夏目漱石『吾輩は猫である』のなかに「滑稽的美感」という言葉が出てきます。出てくるのは次に引用する箇所で、通称「アンドレア・デル・サルト事件」の真相を述べたあとの迷亭のセリフです。(ここでは読みやすいよう一部表記変更して引用しています。)
「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑発するのは面白い。先達てある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったらそ学生が又馬鹿に記憶の善い男で日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが皆熱心にそれを傾聴して居った。それからまだ面白い話がある。先達て或る文学者の居る席でハリソンの歴史小説セオファーノの話が出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬまでは鬼気人を襲う様だと評したら僕の向こうに坐って居る知らんと云った事のない先生がそうそうあそこは実に名文だといった。それで僕はこの男も矢張僕同様この小説を読んで居らないという事を知った」
定本漱石全集の第1巻『吾輩は猫である』では「滑稽的美感」についての注解があり、そこには次のように書かれていました。
滑稽的美感 おどけたなかに感動させる味わいがあること。『文学論』第二編第三章「fに伴う幻惑」において、「文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれて存する事あり」と述べた内容が、「滑稽的美感」の説明に相当する。談話『滑稽文学』に「滑稽と云うものは唯駄洒落と嘲笑ばかりではあるまいと思う。深い同情もなければならぬ。読む人に美感をも与えなければならぬ」ともいっている。
そこで『文学論』を読みはじめたのですが、どうも六づかしい。漱石は『文学論』において、文学的内容の形式を(F+f)という公式で表しています。第二編第三章の章題「fに伴う幻惑」のfとはこの公式(F+f)のfのことです。Fは
Focus(焦点)(あるいは、Fact(事実))、fは
feeling(情緒)ではないかと考えられています。第二編第三章は「f其物の性質の細目に亘りて」論及するとして章を割いていますが、この章だけを読んだだけではよくわかりませんでした。
北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のなかで、テレビのNG集について言及されていたところがありました。
《確かに面白いけれど、人の失敗を見物するのは、いい趣味ではない。高みから笑う感じになるから》と書きました。しかし、個々の番組を見ると、そうともいえない。これは、テレビという、映画や舞台よりも身近な媒体が開発した、特殊な分野だ――と思えたのです。
「《いい趣味》ではないが、しかし、親しみの笑いです」といいます。しかし、NGは「本来、見られない筈のもの」です。見る側にとっては、見られない筈のものであればあるほど、見たくなるものですが、見られる側にとっては見せたくないものです。NGは芸ではありません。北村さんは続けます。
商品として見せるからには、芸でなければなりません。NGは違う。となれば、それを芸にするのは、番組を製作する人間です。いかに構成するかが勝負でしょう。いい間違いや、台詞に詰まった場面を、だらだら並べても仕方がない。こういった番組にこそ、心地よい機知と愛情が不可欠なのです。
親しみの笑い。心地よい機知と愛情。これが「滑稽的美感」ではないかと感じました。
迷亭は、ただ冗談をいって笑っているだけではない。迷亭の冗談を真に受けて写生する苦沙弥先生や、演説する学生、知ったかぶりをする文学者の先生を、あざ笑うのではなく、親しみを込めて笑っているのです。「滑稽なことをしているが、それは美徳だ」と笑っているように思えます。
迷亭は美学者です。「滑稽的美学者」と呼んでもいいかもしれません。
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