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2017/02/19

根掘り葉掘りで実を結ぶ

NHK、Eテレで「ねほりんぱほりん」という番組がある。ゲストの話し手はブタの人形、聞き手はモグラの人形で、「根掘り葉掘り」赤裸々な話を聞き出すトーク番組だ。残念ながらTVは見ないので持っておらず見たことはないが、facebookやtwitterで番組の広告や感想の投稿を見かけ、結構人気があるようだ。タイトルの「ねほりんぱほりん」は、「根掘り葉掘り」という慣用句からつけたタイトルだろう。

「根掘り葉掘り(聞く)」とは「徹底的に、事細かに、しつこく(聞く)」という意味で使われる。“「葉掘り」は「根元から枝葉に至る隅々まで」といった意味合いから、「根掘り」に語調を合わせ添加したものである”と「語源由来辞典」に載っていた。「根掘り葉掘り」という言葉に「しつこい」というネガティブな印象があるのは、余計な枝葉の部分まで掘っているからだろう。

一方で「根も葉もない」という慣用句もある。「根も葉もない噂」のように「根拠がない、理由がない」という意味合いで使われている。こちらは「故事ことわざ辞典」を見ると、“根も葉もなければ植物が育つはずないことからや、「根拠」を「根」で表したため語呂合わせで「葉」が加わったともいわれる”とある。語呂合わせの可能性もあるが、植物が育つには「根」と「葉」が必要であることも示している。

以前から「言葉は『葉』である」と思い、そこから連想して「根」は「音」ではないかとも書いたことがあるが、最近「根」は「心根(こころね)」ではないかとも思いはじめた。植物が育つには「根」と「葉」が必要ならば、人間が育つには「心根」と「言葉」が必要ではないかと。根も葉もなしに生きていくのは困難かもしれない。根と葉があれば実を結ぶかもしれない。

「ねほりんぱほりん」の聞き手役がモグラの人形であるのは、掘っていくイメージからだろう。本音、心根を掘っていく。ときには枝葉を掘るかもしれない。そして、人気番組として実を結んだのではないか。

番組を見てもいないので、根も葉もない戯言として。

2016/11/03

言葉という言葉

「言葉」という言葉が好きだ。

「葉」という漢字からの連想なのか、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。日本語だから当たり前のことかもしれないが、日本的な言葉だとも思う。

web上の和英辞典で「言葉」を引いてみると、「speech」「word」「language」の3語が載っていた。しかし私にとっては、どれも「言葉」という言葉にしっくりとくる単語ではない。

「speech」は「speak」とも関係があり、「話」や「発言」という意味が強い。口から発せられた音声としての言葉が意味の中心である。「言葉」には音声も文字も含まれているだろうが、「speech」は話し言葉に限定される気がする。

また「word」は、「単語」もしくは「語」という文字がふさわしく思う。「話す」というのが原義だと手元の英和辞典には書いてあった。私は英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからないが「word」はきっちりかっちりとしたイメージがある。英語の文章を書くと単語と単語の間にスペースを入れて書くことになるが、スペースとスペースの間のまとまったものが「word」であり、「words」のように複数形となるように、数えられるものである。日本語では複数の意味を明示的に表現しないせいもあるが、「言葉」は「word」や「単語」のようには数えられない。

「language」は「言語」である。日本語ならば日本語全体あるいは日本語体系という意味合いがあるように思う。

いずれにせよ、先にも書いたが、英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからない。また、日本語の単語と英語の単語で一対一に対応していなければならないという理由もない。ソシュールを持ち出す必要もないが、言語は恣意的なものである。

ただ「ことば」の漢字に「葉」を当てたところがいい。

英語では「話す」や「語る」など、人間の活動としての側面が強く感じられる。日本語でも「話」「語」「言語」「言」など似たような言葉はある。しかし「言葉」という言葉は人間の活動とは少し切り離されたところにあるような気がする。

これもweb上で「言葉」の語源を調べてみると、「言(こと)」+「端(は)」の複合語だという。古くは「言語」を表す語は「言(こと)」が一般的であったが、「言(こと)」は「事(こと)」と同じ意味があり、「言(こと)」は事実にもなり得る重い意味を持つようになったため、軽い意味を持たせようと「端(は)」をつけて「ことば」となったと考えられると書いてあった。(語源由来辞典「言葉」)

「事(こと)」の実が「事実」で、「言(こと)」の葉が「言葉」。

同じく語源由来辞典には、「言葉」が残った理由として、『古今和歌集』仮名序の「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける」でうまく表現されているとおり、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表すためと考えられるとあった。

