先月に引き続き、今月も心徒塾に参加しました。
心徒塾という場は、不思議な空間です。「聞く達人・聞き方の黒帯を目指す修行の場」なのですが、修行からイメージされる厳しさとか忍耐とかは感じることなく、楽しく過ごせる時間です。かといって、単に楽しくおしゃべりをする空間ではなく、真剣な場。どちらか一方に偏った場は日常的にもあるのですが、どちらも体感できる場はあまりありません。
そこでの修行のひとつにある「朗読稽古」。言葉で言ってしまえば、同じフレーズを全員が一人ずつ順番に音読するという単純なものです。しかし、深い。
音読するだけならば簡単にできるのですが、「朗読稽古」では、例えば筆者の思いであるとか、感情であるとか、あるいは情景や状況のイメージなど、それらを言葉に乗せて音読する。表現力を鍛えるという意味もあり、文章やその行間からの思いを読み取る力を鍛える意味があります。
本日の「朗読稽古」では、私の文章の読み方の癖(?)に気が付きました。
まずひとつは、イメージに空白があること。
日頃は、なるべく先入観を捨てて物事を見たり聞いたりするように努めていて、それはそれで間違ったことではないと思っています。そして何かしらの文章を読むとき、例えばある風景の描写の文章を読んだとき、私の頭の中のイメージには言葉に描かれているものしか描かれていません。それが言葉を具体化したイメージだと思っていました。
しかし、そのイメージには空白部分が多くあります。朗読稽古中の他の方々の感想を聞いて、そのことに気が付きました。
そしてもうひとつは、ひとつめのこととも関係があるのかもしれませんが、静止画であること。
あるひとつの文章があり、そして文章が続くとき、スライドが切り替わるように場面が頭の中のイメージが変わっているような気がしました。ひとつ目の「空白部分が多い」ということと合わせて考えると、時間的な空白があるとも言えます。動画ではなく静止画です。
朗読稽古の前に、朗読稽古のポイントを一人ずつ発表したのですが、そのときに私の語った言葉は「言葉は入れ物。その入れ物に思いを載せて音読する」といったこと。
これらをひっくるめて考えると、文章の書き手は何らかの思いを込めて文章を書いていますが、私のイメージの中では文章に載せてある思いがなく言葉の器だけになっているのではないのか? そこに自分の思いを載せて音読するならまだしも、何も載せずにそのイメージを伝えようとしているのではないのか?
以前にTEDで、ポール・ブルーム「喜びの根源」というプレゼンを見ました。そこではなぜ贋作より本物を好むことについての考えの発表があり、来歴を感じたいという趣旨のことが述べられていました。
茶碗も、例えば「織田信長が使っていた茶碗」となると、箔がつきます。価値もつきます。
言葉も、その人がどのように使っているのか、使ってきたのか、どのような思いが込められているのか。
言葉も器。その言葉に価値観や思いや感情を載せる。
そのような言葉が、本物として感じられるのではないのか、と感じます。
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