写真を想像していました。


さて、山口県立美術館のHPを見てみると、トップページには、雪舟の『牧牛図(牧童)』の水墨画(追記:これは見るたびに変わっていました)、そして、現在「カンディンスキーと青騎士展」(2011/7/5~9/4)が開催されているとのこと。

美術・芸術にも明るくないですが、雪舟の絵もカンディンスキーの絵も好きなのです。ただ、「カンディンスキーと青騎士展」はもうすぐ終了です。


絵画も写真も、芸術作品一般は、あまり知りませんが、見るのは好きです。

少しずつ美術や芸術に関する教養も身につけたいとは思っていますが、いろいろな本物を見るのが一番なのではないかと考えています。

山口の方に足を運ぶ機会があれば、行ってみたいですね。


2011/08/27

星が吸い込まれる瞬間

先日、NHKニュースに、以下の記事が掲載されました。
NHKニュース「星が吸い込まれる瞬間 初観測」

YouTubeにも動画があったので、貼り付け。
GIZMODEの記事で知りました。)


「ブラックホールのメカニズムの解明」はできるでしょうか?

興味があります。


以下は、YouTube動画の説明部分です。
In late March 2011, NASA's Swift satellite alerted astronomers to intense and unusual high-energy flares from a new source in the constellation Draco. They soon realized that the source, which is now known as Swift J1644+57, was the result of a truly extraordinary event -- the awakening of a distant galaxy's dormant black hole as it shredded and consumed a star. The galaxy is so far away that the radiation from the blast has traveled 3.9 billion years before reaching Earth.

Most galaxies, including our own, possess a central supersized black hole weighing millions of times the sun's mass. According to the new studies, the black hole in the galaxy hosting Swift J1644+57 may be twice the mass of the four-million-solar-mass black hole lurking at the center of our own Milky Way galaxy. As a star falls toward a black hole, it is ripped apart by intense tides. The gas is corralled into a disk that swirls around the black hole and becomes rapidly heated to temperatures of millions of degrees.

The innermost gas in the disk spirals toward the black hole, where rapid motion and magnetism creates dual, oppositely directed "funnels" through which some particles may escape. Particle jets driving matter at velocities greater than 80-90 percent the speed of light form along the black hole's spin axis. In the case of Swift J1644+57, one of these jets happened to point straight at Earth.

Theoretical studies of tidally disrupted stars suggested that they would appear as flares at optical and ultraviolet energies. The brightness and energy of a black hole's jet is greatly enhanced when viewed head-on. The phenomenon, called relativistic beaming, explains why Swift J1644+57 was seen at X-ray energies and appeared so strikingly luminous.

When first detected on March 28, the flares were initially assumed to signal a gamma-ray burst, one of the nearly daily short blasts of high-energy radiation often associated with the death of a massive star and the birth of a black hole in the distant universe. But as the emission continued to brighten and flare, astronomers realized that the most plausible explanation was the tidal disruption of a sun-like star seen as beamed emission.

もう少し、英語の勉強もしなければ…。

2011/08/26

facebook ページを作りました!

このブログの更新を楽しみにされている方へ朗報です!!

あまり、いないとは思いますが…。


定期購読をされている方はほとんどいないということは知りつつも、facebook ページの作成をいたしました。

facebook ページのタイトルは、『個人ブログ「Off the Job Training」の FB ページ』。

「FB ページ」には、facebook ページという意味に加え、フィードバック(feedback)のページという意味も持たせています。

このブログを読んでのご意見やご感想、あるいは批判も含め、何かありましたら是非教えてください。


読んでいる方が少ないにも関わらず、なぜ facebook ページを作ったか?

それは、、、

単に作ってみたかったからです。


facebook については当初はわからないことが多く、使用頻度も少なかったのですが、最近少しずつわかりはじめ、使用機会も増えてきました。

このブログでも、少しずつ facebook のソーシャルプラグイン等を増やしています。


テーマが定まっておらず、無秩序な記事が多いですが、もし気に入った記事がありましたら、左上あるいは下部中央より、「いいね!」をお願いします。

2011/08/21

海洋堂ホビートレイン

先日、愛媛より大阪に帰ってきました。

宇和島駅で列車の出発を待っていると、向こう側のホームにどす黒い赤の列車が止まっていました。

かなり気になったので、写真を撮りました。

どうやら、「海洋堂ホビートレイン」に出くわしたようです。

海洋堂といえば、確か「チョコエッグ」のフィギュアをつくっていた会社(だったと思います)。

その海洋堂のホビー館(HP: 海洋堂ホビー館四万十)が、どうやら高知の四万十町にオープンした模様です。

時刻表にも「海洋堂ホビートレイン」の名前がでるとのこと(「JR ホビートレイン完成お披露目式!!」)