人間活動というよりは、植物にたとえて表現している。

心を種とし、言の葉が茂り、事の実ができる。

ひょっとすると、「音(ね)」は「根(ね)」かもしれない。心の種から「本音」が出てくる。

またひょっとすると「気(き)」は「木(き)」かもしれない。「気配り」は「木配り」。宮本武蔵も『五輪書』で大工にたとえて書いている。

「言葉」という言葉には、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。イメージが育っていく。枯れることもあるかもしれない。

話のタネとして書いてみた。

2013/02/02

わもんな言葉26-源泉わもん

本日、「未来への羅針盤~源泉わもん~in大阪1DAY集中講座」に参加。

本来3回コースで行われる「未来への羅針盤~源泉わもん~」を1日で行う集中講座です。


最近読んでいる『孟子』の中に、「原泉(源泉)」の言葉があります。

徐子曰く、仲尼亟水を称して曰く、水なるかな、水なるかなと。何をか水に取れる。孟子曰く、原ある泉は混混として、昼夜を舎かず。科を盈たして後に進み、四海に放る。本ある者は是の如し。是れ之を取れるのみ。苟も本なから為めば、七八月の間、雨集りて溝澮皆盈つるも、その涸るるや、立ちて待つべきなり。故に声聞情に過ぐるは、君子之を恥ず。
『孟子』離婁編の言葉です。

意訳します。

孟子の門人の徐子が孟子に尋ねます。

「孔子はたびたび水を称えて『水なるかな、水なるかな』といわれましたが、水にどんな取り柄があるというのでしょうか?」

孟子の回答は、

「水源ある水は、混混として夜昼となく休みなく流れている。窪地があればそれをいっぱいに満たしてから先へ進んでいき、海へとたどりつく。本源あるものはこのようなものだ。この点を『水なるかな』と称えたのだ。もし本源がなかったら、7月・8月の間は雨が降るので田圃の溝は水が満ちているが、雨が降らず水が涸れてしまうとまた雨を待つしかない。だから、実情を伴わない名声は、君子は恥としている」

というもの。


溝があっても水がなければ用をなしません。

いくら知識やスキルがあろうとも、そこに流れる水がなければ無用となってしまいます。

名声があろうとも、実情がなければそのうち涸れてしまうでしょう。


自分の「原ある泉」、つまり「源泉」はどこにあるのか?

そして源泉からの水はどこで満たされ、どこへ行くのか?


川をさかのぼりつつ、その源泉を見つけにいこう。

それが、「源泉わもん」です。


同じく『孟子』の「告子編」には以下の問答があります。

告子が孟子の性善説に反論します。

「人の本性というものは、流れる水のようなものだ。これを堰き止めて東に切って落とせば東に流れるし、西に切って落とせば西に流れる。人の本性も人為でどのようにもなるものだ。水がもともと東に流れるか西に流れるか決まっていないように、人の本性ももともと善や不善に決まってはいない」

それに対する孟子のこたえは、

「東西に流れるとは決まっていないが、高いところから低いところに流れるのは決まっている。その水の流れも堰き止めて逆流させれば高いところへ流すことはできるかもしれないが、それは本性とは言い難く、外からの圧力がそうさせたのであろう」


源泉から湧き出た水が堰き止められてはいないでしょうか?


源泉から自然に流れ、窪地に溜まり、溢れまた流れていく。

水の溜るところが「強み」ではないかと思うのです。


堰き止められている場所や、水の溜まった窪地をたどりつつ、「源泉」へ。

話を聞きながら、音を頼りに、本音へ。


それを羅針盤として命を使ってみてはいかがでしょうか。


21Smiles Garden



孟子〈上〉 (岩波文庫)
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孟子〈下〉 (岩波文庫)
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わもん -聞けば叶う
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2011/11/03

本音の言葉は胸にこたえる

先日、仕事上でミスをしてしまいました。

詳細は書けませんが、報告を怠ってしまったことです。

その相手からの言葉が胸に突き刺さりました。

簡単にいえば、「信頼できなくなった」という言葉。

キツい、です。


信頼を築くには時間がかかりますが、壊れるのは一瞬。

身に染みてわかりました。


しかし、「信頼できなくなった」というのは、それまでは信頼してもらっていたこと。

そして、そう言ってくれるのは、何も私をつぶそうとして言っているわけではないこと。

あらためて感じました。


感情に任せて言うならば、思ったときにその場で言うと思います。

しかし、時間もとっていただき、周りには聞こえないように言ってくれたということは、考えて「言った方がいい」と思い言ってくれたことです。


考えた上で「信頼できなくなった」と言うことは勇気、覚悟が必要です。

その覚悟に応えるだけの覚悟を、私も示さなければなりません。


まだ、甘えがあった。覚悟が足りなかった。


それを今後、どう表現していくかが課題です。


時間はかかるかもしれませんが、信頼の回復に向けて、覚悟を持って臨みます。

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