2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

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