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2020/08/03

続・頓珍漢仮説

「とんちんかん」の意味をあらためて手元の辞書で引いてみると、以下のように書かれていた(『三省堂国語辞典』第五版)。
①つじつまのあわないこと(をする人)
②わけのわからないこと。
WEB で語源を調べると、鍛冶屋の音が由来であることが書かれている。鉄を打つときの槌の音で、揃っていないズレた音を「トンチンカン」という擬音語で表したことから、ちぐはぐであるとか、辻褄の合わないというような意味となったらしい。

相槌がズレているということであろうか。

漢字で「頓珍漢」と書くが、これは当て字ということらしい。しかしこの漢字のために、頓珍漢が人(漢)を表すようになったのではないかとも思う。

さて、『吾輩は猫である』で「頓珍漢(とんちんかん)」が使われているところは、3ヵ所あった。「頓珍漢」が含まれている文を抜き出してみる。文末につけた括弧つきの漢数字は、該当の文がある回(章)の数である。
これで懸合をやった日にや頓珍漢なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔を一寸見上げた。(二)

是で考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的作用によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。(七)

世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。(九)
まず「頓珍漢」が現れるのは小説の第2回(第2章)で、越智東風が先生宅にやってきて、次回の朗読会に参加してほしいと依頼している場面である。2回目は、銭湯で裸体の人間を見て、衣裳哲学らしきものを考えている最中。3回目は泥棒逮捕の報告を受けたときの先生と迷亭の様子である。

こじつけ感はあるが、名前の登場と頓珍漢の出現回をみると、なんだか符合しているように思える。
第1回 先生登場(名前はまだない)
第2回 寒月登場、東風登場、「頓珍漢」出現
第3回 苦沙弥先生(名前初出)
……
第7回 「頓珍漢」出現
……
第9回 珍野(姓初出)、「頓珍漢」出現
……
さらに言うと、これもこじつけ感があるが、第2回において、バルザックが小説中の人間の名をつけるために友人を連れて歩きまわったという逸話が書かれている。

水島寒月は、漱石の弟子でもある寺田寅彦がモデルであるといわれている。『定本漱石全集』の注解には、明治38年2月13日付の寺田寅彦宛書簡に「時に続々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ」とあること、また寅彦には、明治34年2月に「寒月」(冬の季語)を詠んだ句が3句あることが書かれていた。

越智東風のモデルについては『定本漱石全集』には書かれていない。私は勝手に「あちこち」から名付けたと思っている。越智東風は小説内で「おちとうふう」という読みの他に「おちこち」という読みもつけていてる。「あちこち」→「おちこち」→「越智東風」ではないだろうか。バルザックが登場人物の名前をつけるために友人とパリの街をあちこち歩き回った話を知っていた漱石は「あちこち」から名前をつけたのではないだろうか。
(もうひとつ、捨てがたい案に「おっちょこちょい」→「おちこち」がある。)

そして、寒月の「かん」、東風から「とん」、あとは「珍」があれば「とんちんかん」になると第9回で「珍野」と姓を付けたと考えることはできないだろうか。

直接的な証拠はないが、否定する理由もないので、そう思っておく。

2020/08/02

頓珍漢仮説

夏目漱石『吾輩は猫である』の登場人物の名前の由来のひとつに「とんちんかん」があるのではないか。越智東風の「とん」(「とうふう」と振仮名が振ってあるが、東を「とん」として)、珍野苦沙弥の「ちん」、水島寒月の「かん」で、「とんちんかん」となるのではないか。

こんな頓珍漢なことを考えている。

この3人の名前の由来について、どのように付けられたのかということは知らない。漱石自身がどこかに書いているとは聞いたことも読んだこともなく、また他の誰かが書いていたとも記憶にない。

ただ、特定の人物ではないが、小説の人名について漱石自身が語っている「小説中の人名」という文章がある。明治41年10月21日付『国民新聞』に掲載されたもので、短い文章なので、以下に全文引用する(新仮名遣いに改めている)。
 小説中の人物の名は、却々うまく附けられないものだ。場合によると、あれもいかぬ、之れもいかぬで、二日も三日も、考えてみることもあるが、凝っては思案に能わぬで、大抵はいい加減に附けて了う。
 恁ういう人物には恁ういう名でなければならぬというような、所謂据わりのいい名というものは、却々無いものだ。早い話が自分の子供の名を附ける場合でも、矢張これならばというような名は、容易に附けえられない。
 この頃は可成判りやすい名を附けるようにしている。源義経とか何の何雄とか、やかましい名は嫌いだ。三四郎とか与次郎とか普通の名の方がいい。
明治41年(1908年)10月というと、『三四郎』が新聞連載中の頃で、三四郎という名が引用文中にも挙げられている。「この頃は可成(なるべく)判りやすい名を附けるようにしている」ということは、以前はいろいろと考えていたことを示していて、それこそ「二日も三日も、考えてみる」こともあったのだろう。

『吾輩は猫である』の中で、名前のない猫の主人である先生は最初から登場しているが、苦沙弥先生という名前が出てくるのは第三回で、珍野という姓がわかるのは第九回である。水島寒月と越智東風は第二回に名前付きで登場している。珍野という姓が出てくる場面は、先生宛にいくつか郵便物が届き、それを読んでいる場面であるが、その郵便物の中に「大日本女子裁縫最高等大学院」からの書面があり、その校長の名が「縫田針作」であることがおもしろい。

