2020/07/26

独知の噬臍

『広辞苑を読む』のまえがきで、柳瀬さんが「広辞苑を信じるあまり、間違った文章を活字にしてしまったことがある」と書いていました。
 ジョイスの『ユリシーズ』に出てくる agenbite of inwit という中世英語について書いたときだった。
 この妙な英語は、「内-知の再-噛(あるいは噬)」とも分解できる言い回しで、意味は「良心の呵責」。現代英語の感覚からは、一瞬、「おや?」もしくは「はて?」と思わせるような、忘れられた言葉である。その「おや?」「はて?」を翻訳するために、拙訳『ユリシーズ①-③』(河出書房新社)では、「独知の噬臍」という訳語を用いた。
 その訳語について、こう書いてしまったのだ。
 独知? 『広辞苑』にも『大辞林』にも、これはある。忘れられた言葉、西周の訳語である。
(『翻訳は実践である』あとがき・河出文庫)
 初版から第五版にいたるまで、広辞苑に「独知」の項目はない。
 大辞林、大辞泉にはある。『翻訳は実践である』の読者各位にここでお詫び申し上げたい。
「誰に指摘されたのでもなく自分でこの失錯を見つけ」た柳瀬さんは「独知の噬臍」を感じたのでしょうか、自分の誤りを認め、それを詫びています。「独知」の項目が『広辞苑』にあろうとなかろうと、他に載っている辞書があり、西周がつくった conscience の訳語があり、現在は使われていない、ということには変わりありません。こんな細かいところにまで気を使わなくともいいのではないかと思ったところで、「翻訳は細部に宿る」という柳瀬さんがどこかに書いていた言葉を思い出しました。

「翻訳は細部に宿る」と『翻訳は実践である』のなかで言っていたかもしれないとも思い、また、上記「独知」の個所も確認して書き込みでもしておこうと思い、『翻訳は実践である』をひっぱり出してきました。

まずは「独知」のところからと「あとがき」を見ようとしたところ、無い。

目次を見ても「あとがき」はありません。

ただ、冒頭で引用した独知のくだりはどこかで読んだ記憶がある。「あとがき」ではなく、『翻訳は実践である』の別の個所だろうと、本の後ろの方から探しはじめてみました。

引用文の該当の個所は、『翻訳は実践である』所収の「再び、翻訳とは実践である」という文章のなかにありました。河出文庫の『翻訳は実践である』の付記によると、「再び、翻訳とは実践である」の初出は、メタローグという会社から1996年10月に出版された『翻訳家になる!』という本で、初出時のタイトル「翻訳は実践である」を改題したものであることが書かれています。

『翻訳は実践である』は、もともと1984年5月に白揚社より単行本として刊行されたもので、文庫化にあたり、「再び、翻訳は実践である」など、雑誌等に掲載されていたいくつかの文章が加えられています。純粋な(?)「あとがき」ではありませんが、柳瀬さんは『翻訳は実践である』のあとがきを念頭において「(再び、)翻訳は実践である」という文章を書いたといえなくもありません。

柳瀬さんは勘違いで「あとがき」と記したのでしょうか。それとも意図的でしょうか。

「再び、翻訳は実践である」を読み直したところ、次の一節がありました。
 翻訳は実践である、と、これまでさまざまな場所で何度か書いてきた。また、そういう姿勢を貫いてきたつもりだ。いま、それをこう言い換えてもいいかもしれない。翻訳は実力である、と。ここで実力とは、読解力や表現力のみならず、集中力や注意力や視力までもふくめたものだ。あるいは、努力(という実は筆者の好かない言葉)をふくめてもいい。
いま、このブログに書いていることは翻訳ではありませんが、自分自身のまだ言葉になっていないところを、自分の知っている他の人にも伝わる言葉で表そうとしていると考えると、広い意味で翻訳と考えることができます。そして、書いていることが実践であり、実力です。

『翻訳は実践である』の「あとがき」を確かめるのも実力で、『広辞苑』に「独知」の項目がなく、『大辞林』『大辞泉』には「独知」の項目があることを確認していないのも実力です。

ちなみに「翻訳は細部に宿る」という言葉は、『翻訳はいかにすべきか』で見つけました。


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