「悟浄出世」は、『西遊記』のなかの登場人物(?)である沙悟浄を主人公とした作品です。
三蔵法師や孫悟空と出会い、天竺までの旅をともにする前、流沙河の河底が舞台です。
岩波文庫版にある氷上英廣さんの解説での言葉を借りれば、「沙悟浄をピュロンを思わせる懐疑派に仕立てて、流沙河の河底の月明の中を、思想遍歴させるという着想はすばらしい。」
この「悟浄出世」と、もうひとつ「悟浄歎異」という短編には「『わが西遊記』の中」という断り書きが付いています。
中島敦は『西遊記』を題材に、『わが西遊記』という作品を書こうとしていて、上記「悟浄出世」と「悟浄歎異」はそのなかの断片であると言われています。
『わが西遊記』、読んでみたかったです。
どんな作品になっていたでしょうか。
話を元に戻して、「悟浄出世」について。
この短編を読んだとき、最近(といってもここ半年くらいに)読んだ、森博詞さんの『自分探しと楽しさについて』を思い出しました。
「悟浄出世」は思想遍歴の旅でもありますが、「自分探しの旅」とも読める作品です。
「悟浄出世」は、作者により、7つに分けられ、番号が振られています。
その番号毎の小見出し等はないのですが、文中から単語を選んで仮につけるとすると、
- 悪い病気
- 出発
- 旅
- 女偊(じょう)氏の許
- 目に見えぬ変化
- 夢の御告
- 新しい遍歴
冒頭で沙悟浄の「悪い病気」について描かれています。
その病気とは、「『自分』というものに疑をもつこと」。
この「心の病が肉体の苦しみとなって悟浄を責め」ます。
堪えがたくなった悟浄は意を決して旅に出ます。
この旅路が思想遍歴であり、自分探しの旅の始まりです。
魚面人身の幻術の大家である黒卵道人、年を経た蝦の精の沙虹隠士、50日に1度目を覚ます坐忘先生、女性的な高貴な風姿の白皙の青年、醜い乞食の子輿、・・・。
古今東西の思想とともに、様々な妖怪が出てきます。
鯰の妖怪、虯髯鮎子には喰われそうになり、隣人愛の教説者である無腸公子の驚くべき行為を目の当たりにし、蒲衣子の弟子は水に溶けてしまう。
500余歳の女怪、斑衣鱖婆のところには、醜さもあり留まらず、遍歴を続けます。
5年近く遍歴を続けたのち、女偊(じょう)氏に出会います。
女偊(じょう)氏との邂逅の後、「徐々に、目に見えぬ変化」が悟浄の上に働いてきます。
「今まではいつも、失敗への危惧から努力を倣棄していた」悟浄が、「骨折損を厭わない所にまで昇華されて」きます。
そして「夢の御告」があります。
この先、天竺へ向かう三蔵法師とその弟子2人(孫悟空と猪八戒)が流沙河を渡るので、彼らとともに西方へ行け、との御告げです。
「悟浄出世」は、沙悟浄と三蔵法師一向との出会いで終わっています。
興味深いのは、夢の御告げの後の沙悟浄です。
「常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己呵責が、つい独り言となって洩れ」ていた悟浄が、「久しぶりに微笑」するのです。
森博詞さんの『自分探しと楽しさについて』には、「楽しさ」を探す行為と「自分」を探す行為は同義であるように思う、ということが書かれていました。
悟浄は、小さなものかもしれませんが、楽しさが見つかって、微笑んだのかもしれません。
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