苦沙弥先生の姓を付けるにあたり、「ちん」をつければ、東風の「とん」と寒月の「かん」で「とんちんかん」になると、「珍野」という姓を付けたのではないかというのが、私の(まあ、どうでもいいような)仮説である。

(次回につづく)


2020/08/01

ついでに頓珍漢

『オデュセイア』での「ウーティス」から、「名無しの権兵衛」を連想し、『ついでにとんちんかん』のキャラクタである「七志野ゴンベエ」を思い出した(先日の記事では「習志野権兵衛」と書いたが、Wikipedia で「七志野ゴンベエ」ということを確認した)。

そして、「とんちんかん」と「名無し」から、夏目漱石『吾輩は猫である』を連想する。そして、自分のなかにある、ある仮説を思い出す。

『吾輩は猫である』の登場人物に、越智東風と水島寒月という人物がいるが、そこに苦沙弥先生を合わせると「とんちんかん」になる。越智東風、珍野苦沙弥、水島寒月という登場人物の名前の由来のひとつに「とんちんかん」があるのではないか、という仮説である。

漫画『ついでにとんちんかん』では、怪盗とんちんかんという名前は、そのメンバの名前から取られたという設定になっていた。Wikipedia でメンバのフルネームを確認すると、中東風(ちゅん・とんぷう)、発山珍平(はつやま・ちんぺい)、白井甘子(しらい・かんこ)であった(麻雀牌の白撥中でもあったのですね)。「とんぷう」「ちんぺい」「かんこ」の頭文字で「とんちんかん」となる。

同様に、とはいえないが、越智東風の「東」、珍野苦沙弥の「珍」、水島寒月の「寒」で「とんちんかん」だと思ったことがあった。いつ思いついたのかは覚えていないし、ひょっとするとすでに誰かが言っているのを聞いたり読んだりしたのかもしれないが。

この仮説が正しいかどうかなど、わかったところで何の足しにもならないけれど、せっかく思い出したことなので、どうにか検証できないかと考えてみる。とりあえず Web で、「とんちんかん」と「吾輩は猫である」とか登場人物の名前で AND 検索してみるが、それらしき記述は見当たらなかった。

そこでまずは、せっかく手元に『定本漱石全集』があるので、名前の由来がどこかに書いていないか探してみようと思う。おそらくはないだろうから、次は『吾輩は猫である』を読みなおして、登場人物の名前の初出箇所を確認することにしてみたい。猫に名前がないように、苦沙弥先生も最初は「主人」とだけで、固有名詞はなかったと思う。寒月と東風は同じくらいに初登場だったはず。

そして、『吾輩は猫である』での「とんちんかん(頓珍漢)」の出現ヵ所の確認。何度か出て来たように覚えているが、どこで使われていたのかは覚えていない。

ひとまず今回は仮説検証の方向性のみ書いておく。


2020/07/24

滑稽的美感

夏目漱石『吾輩は猫である』のなかに「滑稽的美感」という言葉が出てきます。出てくるのは次に引用する箇所で、通称「アンドレア・デル・サルト事件」の真相を述べたあとの迷亭のセリフです。(ここでは読みやすいよう一部表記変更して引用しています。)
「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑発するのは面白い。先達てある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったらそ学生が又馬鹿に記憶の善い男で日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが皆熱心にそれを傾聴して居った。それからまだ面白い話がある。先達て或る文学者の居る席でハリソンの歴史小説セオファーノの話が出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬまでは鬼気人を襲う様だと評したら僕の向こうに坐って居る知らんと云った事のない先生がそうそうあそこは実に名文だといった。それで僕はこの男も矢張僕同様この小説を読んで居らないという事を知った」
定本漱石全集の第1巻『吾輩は猫である』では「滑稽的美感」についての注解があり、そこには次のように書かれていました。
滑稽的美感 おどけたなかに感動させる味わいがあること。『文学論』第二編第三章「fに伴う幻惑」において、「文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれて存する事あり」と述べた内容が、「滑稽的美感」の説明に相当する。談話『滑稽文学』に「滑稽と云うものは唯駄洒落と嘲笑ばかりではあるまいと思う。深い同情もなければならぬ。読む人に美感をも与えなければならぬ」ともいっている。
そこで『文学論』を読みはじめたのですが、どうも六づかしい。漱石は『文学論』において、文学的内容の形式を(F+f)という公式で表しています。第二編第三章の章題「fに伴う幻惑」のfとはこの公式(F+f)のfのことです。Fは Focus(焦点)(あるいは、Fact(事実))、fは feeling(情緒)ではないかと考えられています。第二編第三章は「f其物の性質の細目に亘りて」論及するとして章を割いていますが、この章だけを読んだだけではよくわかりませんでした。

北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のなかで、テレビのNG集について言及されていたところがありました。
《確かに面白いけれど、人の失敗を見物するのは、いい趣味ではない。高みから笑う感じになるから》と書きました。しかし、個々の番組を見ると、そうともいえない。これは、テレビという、映画や舞台よりも身近な媒体が開発した、特殊な分野だ――と思えたのです。
「《いい趣味》ではないが、しかし、親しみの笑いです」といいます。しかし、NGは「本来、見られない筈のもの」です。見る側にとっては、見られない筈のものであればあるほど、見たくなるものですが、見られる側にとっては見せたくないものです。NGは芸ではありません。北村さんは続けます。
商品として見せるからには、芸でなければなりません。NGは違う。となれば、それを芸にするのは、番組を製作する人間です。いかに構成するかが勝負でしょう。いい間違いや、台詞に詰まった場面を、だらだら並べても仕方がない。こういった番組にこそ、心地よい機知と愛情が不可欠なのです。
 親しみの笑い。心地よい機知と愛情。これが「滑稽的美感」ではないかと感じました。

