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2020/07/31

ウーティス発見伝

『英語遊び』を読んで、もう一つ。予想(というより希望か)はしていたけれども、思いがけず出くわしたもの。「ウーティス」についてである。

ホメロスの『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスの冒険譚のひとつに、キュプロクス挿話がある。キュプロクス(一つ目の巨人)の住む島に流れついたときの話で、オデュッセウス(とその仲間)はキュプロクスのひとりポリュペーモスに捕まるが、うまく逃げだした話である。

話の詳細は省くが、オデュッセウスはポリュペーモスに名前を聞かれ、「ウーティス」と答える。そしてポリュペーモスの一つ目を突き逃げ出す。やられたポリュペーモスは叫び狂う。仲間のキュプロクスたちから「誰にやられた?」と問われたとき「ウーティスにやられた」と答える。しかし「ウーティス」というのは、英語で Nobody という意味で、「ウーティスにやられた」というのは「誰にもやられていない」という意味となる。なので、仲間のキュプロクスたちの助けが得られなかった。

この話を読んだとき、おもしろいと思ったのだが、この「ウーティス」を日本語に訳すのはむずかしいと思った。訳注を読んでやっと「おもしろい」と思えたのだ。英語だったら「ノーバディ」という名前はちょっと苦しいかもしれないが、「ノーマン」とすればいいだろう。しかし日本語ではどうか。「名無しの権兵衛」(『ついでにとんちんかん』という漫画に習志野権兵衛というキャラクタがいたと思う)とか「笹内(刺さない)という苗字はどうか」とか考えたが、これといったアイデアは浮かばなかった。

しかし、柳瀬さんの書いた本を読んだとき、柳瀬さんなら訳せるのではないかと思った。というより「もう訳しているはずだ」と勝手に思った。訳すというよりは「もう考えているはず」の方が適切かもしれない。

完訳とはならなかったが、柳瀬さんはジョイスの『ユリシーズ』を訳していた。ユリシーズは、オデュッセウスの英語名である。柳瀬さんが『オデュッセイア』を知らないはずはない。読んでいないとしても、キュプロクス挿話やウーティスの話は有名であるので知っているはずだ。そして知っているならば、考えていないわけがない。

ただ、柳瀬さんがギリシア語を知っていたかどうかは知らないが、「翻訳は実践である」という柳瀬さんが「ウーティス」のところだけ取り出して「こう訳すことができる」と述べることはないだろうとも思っていた。このようにいうときは、ホメロスの『オデュッセイア』を全訳すると決めたときか、まったくの余談としていうかのどちらかであろうと。

そして、『英語遊び』のなかで「ウーティス」に出会った。柳瀬さんは「想像をたくましくして」3通りの訳(訳というよりは、翻訳の方向性みたいなもの)を示していた。どれも、なるほど面白いと思えるものだ。

しかしそれよりも、驚いたことがある。柳瀬さんが書いている次の文である。
名前といえば、話は飛ぶが――というより、話を故意に古代ギリシアへもっていくと、名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた英雄がいる。ホメロスの大叙事詩『オデュッセイア』の主人公、オデュッセウスだ。
名前を勘違いされたために、危うく危機を逃れた?!

私はずっと、オデュッセウスはとっさの機知により「ウーティス」と名乗ったと思っていたが、どうやら、名前を聞かれたオデュッセウスは「名乗るほどの者ではありません」というという意味で「ウーティス」といい、ポリュペーモスが「そうか、ウーティスか」と勘違いをしたということらしい。機知が身を助けたと思っていたが、偶然助かったと考えられるのか……。

ジョイスの『ユリシーズ』第12章は「キュプロクス挿話」と呼ばれていて、柳瀬さんが語り手は犬ではないかという「発犬」をしたことは有名である(『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』参照)。「ウーティス」がオデュッセウスの機知ではなく、ポリュペーモスの勘違いであることを知ったとき、私のなかで「発犬伝」とつながった。だから「キュプロクス挿話」なのだと。(この辺りを書いていると、どんどん長くなりそうなので、今日はこれくらいに)


2020/07/28

ああ苦労す知句

ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』の巻頭に次の詩がある。柳瀬尚紀による訳も続けて引用する(ちくま文庫『シルヴィーとブルーノ』より)。
Is all our Life, then, but a dream
Seen faintly in the golden gleam
Athwart Time's dark resistless stream ?

