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2020/07/22

『千の顔をもつ英雄』の脚注に引用される『フィネガンズ・ウェイク』の一節は?

ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』の脚注に、以下の文章がありました。
*ジェイムズ・ジョイスの言葉を借りるなら、「正反対同士は、両性的に表現するただ一つの条件と方法としての本質または精神の一つの同じ力によって進化し、反意の結合による再統合のために対立させられて、互角になる」(ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』) 
読んでいるのはハヤカワ・ノンフィクション文庫の新訳版で、引用の脚注は上巻161ページにあります。

さて、この引用文中で言及されている文は、『フィネガンズ・ウェイク』のどこにあたるのでしょうか。柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』には目を通しましたが、該当の文章は載っていないようです。もちろん、探し切れなかった可能性もありますが、柳瀬訳では、このようなすっきりした訳文にはなっていないだろうと思います。

脚注にある引用元は、『フィネガンズ・ウェイク』のどの個所で、柳瀬訳ではどのような訳になっているのでしょうか?

キャンベルの本を原書で読んで引用個所の原文を確認し、そこから『フィネガンズ・ウェイク』の原文にあたり柳瀬訳を確認するというのが確実な方法でしょう。しかしこのためだけにキャンベルの原書を用意するのもどうかと思い、柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』を読みながら該当箇所らしきところを探すことにしました。

現時点で該当しそうな箇所は以下のところです。

『フィネガンズ・ウェイクⅠ』の105ページ(原典ページでは、49-50ページ)です。柳瀬訳と原典の該当箇所を引用します(柳瀬訳の振仮名は省略。強調は筆者による)。
そこで、ミコラス・ドサクサーヌスのいうわが自我衝動の百重の示我をば――そのすべてからわれはわが下文において当然遡及によりわれを解任するものであるが――それら相対立者の偶然照応によって識別不能なるものの同一性のなかに再混同するがよく、そこにおいては肉屋もパン屋も魔化二つに分かれはしないであろうからして(しかしこの點において、われらが彼のも軍鶏しゃな始根の鉄蹴爪に装備をととのえたつもりでいるにしろ、尾しまいには辛し芥子菜の臭気にはほとんど器まずい目に会うのであるが)、この超んでもないブルー乃蝋燭は能羅ものを平和離に尿忙に融したのである。 
Now let the centuple celves of my egourge as Micholas de Cusack calls them, — of all of whose I in my hereinafter of course by recourse demission me — by the coincidance of their contraries reamalgamerge in that indentity of undiscernibles where the Baxters and the Fleshmans may they cease to bidivil uns and (but at this poingt though the iron thrust of his cockspurt start might have prepared us we are well-nigh stinkpotthered by the mustardpunge in the tailend) this outandin brown candlestock melt Nolan's into peese!
合っているかどうか、現時点では自信が持てません。


2020/05/10

柳瀬尚紀『フィネガン辛航紀』

ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳者である柳瀬尚紀さんの本『フィネガン辛航紀』が届いた。

最初に驚いた、というか自分の間違いに気づいたのは、書名が違っていたことだ。「辛航紀」は「しんこうき」と読む。僕はずっと「こうこうき」と読んでいた。「辛」ではなく「幸」という漢字で覚えていたのだ。ジョイスだけに「joy」とかけて、そして「航行」とかけて、「幸航紀」としたのだと思っていた。一つ違えば「幸」は「辛」となり、「辛」は「幸」となることを実感した。

文庫版『フィネガンズ・ウェイクⅠ』に大江健三郎さんの序文があり、そこで「『フィネガンズ・ウェイク』について書かれた最良というより唯一の本だと思う『フィネガン辛航紀』」という文章があった。そのため『フィネガン辛航紀』は読みたい本のひとつとなっていた。それにもかかわらず本のタイトルを間違えて覚えている。いい加減な読みをしている証拠を突きつけられて辛い。

正しい書名は『フィネガン辛航紀』ではあるが、中身を読むとたしかに『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳に四苦八苦している話は多いのだが、辛そうには見えない。むしろ幸せそうである。なんで「辛航紀」なんだろうと思った。

『フィネガン辛航紀』には「『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本」という副題がついている。そしてよく見るとその副題の下に英語が書かれていた。「Finnegans Wake, Translation in Progress」と。進行中の翻訳、つまり「辛航」は「進行」であった。奥付をみると、刊行は1992年8月。柳瀬さんが『フィネガンズ・ウェイク』を全訳されたのは1993年であるので、翻訳進行中に刊行されたものであった。ちなみにジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は途中雑誌に掲載されたことがあり、そこでのタイトルが「Work in Progress」である。

自分の勝手な想像であるが、翻訳完了後にその舞台裏の一端をみせてくれる本だと思っていたので、またもや「やられた」と思う。とはいっても柳瀬さんが意図してやっているわけではない。とはいっても予想を上回る内容である。

『フィネガンズ・ウェイク』は迷宮にたとえられる。迷宮にはアリアドネの糸があったほうがいい。柳瀬さんの翻訳の意図を頼りに、また迷宮探索をしてみたくなる。柳瀬さんが捜索して創作した跡をたどるだけでもおもしろい。一筋縄ではいかない可能性はあるけれども。また、深入りすると辛くなるかもしれないけれど。

