2019/06/11

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(11)

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『草枕』の語り手の画工である「余」は、旅をしています。向かう先は「那古井の温泉場」で、いまは山路を登っています。「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。できるだけ世間を離れ、出世間的な旅をしたい。かといって野宿をするほど非人情は募っていない。そこで、「能」を見るように人間を見ることはできないかと考えます。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。
「能の仕組と能役者の所作に見立て」、「悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して」、旅中に起こる出来事と、旅中に出逢う人間を観察してみようと決心します。人の世に人情はつきもので、画工自身も人間であるので、人情を捨てることはできませんが、これから起こる出来事や出会う人を、能を見るように、絵画を見るように、観察してみようというのです。「是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする」、つまり「第三者の地位」に立ち、利害に気を奪われないようにして、人や物、出来事や所作などを「芸術の方面から」、美しいか美しくないかを観察しようと考えます。

漱石は「余が『草枕』」という談話で、自身の書いた『草枕』について次のように述べています。
 私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。
――夏目漱石「余が『草枕』」(現代仮名遣いに変更)
『草枕』を読んで、「美しい感じ」が残るかどうか。

画工は、この旅の中で、出来事や人物に遭遇します。画工は「美か美でないかと鑑識」しながら、これらの出来事や人間を見ていくのですが、読者の私たちも、小説に書かれていることが美しいかどうかを確認しながら読んでいくことになります。

1 件のコメント:

  1. もみじ葉の2023/12/13 11:13

     ≪…『草枕』を読んで、「美しい感じ」が残るかどうか。…≫を、絵本の力で眺めたい・・・
     「マンマルさん」の△さんのラストシーンに、スービタイズの[1 2 3 ・・・]を観る・・・

    ヒフミヨは△廻し▢なる
      ( さよならさんかくまたきてしかく )

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