Bowed to the earth with bitter woe,
Or laughing at some raree-show,
We flutter idly to and fro.

Man's little Day in haste we spend,
And, from its merry noontide, send
No glance to meet the silent end.

あらゆるわれらの人生は、すると夢にすぎないか
一条の金色の光の中にかすかに見えるのみか
残忍な時の暗流をよぎって

暴虐なる憂いに頭をたれ、あるいは
浮かれ気分で覗き眼鏡に笑いはしゃぎ
漫然とわれらうろつくのみ

慌しく人の短き日を過ごし
いとも陽気な真昼から、われら
ざわめきの絶える終わりを一瞥もせず
この詩はアクロスティック(acrostic)になっているという。各行の最初の文字を順に並べると Isa Bowman となる。Isa Bowman はキャロルのガールフレンド(少女友達)の名前である。さらに正確には double acrostic となっていて、各連の最初の三文字をあわせても Isa Bowman となる。各行の最初の文字を太字に、各連の最初の三文字を赤文字にしたものを以下に挙げる。
Is all our Life, then, but a dream
Seen faintly in the golden gleam
Athwart Time's dark resistless stream ?

Bowed to the earth with bitter woe,
Or laughing at some raree-show,
We flutter idly to and fro.

Man's little Day in haste we spend,
And, from its merry noontide, send
No glance to meet the silent end.
柳瀬は Isa Bowman を「アイザ・ボウマン」と読み(正確な読みはわからないらしい。「アイサ」かもしれないし「イサ」かもしれない)、各行の冒頭を「ア・イ・ザ/ボ・ウ・マ・ン/ア・イ・ザ」となるように訳している。

さらに柳瀬は、「こう翻訳した本人が、いまひとつ気に入らない」として、『英語遊び』のなかで「総ひらがな方式」での訳を挙げている。
ありとあらゆるわれらのじんせ
いはするとはかなきゆめにすぎ
ざるかときのあんりゆうにうす
ぼんやりひかるがみえるのみか
うれいごとにこうべをたれはた
またのぞきめがねにたわむれあ
んいにひびをおくるわれらなり
あわただしくもひをすごしつつ
いちべつすらあたえることをせ
ざるなりおわりなるちんもくに
漢字交じりの文で書くと、「ありとあらゆるわれらの人生は、すると、はかなき夢にすぎざるか、時の暗流にうすぼんやり光るが見えるのみか、憂いごとに頭をたれ、はたまた覗き眼鏡にたわむれ、安易に日々を送るわれらなり、あわただしくも日を過ごしつつ、一瞥すら与えることをせざるなり、終わりなる沈黙に」となる。

こんなものを見せられると、何かつくってみたくなる。「やなせなおき」でつくってみる。
やなせかいとひらがなでかくとや
なせかいとよみがちなのであとで
せいかくにかんじをかかなければ
なおきまりわるくぼくのこころは
おれそうになるもののかんじをか
きあらわすならやなせかいである
まったく詩的ではなく、私的な文章となった。「やなせかいと平仮名で書くと、嫌な世界と読みがちなので、あとで正確に漢字を書かなければ、なおきまり悪く、僕のこころは折れそうになるものの、感じを書き表すなら柳瀬買いである。」

なお「柳瀬買い」は、清水義範さんの短編「船が洲を上へ行く」より拝借した。「船が洲を上へ行く」が収録されている短編集『私は作中の人物である』(講談社文庫)の解説を柳瀬さんが書いていることは知っていたが、柳瀬さんの『英語遊び』(河出文庫)の解説を清水さんが書いていることに驚いた。以下は「船が洲を上へ行く」からの引用である(本文は総ルビで書かれているがここでは省略している)。
この錯品のように是論から書くのではなく、原文にそう胃う意身の多汁性があるのを、こちらの孤島歯に置き帰ていくんだからモノ凄い。多駄田だ、驚学する秤りである。柳瀬買いである。

