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2012/06/28

わもんな言葉8-わもん聴覚 #わもん

夕方にふと「言葉」というのは、「言」の「葉」だな、と思いつきました。

ということは、「言幹」とか「言根」とかもあってもいいんじゃないかとも。

しかし、そのような言葉はありません。


言いたいことの葉っぱが「言葉」とすれば、言いたいことの「幹」とか「根」とかもあっていいんじゃないかな、と思いを巡らしていると、「言いたいこと」を「植物」に例えているな、とあらためて気づきます。


私たちは何か植物を見るとき、その葉っぱの形状や色などから植物を見分けているように思います。

植物学的な分類方法は知りませんが、常緑樹や落葉樹とかは葉っぱがどうなるかという分類ですね。

銀杏や紅葉などは、葉っぱの形や色に特徴があります。


言葉もそのような傾向があるかもしれません。

その言葉を聞くことで、その人の特徴などを知る手掛かりになります。


しかし、それが全てではない。

植物も葉っぱだけではありませんし、人も言葉だけではありません。


こんなことをうつらうつらと考えていましたが、それほど深く考えることもなく、走りに出かけました。

走った後は、本屋さんへ行くのが習慣です。

何故かと言われても困りますが(^-^;)


で、本屋さんで本を眺めていると、沢庵禅師の『不動智神妙録』の文庫本を発見。


『不動智神妙録』は、沢庵禅師が柳生但馬守に剣禅一如を説いたもので、講談社学術文庫版の『五輪書』に、よく引用されていたものでしたので、買いです。

そして、読み進めていると、以下の文章に出くわしました(池田諭さんの訳です)。
 たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
数時間前に考えていたことが頭によぎり、心がとらえられてしまいました(^-^;)

「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、「言葉を聞いて心を聞かず」というフレーズが浮かびます。

書籍『わもん』の「『わもん聴覚』で聞く」の節に、以下の文章があります。
 たんに「耳で聞く」という意識で聞いていると、どうしても言葉にしばられやすくなります。そこで、「声なき声」をとりこぼすことなく受けとるために、「わもん聴覚」という発想転換をしてみるのです。「わもん聴覚で聞く」という気持ちになってみると、言葉のまわりにあるさまざまな情報を、もれなくつかみとる態勢ができてきます。
「わもん聴覚」の場合、「聞く」というよりも、「感じとる」「察する」に近い感覚です。

「声なき声」を聞くためには、一枚一枚の言葉に心を止めず、話し手の全体を聞くことです。


2011/11/03

直指人心

ことばには、それを発する人の思いや考え方、経験、感情など、様々なものが入り混じっています。

しかし、ことばとして表現されるのは氷山の一角。

話し手が伝えたいことが、圧縮されたり、単純化されたり、パッケージ化されたりして、その一部がことばとして表現されます。


そんなことばから、そのことばの背景や裏側にあるもの、それらを感じること、それが深い聞き方であると考えています。

同じ言葉でも、声の調子やピッチ、高さ、抑揚、アクセントなどで違いがあります。


私は「言葉は入れ物」と考えています。「枠」といえるかもしれませんし、「袋」と表現してもいいです。


例えば、お菓子。

ほとんどのお菓子はパッケージに入れられて売られています。

そのパッケージをみると、そのお菓子がチョコレートなのか飴なのかクッキーなのか、だいたいわかります。どんな材料が使われているのか、どんな味なのか、いつどこで作られているのか、なども書いてあります。中身の写真や絵なども載っています。