まあそんなときには「幸開記」とでもして何かブログで公開してもおもしろいかもしれない。

2020/05/02

至高作語

柳瀬尚紀さんの『辞書はジョイスフル』の「まえがき」に、つぎの文章がある。
 しかしともかくこんなふうに、年がら年中、辞書のなかをさまよいながら、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず……。
 ありゃりゃりゃ、なんじゃ、これ!?
 わかりました。『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』の訳語が飛び込んできたのです。
 順に、かすみそめつき(霞初月)、きさらぎ(如月)、やよひ(弥生)、うづき(卯月)、あやめづき(菖蒲月)、とこなつづき(常夏月)、たなばたづき(七夕月)、そのいろつき(其色月)、きくさきづき(菊開月)、しぐれづき(時雨月)、ねづき(子月)、しはす(師走)のジョイス語ヤナセ語変装。
 なにしろ上のような訳語をつくるために七年半、年がら年中、辞書のなかをさまよっていたのだから、どうやら本書は、『フィネガンズ・ウェイク』翻訳作業と辞書のことから書き始めるのがよさそうだ。
ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は読んだ(「読んだ」といっても字面を追った程度)が、『フィネガンズ・ウェイク』の原文は読んだことがなく、《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》の原文はどんなものだろうと思っていたら、『辞書はジョイスフル』の別の箇所に記載されていた。
 今度は、『フィネガンズ・ウェイク』から、やさしい原文を引こう。こういうふうに形容詞が並ぶところがある。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible mournful sorrowful frightful appalling
 なんのことはない、まともな英語が十一個。数十か国語どころか、大学受験生程度の英語のボキャブラリーがあれば、読むことは読める。
 順に、血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い、怒り狂った、ぎくりとさせる、おっそろしい、哀悼の、悲痛の、おっかない、度肝を抜くような。
 ところが、これもまた、このまっとうな英語もまた、ジョイス語のひとつの姿なのである。
 つぎの英語を見ていただく。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible horrible mournful sorrowful frightful appalling
 これは、かのクークラックスクラン、3K団が、順に、一月、二月、三月……につける形容詞だ。
 ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる。
 つまり、ジョイスの《bloody gloomy hideous fearful…》という原文の裏には、January February March April…が、ひびいているわけだ。
《bloody gloomy hideous fearful…》をふつうに訳すと「血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い…」となるのだが、「January February March April…が、ひびいている」ので、柳瀬は《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》と訳したということである。よくもまあこんなところまで考えるなあと、いい意味で感心する。

しかし「ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる」というのはどうだろうか。『辞書はジョイスフル』にはジョイスの徹底ぶりを示すエピソードも書かれていて、そんなジョイスが書き落としをするだろうか、という疑問が浮かぶ。ひょっとすると故意に11個にしたのではないか、と。

ジョイスの原文にないのは、8月の形容詞にあたるhorribleで、ヤナセ語訳でいえば「怖の色づき」である。もしジョイスが故意にhorribleを抜いて11個の形容詞を並べたとすれば、どのような理由が考えられるだろうか。

ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』で該当の箇所の一文を探す。『辞書はジョイスフル』の「まえがき」で、『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』のなかにあることがわかるので、比較的探しやすかった。該当する文は以下の文である。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は総ルビであるが、以下の引用ではルビは省略している(このブログの冒頭の『辞書はジョイスフル』の引用でもルビを省略している)。
七魘が去った、暗陰鬱殪毆悍釁、もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず。
「七魘」には「しちよう」とルビがふってある。ここでの「魘」の漢字は小さくて見にくいだろうが、「厭」の下に「鬼」と書いた漢字で、「おさえつけられた感じで、うなされる。恐ろしい夢を見ておびえる」という意味の漢字である。「七魘」はそのルビから「七曜」を思い起こさせ、つぎの「暗陰鬱殪毆悍釁」には、「月火水木金土日」のひびきが感じられる。「暗陰鬱殪毆悍釁」には「あんいんうつえいおうかんきん」とルビが打たれており、各漢字の第1音を並べると「あいうえおかき」となるような、そして7つの「魘」となるような漢字を選んだのであろう。同様に「十二憑き」は「十二月」で、「血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…」と続いている。

私の一人勝手な解釈だが、暗陰鬱殪毆悍釁という七魘が去った、もはや血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…という十二憑きはない、ということで、曜日が去り、もはや月日もないとも読めるので、日月などの時間概念がない《永遠》が現れたという読みも可能ではないだろうか。とすると、horribleがないということは、パンドラの匣ではないが、《永遠》のなかにhorribleが残っているのではないか。horribleはヤナセ語訳では「怖の色づき」だが、「畏怖の念」という意味もあるだろう。《永遠》の千年王国にも「畏怖の念」はあるだろう。