2020/07/26

独知の噬臍

『広辞苑を読む』のまえがきで、柳瀬さんが「広辞苑を信じるあまり、間違った文章を活字にしてしまったことがある」と書いていました。
 ジョイスの『ユリシーズ』に出てくる agenbite of inwit という中世英語について書いたときだった。
 この妙な英語は、「内-知の再-噛(あるいは噬)」とも分解できる言い回しで、意味は「良心の呵責」。現代英語の感覚からは、一瞬、「おや?」もしくは「はて?」と思わせるような、忘れられた言葉である。その「おや?」「はて?」を翻訳するために、拙訳『ユリシーズ①-③』(河出書房新社)では、「独知の噬臍」という訳語を用いた。
 その訳語について、こう書いてしまったのだ。
 独知? 『広辞苑』にも『大辞林』にも、これはある。忘れられた言葉、西周の訳語である。
(『翻訳は実践である』あとがき・河出文庫)
 初版から第五版にいたるまで、広辞苑に「独知」の項目はない。
 大辞林、大辞泉にはある。『翻訳は実践である』の読者各位にここでお詫び申し上げたい。
「誰に指摘されたのでもなく自分でこの失錯を見つけ」た柳瀬さんは「独知の噬臍」を感じたのでしょうか、自分の誤りを認め、それを詫びています。「独知」の項目が『広辞苑』にあろうとなかろうと、他に載っている辞書があり、西周がつくった conscience の訳語があり、現在は使われていない、ということには変わりありません。こんな細かいところにまで気を使わなくともいいのではないかと思ったところで、「翻訳は細部に宿る」という柳瀬さんがどこかに書いていた言葉を思い出しました。

「翻訳は細部に宿る」と『翻訳は実践である』のなかで言っていたかもしれないとも思い、また、上記「独知」の個所も確認して書き込みでもしておこうと思い、『翻訳は実践である』をひっぱり出してきました。

まずは「独知」のところからと「あとがき」を見ようとしたところ、無い。

目次を見ても「あとがき」はありません。

ただ、冒頭で引用した独知のくだりはどこかで読んだ記憶がある。「あとがき」ではなく、『翻訳は実践である』の別の個所だろうと、本の後ろの方から探しはじめてみました。

引用文の該当の個所は、『翻訳は実践である』所収の「再び、翻訳とは実践である」という文章のなかにありました。河出文庫の『翻訳は実践である』の付記によると、「再び、翻訳とは実践である」の初出は、メタローグという会社から1996年10月に出版された『翻訳家になる!』という本で、初出時のタイトル「翻訳は実践である」を改題したものであることが書かれています。

『翻訳は実践である』は、もともと1984年5月に白揚社より単行本として刊行されたもので、文庫化にあたり、「再び、翻訳は実践である」など、雑誌等に掲載されていたいくつかの文章が加えられています。純粋な(?)「あとがき」ではありませんが、柳瀬さんは『翻訳は実践である』のあとがきを念頭において「(再び、)翻訳は実践である」という文章を書いたといえなくもありません。

柳瀬さんは勘違いで「あとがき」と記したのでしょうか。それとも意図的でしょうか。

「再び、翻訳は実践である」を読み直したところ、次の一節がありました。
 翻訳は実践である、と、これまでさまざまな場所で何度か書いてきた。また、そういう姿勢を貫いてきたつもりだ。いま、それをこう言い換えてもいいかもしれない。翻訳は実力である、と。ここで実力とは、読解力や表現力のみならず、集中力や注意力や視力までもふくめたものだ。あるいは、努力(という実は筆者の好かない言葉)をふくめてもいい。
いま、このブログに書いていることは翻訳ではありませんが、自分自身のまだ言葉になっていないところを、自分の知っている他の人にも伝わる言葉で表そうとしていると考えると、広い意味で翻訳と考えることができます。そして、書いていることが実践であり、実力です。

『翻訳は実践である』の「あとがき」を確かめるのも実力で、『広辞苑』に「独知」の項目がなく、『大辞林』『大辞泉』には「独知」の項目があることを確認していないのも実力です。

ちなみに「翻訳は細部に宿る」という言葉は、『翻訳はいかにすべきか』で見つけました。


2020/07/17

燕の尾話

英語の tale と tail は、片仮名で書くと、ともに「テイル」と発音するため、しばしば言葉遊びに用いられる。すぐに思い出されるものは、キャロルの『不思議の国のアリス』にある鼠の尾話である(訳文は柳瀬尚紀訳)。
“Mine is a long and a sad tale!” said the Mouse, turning to Alice, and sighing.
“It is a long tail, certainly,” said Alice, looking down with wonder at the Mouse’s tail: “but why do you call it sad?”
「悲しい長いお話でなあ」鼠はいい、アリスを振り向いて溜息をついた。
「長い尾は無しですって、あんなに長い尾なのに」アリスは鼠の尻尾を先までしげしげと眺めた。「どうして悲しいなんていうんですか?」
引用した箇所は第3章で、章題は A Caucus-Race and a Long Tale である。柳瀬はこれを「コーカス競争と長い長い尾話」と訳している。tale と tail で「尾話」である。