お披露目式のYouTubeまでありました。


また、多分別件ですが、8月8日を「四万十かっぱの日」と制定しちゃったりしています(「四万十川かっぱの日制定のお知らせ!」)。

海洋堂ホビー館四万十は、平成21年度に廃校になった打井川小学校の体育館を改築してつくられ、過疎の地域に新たな人の集まりと賑わいを起こすという地域住民の思いがこめられているとのこと。

海洋堂と四万十町の関係はわかりませんでしたが、ホームページの「ごあいさつ」の中で、海洋堂の宮脇社長の言葉、
この出来事のすごいところは、日本全国のどこよりも早く四万十町つまり公の組織が海洋堂=オタク文化の施設を作ることであります。これからいろいろと模型、ホビー、フィギュアを使った施設は出来てくるでしょうが二番じゃあ駄目なんです! 一番であることの意味はとても大きいのです。
 その一番目の記念すべきミュージアムがオタクの聖地秋葉原ではなく、日本でおそらく一番不便な四国、高知の四万十町に出来ることは、常日頃とても便利な都会に生活している方々にとって、わざわざ不便な場所に足をのばして見に行くという「非日常を感じる」イベントとなります。
 そのお遍路さんのような苦労をして到着する「海洋堂ホビー館四万十」は、これまで海洋堂が歩んできた1960年代からの歴史と実績を体感できるフィギュアの魅力がぎっちりと詰まったまさにホビーの聖地になることは間違いありません。
意気込みが感じられます。

確かに、愛媛宇和島と高知窪川を結ぶ予土線は不便です。

特急は走っておりませぬ。

「海洋堂ホビートレイン」は期間限定。

(外見はともかく、)車内にも装飾が施されているようですので、乗ってみたいとは思いました。

ホビー館の方も面白そうですね。


さて、過疎化対策にはなるか!?

中島敦「悟浄出世」

中島敦「悟浄出世」について。

「悟浄出世」は、『西遊記』のなかの登場人物(?)である沙悟浄を主人公とした作品です。

三蔵法師や孫悟空と出会い、天竺までの旅をともにする前、流沙河の河底が舞台です。

岩波文庫版にある氷上英廣さんの解説での言葉を借りれば、「沙悟浄をピュロンを思わせる懐疑派に仕立てて、流沙河の河底の月明の中を、思想遍歴させるという着想はすばらしい。」

この「悟浄出世」と、もうひとつ「悟浄歎異」という短編には「『わが西遊記』の中」という断り書きが付いています。

中島敦は『西遊記』を題材に、『わが西遊記』という作品を書こうとしていて、上記「悟浄出世」と「悟浄歎異」はそのなかの断片であると言われています。

『わが西遊記』、読んでみたかったです。

どんな作品になっていたでしょうか。


話を元に戻して、「悟浄出世」について。

この短編を読んだとき、最近(といってもここ半年くらいに)読んだ、森博詞さんの『自分探しと楽しさについて』を思い出しました。

「悟浄出世」は思想遍歴の旅でもありますが、「自分探しの旅」とも読める作品です。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」

中島敦の「山月記」。

国語の教科書にも掲載されていたので、ご存知の方も多いと思います。

帰省中に中島敦の『山月記・李陵 他九篇』(岩波文庫)にて、教科書以来数十年ぶりに「山月記」を読み直しました。

李徴が虎となった理由として自己分析を語る件で、有名な(?)言葉があります。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」。

それぞれが、どのようなことを指しているのかのメモ書きです。

2011/08/20

市越池の「海津見神社」

前回記事の続き)

実家近くにある「鬼北総合公園」。

そしてそこにある「市越池」。

写真は市越池を反対側から撮った写真。

さて、この市越池の中心あたりに、「竜王様」と呼んでいる神社があります。

ちょうど吊橋を渡ったところです。(写真は竜王様側から見た吊橋)

この「竜王様」、正式名称は「海津見神社」ということがわかりました。

今回は「海津見神社」について。

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