画工は、シェリーの雲雀の詩の一節を口ずさみ、そして、考を進めます。
成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜もあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。以前に「千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」と評した詩人について、「あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい」と考えを述べています。雲雀の声を聞くときは「まのあたりに写した」のかもしれませんが、詩として着想を紙に落としたときには「愁(うれい)」が含まれているのに気づきます。「喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい」ことが、詩にも現れているのです。
しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護して居る。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座して居る。呑気なものだ。又考えをつづける。シェリーの詩にあるように、詩人に憂いはつきものかもしれません。しかし、雲雀の声や菜の花、蒲公英(たんぽぽ)、桜など、自然の景物、景色は見るもののも聞くものも面白く、苦しみが起こらない。それはなぜだろうと、画工は考えを進めます。
詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英も其通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だろう。
然し苦しみのないのは何故だろう。只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只此景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬ此景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力は是に於て尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。自然の景物を見たり聞いたりするのには苦しみがない。それはなぜかと考えるに、「只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むから」であると画工は言います。ただこの景色が景色としてのみ楽しませてくれるからであると言います。
自然は、見る人を楽しませようとしてあるわけではありません。ただありのままにある。それを「まのあたりに見る」。「景色が景色としてのみ」あるからこそ、心を楽しませてくれるのです。開拓したり、鉄道をかけたりしようと見た場合は、自然をありのままに見ることができません。開拓後や鉄道をかけた後の姿を見ていることになります。こちらから何かしようと見るでもなく、対象がこちらに何かなそうとするでもなく、ただありのままに存在する。そしてそれが「自然の力」であり、その力によって「醇乎として醇なる詩境」に入れてもらえるのです。「醇」は「純」と同じような意味で、まじりけがないことです。
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