もし「畏怖の念」を表すために「年」から抜いたとしたら、if……と、よくもまあこんなことを考えるなあ、と自分に呆れる。

と、こんな誤訳をしながら、ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』を読んでいる。

さきほどヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』から一文を引用したが、その一文には(もちろん)続きがある。
平和、まったき平和。

2013/10/19

秘根顔図上幾

時折思い出しては、ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(柳瀬尚紀訳)に挑戦するのですが、中々読み進めることができません。

理由は、読んでみるとわかるでしょうが、冒頭の一文を引用してみます。
川走せんそう、イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、く岸辺きしべからきょくするわんへ、こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
総ルビ、注釈なし、です。

ここまで書くのにも苦労しました…。

ちなみに、原文を見たことはありませんが、WEBで検索すると、どうやら以下の文章のようです。
riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

riverrun と小文字で始まっているのは、最終章と対応しているからだとか…。

最終章の最後にはピリオドがないとか…。

通読すればわかるのでしょうか?


まあ、しかし、最初の一文だけでも、注釈を試みてみます。

というか、思いついたことなどのメモです。

わからないことだらけなので、お暇な方のみお読みください。

区切りは適当です。

専門家でも何でもありませんので、その点ご了承ください。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
川走せんそう
riverrun,
川(river)と走る(run)で「川走」ですが、同音異義語の「戦争」も思い起こします。「戦争」がどのようにかかわっているのかは、通読していないのでわかりません。

イブとアダム礼盃亭れいはいていぎ、
past Eve and Adam's,
「イブ(Eve)」と「アダム(Adam)」は、言わずと知れた『創世記(旧約聖書)』に出て来る人間の名前です。神がはじめて造った人間(男)が「アダム」、そして男(アダム)の肋骨をもとに女(イブ、あるいはエヴァ)を造ります。順序から言うと、「アダムとイブ」という方が一般的かと思いますが、ここでは「イブとアダム」となっていることに何か意味がありそうです。
そして、「礼盃亭」。「礼盃亭」は、どこから来たのか。「礼拝」ではなく「礼盃」であることにも、何か意味がありそうです。
また、文法的には「イブ」と「アダム礼盃亭」と取るべきか。

岸辺きしべから
from swerve of shore
shore は「岸、海岸、川岸」という意味。swerve は「それる、曲がる」という意味。shore と swerve のように語頭の音を一致させた訳として「岸辺」「く寝る」を採用しています。
「くねる」を「く寝る」としたところにも意味がありそうですが、わからず。sleep も s で始まりますね。
文法的に一致するように訳すと「岸辺のくねり」となりそうですが、ここにも意味がありそうです。

きょくするわんへ、
to bend of bay,
bend と bay も頭韻。「輪ん曲」と「湾」も頭韻を踏んでいます。
「湾曲」とせず「輪ん曲」としたのは、「円環」を連想させる現れですかね。Wikipedeia「フィネガンズ・ウェイク」には「この作品の主題は、だれか特定の人物の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なのである。」とありました。となると、先の「く寝る」は、目覚めを予感させます。
bend は「曲げる、曲がる」という意味で、ここも文法的に一致するように訳すと、「湾の曲がり」となりそう。

こんせぬめぐみち媚行ビコウし、めぐもどるは栄地えいちたるホウスじょうとその周円しゅうえん
brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.
さて、最後が難しい。とは言っても冒頭の一文なのですが…。
注目したところから書くと、recirculation という単語が目を引きます。circle は「円」。そこに re- という接頭辞があります。re- は「再び」というようないみがあるので、「円環」というイメージ。冒頭の riverrun が最後からの続きということならば、ウロボロス的な円環を思いうかべます。アダムとイブという創世記の語を配していることから、始まりも終わりもないもののとりあえずの最初としてこの一文が配されているという考え方ができそうです。ラストの Environs も、中学か高校で習った「環境(environment)」という単語を思い起こすものです。そういえば「環境」にも「環」という文字が使われていますね。「巡る」も「戻る」なども呼応します。back なんかは、recirculation の re- なんかと相性がよさそうです。
「今も度失せぬ」からは、「今度」とか、「堂々巡り」とか、「どうする」とか、「今度も」が入れ替わって「今も度」となったとか、いろいろなことを考えましたが、一概には言えず。また、「栄地四囲委蛇たる」というのもどこから来たのかがわかりませんが、「四面楚歌」などを思い浮かべるし、ウロボロスの蛇というのもここにイメージされている気がします。
commodius や vicus という単語は手元の英和辞典にはありませんでした。ついでに言うと、Howth もなし。
commodius からは、commodity(必需品)という単語を思い浮かべますが、どうでしょうか。
『フィネガンズ・ウェイク』では様々な言語を取り入れて書かれていると聞きますので、英単語としては存在しないのかもしれません。語末からは、commodius や vicus は、ラテン語(系)のような気もします。

しかし、日本語でも英語でもわからない…。
『フィネガンズ・ウェイク』は、イメージを喚起させる抽象化された小説のようなイメージです。
ミロの『アルルカンの謝肉祭(カーニバル)』という作品がありますが、それをさらに隙間なく寄せ集めた絵を思い浮かべました。

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