迷亭は、ただ冗談をいって笑っているだけではない。迷亭の冗談を真に受けて写生する苦沙弥先生や、演説する学生、知ったかぶりをする文学者の先生を、あざ笑うのではなく、親しみを込めて笑っているのです。「滑稽なことをしているが、それは美徳だ」と笑っているように思えます。

迷亭は美学者です。「滑稽的美学者」と呼んでもいいかもしれません。


2020/07/14

猫事記

吾輩はネコである。名前はまだ無い。

どこで生まれたか混沌と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で名ー無ー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕らえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だか浮羽浮羽した漢字があったばかりである。掌の上で少し落ち着いて書生の顔を見たのが所謂人間というものの見始めであろう。

この書生の掌の内でしばらくはよい心持ちに坐っていたがしばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分からないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っているとどさりと音がして右眼から日がでた。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考えだそうとしても分からない。

ふと気が付いて見ると書生はいない。沢山おった兄弟が見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。そのうえ今までの所と違って無暗に明るい。眼を明いておられぬ位だ。果てな何でも様子が可笑しいと淤能語呂と這い出して見ると非常に痛い。吾輩は急に葦原の中に棄てられたのである。

漸くの思いで這い出すと向こうに大きな柱がある。余は柱の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。暫くして泣いたら書生がまた迎えに来てくれるかと考え付いた。試みにやって見たが誰も来ない。そのうちさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。いざ泣きたくても声が出ない。仕方がない何でもよいから食物のある所まで歩こうと決心をしてそろりそろりと柱を左に廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くと何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入ったらどうにかなると思ってもぐり込んだ。ここで余は書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。大地にあったのがお産である。我輩を見るや否やいきなり「あなにやし、えをとこを」と頸筋をつかんで地表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。何でも同じ事を繰り返したのを記憶している。吾輩が最後につまみ出され様としたときに主人が騒々しい何だといいながら出て来た。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておった。やがて「女の先だち言いしに因りて良はず、亦還り降りて改め言え」と云った。

2020/06/29

夏目漱石『虞美人草』のホトトギス

前回のつづき)

『虞美人草』におけるホトトギスの表記について。まずは該当箇所を引用する。
④27(『虞美人草』2の2)
「ぢや、斯んな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖を、さつと捌いて、小野さんの鼻の先に翻へす。小野さんの眉間の奥で、急にクレオパトラの臭がぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然として我に帰る。空を掠める子規の、駟も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたる如く、ちらと動ける異しき色は、疾く収まつて、美くしい手は膝頭に乗つてゐる。脈打つとさへ思へぬ程に静かに乗つてゐる。
④233(『虞美人草』12の7)
「昨夕行つたつて?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出てくるだらうと思つて、控へてゐる。時鳥は一声で雲に入つたらしい。
「一人で行つたのかい」と今度は此方から聞いて見る。
「いいや。誘はれたから行つた」
甲野さんには果して連があつた。小野さんはもう少し進んで見なければ済まない様になる。
④27では「子規」、④233では「時鳥」が使われている。どちらも地の文で、実際のホトトギスの描写ではなく、喩えとしてホトトギスが登場している。

④27は、小野さんと女の会話の場面。ここではまだ名前が出ていないが、この女は藤尾である。④233は、小野さんと甲野さんの会話の場面。藤尾と甲野さんの違いが「子規」と「時鳥」の違いか、それとも「空を掠める」と「一声で雲に入」ったホトトギスの違いか。判然とはしない。

2020/06/28

夏目漱石「一夜」のホトトギス

前回のつづき)

夏目漱石「一夜」における、ホトトギスの表記を確認する。以下の引用箇所が該当する。引用は『定本 漱石全集 第2巻 倫敦塔ほか・坊っちゃん』より。

引用にあたり、繰り返し記号(「ゝ」など)は該当する文字に書き直している。またホトトギスの個所を太字にしている。引用文冒頭にある②133などの数字は、漱石全集第2巻の133頁という意味である。
②133
此時「脚気かな、脚気かな」と頻りにわが足を玩べる人、急に膝頭をうつ手を挙げて、叱と二人を制する。三人の声が途切れる間をククーと鋭き鳥が、檜の上枝を掠めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄てて是も椽側へ這ひ出す。見上げる軒端を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤の方をさして「あちらだ」と云ふ。鉄牛寺の本堂の上のあたりでククー、ククー。
「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思ふた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云ふ。此髯男は杜鵑を生れて始めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしよか」と女が問をかける。別に恥づかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直つて「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞へるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指で向脛へ力穴をあけて見る。「九仞の上に一簣を加へる。加へぬと足らぬ、加へると危うい。思ふ人には逢はぬがましだろ」と羽団扇が又動く。「然し鉄片が磁石に逢ふたら?」「はじめて逢ふても会釈はなかろ」と拇指の穴を逆に撫でて済まして居る。
②140
「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜まず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。
「夜も大分更けた」
ほととぎすも鳴かぬ」
「寐ましよか」
夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床に入る。
「ほととぎす」とひらがなで表記している箇所と、「杜鵑」と漢字で表記している箇所があった(以前ざっと確認したときには、漢字に気づいていなかった)。ここでの使い分けとして単純に考えられることは、会話文のなかでは「ほととぎす」、地の文では「杜鵑」としているということである。

