2019/02/13

『薔薇の名前』の名前について

『薔薇の名前』という書名(タイトル)について、ウンベルト・エーコは『「バラの名前」覚書』で、次のように述べている。
『バラの名前』を書いてから、私は読者の方々から多数の手紙を受け取った。巻末のラテン語の六脚韻詩句の意味は何か、またなぜこのタイトルがそれから暗示を受けたのかを知りたいというものだった。
私が答えたのは、この詩句が、12世紀のベネディクト会修道士、モルレーのベルナールの『俗世蔑視について』から採られていること、この詩が「いずこにありや」(Ubi sunt)テーマの一つの異形である(ヴィヨンの「されど去年の雪は今いずこにかある」もやがてここから派生することになる)こと、ただし、ベルナールはありふれたトポス〔共通表現〕(往年の偉人たち、有名な都市の数々、美しい王女たち、すべてが露と消え去る)にさらに、消え失せるすべてのもののうちただ名辞だけは残存するとの考え方を付加していること、である。
アベラールが "nulla rosa est" 〔いかなるバラも(存在し)ない〕なる句を用いたのは、言葉が消え失せた物についても、存在せざるものについても語りうることを示すためだったことにも私は言及しておいた。
(『「バラの名前」覚書』p.3)
『薔薇の名前』の最後の文章はラテン語で書かれた詩句である。邦訳ではカタカナで「〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉(下、p.383)」と訳されている。邦訳版ではこの箇所のラテン語は載っていない。

最近、『薔薇の名前』のブログ記事を書き、そこにamazonへの書籍リンクを貼っていたためだろう。amazonからのオススメとして、エーコの『「バラの名前」覚書』の邦訳が紹介されており、購入してしまった。そして同じように紹介されていた、A.J.ハフト(他)『「バラの名前」便覧』も合わせて購入した。

『「バラの名前」便覧』には、該当のラテン語が載っていた(その訳と、注もあった)。
【本文】stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.
【訳】きのうのバラはただその名のみ、むなしきその名をわれらは手にする。
訳者が異なるので日本語訳が異なるのはしかたのないことであろう。

さて『薔薇の名前』の書名について話を戻すと、エーコが読者から受けた質問は「巻末のラテン語の六脚韻詩句の意味は何か」、また「なぜ『薔薇の名前』というタイトルがそのラテン語の詩句から暗示を受けたのか」を知りたいというものだった。

それについてエーコは、「(このラテン語の詩句は)ベルナールの『俗世蔑視について』から採っていること」、「この詩が「いずこにありや」(Ubi sunt)テーマの一つの異形であること」、そして「(この詩句の作者である)ベルナールはありふれた表現に、消え失せるすべてのもののうちただ名辞だけは残存するとの考え方を付加していること」、そして「アベラールが"nulla rosa est" 〔いかなるバラも(存在し)ない〕なる句を用いたのは、言葉が消え失せた物についても、存在せざるものについても語りうることを示すためだったこと」を答えたと、『「バラの名前」覚書』に書いている。

「いずこにありや」(Ubi sunt)テーマというのがよくわからないが、ここには「名前」あるいは「言語」「記号」の特徴が表れている。

この世の中に実物として残っていないものでも、その名前だけが残っているものがある。たとえば(乱暴な例だが)ウンベルト・エーコは2016年に亡くなったが、「ウンベルト・エーコ」という名前は残っている。あるバラの花が枯れてしまったとしても、「バラ」という言葉はある。

言葉が消え失せた物についても、存在しないものについても、「言葉が消え失せた物」「存在しないもの」という言葉で表現できる。

『薔薇の名前』という書名がエーコの念頭に浮かんだのは「ほとんど偶然だった」という。しかし、気に入っている理由として、「薔薇(バラ)」という言葉には様々な比喩的な意味や象徴が含まれ(過ぎ)ていて、そこから本の内容が推測しづらいことを挙げている。最終行のラテン語の詩句で唯名論的な読みができるとしても、それは読み終わりの最後である。

『薔薇の名前』の本のカバーのソデに、エーコ自身がしたためた惹句があるという(『100分de名著』2018年9月)。「理論化できないことは物語らなければならない」と。

1980年出版の『薔薇の名前』の前に、エーコは『開かれた作品』(1962)や『記号論』(1975)など、理論的な書物を出版している。それらに書ききれなかったことを書こうとして書いた物語が『薔薇の名前』であるとも言える。


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