これから書いていくことは、燕の尾話である。 

「スワロウテイル」は、swallowtail と綴る。「揚羽蝶(アゲハチョウ)」のことである。swallowtail は swallow tail で、swallow は「燕(ツバメ)」、tail は「尾」、つまり「燕の尾」という意味である。燕の尾のような羽の蝶が揚羽蝶である。

「燕尾服」という服がある。燕の尾のかたちをした服で「モーニング」とも呼ばれる。「燕尾服」を英語でいうと swallow-tailed coat で、swallow-tailed coat を訳して「燕尾服」としたともいわれている。しかし、今野真二『振仮名の歴史』を読んでいると、次のような文章に出会った。
この「燕尾服」は「swallow-tailed coat」という英語をそのまま日本語に訳したものだといわれている。しかし「エンビ(燕尾)」という漢語は日本語の中でわりあいと古くから使われており、直訳からできた語と断言しない方がよいようにも思う。
ここでいわれていることは、swallow-tailed は「燕の尾のかたちをした」だから「燕尾」という漢語を作って訳したというわけではなく、もともと「燕尾」という漢語があって、ちょうど swallow-tail(ed) に当てはまった可能性があることを述べている。

ためしに手元の漢和辞典で「燕」を引いてみた。「燕」の項には、「燕尾」や「燕尾服」は載っていなかったが、「燕服」という単語が載っていた。「宴服」「讌服」とも書くようで「日常、くつろいだときに着る衣服。普段着」と書いてある。「讌」には「酒盛り、宴会」のような意味がある。「燕」という漢字は鳥である「ツバメ」の意味もあるが、「くつろぎ落ち着いて酒食を楽しむ(こと)」という意味もある。「ゆったりと落ち着く」とか「うちとける」という意味もある。そのため「燕」を、「宴」の字に当てたり「安」の字に当てたりすることもある。

ツバメの特徴のひとつは尾のかたちで、二股に分かれている。swallowtail「燕尾」とはこのかたちを意味していて、裾の後ろが燕の尾のように二股になっている服が swallow-tailed coat「燕尾服」である。「燕服」が普段着であることを考えると、「燕尾服」は燕の格好をしようと努力しているようにも思う。揚羽蝶も燕のようになりたいと思っているのかもしれない。

先に『振仮名の歴史』からの引用を挙げたが、ここには振仮名の例として「燕尾服」などが載っていたわけではない。ここで載っていたのは、「断後衣」という漢字に「テイルコート」と振仮名が付けられていることである。現在、振仮名は通常、縦書きであれば、漢字の右側に書かれているが、「テイルコート」は左側に付いている。1876年(明治11年)に出版された丹羽純一郎(訳)『龍動新繁昌記』(「龍動」は「ロンドン」と読む。ジョン・マレイ著『Handbook to London as it is』の翻案書)という本の中の例で、この本では漢字の左右に振仮名が付いていて、右振仮名が読み、左振仮名が外来語の振仮名であるという。「断後衣」には右振仮名がなかった。
これは翻訳のためにつくった、漢字による書き方であることを示唆しているのではないだろうか。だから「読みとしての振仮名」を付けなかった。つまり「ダンゴイ」という語は安定してみんなが使うような語ではなかった。もしかすると、ここだけにしかみられないかもしれない。
「テイルコート」は tail coat で、swallow-tailed coat つまり「燕尾服」のことである。今では「燕尾服」という服も言葉も知っているから tail coat は「燕尾服」のことだとわかるが、明治11年ということは、開国後、外国(欧米)の文化が押し寄せている時代である。そこに tail coat なる服があり、もちろん日本にはないかたちの服であるのでそれをどのように訳そうかと考えた結果が「断後衣」であると思われる。『振仮名の歴史』の中には書かれていないが、「断後衣」は「裾の後ろが二股に分かれている(断たれている)衣」という意味で付けられたのだろう。tail coat だけでは、ここの tail は swallow-tail の略であることを知ることは難しく、当然「燕尾」という訳語を思いつくことも難しい。