「一夜」の初出は、雑誌『中央公論』第20年第9号(明治38年9月1日発行)で、雑誌掲載時には本文末尾に「(38年7月26日)」と記されていたとのこと(本来は日付等は縦書きのため漢数字で表記されているが、ここではアラビア数字としている)。その後、単行本『漾虚集』に所収。

 

2020/06/27

漱石のホトトギスの俳句(メモ)

前回のつづき)

漱石全集に載っている俳句より、「ホトトギス(時鳥、郭公、子規)」が使われているものを以下に挙げる。ホトトギスは夏の季語で、漱石がホトトギスを使った句ではそのほとんどが季語として使われているが、1219だけは季語ではない(1219の季語は「蚤」)。俳句の頭に付いている数字は、漱石全集第17巻での俳句の通し番号である。
明治22年
1 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
2 聞かふとて誰も待たぬに時鳥
明治25年
38 鳴くならば満月になけほとゝぎす
明治28年
160 時鳥あれに見ゆるが知恩院
190 時鳥たつた一声須磨明石
191 五反帆の真上なり初時鳥
192 裏河岸の杉の香ひや時鳥
193 猫も聞け杓子も是へ時鳥
194 湖や湯元へ三里時鳥
195 時鳥折しも月のあらはるゝ
196 五月雨ぞ何処まで行ても時鳥
197 時鳥名乗れ彼山此峠
299 時鳥物其物には候はず
300 時鳥弓杖ついて源三位
513 明け易き夜ぢやもの御前時鳥
明治29年
528 時鳥馬追ひ込むや梺川
819 さもあらばあれ時鳥啼て行く
857 国の名を知つておぢやるか時鳥
868 琵琶の名は青山とこそ時鳥
明治30年
1130 浪人の刀錆びたり時鳥
1184 郭公茶の間へまかる通夜の人
1185 蹴付たる讐の枕や子規
1186 辻君に袖牽れけり子規
1219 逃すまじき蚤の行衛や子規
明治33年
1807 京に行かば寺に宿かれ時鳥
1819 貧乏な進士ありけり時鳥
明治35年
1844 病んで一日枕にきかん時鳥
明治37年
1891 十銭で名画を得たり時鳥
明治40年
1955 時鳥厠半ばに出かねたり
全部で29句。内訳は「時鳥」24、「子規」3、「ほとゝぎす」1、「郭公」1であり、基本は「時鳥」であるといってもいいだろう。

「子規」「郭公」が使われている句が、明治30年に固まっているのには、なにかわけがあるのだろうか。俳句以外の例では、作成時期を考慮していなかったので、詳細を確認する際に合わせて確認したい。

漱石のホトトギスの漢字(メモ)

前回の続き)

漱石は「ホトトギス」の漢字をどのように使い分けていたのか。ひとまず、漱石全集から「ホトトギス」を抜き出してみよう。

こんなときに漱石全集が役に立つ。漱石全集の第28巻『総索引』から「ホトトギス」が掲載されているところを確認していく。俳句雑誌『ほとゝぎす』については別項目として取り扱われているので助かる。

『総索引』での「ホトトギス」の掲載箇所は以下であった。丸で囲んだ数字は巻数で、たとえば②133ならば第2巻の133頁に記載されているという意味である。
時鳥/郭公/子規/杜鵑/不如帰
 ②133、140 ④27、233 ⑯17、18、141、204
 ⑰526、季語 ⑱111 ⑳159 ㉒4 ㉔35 ㉖249
これらの個所をざっとメモしておく。

第2巻の133頁、140頁はともに「一夜」という短編内であった。表記はどちらも「ほとゝぎす」である。

第4巻27頁、233頁は『虞美人草』で、27頁は「子規」、233頁は「時鳥」。

第16巻の17頁、18頁は先日の「不言の言」の個所。17頁「杜鵑」、18頁「不如帰」。141頁は藪野椋十『東京見物』の序。「子規」が見える。204頁(203頁が正しいか?)は「創作家の態度」で、「時鳥」だが、蕪村の句「時鳥平城京を筋違に」について述べている箇所である。

第17巻は『俳句・詩歌』で、526頁は無題の俳体詩で、「ほとゝぎす」とひらがな。またホトトギスを季語とした俳句が多数掲載されているので、別に記載しようと思う。

第18巻111頁は漢詩。「杜鵑」と書いて、書き下し文には「とけん」との振り仮名。

第20巻159頁は明治43年7月10日付の日記。「不如帰」と「時鳥」があったが、「時鳥」の方は藤井節太郎の手紙の引用内。

第22巻4頁、明治22年5月13日付書簡。正岡子規宛の書簡で、俳句内に「時鳥」の漢字が使われている。第17巻にも同じ俳句が掲載されている。

第24巻35頁、大正2年5月18日書簡。大谷繞石宛の書簡。「子規」が使われている。

第26巻249頁、正岡子規の小説集『銀世界』の評。「ほとゝぎす」が使われているが、子規の本文「山桜かなほととぎす」への書き込みである。

俳句の季語を除いてざっと確認した。⑯204と㉖249は除外してもいいだろう。㉒4も俳句の季語として確認するときにあらためて確認できるので、ここでは省いた。

②133(ほとゝぎす)、②140(ほとゝぎす)、④27(子規)、④233(時鳥)、⑯17(杜鵑)、⑯18(不如帰)、⑯141(子規)、⑰526(ほとゝぎす)、⑱111(杜鵑)、⑳159(不如帰)、㉔35(子規)

