2020/07/14

猫事記

吾輩はネコである。名前はまだ無い。

どこで生まれたか混沌と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で名ー無ー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕らえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だか浮羽浮羽した漢字があったばかりである。掌の上で少し落ち着いて書生の顔を見たのが所謂人間というものの見始めであろう。

この書生の掌の内でしばらくはよい心持ちに坐っていたがしばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分からないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っているとどさりと音がして右眼から日がでた。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考えだそうとしても分からない。

ふと気が付いて見ると書生はいない。沢山おった兄弟が見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。そのうえ今までの所と違って無暗に明るい。眼を明いておられぬ位だ。果てな何でも様子が可笑しいと淤能語呂と這い出して見ると非常に痛い。吾輩は急に葦原の中に棄てられたのである。

漸くの思いで這い出すと向こうに大きな柱がある。余は柱の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。暫くして泣いたら書生がまた迎えに来てくれるかと考え付いた。試みにやって見たが誰も来ない。そのうちさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。いざ泣きたくても声が出ない。仕方がない何でもよいから食物のある所まで歩こうと決心をしてそろりそろりと柱を左に廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くと何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入ったらどうにかなると思ってもぐり込んだ。ここで余は書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。大地にあったのがお産である。我輩を見るや否やいきなり「あなにやし、えをとこを」と頸筋をつかんで地表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。何でも同じ事を繰り返したのを記憶している。吾輩が最後につまみ出され様としたときに主人が騒々しい何だといいながら出て来た。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておった。やがて「女の先だち言いしに因りて良はず、亦還り降りて改め言え」と云った。

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