ちなみに英語の swallow には「ツバメ」の他に、「飲み込む」という意味もある。「ツバメ」と「飲み込む」の関係が薄いのか、手元の英和辞典では、「飲み込む」という意味の swallow と「ツバメ」という意味の swallow は、別項目として掲載されている。また、日本語に「飲み込む」という意味で「嚥下」という漢語があり、「嚥」という字に「燕」が入っているのだが、手元の漢和辞典で「嚥」の字義をみると「燕は音符で、ツバメという意味とは関係がない。咽と同じ」とあった。


2020/05/10

柳瀬尚紀『フィネガン辛航紀』

ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳者である柳瀬尚紀さんの本『フィネガン辛航紀』が届いた。

最初に驚いた、というか自分の間違いに気づいたのは、書名が違っていたことだ。「辛航紀」は「しんこうき」と読む。僕はずっと「こうこうき」と読んでいた。「辛」ではなく「幸」という漢字で覚えていたのだ。ジョイスだけに「joy」とかけて、そして「航行」とかけて、「幸航紀」としたのだと思っていた。一つ違えば「幸」は「辛」となり、「辛」は「幸」となることを実感した。

文庫版『フィネガンズ・ウェイクⅠ』に大江健三郎さんの序文があり、そこで「『フィネガンズ・ウェイク』について書かれた最良というより唯一の本だと思う『フィネガン辛航紀』」という文章があった。そのため『フィネガン辛航紀』は読みたい本のひとつとなっていた。それにもかかわらず本のタイトルを間違えて覚えている。いい加減な読みをしている証拠を突きつけられて辛い。

正しい書名は『フィネガン辛航紀』ではあるが、中身を読むとたしかに『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳に四苦八苦している話は多いのだが、辛そうには見えない。むしろ幸せそうである。なんで「辛航紀」なんだろうと思った。

『フィネガン辛航紀』には「『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本」という副題がついている。そしてよく見るとその副題の下に英語が書かれていた。「Finnegans Wake, Translation in Progress」と。進行中の翻訳、つまり「辛航」は「進行」であった。奥付をみると、刊行は1992年8月。柳瀬さんが『フィネガンズ・ウェイク』を全訳されたのは1993年であるので、翻訳進行中に刊行されたものであった。ちなみにジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は途中雑誌に掲載されたことがあり、そこでのタイトルが「Work in Progress」である。

自分の勝手な想像であるが、翻訳完了後にその舞台裏の一端をみせてくれる本だと思っていたので、またもや「やられた」と思う。とはいっても柳瀬さんが意図してやっているわけではない。とはいっても予想を上回る内容である。

『フィネガンズ・ウェイク』は迷宮にたとえられる。迷宮にはアリアドネの糸があったほうがいい。柳瀬さんの翻訳の意図を頼りに、また迷宮探索をしてみたくなる。柳瀬さんが捜索して創作した跡をたどるだけでもおもしろい。一筋縄ではいかない可能性はあるけれども。また、深入りすると辛くなるかもしれないけれど。

まあそんなときには「幸開記」とでもして何かブログで公開してもおもしろいかもしれない。

2020/05/03

「ものの本」と「ぬらりひょん」

前回に引き続き、柳瀬尚紀さんの本『辞書はジョイスフル』の「まえがき」より。

この「まえがき」に、柳瀬さんの辞書に関するエピソードがいくつか載っていた。そのひとつに「ものの本」についてのエピソードがある。

柳瀬さんは子供のころ、「ものの本」という本があると思っていたという。『ものの本』にあこがれ、どんな本か、誰が書いたのか、いつごろ書かれたのか、どんなことが書いてあるのかということを期待していたらしい。ところが、百科事典をひらいても、『ものの本』は載っていない。そして、普通の国語辞典で「ものの本」を見つけたとき、《一瞬、躍り上がり、しかしつぎの瞬間には、がっくりした》ということだ。

また、この本(『ものの本』ではなく、『辞書はジョイスフル』)の解説で、荒川洋治さんは、「ものの本」を漢字で「物の本」と書くことを知り愕然としたことを書いている。《「もの」が「物」だとすると、この言葉の内容がうすれてしまう気がするのだが、……》。