さて、何か見えてくるだろうか。

俳句の季語を確認したあと、あらためて詳細を確認していこうと思う。

2020/06/25

法華経と鳴かせてみたいホトトギス

漱石の「不言の言」と題する小論がおもしろかった。

「不言の言」は、雑誌『ほとゝぎす』の第2巻第2号・第3号(明治31年11月、12月)に掲載されている文で、次のようにはじまっている。
「ほとゝぎす」なるものあり。一日南海を去って東都に走る。
『ほとゝぎす』は明治30年(1897年)、四国松山で創刊された俳句文芸雑誌であるが、翌年(明治31年、1898年)には、発行所が松山から東京に移った。それをふまえての文である。漱石自身は「糸瓜(へちま)先生」を名乗り、冗談混じりで論を進めていく。「不言の言」は、全体的には、俳句と英詩を比較した小論である。

そのなかで、次のように書かれていた。「杜鵑」は「ホトトギス」と読む。
杜鵑鳴て雲に入る。観音で耳をほらすも行燈を月の夜にするも彼の知らぬ事なり。但吾に杜鵑の好音なし。寧ろ糸瓜の愚を学ばんか。書して之を「ほとゝぎす」に質す。「ほとゝぎす」曰く法々華経。
信長、秀吉、家康の3人の天下人の性格を表す句で、ホトトギスが鳴かぬなら「殺してしまえ」「鳴かせてみせよう」「鳴くまでまとう」というものがあるが、漱石は「法々華経」と鳴かせているのがおもしろい。石に漱ぎ流れに枕する漱石の面目躍如といったところである。

3人の天下人のホトトギスの句は、本人が自身で作った句ではなく、Wikipediaによると、江戸時代後期の平戸藩主松浦清(松浦静山)の『甲子夜話』に見えるという。それを見たこともあり、ひとつ調べてみたいことができた。

3人の天下人のホトトギスの句はWikipediaに以下のように書かれていた。
なかぬなら殺してしまへ時鳥(織田信長)
鳴かずともなかして見せふ杜鵑(豊臣秀吉)
なかぬなら鳴まで待よ郭公(徳川家康)
「時鳥」「杜鵑」「郭公」と漢字は違っているが、どれも「ホトトギス」と読む。他にも「不如帰」という漢字もある。上の「不言の言」の引用箇所のすぐあとに、「不如帰」の漢字が使われている。
法々華経か。不如帰か。不如帰か。法々華経か。知らず只一転語を下し得て恰好なりと思惟するなかれ。糸瓜亦自ら転身の一路なきにあらず。
何らかの意図があり「杜鵑」と「不如帰」を使い分けていると思われる。また「格好なりと思惟するなかれ」とも書いているので「郭公」と書いて「ホトトギス」と読むことも知っていると思われる。

さて、漱石は「ホトトギス」の漢字をどのように使い分けていたのか。これが、調べてみたいと思ったことである。

ひょっとすると、既に誰かがどこかで調べていることであるかもしれないし、また、漱石は特に意図なく使い分けていたのかもしれない。私自身については、今のところわからないところなので、結果も見えていないことだが、ひとまずわかる範囲で調べてみたいと思う。


2019/06/13

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(12)

(前回はこちら

やっと第一章が終わりに近づいております。続きを読んでいきましょう。
 ここ迄決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂れ懸って居たと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走って居る所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
旅中に起こる出来事と旅中に出会う人を、能の仕組みと能役者の所作に見立ててみよう。そう決心して山路を歩くのですが、空があやしくなってきます。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」。観察点が揺れ動いています。
 路は存外広くなって、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。大分濡れたね」まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影画の様に雨につつまれて、又ふうと消えた。
 糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋毎に風に捲かれる様迄が目に入る。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。
馬子がふうとあらわれ、ふうと消える。幻想的な風景です。「夢幻能」のイメージの先取りでしょうか。

次が第一章最後の段落です。
 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも詠まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲烟飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかは猶更に解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。
読者にとっては、語り手自身も画中の人物、小説中の人物ですが、語り手自身にとっては、現在旅の途中で現実世界となります。外から見れば「詩にもなる、句にも詠まれる」かもしれませんが、雨具なく降られるのはやはり心苦しいものです。「雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか」、己自身も純客観的に見ようとしてもなかなかできない。利害に気を奪われると、「美か美でないかと鑑識する事」は難しくなるのです。

2019/06/11

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(11)

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『草枕』の語り手の画工である「余」は、旅をしています。向かう先は「那古井の温泉場」で、いまは山路を登っています。「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。できるだけ世間を離れ、出世間的な旅をしたい。かといって野宿をするほど非人情は募っていない。そこで、「能」を見るように人間を見ることはできないかと考えます。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。
「能の仕組と能役者の所作に見立て」、「悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して」、旅中に起こる出来事と、旅中に出逢う人間を観察してみようと決心します。人の世に人情はつきもので、画工自身も人間であるので、人情を捨てることはできませんが、これから起こる出来事や出会う人を、能を見るように、絵画を見るように、観察してみようというのです。「是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする」、つまり「第三者の地位」に立ち、利害に気を奪われないようにして、人や物、出来事や所作などを「芸術の方面から」、美しいか美しくないかを観察しようと考えます。

漱石は「余が『草枕』」という談話で、自身の書いた『草枕』について次のように述べています。
 私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。
――夏目漱石「余が『草枕』」(現代仮名遣いに変更)
『草枕』を読んで、「美しい感じ」が残るかどうか。

画工は、この旅の中で、出来事や人物に遭遇します。画工は「美か美でないかと鑑識」しながら、これらの出来事や人間を見ていくのですが、読者の私たちも、小説に書かれていることが美しいかどうかを確認しながら読んでいくことになります。

