2019/06/05

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(5)

(前回はこちら

余の考えが中断され、山路での景色の描写に入ります。
 立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せた様な峰が聳えて居る。杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁程で切れて居るが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路は頗る難義だ。
そして、路についての描写です。
 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾等の為めに道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿って、其頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
『草枕』冒頭で「山路を登りながら、こう考えた」とありました。登っているということを知ってはいるのですが、考えながら登っていたため、本文に書いていることは「余」の考えが中心でした。読者は「余」が山路を登っていることを忘れてしまいそうになります。しかしここで景色の描写を入れ、路についてのちょっとした思考が入り、そして「ぶらぶらと七曲りへかかる」ということで、山路を登っているということを思い出します。

また思考と景色を対応させているようにも感じます。「角石の端を踏み損くなった」から考えが中断したのですが、考えが中断したから足を踏み損なったようにも感じるのです。考えが少し行き詰まり、どうしようかと一旦周りを見渡したようにも思うのです。これから「七曲りへかかる」ので、「余」の考えも「七曲りへかかる」かもしれないと予感させます。
 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれない様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。其上どこ迄も登って行く、いつ迄も登って行く。雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うて居るうちに形は消えてなくなって、只声丈が空の裡に残るのかも知れない。
そんなときに出てくるのが「雲雀(ひばり)」です。正確には「雲雀の声」です。この「雲雀の声」をきっかけに、「余」の考えは歩みを進めていきます。

雲雀の鳴き声を聞いたことがあるでしょうか。おそらく、あると思います。ネットでも動画などがありますから聞いてみてください。雲雀の鳴き声を聞いたことがないと思っていても、「ああ、この鳴き声は雲雀だったのか。これなら聞いたことがある」と感じる人がいると思います。

鳴き声はするけれど、姿は見えない。私も実際に雲雀を見たことはありません。鳴き声は聞いたことがあるので、どこかに近くにいるのだろうとは思うのですが、目で見たことはないです。視界に入っていたことはあるのかもしれませんが、その場合、私の中では「雲雀」ではなく「鳥」として捉えられているので、雲雀を見たとは言えません。

「余」は「雲雀の声」から、いろいろと想像、連想します。この「雲雀」の部分は、『草枕』の読みどころのひとつであると思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブログ アーカイブ