2020/07/19

可愛い蝸牛考

北村薫『詩歌の待ち伏せ』のなかで、可愛い句に出会いました。江戸時代の俳人、椎本才麿(しいのもと・さいまろ)の句です。
猫の子に嗅れてゐるや蝸牛
《蝸牛》を嗅ぐ《猫の子》、可愛いですね。《蝸牛》は「かたつむり」と読みます。

しかし、続く文章にはっとさせられます。可愛いのは《猫の子》なのか《蝸牛》なのかアンケートを取ったとすると、ほとんど全員が《猫の子》と答えるとした上で、
流れとして、視線は《蝸牛》に収束していきます。そこが焦点となる。季語も《猫》の春ではなく、《蝸牛》の夏です。しかし、読み終えた時、読者の眼というカメラは必然的にぐっと引かれ、再び《猫の子》の方を向いてしまう――と思うのです。生まれて初めて見た不思議な物体に初々しい関心を示す彼の、ひくひくする小さな鼻が見えるようです。ところで、この場合、ピンチに陥っているのは、勿論、後者です。そうなると、《定義》はどうなるのでしょう。
引用文中の《定義》というのは、「可愛い」を国語辞典(『新明解国語辞典 第二版』)で引いた意味のことで、《自分より弱い立場にある者に対して保護の手を伸べ、望ましい状態に持って行ってやりたい感じ》です。「ピンチに陥っているのは」《蝸牛》の方ですので、《猫の子》よりも《蝸牛》の方が弱い立場にある。しかし「可愛い」のは《猫の子》。

私も可愛いと思うのは《猫の子》の方ですので、ここに理屈はいらないのですが、はっとさせられたのは、「視線は《蝸牛》に収束していきます。そこが焦点となる」ということです。私は《蝸牛》に焦点を合わせていなかった。もちろん《蝸牛》はそこにいるのですが、背景の一部となっていました。《猫の子》ばかりに焦点をあてていたのです。

季語が《蝸牛》であることは言われなければわからないことでしたが、句の構造的に《蝸牛》が焦点となるはずなのです。句は「猫の子が嗅いでゐる」とは書かれておらず、「猫の子に嗅れてゐる」と書いているのです。文章として書くならば、「猫の子が蝸牛を嗅いでゐる」のではなく、「蝸牛が猫の子に嗅がれてゐる」のです。前者は、《猫の子》が《嗅ぐ》という行為の主体で、能動態の主語です。後者は、《嗅がれる》という受身で、主語は《蝸牛》です。文法的に焦点が《蝸牛》にあてられているのに、《猫の子》の可愛さに目を奪われていました。

北村さんは「思考は足の遅いランナーです」「《猫クン》を見た瞬間にやって来る微笑みに、追いつくことは出来ません」といいます。

柳田國男が提唱した考えのひとつに『蝸牛考』があります。方言で「カタツムリ」をどのようにいうか(たとえば「デンデン虫」「マイマイ」など)を調査した論文で、その方言の分布が京都を中心として同心円状に広がっていることから、方言周圏論を唱えています。『蝸牛考』は「カギュウコウ」と読みます。『蝸牛考』を読んだことがないので、私の勝手な想像ですが、方言調査ならば別にカタツムリでなくともいいのではないかと思うので、私は勝手に、同心円状のイメージとカタツムリの殻のイメージを重ねるために論文のタイトルを『蝸牛考』としたのではないかと思っています。

《猫の子》が《蝸牛》の臭いを嗅いでいる。これは「蝸牛香」です。

こうやって、人は信用をなくしていくものです。
足の遅いランナーは《猫クン》に追いつくことをあきらめ、別のところへ言葉を放りだします。これを「放言」といいます。


【書名】 詩歌の待ち伏せ
【著者】 北村薫
【出版社】 筑摩書房(ちくま文庫)
【刊行年月日】 2020/7/10
(文藝春秋(文春文庫)より刊行された『詩歌の待ち伏せ1』(2006/2)、『同2』(2006/3)、『同3』(2009/12)の3冊を合本し、加筆訂正を加え文庫化)
【内容】(裏表紙より)
本の達人・北村薫が古今東西、有名無名を問わず、日々の生活の中で出会った詩歌について語るエッセイ集。作品、作家への愛着や思いがけない出会いが、鋭敏な感性や深い想像力とともに丁寧に穏やかに語られるとき“詩歌”の世界の奥深さと溢れる愛情を感じずにはいられない。これまで分冊で刊行されてきたものを1冊に合本し、〈決定版〉としてよみがえる。解説 佐藤夕子

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