2019/06/10

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(10)

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「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。このような願いでもって、語り手である画工は今回の旅をはじめます。東洋の詩歌にあるような「出世間的な詩味」を、間接的ではなく、直接に自然から感じたいということです。
 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。矢張り余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余も其通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿する程非人情が募っては居らん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬に迄逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いは中々取れない。夫れ所か、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。
向かう先は「那古井の温泉場」。「人の世」を作ったのは唯の人であるので住みにくいけれど、かといって、「人でなしの国」にいくほど非人情は募っていない。「すこしの間だけでも非人情の天地に逍遥したい」というのが、画工の願いです。
 ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
人の世であるから人がいることは当然で、そこに人情があるのも当然です。しかし、非人情をしに出掛けた旅ですので、全く人情を離れることはできなくとも、見方次第では人情を離れることができるのではないかと考えます。「能」を見るように、人間も見ることができないかと考えます。次の段落は長いので、今回は引用だけにして、また次回読んでいきたいと思います。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。

2019/06/09

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(9)

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画工が詩に求めているものは「俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩」である。しかし、「ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ」と言います。そこで「東洋の詩歌」に話が移ります。
 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である。
西洋の詩は、人事が根本にあるため塵界を離れた心持ちになれることはないが、東洋の詩歌には、「そこを解脱したのがある」といいます。「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ようなものです。その例として、2つの漢詩(の一部)を挙げています。

ひとつは「採菊東籬下、悠然見南山」。これは陶淵明の詩「飲酒二十首幷序」の第五首の一節です。書き下し文にすると「菊を採る東籬(とうり)の下(もと)、悠然として南山を見る」。もうひとつが「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照」。こちらは、中国唐代の詩人、王維の「竹里館」の一節です。「独り幽篁(ゆうこう)の裏(うち)に坐し、琴を弾じて復た長嘯す、深林人知らず、明月来たりて相照らす」。

「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ような詩で、これらの詩は「別乾坤を建立して居る」と言います。別乾坤とは別世界のような意味です。この別世界のいいところは、徳富蘆花の「不如帰」や、尾崎紅葉の「金色夜叉」のいいところとは違い、「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である」といいます。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀に此出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれて居るから、わざわざ呑気な扁舟を泛べて此桃源に溯るものはない様だ。余は固より詩人を職業にして居らんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。只自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりも難有く考えられる。こうやって、只一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全く之が為めである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。
『草枕』が書かれたのは、20世紀初め、1906年(明治39年)のことです。江戸時代の終わりごろの黒船来航、開国を経て明治維新。西洋の文化がどんどん日本に入ってきて西洋化が進んでいる時代です。また、1904年から05年にかけての日露戦争で日本はロシアに勝利し、軍事化への道のりが進んでいる時代でもあります。

睡眠は20世紀でなくとも必要ですが、あえてここに「睡眠が必要ならば」とあるのは、睡眠が必要であると感じられる状況にあったのでしょう。江戸時代のペリー来航の際、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」という狂歌が詠まれたといいますが、時代として、開国以来眠ることができなかったのかもしれません。西洋化は休む暇もなく進んでいきました。

このような20世紀に、睡眠が必要ならば「この出世間的の詩味は大切である」といいます。「出世間的の詩味」とは、世間を離れて、「暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる」ような、「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」ような、「別乾坤を建立して居る」ような、「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込む様な功徳」が得られるような詩味です。

そしてここで、「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」と、今回の旅の目的(願い)が明らかになります。

2019/06/08

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(8)

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詩人に憂いはつきものだが、自然を見るに苦しみは感じられない。その理由は、「景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである」と画工は考えました。詩であり画であるから、苦労や心配が伴うことなく、「吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむる」ことができる、と。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身が其局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞う。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。
恋や孝や忠君愛国も結構なものだが、自分がその局面の当事者になると、利害関係に巻き込まれてしまい、美しいことにも結構なことにも目が眩んでしまい、わからなくなってしまいます。これがわかるためには、自分の利害を棚に上げて、わかるだけの余裕のある「第三者の地位」に立たなければならない。「第三者の地位」に立っているからこそ、芝居や小説は面白いのです。そして、芝居を見たり小説を読んだりする間だけは詩人であるとも言います。

これまでは、自然の景色を見ながら、詩や画を中心として考えていましたが、ここで「芝居」や「小説」が出てきます。そして芝居や小説についての考えを進めていきます。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつか其中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
芝居や小説に人情はつきものです。芝居を見る人、小説を読む人は、たとえば、主人公に感情移入し経験を追体験することをひとつの楽しみにしています。芝居、小説の中の出来事ですので実際には利害関係は及びません。しかし画工は「それが嫌だ」と言います。
 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこ迄も世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じて居る。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたり」という人情は人の世につきものです。画工は人の世につきものの人情は、人の世で間に合っている。だから「嫌だ」と言います。画工が求めている詩は、「世間的の人情を鼓舞するようなもの」ではなく、「俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩」です。

しかし、「人情を離れた芝居」や「理非を絶した小説」はあまりありません。特に西洋の詩は「人事が根本になるから」、塵界を離れた心持ちになれるような詩は見当たりません。同情や愛や正義や自由といった人の世にあることを主題にしています。「勧工場」というのは、デパートのようなものです。

『草枕』には、語り手の画工である余を通して、漱石の芸術観が描かれています。そしてその芸術観に則して書いてみた小説が『草枕』です。

2019/06/07

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(7)

