2019/06/06

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(6)

(前回はこちら

山路を行く春の日に、姿のない雲雀(ひばり)の声。絶え間なく一面に鳴く雲雀は、画工の想像で、雲まで登り詰め、形をなくしていきます。画工は歩を進めます。
 巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
「雲雀」に「菜の花」。春が広がります。想像も膨らみます。注によれば、漱石に「菜花黄」という漢詩があるようです。また、「雲雀」も「菜の花」も春の季語。これも注によりますが、漱石自身の句や、上島鬼貫、向井去来などの俳句も思い起こされる描写です。
 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
こうして余(画工)の考えは、再び「詩」に戻ります。「只菜の花を遠く望んだときに目が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する」。こう愉快になるのが「詩」であると。

先に「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」と言っていました。雲雀の声、一面の菜の花、春の陽気、このようなものが、まのあたりに、心のカメラに写ったのです。

そして、雲雀の詩を思います。
 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦して見たが、覚えて居るところは二三句しかなかった。其二三句のなかにこんなのがある。
  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
本文では「シェレー」と表記されていますが、「シェリー(Shelley)」の方が、通りがいいでしょう。イギリスの詩人です。引用されている英語は、シェリーの詩「To a Skylark」の一節です。「雲雀」は、英語で「skylark(スカイラーク)」。ファミリーレストランの「すかいらーく」に鳥のマークがついていますが、あれは「雲雀」なのですね。

シェリーの英詩の一節の引用部分の訳も載っています。「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」。詩の翻訳は別の言語に置き換えるだけではないということも何となく感じますね。

1 件のコメント:

  1. 正則一皐月闇のニンフたち2021/11/30 5:20

    ≪…極みの想、籠るとぞ知れ…≫は、数の言葉の成り立ちに・・・

     数言葉トレードオフに1創る   (正比例と反比例)

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