僕の方はといえば、「ものの本」の意味や漢字での書き方をしっかりと認識していたわけでもなく、なんとなくそうだろうと思っていたことであるので、がっくりもせず愕然ともしなかった。ただ、「ものの本」のイメージと、僕にとっての柳瀬さんのイメージが重なっているように感じた。

はっきりとはしていなかったものの、柳瀬さんや荒川さんの話を聞いて、僕は「ものの本」の「もの」は「もののけ」の「もの」と同じと思っていることを認識した。「もののけ」は漢字で書くと「物の怪」となる。だから「物の本」と書くことを知っても、違和感はない。ただ、「もののけ」の「もの」も、「ものの本」の「もの」も、物体、物質としての「物」ではないので、「物の本」「物の怪」と書くよりは、ひらがなの「もの」の方がいいかもしれないとは感じる。

ところで唐突に話が変わるのだが、僕にとって柳瀬さんは「ぬらりひょん」のような存在である。容貌や性格のことではない。僕は柳瀬さんに会ったことはないし、ぬらりひょんにも会ったことはない。「ぬらりひょん」と聞くと僕は水木しげるさんの描いた「ぬらりひょん」を思い浮かべてしまうが、その「ぬらりひょん」のイメージは柳瀬さんとは重ならない。僕にとっては、「ぬらりひょん」という言葉の語感が、柳瀬さんのイメージに近いのである。

柳瀬さんの著作で最初に読んだものは『日本語は天才である』で(並行して、棋士の羽生さんとの対談本を読んだので、どちらが先だったかは覚えていない)、この本を読んで柳瀬さんの凄さを知り、柳瀬さんの他の著作も読んでみたくなった。それ以前にも、翻訳不可能と言われていた『フィネガンズ・ウェイク』を日本語に翻訳したという話や『ユリシーズ』を翻訳しているという話は聞いてはいたが、そのときは『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』というジェイムズ・ジョイスの作品があるとか、柳瀬尚紀という翻訳家がいるということを知っただけで、それを翻訳した、している、というのはどれほど凄いことなのかについてはまったく知らなかった。そんななかで『日本語は天才である』を読んで、もう少し柳瀬さんがどんなことを思って翻訳をしているのだろうかということを知りたくなったのだ。なので柳瀬さんの著作を探すのと同時に、翻訳した本も確認した。といっても著者紹介を読んだだけなのだが。

すると、すでに僕の手元にある本のなかに柳瀬さんが翻訳したものがいくつも見つかった。

たとえば、ボルヘスの『幻獣辞典』であったり、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』だったり、ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だったり……。いつの間にか近くにいたのに、僕は気づいていなかった。ぬらりとひょんなところから出てきた感じがしたので、僕にとって、柳瀬さんのイメージは「ぬらりひょん」という言葉となった。

国語辞典によると、「ものの本」というのは「(その方面のことが書いてある)本」という意味が書いてあった。ぬらりひょんのような意味である。思えば、「ものの本」と「ぬらりひょん」と、なんだか語感が近くないだろうか。