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画工は、シェリーの雲雀の詩の一節を口ずさみ、そして、考を進めます。
 成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜もあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
以前に「千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」と評した詩人について、「あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい」と考えを述べています。雲雀の声を聞くときは「まのあたりに写した」のかもしれませんが、詩として着想を紙に落としたときには「愁(うれい)」が含まれているのに気づきます。「喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい」ことが、詩にも現れているのです。
 しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護して居る。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座して居る。呑気なものだ。又考えをつづける。
詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英も其通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だろう。
シェリーの詩にあるように、詩人に憂いはつきものかもしれません。しかし、雲雀の声や菜の花、蒲公英(たんぽぽ)、桜など、自然の景物、景色は見るもののも聞くものも面白く、苦しみが起こらない。それはなぜだろうと、画工は考えを進めます。
 然し苦しみのないのは何故だろう。只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只此景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬ此景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力は是に於て尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
自然の景物を見たり聞いたりするのには苦しみがない。それはなぜかと考えるに、「只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むから」であると画工は言います。ただこの景色が景色としてのみ楽しませてくれるからであると言います。

自然は、見る人を楽しませようとしてあるわけではありません。ただありのままにある。それを「まのあたりに見る」。「景色が景色としてのみ」あるからこそ、心を楽しませてくれるのです。開拓したり、鉄道をかけたりしようと見た場合は、自然をありのままに見ることができません。開拓後や鉄道をかけた後の姿を見ていることになります。こちらから何かしようと見るでもなく、対象がこちらに何かなそうとするでもなく、ただありのままに存在する。そしてそれが「自然の力」であり、その力によって「醇乎として醇なる詩境」に入れてもらえるのです。「醇」は「純」と同じような意味で、まじりけがないことです。

2019/06/06

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(6)

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山路を行く春の日に、姿のない雲雀(ひばり)の声。絶え間なく一面に鳴く雲雀は、画工の想像で、雲まで登り詰め、形をなくしていきます。画工は歩を進めます。
 巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
「雲雀」に「菜の花」。春が広がります。想像も膨らみます。注によれば、漱石に「菜花黄」という漢詩があるようです。また、「雲雀」も「菜の花」も春の季語。これも注によりますが、漱石自身の句や、上島鬼貫、向井去来などの俳句も思い起こされる描写です。
 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
こうして余(画工)の考えは、再び「詩」に戻ります。「只菜の花を遠く望んだときに目が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する」。こう愉快になるのが「詩」であると。

先に「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」と言っていました。雲雀の声、一面の菜の花、春の陽気、このようなものが、まのあたりに、心のカメラに写ったのです。

そして、雲雀の詩を思います。
 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦して見たが、覚えて居るところは二三句しかなかった。其二三句のなかにこんなのがある。
  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
本文では「シェレー」と表記されていますが、「シェリー(Shelley)」の方が、通りがいいでしょう。イギリスの詩人です。引用されている英語は、シェリーの詩「To a Skylark」の一節です。「雲雀」は、英語で「skylark(スカイラーク)」。ファミリーレストランの「すかいらーく」に鳥のマークがついていますが、あれは「雲雀」なのですね。

シェリーの英詩の一節の引用部分の訳も載っています。「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」。詩の翻訳は別の言語に置き換えるだけではないということも何となく感じますね。

2019/06/05

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(5)

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余の考えが中断され、山路での景色の描写に入ります。
 立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せた様な峰が聳えて居る。杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁程で切れて居るが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路は頗る難義だ。
そして、路についての描写です。
 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾等の為めに道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿って、其頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
『草枕』冒頭で「山路を登りながら、こう考えた」とありました。登っているということを知ってはいるのですが、考えながら登っていたため、本文に書いていることは「余」の考えが中心でした。読者は「余」が山路を登っていることを忘れてしまいそうになります。しかしここで景色の描写を入れ、路についてのちょっとした思考が入り、そして「ぶらぶらと七曲りへかかる」ということで、山路を登っているということを思い出します。

また思考と景色を対応させているようにも感じます。「角石の端を踏み損くなった」から考えが中断したのですが、考えが中断したから足を踏み損なったようにも感じるのです。考えが少し行き詰まり、どうしようかと一旦周りを見渡したようにも思うのです。これから「七曲りへかかる」ので、「余」の考えも「七曲りへかかる」かもしれないと予感させます。
 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれない様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。其上どこ迄も登って行く、いつ迄も登って行く。雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うて居るうちに形は消えてなくなって、只声丈が空の裡に残るのかも知れない。
そんなときに出てくるのが「雲雀(ひばり)」です。正確には「雲雀の声」です。この「雲雀の声」をきっかけに、「余」の考えは歩みを進めていきます。

雲雀の鳴き声を聞いたことがあるでしょうか。おそらく、あると思います。ネットでも動画などがありますから聞いてみてください。雲雀の鳴き声を聞いたことがないと思っていても、「ああ、この鳴き声は雲雀だったのか。これなら聞いたことがある」と感じる人がいると思います。

鳴き声はするけれど、姿は見えない。私も実際に雲雀を見たことはありません。鳴き声は聞いたことがあるので、どこかに近くにいるのだろうとは思うのですが、目で見たことはないです。視界に入っていたことはあるのかもしれませんが、その場合、私の中では「雲雀」ではなく「鳥」として捉えられているので、雲雀を見たとは言えません。

「余」は「雲雀の声」から、いろいろと想像、連想します。この「雲雀」の部分は、『草枕』の読みどころのひとつであると思っています。

2019/06/04

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(4)