しかし、実際の本当の中身は、予想はつきますが、開けてみるまでわかりません。想像通りのものかもしれませんし、思っていたものと違っていたということもあります。


ことばというのは、お菓子のパッケージみたいなものです。

思いや考え方、経験や感情、それらを包み込んで、ことばとして表現されます。


話し手の思っている中身と聞き手の思っている中身は違うかもしれません。ひょっとすると中身を入れずにパッケージだけ、ということもあるかもしれません。


私たちはことばを使って意思疎通を図ることがほとんどです。ひとつの事柄を表現するのにも、たくさんのことばを使います。

そうやってできるだけ近い思いをことばによって共有していきます。


逆に考えると、言葉は伝えたいことを包み、中身を見えなくしてしまうとも言えます。


話し手としてはできるだけ自分の思いを伝えられるように、聞き手としてはできるだけ相手の思いを感じられるように。

ことばを探してしまいます。


禅の言葉で「直指人心」という言葉があります。

「直ちに人の心を指せ」、言葉という媒体を通してではなく、直に心に触れる。


今は、この感覚を探しています。

2011/10/19

龍安寺の石庭

突然ですが、最近、禅に興味を持っています。思えば子どもの頃から禅の要素に触れてきたのでは、と感じ始めました。

今、読んでいる本のひとつに、プレジデント別冊『禅的シンプルライフ』があります。

この本の中に「禅の庭」という記事があり、「枯山水」を代表する庭である「龍安寺の石庭」の紹介がありました。

「枯山水」というのは、水を使わず水の流れを表現したような庭。龍安寺の石庭は、白い砂利を敷き詰め、そこに波のような紋様を描き水を表現していると言われています。

Wikipedia「龍安寺」で、龍安寺は禅宗の一派である臨済宗妙心寺派の寺であることを、今、知りました。

神社とかお寺とか、それほど興味はないのですが(ちょっとはあります)、小学校か中学校の歴史の授業で「枯山水」という言葉を習ってから、龍安寺の石庭は見てみたいと思っていた場所です。

中学校の修学旅行が京阪神方面で、グループで京都を自由に観光する時間がありました。自由にといっても思いつきで行動していいわけではなく、事前に計画を立てて先生に提出しておかなければならなかったのですが、その際に「(他はどこにいってもいいので)龍安寺にだけは行ってみたい」と主張したことを思い出しました。結局その希望はかなわなかったのですが…。

せっかく今、関西にいるので、近いうちに龍安寺には行ってみたいと思います。

2011/10/11

禅の四聖句

坐禅したこともないですが、禅に興味があります。

おかしな言い方ですが、禅の考え方が好きです。禅者に言わせれば、「野狐禅」です。


禅の根本義と言われるものに「四聖句」というものがあります。4つの聖句です。その4つの聖句とは、「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」。禅宗を確立した初祖達磨大師の残した言葉とされています。


ひとつめの「不立文字(ふりゅうもんじ)」。文字を立てない、ということですが、文字や言葉を否定しているわけではありません。「釈迦の悟り」を伝えるものは文字や言葉では言い表せない。体験するしかない。言葉や文字は、補足にはなるかもしれないが、伝えたいものは釈迦の言葉や文字ではない。体感、経験が必要であることをいいます。

「教外別伝(きょうげべつでん)」の「教」は、お経・経典の「きょう」ともいえるかもしれません。経典のように言葉や文字で伝えるのではなく、以心伝心で、直接の体験として、師から弟子へ伝えていく。

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊は言われた、「私には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くに解くことのできぬ覚りの心、そのすがたが無相であるがゆえに、肉眼では見ることができないような不思議な真実在というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう」。
(岩波文庫『無門関』より)

「世尊拈花」あるいは「拈華微笑」といわれるエピソードですが、このとき、釈迦から摩訶迦葉に微妙の法が伝わりました。摩訶迦葉を1祖とすると、達磨大師は28祖です。

「直指人心(じきしにんしん)」は、「直ちに人の心を指せ」。単純にいうと、「自分を見つめろ」。自分の心をただただ見つめなさい、と言っています。

そして「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」。「性」は「心」ともいえるでしょう。心を見つめると仏に成る。「悉有仏性」。自分の中の仏性を見つけ、見つめることで、あなたが仏である。


最後の「見性成仏」は、禅宗も仏教であるから仏様としていますが、自分自身を見つめることで、(この言い方は本当の自分が別にあるようで嫌なのですが、)「本来の自己」になれる、とも言い換えることができるかと思います。

禅では、「坐禅」、「ただただ坐れ」といいますが、坐ることは目的ではなく手段なのです。

2011/09/30

無門関

大道無門 千差有路
透得此関 乾坤独歩
禅の公案集『無門関』の序文にある無門慧開禅師の頌(じゅ)です。

「大道に入る門は無く、到るところが道なれば、無門の関を透過して、あとは天下の一人旅。」(西村恵信訳)

門無き道の無門関。

この関をくぐり抜ければ、自他一如の大自在の旅のはじまりです。

さて、この関の有りや、無しや。

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