子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。中学か、高校の授業で習った漢文のひとつです。
朋遠方自り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍らず。亦君子ならずや。
孔子曰く「~~」と。私の中の漢文のイメージは「子曰く、~」です(^-^;)
で、孔子の言葉として、3つ挙げられています。「学び続け、復習する。うれしいことだ。」「友人が遠くから訪ねてきてくれる。楽しいことだ。」「人の見る目がないとしても怒らない。なんとも君子ではないか。」(訳は自己流です…。)
ここで思ったことは、数点あります。箇条書きにすると、
- 「学ぶ」と「習う」の違いは何だろうか?
- この言葉が冒頭に来た理由は何だろうか?
- 「うれしい」「楽しい」の後に、「君子ではないか」との言葉の理由は何だろうか?
あっ、念のため、答えは出ませんのであしからず。
■「学ぶ」と「習う」の違いについて
「学ぶ」と「習う」の違いは何でしょうか?
もちろん、古代中国語での意味は私は知りません(^-^;)
ですので、今の日本語で考えます。
とりあえず、辞書を引くと、
【学ぶ】①習ってする。見習う。②教えを受ける。③学問をする。似たような意味が書かれていました。
【習う】①おそわったことを、くり返してする。②まなぶ。
持っている2冊の本の訳ではともに「学び続ける」「復習する」というような意味です。
学び続けて常に復習していく。自分の身につけ、いつでも活用できるようにしておく。そうすることが「うれしい」。まさに愛読している渡部昇一さんの『知的生活』ですね。
何かの本で、「学ぶ」とは「真似る」からきた、と読んだ覚えがあります。いいと思ったものを真似してみて(学んでみて)、それを続けることで自分のものにしていくその過程が「習う」なのかもしれません。
■この言葉が冒頭に来ている理由は?
冒頭部分は作品の印象を決める大切な部分です。そこにこの文章が来ているということは、やはり『論語』の中でも特に強調したい部分、あるいは主題・テーマなのかもしれません。3つ目の疑問点とも重なるのですが、『論語』のキーワードのひとつに「君子」があると私は思っています。
■「うれしい」「楽しい」の後に、「なんとも君子ではないか」
「うれしい」「楽しい」と来ると、「大好~き♪」とも歌いたくなりますが(^-^;)、「なんとも君子ではないか」と結んでいます。「うれしいことではないか」「楽しいことではないか」と感情を述べた後で、「他人に評価されなくとも怒らない。立派な人ではないか。」と結んでいるのです。
孔子が誰かを相手にして「あなたは学び続け常に復習している。うれしいことだ。あなた宛てに友達も遠くから訪ねてきてくれた。楽しいことではないか。あなたは他人から評価されなくとも怒らない。立派な人ではないか。」と言っている情景も思い浮かべることができます。
しかし、穿った見方(使い方が間違っているかも)をすれば、「私は、学び続け常に復習している。うれしいことだ。友達が遠くから会いに来てくれた。楽しいことだ。他人に評価されなくとも怒らない。なんて私は君子なんだろう。」と自画自賛しているようにも読めるのです。ひねくれた考えですが(^-^;)
思ったことを取り留めもなく書いているだけなので、『論語』ファン・孔子ファンの方、ご容赦をm(_ _)m
ただ「学び続けること」の大切さは、『論語』の至る所に散見されます。
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