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前回最後に引用した部分です。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
詩や画、そして音楽や彫刻などの芸術作品というものは、住みにくい世から住みにくい煩いを引き抜いた世界をまのあたりに写したものだといいます。そして、細かいことをいえば、写さなくともいい、とも。

詩や画や音楽や彫刻などは、芸術家の手によって、紙に書かれたり、描かれたり、あるいは音として、形として、他の人の目にも見えるもの、耳に聞こえるものとして表現されています。実際にどのような機構で芸術作品が生み出されるのかということの実感はありませんが、便宜上段階的に説明をすると、「住みにくき世」から「住みにくき煩い」を引き抜いた「難有い世界」を感じ得て、それを「まのあたりに」かたちにする、ということになります。インプットとアウトプットと言ってもいいかもしれません。「写さないでもよい」というのは、アウトプットしなくてもよい、という意味です。「只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く」のです。「キュウ鏘の音は胸裏に起る」「五彩の絢爛は自から心眼に映る」のです。

「まのあたりに見る」対象は、「難有い世界」です。住みにくい世から、住みにくい煩いを差し引いたものです。「澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば」それでいい。「澆季溷濁」とは、「道徳がすたれて軽薄な末の世にして、汚れ濁っていること」と注にありました。『草枕』冒頭部分に呼応させてみれば、「住みにくき煩い」「澆季溷濁の俗界」というのは、「知に働けば~」「情に棹させば~」「意地を通せば~」というようなこととなります。

詩を作っていない「無声の詩人」、絵を描いていない「無色の画家」は、人の世を住みにくい煩いを差し引いて観じることができる点、煩悩を解脱している点、清浄な世界に出入りできる点、住みにくい世界とは同じようで違う世界を打ち立てている点、我利私欲との結びつきを断ち切っている点において、あらゆる人々よりも幸福である、と説きます。

人の世は住みにくいかもしれない。しかし、この住みにくい世の中で、住みにくき煩いを差し引いて感じることができる人たちがいる。その人たちがそんな世の中を表現したものが芸術作品であり、そんな人たちが芸術家であるということです。

では、続いていきましょう。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。――喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。之を切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えて居る。背中には重い天下がおぶさって居る。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
『論語』の「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。~」という句を意識しているのでしょうか。語り手は、20年生きて住む甲斐ある世の中と知り、25年になると明暗は表裏のようなもので、日のあたるところには影がさすと悟ります。陽と陰ですね。そして30年生きてきた今日ではこのように思っている、と続きます。

ここまでが、坂道を登りながら考えたことです。しばらくするとまた考えはじめますが、少し休憩です。そして初めて、語り手としての「余」が登場します。
 余の考がここ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸いと何の事もなかった。

2019/06/03

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(3)

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人の世は住みにくい。住みにくいと悟ったときに「詩が生れて、画が出来る」。

少し唐突な感じでしたので、少し補足が入ります。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
人の世は住みにくい。住みにくさが高じると引っ越したくなる。しかしどこに引っ越したとしても、人がいるところは人の世であるからやはり住みにくい。住みにくいところを少しでも住みやすくするために、詩人や画家が生まれる。だからこそ詩や画がある。といいます。ここでは「詩」と「画」を挙げていますが、芸術全般のことです。芸術家の方々は、人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする。芸術の存在意義のようなことを述べています。

のちのち触れると思うので、「人でなしの国」についても少し触れておきたいと思います。引用では「人でなし」に傍点が振ってありますが、ここでは太字としています。太字にしてある「人の世」も原文では傍点です。

普通「人でなし」というと「人情がない人」というような意味に使われます。「人でなし」と言っておきながら、「人」に対して言います。人ではないものに「人でなし」とはあまり言わないですね。しかし漱石は「人でなしの国」というのを「人ではないものの国」という意味にも使っています。具体例を挙げれば、引用部分冒頭にある「神」や「鬼」も「人でなし」です。人の世を作ったのは唯の人で、その唯の人が作った人の世が住みにくいからといって、「人でなしの国」は猶住みにくいだろう。「神」の国はどうだかわかりませんが、「鬼」の国は住みにくいでしょう。通常の「人でなし」の国も住みにくいでしょう。「人でなしの国」には、通常の「人でなしの国」と「人ではないものの国」という二重の意味が込められています。

前回の「兎角に」という当て字についての話も、このような漱石の言葉遣いから推測したものです。漱石は言葉遊びのようなものを多用する傾向があります。漱石は小説を書くごとにより深くなっていくと言われていますが、初期のころは「ユーモア」や「諧謔」といった要素が強く出ていました。最初の小説である『吾輩は猫である』が滑稽味のある小説であることはご存知かと思います。『草枕』も初期の小説で、言葉遊びの要素が散見されます。

さて、芸術の存在意義を述べたあと、語り手はさらに考えを進めていきます。次に入ると長くなりそうですので、引用とちょっとした言い訳を述べた上で次回に回したいと思います。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※キュウ鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
言い訳というのは、※印をつけた「キュウ鏘」「尺ケン」について、「キュウ」「ケン」は本来漢字で書かれています。ただこの漢字が(私の)パソコンでは打てない漢字だったため、カタカナにしています。『草枕』には難しい漢字・漢語が使われているので今後もこのようなことがあると思いますがご了承ください。ちなみに「キュウ鏘」というのは「美しい玉の触れ合って発する妙なる音。詩歌の美しい調べのたとえ」、「尺ケン」というのは「一尺四寸ほどのわずかな絹の画布」です。漢字は、実際の書籍でご確認ください。

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