こんなぬらりひょんなことを考えながら、本を読む。ぬらりひょんな文章を書く。

平和、まったき平和。

2020/05/02

至高作語

柳瀬尚紀さんの『辞書はジョイスフル』の「まえがき」に、つぎの文章がある。
 しかしともかくこんなふうに、年がら年中、辞書のなかをさまよいながら、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず……。
 ありゃりゃりゃ、なんじゃ、これ!?
 わかりました。『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』の訳語が飛び込んできたのです。
 順に、かすみそめつき(霞初月)、きさらぎ(如月)、やよひ(弥生)、うづき(卯月)、あやめづき(菖蒲月)、とこなつづき(常夏月)、たなばたづき(七夕月)、そのいろつき(其色月)、きくさきづき(菊開月)、しぐれづき(時雨月)、ねづき(子月)、しはす(師走)のジョイス語ヤナセ語変装。
 なにしろ上のような訳語をつくるために七年半、年がら年中、辞書のなかをさまよっていたのだから、どうやら本書は、『フィネガンズ・ウェイク』翻訳作業と辞書のことから書き始めるのがよさそうだ。
ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は読んだ(「読んだ」といっても字面を追った程度)が、『フィネガンズ・ウェイク』の原文は読んだことがなく、《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》の原文はどんなものだろうと思っていたら、『辞書はジョイスフル』の別の箇所に記載されていた。
 今度は、『フィネガンズ・ウェイク』から、やさしい原文を引こう。こういうふうに形容詞が並ぶところがある。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible mournful sorrowful frightful appalling
 なんのことはない、まともな英語が十一個。数十か国語どころか、大学受験生程度の英語のボキャブラリーがあれば、読むことは読める。
 順に、血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い、怒り狂った、ぎくりとさせる、おっそろしい、哀悼の、悲痛の、おっかない、度肝を抜くような。
 ところが、これもまた、このまっとうな英語もまた、ジョイス語のひとつの姿なのである。
 つぎの英語を見ていただく。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible horrible mournful sorrowful frightful appalling
 これは、かのクークラックスクラン、3K団が、順に、一月、二月、三月……につける形容詞だ。
 ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる。
 つまり、ジョイスの《bloody gloomy hideous fearful…》という原文の裏には、January February March April…が、ひびいているわけだ。
《bloody gloomy hideous fearful…》をふつうに訳すと「血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い…」となるのだが、「January February March April…が、ひびいている」ので、柳瀬は《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》と訳したということである。よくもまあこんなところまで考えるなあと、いい意味で感心する。

しかし「ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる」というのはどうだろうか。『辞書はジョイスフル』にはジョイスの徹底ぶりを示すエピソードも書かれていて、そんなジョイスが書き落としをするだろうか、という疑問が浮かぶ。ひょっとすると故意に11個にしたのではないか、と。

ジョイスの原文にないのは、8月の形容詞にあたるhorribleで、ヤナセ語訳でいえば「怖の色づき」である。もしジョイスが故意にhorribleを抜いて11個の形容詞を並べたとすれば、どのような理由が考えられるだろうか。

ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』で該当の箇所の一文を探す。『辞書はジョイスフル』の「まえがき」で、『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』のなかにあることがわかるので、比較的探しやすかった。該当する文は以下の文である。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は総ルビであるが、以下の引用ではルビは省略している(このブログの冒頭の『辞書はジョイスフル』の引用でもルビを省略している)。
七魘が去った、暗陰鬱殪毆悍釁、もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず。
「七魘」には「しちよう」とルビがふってある。ここでの「魘」の漢字は小さくて見にくいだろうが、「厭」の下に「鬼」と書いた漢字で、「おさえつけられた感じで、うなされる。恐ろしい夢を見ておびえる」という意味の漢字である。「七魘」はそのルビから「七曜」を思い起こさせ、つぎの「暗陰鬱殪毆悍釁」には、「月火水木金土日」のひびきが感じられる。「暗陰鬱殪毆悍釁」には「あんいんうつえいおうかんきん」とルビが打たれており、各漢字の第1音を並べると「あいうえおかき」となるような、そして7つの「魘」となるような漢字を選んだのであろう。同様に「十二憑き」は「十二月」で、「血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…」と続いている。

私の一人勝手な解釈だが、暗陰鬱殪毆悍釁という七魘が去った、もはや血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…という十二憑きはない、ということで、曜日が去り、もはや月日もないとも読めるので、日月などの時間概念がない《永遠》が現れたという読みも可能ではないだろうか。とすると、horribleがないということは、パンドラの匣ではないが、《永遠》のなかにhorribleが残っているのではないか。horribleはヤナセ語訳では「怖の色づき」だが、「畏怖の念」という意味もあるだろう。《永遠》の千年王国にも「畏怖の念」はあるだろう。

もし「畏怖の念」を表すために「年」から抜いたとしたら、if……と、よくもまあこんなことを考えるなあ、と自分に呆れる。

と、こんな誤訳をしながら、ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』を読んでいる。

さきほどヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』から一文を引用したが、その一文には(もちろん)続きがある。
平和、まったき平和。

2013/10/19

秘根顔図上幾

時折思い出しては、ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(柳瀬尚紀訳)に挑戦するのですが、中々読み進めることができません。

理由は、読んでみるとわかるでしょうが、冒頭の一文を引用してみます。
川走せんそう、イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、く岸辺きしべからきょくするわんへ、こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
総ルビ、注釈なし、です。

ここまで書くのにも苦労しました…。

ちなみに、原文を見たことはありませんが、WEBで検索すると、どうやら以下の文章のようです。
riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

riverrun と小文字で始まっているのは、最終章と対応しているからだとか…。

最終章の最後にはピリオドがないとか…。

通読すればわかるのでしょうか?


まあ、しかし、最初の一文だけでも、注釈を試みてみます。

というか、思いついたことなどのメモです。

わからないことだらけなので、お暇な方のみお読みください。

区切りは適当です。

専門家でも何でもありませんので、その点ご了承ください。


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川走せんそう
riverrun,
川(river)と走る(run)で「川走」ですが、同音異義語の「戦争」も思い起こします。「戦争」がどのようにかかわっているのかは、通読していないのでわかりません。

イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、
past Eve and Adam's,
「イブ(Eve)」と「アダム(Adam)」は、言わずと知れた『創世記(旧約聖書)』に出て来る人間の名前です。神がはじめて造った人間(男)が「アダム」、そして男(アダム)の肋骨をもとに女(イブ、あるいはエヴァ)を造ります。順序から言うと、「アダムとイブ」という方が一般的かと思いますが、ここでは「イブとアダム」となっていることに何か意味がありそうです。
そして、「礼盃亭」。「礼盃亭」は、どこから来たのか。「礼拝」ではなく「礼盃」であることにも、何か意味がありそうです。
また、文法的には「イブ」と「アダム礼盃亭」と取るべきか。

岸辺きしべから
from swerve of shore
shore は「岸、海岸、川岸」という意味。swerve は「それる、曲がる」という意味。shore と swerve のように語頭の音を一致させた訳として「岸辺」「く寝る」を採用しています。
「くねる」を「く寝る」としたところにも意味がありそうですが、わからず。sleep も s で始まりますね。
文法的に一致するように訳すと「岸辺のくねり」となりそうですが、ここにも意味がありそうです。

きょくするわんへ、
to bend of bay,
bend と bay も頭韻。「輪ん曲」と「湾」も頭韻を踏んでいます。
「湾曲」とせず「輪ん曲」としたのは、「円環」を連想させる現れですかね。Wikipedeia「フィネガンズ・ウェイク」には「この作品の主題は、だれか特定の人物の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なのである。」とありました。となると、先の「く寝る」は、目覚めを予感させます。
bend は「曲げる、曲がる」という意味で、ここも文法的に一致するように訳すと、「湾の曲がり」となりそう。

こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.
さて、最後が難しい。とは言っても冒頭の一文なのですが…。
注目したところから書くと、recirculation という単語が目を引きます。circle は「円」。そこに re- という接頭辞があります。re- は「再び」というようないみがあるので、「円環」というイメージ。冒頭の riverrun が最後からの続きということならば、ウロボロス的な円環を思いうかべます。アダムとイブという創世記の語を配していることから、始まりも終わりもないもののとりあえずの最初としてこの一文が配されているという考え方ができそうです。ラストの Environs も、中学か高校で習った「環境(environment)」という単語を思い起こすものです。そういえば「環境」にも「環」という文字が使われていますね。「巡る」も「戻る」なども呼応します。back なんかは、recirculation の re- なんかと相性がよさそうです。
「今も度失せぬ」からは、「今度」とか、「堂々巡り」とか、「どうする」とか、「今度も」が入れ替わって「今も度」となったとか、いろいろなことを考えましたが、一概には言えず。また、「栄地四囲委蛇たる」というのもどこから来たのかがわかりませんが、「四面楚歌」などを思い浮かべるし、ウロボロスの蛇というのもここにイメージされている気がします。
commodius や vicus という単語は手元の英和辞典にはありませんでした。ついでに言うと、Howth もなし。
commodius からは、commodity(必需品)という単語を思い浮かべますが、どうでしょうか。
『フィネガンズ・ウェイク』では様々な言語を取り入れて書かれていると聞きますので、英単語としては存在しないのかもしれません。語末からは、commodius や vicus は、ラテン語(系)のような気もします。

しかし、日本語でも英語でもわからない…。
『フィネガンズ・ウェイク』は、イメージを喚起させる抽象化された小説のようなイメージです。
ミロの『アルルカンの謝肉祭(カーニバル)』という作品がありますが、それをさらに隙間なく寄せ集めた絵を思い浮かべました。

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